最終話⑪
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『これはあくまで、彼女の見てきたものではなく、彼女の周りにいた二人の記録や記憶を記したものでしかない。当の彼女がどのように思っていたかを語るものではない。その後に出会うフィリーネは冠する名とは真逆に友愛とは程遠く冷血でわがままな人ではありました。逆にルーカスは調和と情熱の人でした。その二人もまた方法はともあれ彼女を愛していましたから、当の彼女は、自分を不幸などとは思わなかったでしょう。そうして早川忠道と出会い、あなたと陽太とに出会い、ええ、だから、きっと、それまで彼女は特に飢えることなく、生きてこられました。そして、苦しく思うようになる。あなたとの別離がそうさせたのかも知れないし、田原栄子がそうさせてしまったのかも知れない。高田誠司の家族の声がそうさせたのかも知れない。あるいは市倉絵里や早川忠道がそうさせてしまったのかも知れない。欲しくなってしまった。手に入れられないことが、恐ろしくなった』
『……かくして彼女は、世界を願う』
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『ここから先は、彼女以外見ることのないただの幻想上の物語に過ぎない。彼女の物語はこうして、幕を閉じる』
彼女の名前は、緒方マナ。
行く先はどこだったでしょう。辿り着く場所に、何があると信じていたでしょう。いつまで待っても、どこにも、誰にも、何も、どうすることもできなかったのだから、彼女は振り返って、その理想が胸の中にしかないことを知る。
おそらくせめて二度ほどは、彼女にとって明確な分岐点が用意されていた。
差し出された手を取ることはとても容易いはずなのに、彼女は小さく首を振った。「お父さんとお母さんがいますので」と、首を振った。
彼女は、もっとたくさんと、もっと大切を欲しがった。どうでしょう、けれど、包み込むために描こうとした大きな丸い輪は、その途中で無残に欠けて、詰め込むこともなく、膨らむこともなく、歪んだ線を残している。得られたはずの幸福は、冷たい後悔へと変わる。
あるいは見せ掛けでない笑顔を向けられた時に、それに縋ることだってできた。少なくとも、幸福を感じてはいたのだから、そこにほんの少し、後ろ暗い事情があったとしても、そんなものはどこかへ捨ててしまえば良かった。
そうすれば彼女は、正直に自分の立場や行うべきことを正しく説明できたに違いない。どちらも、彼女が意地を張って、取りこぼしてしまったに過ぎない。
降り注ぐ陽光が肌に温かく、優しく吹いた風が季節の香りを届けている。緑の草木が生い茂る地面に一つ、大きな岩があって、彼女はそこに、腰を下ろした。
「では、もう良いでしょう。ずっと会いたかったです。ずっと愛していました。お父さん、お母さん」
彼女の前には男女が二人、それは彼女の欲しかったもの。
「お父さん、お母さん。僕はきっと、お父さんがお父さんじゃなくて、お母さんがお母さんじゃなくても、世界の中から二人を見つけました。二人を、大好きになっていたと思います」
「そう?でもマナは私の子だし、私はマナのことをとても愛しているわ」
「そうだなあ、マナが生まれてくれて良かった。私もマナを愛している」
どこかぎこちなく演技めいて見えるのは、それは彼女が、実のところ一度として、そのような微笑みを作る二人を、目にしていなかったからなのでしょう。目にしていたとして、覚えていなかったからなのでしょう。
二人の立つ後ろに家屋が影もなくぽつんと一つ佇んでいた。
木々や草の一面の原っぱの中に、たった一つだけ。それはあまりに風景から浮き立っていて、どこか歪ささえ感じさせる。
「そうである。健介と陽太もつくってあげなくてはなりません」
こちらはとても『上手くできた』。優しい笑顔を浮かべているし、とても自然にそれらしく立っている。
根本的な問題を挙げるのなら、こうなってしまったのは実のところ、彼女自身が、疑いの中にあったからなのかも知れない。
彼女はもちろん、両親の元に生まれなければ世界のどこかにいる二人を見つけることなどできるはずがなかった。それは当然のこと。
そして高橋健介や斉藤陽太のこともまた、彼女本人は、『世界のどこかにいる二人を見つけて大好きになるはずだった』と、そう、言いたかった。出会うべくして出会うことがなかったとしても、愛すべきものは、探し出しましたと、彼女はそう言いたくて、けれどもそれをどう、証明することができるのか。
彼女の涙を拭うのは、母親、頭を撫でるのは父親、心配そうに見つめる健介と、必死に話し掛ける陽太。
どうでしょう?破綻、していませんか?
