六話⑯
「タクシー……、荷物を見つけてからの方が良いだろうが。とりあえず家に電話をして、ミーシーに聞くか」
荷物が落とし物として交番に届けられてしまっていたら、ちょっと嫌だな。
立ち止まってそして、ここでまたしても……、絶望的な運のなさを知る。いいや、これは俺の不注意が招いた事態だが、財布の中に、公衆電話で使える小銭は、十円玉が一枚だけだった。本来なら先に電話用の小銭を何枚か確保しておくべきだったのに、何も確認せずに小銭を使ってジュース買ってた。
「なんで、……馬鹿か、俺は。まあ良い、とりあえず家に電話をして……、アンピのアンミ確認をしなくちゃならない、アンピの……」
細かい買い物をすればまた十円玉は手に入る。荷物を探すついでにそれを済ませてまたここに戻ってきてタクシーを呼べば良い。十円玉を投入する。押し間違いがないように慎重に一つ一つプッシュしていく。
この、慎重さが、悪かったのかも知れない。
押し間違いが許される時のようにさっさとボタンを押せたなら、これ以上の不運が重なることは回避できたのかも知れない。
俺の今日の運勢は、おそらく最悪だったんだろう。朝のテレビの占いで、下手をすれば名指しで注意を促されていたのかも知れない。
「えぐっ」
……………………。意識が、今から飛ぶ。
俺の運勢はあまりに悪くて、だから、…………。隕石が、落ちてきて俺の首を貫いたのか?
俺はその瞬間まで何も気づかなかった。
十円を見つめて、番号ボタンを見つめていたから、空から飛来したものなど完全に意識の外だった。
身体の自由はまるで失われていて、視界は真っ暗で、全ての感覚が一つずつ閉ざされていく。
血がドクドクと流れ出しているのか、すぅと血の気は引いて、とても冷たい。
俺はそのまま地面に倒れ込んだはずなのに…………。
何故だか地面はとても良い香りがして、柔らかかった。
◆
『私には、このいくつもが、単なる偶然のようには思えない。出会う必然を定められているようにさえ感じられる。ただ、だとしても、あなたが出会うべきを、出会うべき時も、出会うべき場所も、出会うべき理由ですら、私が、見極めてあなたに差し出さなくてはならない。それがどうか、あなたの願う結末へ続く選択になるように。引き合わせるための、準備はあります。あまり長くは、待てない。少なくとも市倉絵里とは、ここを除いて最良の接触はない。今この町に、市倉絵里と田原栄子がいる。あなたは当然、その手札の使い道を分からないままでしょうけれど、……これ以上は待てない』
◆
『田原栄子は当時、南重学園で最も若い正教員だった』
マナちゃん、マナちゃんと、その時の私は一生懸命に話し掛けていた。車に乗って。
私はマナちゃん、マナちゃんと話し掛けているのに、結局私はミラー越しにすらマナちゃんの顔を見たりしなかった。道路をじっと眺めて、どうして良いか分からないまま……。
「マナちゃん?何か食べたいものはある?」
大抵、普通の子どもは、甘いお菓子をねだった。彼女はこう言った。
「みんなと同じものを食べます。用意されたものを。でもあんまり美味しくはないのだと思います」
その子だけは好きな食べ物がなかった。私はその子の好きな食べ物と思い出が知りたかったのに、それは叶わない。
美味しそうな食べ物、美味しかった食べ物を、いつどこで誰と食べたのか、それを夢中に語って聞かせるのが普通で、少なくとも他の子はそうだった。
けれど、彼女は違った。
「じゃあ、何か欲しいものはある?」
大抵、普通の子どもは、オモチャやゲームを欲しがった。あるいは彼女よりもう少し年齢が上がると、善き友人や善き競争相手を望むことが多くなる。
彼女はこう言った。
「なんにも……、いりません」
その子だけは何も欲しがらなかった。私は彼女の楽しみを作る材料が知りたかったのに、それは叶わない。
まるで欲しいものを手にしたかのように振る舞って笑顔を作り、それを勧めるのが普通で、少なくとも他の子はそうだった。けれど、彼女は違った。
「マナちゃん、どこか行きたいところはある?」
大抵、普通の子供は、遊園地や動物園や、映画館、またはせめて親しい友人の家を選んだ。
「どこへでも」
その子だけは、連れていかれるまま。
どこへでも。どこへでも。……どこか遠くへ。
最後には私のせいで、ずっとずっと遠くへ。
◆
「どうかされましたか?」
