六話⑦
「……いた。今度は逃がさんぞ。俺の……、本気の走りを見せてやる」
とはいえ、不意を突かなければならない。距離を縮めてから絶好のスタートダッシュを切れる体勢で声を掛けるべきだ。ミーコが驚いて振り返って逃げ出すまでの、たった一秒の時間のズレを最大限に活かし少しばかり強引にでも捕まえる。
この際やむを得ないはずだ。あいつがビビって逃げようとした瞬間に俺は弾丸のように飛び出す。地面すれすれでの攻防は一発勝負になるだろう。気を抜いてはならない。
こうっ!こうだっ!左側から俺の腕で巻き込むようにすくい上げミーコの自由を奪う。周りに不審に思われないために俺はド派手に転げ回る買い物客を装わなければならないが、これは……、僥倖だろう。
ミーコを気にしている人間というのは今の時点では俺を除いて誰一人いない。存分に、転げ回ることができる。
「…………」
「……ニャ、健介。あの、ですニャ、私もう用事済んだので逃げませんニャ。そんなふうに見ないで欲しいニャ」
「ミーコ、考えたな。俺はもう少し近づいた段階が頃合いだと思っていた。そしてあんまり大きな声で喋るな。先に気づかれては仕方ないな。だが、油断はしないぞ。この距離からでもほぼ射程圏内だ。そして一つ聞きたい。俺が馬鹿に見えるか?誰のせいでこんな中腰姿勢でファイティングポーズを取っていると思ってる?」
「そんな中腰姿勢でファイティングポーズ取らなくていいニャ。もう逃げませんニャし、反省してますニャ」
「悪いなミーコ、騙されんぞ俺は。お前は今まさに窮地に追いやられて命乞いをしているだけだ。俺が甘かった。お前と散歩する時はしっかりリードをつけてからじゃなきゃならなかった」
「じゃあ、まあ、納得するなら別にそれでも良いニャけど、とりあえず健介、あれ、ほら、布とか綿とかそっち売ってるの見つけたニャ。そこでついでに毛糸とか買って首輪に結んでくれたら良いニャ。ただ行きたいとこあったら健介そこ連れてってくれないとダメニャ」
「行きたいところとやらに俺が反対するまでもなくお前が走って消えただろうが。まったく世話を焼かせやがって……」
ミーコは俺が横からトンと突つくところんと転がり腹を見せ、何一つの抵抗もないまま抱え上げられた。派手なアクションを省けたのは不幸中の幸いだったが、再発防止策が出来上がるまでは手を離すつもりはない。
まずは言い訳を確認しようと思った。目の前には、主立っては下着類を扱っている女性服の店がある。ミーコはどうやらここの店内をガラス越しに眺めていたようだが、猫が身につけられるものなど売っているはずがない。
俺も何気なくミーコの視線の先を眺めてみるが、店内ではレジ係の女性と小太りの男性と、何やら小競り合いが起きているようだった。
「何やってるんだあれ」
「あの男の人が買い物しようとしたのをレジの人が断ってるニャ」
「……?女性ものだからか?いや、まずお前の方の言い訳を聞こう。弁明の余地がないことは自覚してるか?再発防止に努める必要がある。被告に反省の素振りが見られない場合は、厳しい判決が下ることになるぞ」
「健介それよりも人情がないのかニャ?見るからに店員さんが困ってるのを見ないふりするかニャ?」
「困ってる?まあ、困った表情ではある。だが揉め事の質による。それよりも……」
「下着をレジに持って行って、レジの女性に試着しろと要求してるニャ。レジの女の子は見えるかニャ?研修中という札をつけてるニャ、可哀相だと思わないのかニャ?」
可哀相、というよりは、もしミーコの言う通りの出来事であるなら通報沙汰だと思うんだが、確かに男は女性の下着をレジに持っていき、それをカウンターに置いてレジ係の女性に怒気を込めて何かしら言い放っている様子ではあった。
「何故そんなことが聞こえる?それが本当なら俺は普通に間に入って通報するくらいの気概はあるが、お前が話を逸らそうとして適当な話をでっち上げている可能性がゼロとは言い切れない。単に買い物指示を受けたかプレゼントのつもりで買い物をしようとしたところを女性じゃないから売れないと断られて怒っている客ということもあり得る。ちょっと興奮気味ではあるが、それはまあ、店の方針を客に伝えて終わる話だ」
と、話している間に、その男は持ってきた下着をカウンターにゴツンゴツンと何度も叩きつけ、店の奥を指さして喚いている。