どうやら彼女は、幼い頃の姿であることが、一番それらしいと考えたようだった。
「昭一おじいちゃんがいません。昭一おじいちゃん?」
「どうして泣いているんだい?何を悲しく思っているんだい?」
「ええ、いいえ。何も、悲しくなどありません。ただ少し、もしも誰もいなかったらとてもとても寂しいのだと想像して泣きました」
彼女はこうして、……こうまでして、幸福を得た。
辺りに見える森らしきものに小鳥の鳴き声すら、聞こえない。用意されたのはただ新たな世界と、そして一つのお家。広い草原に、ぽつんと佇む、不自然なお家だけ。彼女の幸福を包むために用意されたおとぎの国の城のようなものなのでしょう。
「健介、健介は知っていますか?誕生日はとてもおめでたい日ですので。大切な人が誕生してくれたことに感謝を示す日です。誕生してくれてありがとう。誕生日がおめでたい。……逆説的にいうとあれです。誕生日を誰からも祝って貰えない人というのは、……おそらく誰からも誕生したことを喜ばしく思われていない人です。あくまで、それは逆説的にいうとではあるのですが……、それはなんと哀れな」
「お前の、誕生日か?い、祝って、やらないこともなかっただろう、日付が違ったり中途半端だったにしても……。第一それは別に誕生日に限った話じゃない。常に感謝の気持ちを忘れないようにしていろ。あと逆説的にいうな。そういう人だっているが、分からんだろうそんなのは。大人になったらそういうのはあんまりやらないものだったりもする」
「健介の誕生パーティーとかな、やっても良いと思うのだが、そういうのは計画してる内が楽しいだけで実際やると健介が遠慮してプレゼントにツッコミづらいとかそういう微妙な空気になりそうだものな」
「俺はそんな無下な真似はしないし、前提として、俺が誕生した素晴らしい日にツッコミが必要なものを用意するな」
「ええそうですとも。まあともあれ僕は祝われました。そして今日この日は、全て世界に生まれた、僕が感謝すべきものの誕生日とします。よって世界で一番おめでたい日で、なので今日はささやかながらけれども精一杯に『世界生誕祭』を開催します」
「とても楽しそうね」と皆が口を揃えて言う。
「面白そうだな、他にも誰か呼ぶのか?」
「そうですねえ、ではまず学校が必要です。田原先生を学園長に任命しましょう。あんまり家が遠いと面倒ですので隣につくります。そして健介と陽太は僕のお隣さんということにします。健介の家と陽太の……、陽太の家はたくさん住めますね。一応仮住居とします。あと、昭一おじいちゃんどうでしょう、病院は必要でしょうか?」
「あった方が良いとは思うね、小さくても良いから」
「では、そうですね、病院は陽太の仮住居の後ろにつくります。お父さんと昭一おじいちゃんはここでお仕事を、まあ、一応研究をしていたら良いと思います。風邪くらいは、引いた方が普通でしょうか。まあ花粉症とかでたまに訪ねることもあるかも知れませんので、あるに越したことはないでしょう。池とかにはまると風邪を引くというルールにします」
広大な草原の、たった一カ所に、ごちゃごちゃと不揃いな建物。道路も電柱もなく、まるで切り貼りを繰り返したかのように、統一性がない。
それこそ絵画のようだった。
「トロイマンもそこで仕事をするかい?」
「いいえ、様子を見にいくことはあると思うのですが、どうでしょう。今は特に仕事をする理由がありませんので。あとですね、これは致し方ないというところなのですが、謝らなくてはならないことです。本当の名前は緒方マナと言います。おじいちゃんは仕事が終わったら僕の家に帰ります」
「そうだったのか。いいよ、マナ、謝る必要なんてない」
「ええとですねえ、違和感は拭えないので、どうしたものでしょう。健介と陽太については峰岸ミナコで問題ありません。これは複雑な家庭の事情とでも思ってください。そういうものです。そして、ちょっと思い出してしまった人がいるのですが……、トロイマン先生は……、ええっとですね、これはちょっと、世界が安定してからルキ先生と同じタイミングにしますね?世界情勢が混迷を極める可能性が大いにあります。国王の座を乗っ取られてしまう危険性があります」