長い沈黙に私は疲れ果てていて、いつの間にかこうして、あの子と最初に出会った時のことを思い出していた。緒方マナという……、一人の生徒のことを、思い出している。
彼女が今どんな表情をしているのか、もしもそれが初めて出会ったあの頃のままであったなら、私は自らの罪悪をどれほど嘆かなくてはならないことか。
彼女が誰にも姿を見せない理由が、せめて私を嫌っているからであれば良い。
私が報せを聞かないだけで、どこかで、認められていると良い。
ただ……、あの子がどう決めたのかだけは、ずっと気になっている。とうに関わる価値のない人間だと切り捨てられたものでしょうか。
「いません。ミナコという名前の子は、クラスにも学校にも、あの子の家の周りにも……」
「でも、探している子の友達、なんでしょう。田原さんはその子を見た覚えがないんですか?」
見たことがある、どころか、私はそんな子がいないことを知っている。少なくともあの子がまだ南重学園の生徒であった頃、私が、誰よりも、そのミナコという子を探していたのだから。
物語の登場人物でもなければ、ペットに与えた名前でもない。在り来りなような響きであるにも拘らず、テレビも新聞も、それらしくその名前を私に聞かせたことはなかった。
もしも、ミナコという子がいたのなら、私はその子のことをしっかりと目で見て観察しようとしたでしょうし、例えば誰か有名人の名前であるというのなら、どういう人物であるのか細かに調べようとしたことでしょう。
けれども、何から辿れば良いのかすら、私には分からなかった。そんな名前の子は、『いなかった』し、私は彼女が何に興味を持っていて、何が好きなのかを知れなかった。
それをずっと恥じていた。今もそれを、心から恥じている。彼女は誰かに心を打ち明け認められることを望まなかった。背に隠された手を引いて、何かを見つけてあげることもできなかった。
「あの子を……、探してください。緒方マナ本人を、どうか探してください」
「もちろん探してます。でも、親しい子がいたのならマナちゃんのことも何か知ってるかと思いましてね。身元のはっきりしてる近しい人を尋ねて回る他ありませんよ。だから、田原さんにもお話を聞きたかったんです。もしかするとあなたも、気づいていないだけであなたが探している子のヒントを持っているかも知れない」
「私に?うふ、うふふ……、ふふ。私に?私が、何故、あの子のことを聞かれますか?」
私の目の前に腰掛ける男性の言葉に、他意がないことは分かっているのに、私はその辛辣な皮肉に堪えられなかった。
南重学園初等教育校に、緒方マナを迎え入れたのは他でもない、私だった。
そして、退園を認める判を押したのも、紛れもなく、私だった。
◆
「ねぇ、そうね……、マナちゃん、将来の夢は何?」
大抵、普通の子供は、ヒーローになりたいとドラマチックな夢を語った。あるいは少し現実的に、科学者であったり数学者であったり、医学者であったり。
「お医者様になりたかったのですが……」
彼女だけは、語り掛けて、言葉に詰まった。私は彼女の歩むこれからが知りたかったのに、それは叶わない。
憧れに目を輝かせてそれがどれほど偉大な仕事かを精一杯伝えるのが普通で、少なくとも他の子はそうだった。けれど、……彼女はむしろ……、まるで逆の反応をした。
「どうしたの?マナちゃんの将来の夢を教えて?」
「それはもう、意味のないことになってしまったような気がします」
暗く暗く、底が見えない濁った水のような瞳に、私は、恐ろしさを感じてしまった。
吐き気を堪えるように喉を指で絞って、「これから夢を見つけても良い」と言った。
そして「どんな夢であったとしても、先生が助けてあげる」と言った。
◆
「えぇ……。それは、はあ。ところで、緒方マナは何か学校に残していたりしませんか?」
「残して、いったものは……。いいえ……、ありません」
私は咄嗟に嘘をついてしまった。彼女が学校を去る時、机の中に一冊のノートを残していたけれど、彼女の居場所を知る手掛かりになりようがないものであったし、そしてなにより、そんなものを……、誰にも見られたくはなかった。
彼女の残したそのノートには、こう書いてある。
『1年1組、緒方マナ。田原先生、ありがとうございました。』
