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AM ‐ アンミとミーシー ‐  作者: きそくななつそ
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最終話⑩

『緒方智明の手記』


 彼女が普通よりも恵まれた才能を持っているのだと気づいたのは、おそらくそれを妻が嘆くようになってから随分後のことだったように思う。


 妻がマナの癖に困り果てているのをよそに、マナが指を指して首を傾げるのを見て、私は一つを伝えて、私の伝えたことをマナが繰り返し口ずさむのを、頭を撫でて誉めていた。


 その時の、マナの誇らしげな顔を、私はよく覚えている。


 よく、覚えている。


 妻をなだめて、よくできる子の何も不満も、不安もないだろうと、そう言ったのも覚えている。


 少しずつ、背も伸びて、それに従って妻の抱えていた苦悩というのが私にも分かるようになってきた。


 ほんの少しの不安が、日増しに、マナの成長と同期するように大きくなっていくのを感じた。マナはまだ、私の前に本を持ってきて、指を指して首を傾げる。


 けれどそれを、五歳の子が?


 マナが六歳の誕生日を迎えた頃には、もう一人で調べられるだろうと、言った。


 事実、マナは私でさえ難しいと感じるような重たい本の場合、持ち運ぶことを諦めて聞きたい部分を暗唱してみせたし、どこに何があるかももう分かっている様子ではあった。


 その頃に聞くことといえば意味を読み取るのが難しい日本語か、論争のある題材か、あるいは答えの見つけづらい問いだった。


 だからもう、私に答えられることは限られていて、だからなのか、それが初めて、私が彼女を、突き放した、出来事だったのだろうと思う。


 マナは笑顔を向けて、『私もお父さんのようにお医者様になりたい』と、そんなことを言った時でさえも、私はしっかりとマナを見つめることもせず、「簡単になれるだろう」と、ひどく素っ気ない口調で答えた。


 傷ついた様子もなく続けざまに色々なことを私へ質問し、私はそれに答え、あるいは調べるのに良い本を探してやり、時には素直に分からないと言った。


 質問を終えた後も、マナはこちらの様子をじっと眺めていることが多く、それは何か、私という人間を観察しているようにも見えた。


 もしも、マナが、普通の子供であったのなら、何か欲しいものでもあるのかと、尋ねたことだろう。けれどとうとう、思い返してみても、何かを欲しいと、マナが言ったことなど一度としてなかったのではないか。


 日常のマナのしぐさに、ほんの少しの疑問も抱くことはなかった。ただ、少しばかり、次第に、常軌を逸した行動も見つけるようになっていく。


 朝から夜まで、私の書庫にこもり、食事は家族が揃っている時にしか食べないようだった。私と妻の両方が仕事で遅くなる時も、文句もなく「おかえりなさい」と言った。


 私は仕事で忙しく、マナは手の掛からない子であったから、それに甘えて、マナを一人家に残すことがあった。


 賢い子なのだから、大丈夫だろうと、そう思っていた。


 だから、マナが一人で家にいる時に、どう過ごしているのかについて、私も妻も特に関心を払っていなかった。


 そしてそれからしばらくそんな日が続いたある時に、妻は私にこんなことを相談した。


『マナが椅子に座って、姿の見えない誰かと話している』


 私はまずそれを聞いた時にあまりに深刻そうな妻の表情に苦笑を零して、「それで?」と続きを促した。妻は表情を変えずに続きを語った。


 姿の見えない相手のことを、ミナコと呼び掛けていた。それは私も妻も忘れ掛けていた名前で、何の拍子にマナがそれを知ったのかも思い当たらない。


 マナが生まれた時の、名前の候補の一つだった。それだけならば、妻もここまで深刻そうに私に告げようと思わなかったのだろう。


 更に表情を曇らせて、『マナが、私の存在に気づいて、すぐにそれをやめてしまったの』と言った。


 私はこの時、単なるごっこ遊びだよと一言だけ結論を置いて、遅い食卓についた。


 さして気にすることはないだろうと思っていた。妻が心配性で、マナは少し特別で、不思議な遊びもしたりするだろう。


 けれど、実際に、私もそれを、何度も経験した。私が扉を開けるとぴたりとそれをやめて何事もなかったかのように私の方を見ている。


 私が遠くから眺めている時などは気づかずそれを延々と続けていた。


 やはり私に気づくとぴたりとそれをやめてしまう。何をしていたんだと聞いても、何もしていなかったと、……彼女は答えた。


 妻は妻なりに、……私の意に反してとはいえ、色々な人間に彼女のことを相談していたらしかった。


 それならばと、南重学園の案内を手渡されたのだと言った。寮のある学園で、優秀な児童を集めて教育を行う施設だと説明を受けた。教育の理念やらはともかくとして、私にはそれをすんなりと受け入れられなかった。