「マナちゃんは、病院で研究はしないの?せっかくお父さんと一緒になれたのに。将来の夢は変わってしまった?」
「将来の夢ですか……?動物に、スイッチを、ボタンをつけてですね。それを押すと鳴くという、システムを開発したいです」
「そう。それならお勉強もしなくてはならないですね」
「そういえば開発局の人にもお世話になりました。けれどもそうですねえ、アシュリーさんはかなり後回しかなあ……、何か作って貰う大臣にはしたいのですが。そうなると牧野と佐藤も必要ですね。この辺りの判断はとても難しいです。アシュリーさんとトロイマン先生はちょっとマイルドになるということにしましょうか。まあ時間などここではないようなものですので、じっくりと考えます。決して生誕祭を何度もやってはならないという決まりはありませんので、あのぉ、分けてやるという選択肢もあります」
「でも、マナを愛してくれた人なのでしょう?」
「確かに。それに反論の余地はないのですが、文化圏がまるで違うというか、お世話になっておきながらこういうことを言うのもなんですが、そのぉ、さすがに毎日顔を合わせるということになるとなんというか、あれですね。ちょっと遠くにしますか?そういう手もあります。実際にはまあ遠かったわけですので。そして、そういうことで考えると高田院長や早川先生も、あとおまけで絵里さんも必要になります。これはしかし、僕の想像でどうにかなる次元でしょうか……。その辺りはそれこそテレビの中のスターのような扱いで良いことにしましょう。あまりに内面を知りません。良い人だとは思っています」
では彼女はどれほど、他の人々の内面を知ったつもりでいたのでしょう。それを正しく反映しているでしょうか。
理想の世界を想像する彼女の中で、人々は彼女の望む言葉を与える役割を、こなしているだけなのでは、ありませんか。
「生誕祭を開催しますので、とても夜は疲れてしまいます。お母さんはご本を読んでくれますか?」
「あら?本の読み方くらい、もう知っているでしょう?マナは全部覚えてしまっているのに」
「お話が聞きたいわけではないのです。自分で読めても仕方ありません。楽しいお話を楽しく読み上げるお母さんの声が大好きです。悲しいお話を悲しく読むお母さんの声が大好きです。そしてですね、それはその時の声は一つ一つ違っていますので、どれも心地よくて大切なものですので、僕はどんな本でも何度でも、その声を聞いて眠りたいと思っています。そうして空気が震えている内は、僕が呼び掛ければお母さんは答えてくれて、僕が手を伸ばせば届く場所にお母さんがいます」
「それなら、そうね。マナの眠る顔を見るのが私の楽しみでしたから、そうすると私もぐっすり良い夢を見て眠れますから、そうしましょう」
「あとピアノを教えてください。お父さんが大好きな曲を僕もできるようになりたいと思っています。生誕祭では音楽も必要ですので、僕ももしかするとそれを手伝うことができるかも知れません」
「ええ、良いわ。じゃあピアノも練習しましょう。マナはすぐ覚えてしまうでしょうけれど、それまでは私が先生ね」
「いいえ。世界中に音楽というのは数えきれないほどにありますので、それに音の加減も刻めば無限にありますので、僕はきっとずっとずっとお母さんにピアノを習うことができます。そして僕もお母さんも手の指はたった十本しかありませんので、鍵盤は八十八個もありますので、もし足りない場合は一緒にやらなくてはならないと思っています」
「うふふ。まあ、そうかしら?マナが上手に演奏できるようになったら、演奏会をしましょう。お父さんに写真を撮って貰うの。みんなに喜んで貰えるわ」
「それも良いですね。そうですそして、お料理を教えてください。お祭にはとてもたくさんの食べ物が必要です。もしかすると僕にも何かできるかも知れません」
「そう言って、くれるのを待ってたわ。お料理を一緒にしましょう。それを私も楽しみにしていたの。けれど刃物で指を切らないようにね。やけどにも気をつけて、しっかりと私の言うことを聞かなくちゃダメですよ?」