耳を澄ますと確かに「さっと着替えるだけだろうが」「そのための店員だろうが」という言葉が聞き取れた。男はかなり苛立っている様子で、逆に女性店員はそれにかなり怯えている。
はっきり言って俺はまだそれが聞き取れた段階においてさえ、そんな非日常な人間がガラス越しに存在していることを信じられなかった。
「例えば、……例えばだが、プレゼントする相手の体型がな、たまたまその店員と似てるという可能性はないか?それでその……、サイズが合うかを気にしているという一般客の可能性はないか?」
「最初はやんわり『どなたかへのプレゼントですか』とか『ご本人に確認されてからの方が』とか、そうやって断ってたみたいニャけど、なんか今こじれて、男の人の方は『自分で使うに決まってるだろ』と開き直ってとこニャ。そしてレジの人は泣きそうになりながらも『お買い上げならご自由にどうぞ』って、……結構譲歩した方ニャ」
「すさまじい修羅場に出くわしてしまった。警察、いや、そいつ……、病院か?いや結局病院に行くことになるとしてもまず警察か?止めた方が良いのは分かった。そうだな、じゃあ、……俺も一般客を装って店に入って、たまたま言い争っているところを小耳に挟んだふうで仲裁に入ろう。俺が話を聞いている間にこっそり通報して貰うことに、しようか、それが良さそうだ。空気がヤバイことだけは完全に伝わってきた」
「じゃあ、私は待ってますニャ。ここに置いてくださいニャ」
「そう……、だな。絶対動くなよ」
「頑張ってニャ」
一つ、深呼吸をする。
……もう一度、深呼吸をする。
よし、いこう。まずは訝しむように男をちらりと見て牽制するだけで良い。それでも様子が変わらないなら「事情は分かったまあ落ち着いて」と間に入らなくてはならない。
それでも落ち着かないようなら、男の死角になるように半身で女性に指で一、一、零とサインする。気づいて百十番してくれるはずだ。男が逆上して暴れるかも知れないが、ものを、壊さないように気をつけながら無力化できるだろうか。
心の準備だけはしておかなくてはならない。ただ、変に煽らないように、冷静に、言い聞かせる、まずは、言い聞かせる。
諭すように柔らかい口調を心掛けて、まずは落ち着け、俺も落ち着け、息を吐く。
ガラス扉は二重になっていて一枚を押し開けて、店内に入り、ちらりと男の方を見た。続けてもう一枚を押し開ける。
「…………」
入店音が鳴り響いたせいでか男も店員もこちらへ視線を向けた。男は明らかにこちらを威圧するような厳しい表情を作って唇を歪ませている。
俺もまあ、ことがことでなければすぐに目線を逸らしただろうが、そのすぐ横にいる店員さんなどもう俺にしか縋るものがないかのように助けを求めて口をパクパクさせている。
「こんにちは、……あの、どうかしました?」
BGMがやかましく響く中、それでも聞こえる音量を目指して大きめの声で呟くと、男はまた下着をレジカウンターに叩きつけ大きな音を出し、舌打ちをした後俺を睨みつけ、どけと首を振ってドスドスと横を通り過ぎ、店から出た。
ホッと息を吐くが、おそらく俺より遥かに心細かったんだろう、店員さんは机に顔を伏せて「助かりましたあ……」と声を絞り出した。
「……いや、その、大変でしたね。多分通報した方が良いですよ。普通多分、この辺なんかは平和なところだから、警察もなんならちゃんと見張りを寄越してくれると思いますし……」
「ショックでもう……、逆に、人見知り治ったかも……。警察、そう、あれ、よく分かりましたね、ヤバイの分かりました?雰囲気とかで」
「まあ、偶然通り掛かって大体事情は聞こえてましたから一応、まあ何にせよ良かった。じゃあ、俺は別に特に買い物ではないんで、失礼しますね」
「聞こえ……?よく聞こえましたね」
「ん?まあ、ちょっとやり取りも見てたし、雰囲気もヤバイのは分かったんで、中に入って様子だけは見ようと思った、ん、ですけど、……?聞こえてたのかな。聞こえてたはずだが、なんか、試着しろとかそういう話、ですよね?」
「……そうです。はああ、良かったあ。助けてくれてありがとうございました。ここ、このレジ逃げられないんですよお、もう、私しかいないし、外見てもその時は誰もいなくて、助け呼べないし、誰も気づいてくれなかったし、ああ、今になって怖くなってきた。警察来てくれますかね、こんなので」