 妻とは口論になり、互いを責めることになる。家を開ける私も妻も、彼女の親として十分ではなく、ぬいぐるみや玩具の類すらない家がどれほど子育てとかけ離れているのかを妻は涙を流しながら語った。


「きっとここなら、あの子の欲しいものが見つかるはずなのにっ」半狂乱に至った妻はそれでも彼女を、愛していたのだと思う。主張は一貫していて、確かに、私も、彼女に何を与えて良いのか、答えられなかった。


 部屋に冊子を持ち帰りそれを捲ると目を輝かせた児童の紹介がいくらも続いていて、高い理想を語り惜しみなく与えられる環境を誉め称えていた。


 彼女の夢はなんだろうと、私はぼうと考えて、医者になりたいと私に言ったことを、思い出した。


 何も寮制でなければ、私はすんなり妻に賛同したかも知れない。


 けれどこうして考えてみると、私や妻など、もう、もしかすると、彼女にとっては、あまり重要な人物とはならないのかも知れない。


 熱心な教育や訓練の様子が紹介されていた。私はどれほど熱意を持って、彼女に接していただろうか。特別な彼女にとって、それはあまりに侘しいのではないか。


 ぽたりと、涙が伝った。妻が正しいのかも知れない。


 良き父や母でないことが、彼女に、分からないわけがない。どれほど愚かな人間かと責められるのが恐ろしい。彼女から不満が漏れる日はいつ訪れるのだろう。そんなことを考えるようになった。


 そうして、幼い彼女を、南重学園に入れることが決まったのは、暑い夏のことだった。その資格を問うための学力試験などがあるとのことで、それはとても難関なのだと説明されたものの、けれどそんなものは、ないに等しい。


 彼女本人にその話を持ち掛けると、しばらく考えた様子でいた後に、「お父さんとお母さんがそう言うなら私はそうします」と言った。


 その後しばらく、妻と私は代わる代わる彼女に参考書を買い与えていたものの、やはりそう難しくはなかったんだろう。与えた分はすぐに読み終えてしまうし、一人で調べられるようだった。


 一次試験の日は、私も妻も仕事も休まず、彼女をバス停まで見送り、受験票と筆記具を確認してやるだけだった。


 三日後の二次試験は、その当日に合格発表を兼ねているということだったため、私は仕事を途中で抜け出して、昼過ぎに彼女を迎えに行った。


 彼女は立派な校舎の教室の外で、廊下の隅で、ぽつんと立ち尽くしていた。私に気づき、ゆっくりと顔を上げた。


 どうだったかと私が尋ねると、「全部できたと思います」と彼女は答えた。合格者の掲示は中庭通路で行われていたが、彼女はそこに行こうともしなかった。そして私も、まさか彼女が失敗するなどとは思えない。


 私が窓から目を細めて確認すると、彼女の番号らしきものは見つけることができた。


 外は受験生達が人だかりを作っていて、喜ぶ者もいれば悔やむ者もいるようで、それをさまざまにそうするようで、何事にもたとえがたい光景だった。私がそれを眺めていると彼女は私の袖を引いて、「合格でした」と言った。


 であるから見に行く必要はないしお腹が空いていますとも言った。


 彼女の、合格したここは、全寮制の教育機関だと、私はもちろん知らされていた。


 私は、彼女の口から合格という言葉を聞かされた時、もしかすると、……私は、彼女がいなくなることを安堵、していたのかも知れない。


 だから私は、何故かその時だけは、「よくやったな」と、本当に久々に、そう言って、彼女の頭を撫でた。


 当の彼女はきょとんとして何故誉められるのかも分からないという表情を浮かべていた。


 けれど少し時間が過ぎて、彼女は、……私の娘のマナは、マナ、……マナはゆっくりと誇らしげに笑顔をこちらへ向けた。


 私は胸に穴が開いたように苦しくなる。罪悪感に押しつぶされそうで、後悔が尽きない。


『この時になって』私はようやく、私をじっと眺めるマナの瞳の意味を知った。


 単にそんな言葉だったのだろう、私の、何気ない「よくやったな」と、「よくできたな」と、そんな言葉を、待っていたに違いない。


 マナが合格掲示の前に行きたがらない理由に思い至る。哀れな自分を想像したからに他ならない。


 誇るべき我が子の合否を、私だけが共に嘆くことも喜ぶことも慰めることも応援することもできないまま、言葉も見つからないまま、劇場のさなかの出来事のように抱きしめ合って涙を流す『彼ら彼女ら』の一部になれないまま、ただぼうっと立ち尽くすばかりであったろう。