「そう、そうです。そして、できるようになったら、お父さんに誉めて貰いたいのです。お父さんはとてもとても偉い先生なので、中々それは難しいのですが、でもけれど、お父さんはお母さんのことが好きで結婚したので、僕がお母さんのできることを少しずつできるようになれば、少しずつその分を誉めて貰えると思うのです。とても良い方法だと思います」
「マナが元気でいたら、それだけで満足なんだけどね」
「元気ですっ。そしてそうなると大人数のみんなの料理もできた方が良いです。そうするとお店があるのが好ましい。ちょっと正直、合わせる顔がないのですが、お母さんが料理長なら店長も許してくれそうな気がします。どうでしょうか?」
「もう、僕はさあ、陽ちゃんにも健ちゃんにもお店に戻って欲しいって言ってるの伝えてって言ってたのにさあ。当たり前だよ大歓迎だよ」
「良かったです。では、とりあえずお家までみんなで行きましょう。お母さん、人間があ、人間がですね?二本足で歩くのはどうしてでしょうか」
「?マナ、それはなぞなぞ?」
「いいえ、真剣なお話です」
「そうね。……マナの右手を。お父さんが握って。マナの左手を。お母さんが握って。こうして三人で歩くためよ」
「ぼ、僕もっ、そうだと思ってましたっ」
私の目に今これが、どれほど不気味に映っているか、あなたには分かりますか。
これは彼女の、後悔の象徴でしかない。全てを作り替えなければ手に入らないという絶望の末に、記憶と想像の次元で、永遠に続く世界を生み出した。
とても素晴らしいことですね。彼女の思う通り、彼女の願う通り。彼女の理想はとても正しく思われるけれど、それは彼女が作り出したおとぎ話に過ぎない。
そのような過去はなく、そのような今はない。そう続けられる道を失って、こんな終わりを迎えてしまった。
彼女が願ったのは、彼女を愛してくれる人々でしたか?ええ、もちろんと、彼女は答えるのでしょうけれど、きっと、少なくとも初めの内は、愛される自分を、願ったはずでした。
不器用でも不格好でも愛されたいと、そんな自分になりたいと、そう願ったはずでした。
「カーエールーのー、うーたーがー、聞ーこーえーてーくーるーよー、くうぇっ、くうぇっ、くうぇっ、くうぇっ、ケロケロケロケロくうぇっくうぇっくうぇっ♪」
「お歌が上手ね。その内ピアノを弾きながら歌えるようになるわ」
「ずぅっとずぅっと、教えてください。それと一緒にお歌を歌ってください」
「くうぇっくうぇっくうぇっ♪」
「どこにも……、行かないでください。一人で、置いていかないでください。僕と一緒にいて、僕と手をつないで、僕の話を聞いて……、一緒にいてくださぃ」
その囁きに、「大丈夫だよ」と、曖昧な声が答える。無論のこと、彼女はとても幸せになった。幸福と平穏の世界へと、流れ着いた。夢のような夢の世界に、辿り着いたのだと思い込んでいる。
自らが造り出した楽園は、二度と彼女を逃がさない。もう追うことも追われることもなく、愛し愛される幸福な理想郷に、彼女は永遠に閉じ込められている。
「合わせかがーみの、トートロ♪ぼーくは、トートロ♪七番目のトートロ。あなたは誰ですかあ?♪エーからトートレー、トートーォビー。トートロシー、トートロデー。トートリー、トートレフ。トートロジー、トートロジー♪今日も明日も、宇宙で一番、幸せなマナー♪」
家族と善き隣人に囲まれて、終わりのない物語が始まる。
けれど私にはそれが、いつか、ひび割れて破綻するように思えてならない。
「足がつくくらいの海はあっても良いのではっ?魚はちっちゃいのなどは泳いで良いことにします。魚区というのをつくってあげましょう。あっ、お店の野菜は畑をつくって産地直送にした方が良いのでは?あとですね、池にはまると風邪を引くというペナルティがあるわけですが、これは、その、カビは生えて欲しくないのです。が、まあ、カビなどは抗生物質はできて、分子機構解析も済んだ後に滅んだことにしましょう。発酵食品は微生物ではない何かによってできることにします。その辺りの原理はまだ解明されていないということで良いでしょう。さて……」
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