たった一枚の端に記された短く在り来りな文章が、恥を知れ、と私を罵っている。けれども、もしも、また会えたら、マナちゃんが見つかったら、その時にようやくそれをありのままに受け取ることができるのかも知れない。
「お願いします、私にも……、会わせてください。ようやく、よく似た子を見たと聞きました。もしも見つかったら、私にも、……会わせてください」
ねぇ。……マナちゃん、もしまた会えたら。
◆
「あら……。びっくりさせないで、健介君?もしかして、もう、ずぅっと……、起きないかと思ったわ」
のそりと首を持ち上げると俺はどうやら、だらしなく机に突っ伏しているようだった。
「どこか痛いところはある?気分は大丈夫?」
気づかわしげに俺に声を掛ける女性の姿は、見覚えこそあるわけだが、何故俺が喫茶店、らしき場所でソファに腰掛けていて今の今まで突っ伏していてその女性と向かい合っているのか、ましてや何故その女性がこんなふうに親しげに振る舞うのか、もう全てにおいて理屈が分からない。
「何が……、起きたんだ。電話を掛けた、んだっけ?ど……、どちら様ですか?」
「あら、覚えてはないのね。健介君とお話をしたくて、ごめんなさい。ちょっと引きずる形になったからあなたのズボンの裾汚れてしまっているでしょう?一応少しは払ったけど」
覚えていないわけでなく、覚えているから、むしろ混乱している。
今、目の前にいる女性は、ミーコが走り去った後、たまたま商店街の外れで、すれ違った、名前も知らない他人だ。
小学校、中学校、高校まで振り返っても、まるで重なる人物像がない。
あの時もこっちをじっと見ていた。俺の名前を知っている。知り合い?それはない。俺が今日そうであったように、こんな美人で育ちも良さそうな分かりやすいオーラを纏った人間がうろついていれば、いかに関わりが薄くても覚えていないはずがない。
「名前、名前は?初対面だ……。なんで俺の名前が」
「市倉絵里よ。健介君、よろしくね」
やはり、聞き覚えすらない名前だった。いや、……どこかで聞いたか?聞いていたとしても、同級生などではない。絵里……?結婚して名字が変わることもあるだろうか。さりげなく女の指を見たが、指輪の類はつけていない。
「少し、良かったわ。一応事情は説明するけど、さすがに自己紹介なんてする余裕はないと思っていたの。まずは健介君、落ち着いて話を聞いて欲しいわ。変に緊張したり警戒したりしないでいてくれた方が、理解も早く済む」
「緊張したり、警戒すべき事態だということなのか?おそらくそうなんだろう。待て、だってそうだ。見ず知らずの人間に俺は……、何の説明を受ける?説明などされなくてもいち早くここを立ち去るべきだと俺の直感が告げている。悪いな。高価な商材を持ち出してローンの契約を結ばせるような魂胆なんだろう。残念ながら俺は金を持っていない。それより俺はどうして、寝てた?気を失ってたのか?なら……、もしかして、助けてくれたのかお前が?それならそうと言ってくれ」
「…………あなたは私よりも入口に近い席に座っている。このお店には私たち以外に誰もいない。入口は施錠していない。外に見張りもいない。私はあなたたち、特に健介君にとっては価値のある話をするつもりでいるけど、それがつまらないと思ったらいつでも自由に帰ってくれて良い。ただ、その場合も、……後で気が変わったりするかも知れないでしょう?連絡先は今、渡しておこうと思うの」
「何を、言ってる……?宗教か、デート商法だろう。俺はそんなのに付き合うつもりはない。悪いがお前に説法を受けたところで俺の信仰心は揺るがない。かなりの邪教徒だ。そんな奴を引き入れたらお前まで責任を取らされることになるぞ。俺を助けたのか?『はい』か『いいえ』で答えてくれ。もし助けてくれたなら礼は言っておきたい。だが、用事があるから俺はさっさと帰らなくちゃならない」
「いいえ、健介君。別に宗教でもデート商法でもないし、そういう種類のものでもないわ。持ち物検査をしていて気づいたのだけど、健介君、携帯電話を持っていないのね。これプレゼントよ。自由に使ってくれて良いし、私の電話番号も最初から入れておいた。お金を出せなんてことも言わないし、なんなら逆に私の財布を今渡しておいても良い。帰る時に、……あんまり健介君の家の近くだと少し困るけど、商店街のどこかに隠すか、誰かに預けて、少ししたらその場所を知らせてくれたら良い」