 それはあまりに、惨めで仕方なかったであろうから、例えば結果はどうであれ、他の子と同じようにして貰えることをせめてマナが期待してさえいたならば、あるべき場所に当然ある数字を一緒に見つけてやることができたのではないか。せめてマナがその舞台へ足を運ぶことを苦痛に感じたりなどはしなかったのではないか。


 窓の外に映された劇場は、私たちがその一部になれないことを痛く知らせて、また、私がこうして手を伸ばすことを嘲っているようですらあった。


 私に不相応に華やかな舞台の只中に、身を隠したい衝動に貫かれながら、私には簡単な台詞の一つも用意されていない。


 呆然と呆然と各々の役者の洗練された動きに見とれるばかりで、やがて俯く。


 恥ずかしい……。恥ずかしく思う。


 マナを、抱きしめるべきだろうか。肩を寄せるべきだろうか。微笑むべきだろうか。


 ああ、ああ……。きっとどれも私ばかりは小狡く取り繕った不気味なロボットのように動くのであろうし、その振る舞いは、誰よりも私を強く落胆させるだろう。


 私はマナを、愛していると思っていたのに、彼女の、……なんと不憫なことだろう。


 後ろめたさを引きずりながら、結局掲示を見もせず、私はマナを車に乗せて自宅へと戻った。


 思い返せば彼女の奇妙な振る舞いにも、簡単な答えが見つかる。


 彼女は、私や妻が見つけると、ぴたりと一人遊びをやめてしまう。私や妻の前ではそうしたことをしない。それをおかしな行動だと捉えたのは一体どうしてだったろう。


 一人で、家に残されて、誰であろうと話し相手が欲しかっただけだろうに。私や妻が家に帰り、マナがそれに気づけば、そんなことをする必要がなくなる。いいやそもそも、ずっと側にいてやれたなら、そんなことを始めたりもしない。


 答えはとても簡単で、何故彼女が奇妙な遊びをしていたかというと、それは私や妻が、彼女が寂しがっていることを知らなかったからだった。


 そんなことがあるだろうか。もしも知らなかった、気づけなかったというのならなおのこと、私たちには、彼女といる資格がない。


 それから、ほんの、一年のことだった。


 娘のためにドイツ行きの航空券が用意されたと連絡があった。南重学園から何人もの先生方が私の家へとやってきて、にこやかに私に挨拶をした。


 一番若く、一人だけ白髪のない女性の、田原先生だけが、開口一番に同行者なしに行かせるべきではないと断言した。


 他の先生方はぎょっとした様子でそれを諫めて、これは大いに誉れ高いことであるのだと口を揃える。


 思えばこれが、私に与えられた二度目の、チャンスだったのかも知れない。


 ただし当の私は少なくともこの時、精神的にひどく不安定で、悪意も害意もない私の娘への称賛に、私だけが、苛立ちを隠せずにいた。


 毎夜眠りから目覚める度、今日という日が本当に昨日の続きなのかが気掛かりで何も、今日や昨日のことでなくとも、私はもう、とうの昔に死んでいて記憶と想像の世界にいるのではないか。肉はもう腐って、触れたように思わされるそれは彷徨う魂の感触なのではないだろうか。


 言葉も鈍く聞こえていて、相手が一体何を伝えたいのかを正しく汲み取ることができない。


 子供は金も地位も名声も、大して欲しくはないのだそうだ。だから、純粋に、何故小さな子供が必死に学ぶのかというと、世界や他人に対する興味はもちろんとしても、それを差し置いて何よりも、両親に期待され、認められ、喜ばせ、自身が愛される、ためなんだという。


 そうして白髪の先生は、私の娘はさぞかし良い家庭に育ったのだと言った。


 愛のある家庭で育った子は、色々なことに興味を持ち、学ぶ意欲に旺盛で、賢い子に育つのだと言った。


 乾いた笑いが零れる。


『ならどうして?あの子はそれほど勉強ができるんでしょうね』

『身を粉にして働いても一銭も得られない勤め人のようですね』

『頑張らなくてよろしい。できなくてよろしい』


 私がそう吐き出そうとすることを察してか、田原先生だけは他の先生方に同調はしなかった。


 同行者がなければ断固として、行かせるべきではないと、強く主張した。


 けれどそれはもう、多数決で決められて良いのではないかとも思った。というのも、不甲斐ない私がついたところで、彼女の喜ぶ顔が見られるように思えない。


 これだけ期待をされていて、彼女に行くべき場所があるのだとすれば、私の元などではなく、ずっと遠く離れたどこかなのだろうと思う。


 偉い学者になりたいのだと語ったそうだ。それならば、そうするのが正しい。


 白髪の先生方はあちらの学校では生活に十分過ぎる奨学金の給付があり、外国語の専任講師も世話役として派遣されると、あれやこれや付け加えて、また将来の彼女が、どんな偉大な学者になるかを想像して聞かせた。そうなれば良いな、と、他人事のように、それを聞いていた。