「まあ多分、俺もじゃあ、なんなら事情説明する役とか引き受けた方が良かったりしますか?」
「いいえいいえ。そんなとんでもない。そんなお手間なことして貰うわけにはいきません。ありがとうございます。本当に、ありがとうございます、すみません。何にもできませんけど、私にできることがあったらなんでも言ってください。助かりました、本当に、すみませんでした」
「いいえ、そんな。まあ、じゃあ、お邪魔しました」
「お邪魔だなんてとんでもない本当にありがとうございましたっ」
実際には特に、何かしたわけでもない、店員さんは何度もお礼のお辞儀を繰り返していた。逆にその感謝され過ぎな空気にいたたまれなくなって、俺も軽くお辞儀をして店を出た。
その時だ、何か違和感があるなと思った。
店のガラス扉が閉まる時、音が吸い込まれるように、そう、音楽も店員さんの声も、このガラス扉に遮られて、ほとんど聞こえなくなった。男が相当大声で喚いていたのか、あるいはその姿と、ミーコの証言から俺が会話を勝手に想像していたのか、通常の会話音量であればそれが外に漏れるようには思えない。
扉がかなり分厚いし、近代的な建物のように思われる。ガラスもこうして改めて見てみると、……店員さんが机に突っ伏しているのは分かるが、表情まで細かに見えるようなガラスではないように思えてくる。
目を細めて凝視してもやはり、くっきり鮮明に中の様子が分かるようにはなっていない。多分それはプライバシーに配慮したぼかしガラスなんだろうし、防音ガラスなのかも知れない。
そうすると何故、俺が、店に入る前に、事情の片鱗を聞き取れたのか、店員さんが困っていると判断できたのか、説明がつかない。
「ミーコ良かった。少しは信用を取り戻すよう努めているようだな。少し……、聞きたいんだが、俺はこう、なんか店の中のことについて言及したか?店に入る前に」
「私が逃げる口実のための作り話だと言ってたニャ」
「いや、その疑念は晴れたが……、お前が、説明をしたんだよな?」
「説明を、したのかニャ。中で揉めてるというのは私が見つけたニャ」
「そうか。まあ、そうだな。……そういうことだ。幻聴か?お前は中のことを聞き取れるとして、今……、まあ良いか。一件落着だ。まだお前の言い訳を聞いてなかったな。どうだ申し開きはあるか?」
「申し訳なかったニャ、もう健介の言うこと聞くニャ」
「……そういう言葉遊びでは誤魔化されんぞ。理由を尋ねてるんだ、ミーコ」
「…………ニャ」
まさか、理由を言うつもりもないのか。理由を言えない理由はなんだ。衝動的に走り出して、後になって自分を恥じたとでも言うつもりか。反省しているかどうかを測定する指標がない。
じっと見つめてみると少しそわそわしているようにも思うが、それより何より可愛らしい顔立ちが邪魔をして正当な評価ができていない。
「卑怯な、奴だ。俺の焦りも少しは察してくれると良い。あの一瞬がどれだけ俺を追い詰めたかを考えてみてくれ。逆にだ、俺がいきなり家出して何日もいなくなったらどうだ?お前は俺のことを心配してくれるよな?戻ってくるはずだと思うに違いない。だがな、路上で発見して捕まえるしかなくなったら、理由を尋ねるはずだ。何故いなくなったのかと、聞くはずだ。それでも理由を言えないか?遠慮なんかしなくても良い。俺に悪いところがあったならそれをずばり指摘してくれたら良い。紐など繋ぎたくないんだ。俺はお前のことが大好きで、お前が俺のことを好きでいてくれたら、そんなものはいらないはずだ。そうだろう?俺はお前を、信用していないから、紐を繋げる。だが、そんなことで安心できると思うか?」
「健介が思っているよりもずっとずっと、私は健介のことを大好きに思ってるニャ。なら、紐はいらないし、そうニャ、私は健介が家出をして、何日も戻ってこなかったとしても、健介のことを信用しているし、健介が私のことを大好きでいてくれることを疑ったりなどしないニャ」
「疑っているというと聞こえが悪いが、不安には思うだろう」
「不安に思うことがあるかニャ?健介のことを大好きでいるニャ。それくらいは簡単に分かると思ってるニャ」
誤魔化し上手とは言い難いが、どうやら本気で、理由について語るつもりはないらしい。