「彼女が、行きたいというのなら、私には止められません」


「ええきっと歴史に名を残す偉大な学者になられます。そうなればさぞやお父様も誇らしいことでしょう。立派に育った姿を、考えてもみてください。あの子にとっては南重学園すらもまだ狭い。それを押しとどめてしまうなどという惜しいことは、我々の教育の理念にも外れることでありますから、是非この機会を、前向きにご検討ください。少しばかり不慣れな場所で戸惑うでしょう。少しばかりは距離も離れます。ですが、あの子なら、なんなくこなします」


 その白髪の先生もまた、決して学園の名を上げるためなどといった薄汚さは感じられなかった。彼女にとってそれが最良であることを信じきっていて、嘘偽りなく、未来の彼女を想像して胸を踊らせているようだった。


「彼女が……、立派に、なると良いなあ」


 私のその言葉を、一旦の了承と思ってか、「では今日は取り急ぎのご挨拶だけで失礼いたします」と立ち上がり、またぞろぞろと、先生方は私の家をあとにした。


 法定代理人署名とやらに力なく名前を記して、その日の夕方にはポストへと投函した。


 ちょうどそれから一週間後だったろうか。彼女はドイツの大学へ行く決意をしたのだと連絡を受けた。そして今の時期がちょうど入学希望の締め切りであちらでの手続きが必要になると、そんな話だった。


 ついに、その溝は、海ほどにまで広がってしまうのか。


「私はその場に必要ですか?」


「ああ、……いえ。こちらで代行する者がおりますし、必要な資格書類も全て揃っていますので、その場というのは、ドイツの?ことですよね?」


「ええ。はい。……そうですか。ではすみません。ご面倒をお掛けしますが、引き続き、よろしくお願いします。どうかよろしく、お願いします」


「任せてください。ご心配ありません。何も彼女が初めてというような手続きではありませんから。ではまた日程の候補が決まり次第、郵送いたしますので、ご都合の良い日を選んでください」


 そしてほどなくして、おそらく最大限に配慮のなされた日程の候補が送られてきた。私は妻にその時になってようやく、彼女をドイツに、行かせる約束をしたと告げた。


 もう察してはいたのだろう、妻も、小さく頷いて、そしてその候補の中で、一番早い日を二人で決めた。


 その日が一日ずつ近づくにつれて、私はついに眠ることができなくなり、とうとうその日を迎え空港に辿り着いた頃には、まるで自分が夢の中にいるかのようで、彼女を囲む先生方の姿ももう陽炎か何かのように触れることのできないもののように感じられた。


 先生方は私と妻に、先を譲ってか、私たちが到着するとすぐにこちらへと彼女を振り向かせ、そして出発までの時間を過ごすように言う。


 私は戸惑いながら、夢の中でなら、抱きしめて頭を撫でて良いのではないかと思って、そうして、私は彼女を強く抱きしめて、頭を撫でた。


 涙を、流して、何も言えないまま、彼女がどんな表情をしているのか確認することもせず、力一杯に、彼女を抱きしめ続けた。


 そして妻も、膝をその場について、彼女を抱きしめた。


「私は、立派な、お医者様になります。そうしたら、喜んでくれますか?」


「ああ、もちろんだとも」


「そうですか、良かったです。お母さんもそのように思いますか?」


「ええ、もちろんそうよ」


 ふと、思い出したことがある。


 この子の生まれる前に、私はこの子に、何を願ったのか、それを思い出した。



「ねえ、この子は君のようにピアノを弾けるようになるだろうか」


「ええきっと。私よりも上手になります。それよりあなたのように優しい子に育つでしょうか」


「ああ育つとも。私よりも優しい子に。それよりも、どうだろう料理を作ってくれるだろうか」


「あら、あなたがいつものように喜んでくれるならきっと、料理も大好きになります」


「美人に育つだろうね。歌も上手いだろう」


「お勉強もできるに違いないわ。あなたのようにお医者様になったりして」


「ああ、それも良いな」


「「けれど」」「「この子が幸せなら」」「「他にはもう何もいらない」」


『他には何も、願うことがない』



 なら、どうして、偉い学者になどならなくてはいけないのか。


 私はその時、何を与えてやれるつもりでいて、それで実際にはどうだったのか、どうなるというのか。


 抱きしめられたのが嬉しかったのか、それとも何の不安もなく行くことができるからなのか、私には分からない。


 ただ田原先生だけは最後に彼女に駆け寄って、熱心に何か話をしているようだった。



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