最終話④
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『父や母が、初めてあなたに教えること』
愛される喜びを、知りなさい。
『向き合う友があなたと分かち合うこと』
愛する喜びを、知りなさい。
『道行く人々が与えてくれること』
愛される自分を、見つけなさい。
◆
『でもその子には、それがなかったんだね』
『いくらも与えられながら、それを受け取ることができなかったんだね』
『きっとお前にとっての最上は、最初からアンミを送り出すより他なかったんだろう』
「そっか、健介が?トロイマンと話してる?トロイマンだよね」
「アンミ、……探してたんだ」
「健介はどっちの味方?私がいなくなったら困る?」
赤く、赤く、朱に燃える瞳の色は、血の色を強く俺に思い出させる。まるで今にも血の涙を零しそうなほど深く悲しく傷を伴って、それを誰も癒せないことを痛感させるような、……アンミはそんな瞳の色をしていた。
時折俺が見つけた襟元に指を引っ掛けるアンミの癖は、感情を知らせたくない時の予備動作のようで、表情に出やすいアンミの喜怒哀楽は、こうしてベールに覆われる。
ずっぽりと、フードを被って、それが風になびいた時だけ、赤い瞳が光を反射した。仮にアンミの瞳が見えなかったにしろ、明らかにアンミは、俺を責めている。それだけは分かった。
「違う……、アンミ、誤解をするな。俺は……」
でも、俺はもうアンミを救えないだろう。アンミの願った通りにしてやることはできないだろう。だったらそんなことは、俺の理想がどうであったかなどは、……結局のところごみのような価値のない代物だった。
「違う……、違うはずだ。俺はお前を助けたかった」
違うのか?何が違う?違ったとして、だからなんなんだろう。アンミから俺への評価が不当だ誤解だと喚いたとして、意味なんてない。
ミナコのことが大切だった。何とか譲歩を引き出せないかを掛け合った。
俺はアンミの味方でいたかったのに、……アンミの目に映った光景は、そんな理想を簡単に吹き飛ばしてしまう。トロイマンと俺が話をしていて、少し外はおそらく高総医科研が包囲を始めている。
密室の中にいる凶器を持った俺と被害者なんていうような、推理の必要もないくらいに間抜けな物語のように感じるだろう。俺が、アンミを、裏切ったのだと、そう思うのに十分な材料が、揃っているようにも思えた。
どちらにせよ、俺はアンミのための手だてを失っている。アンミが望むようにはしてやれない。だから、浮かび上がっておかしくない俺への不信に、いくら言葉を付け加えても、結局アンミにとって、何の役にも立たない。
「良いなぁ、健介は。健介は私のこと、嫌いだった?……ずるい。トロイマンのこと、私覚えてる。私、健介が?健介が私にいて欲しいのは、トロイマンが私を捕まえられるから?」
「そうじゃない……、アンミ。それだけは断じて違う」
「困った、でも……、私、良い方法、思いついた。ううん、思いついてた。もっと早くこうすればよかった。健介がね、私の代わりをするの」
一つ雫が落ちたなら、そこからひび割れて崩れてしまいそうな赤い目、強張った唇、力の入らない足、一体どうして俺は、それに触れられるのか。知らず知らず、俺はアンミへと引き寄せられていた。
手の届く距離にいて、でもどうして、それに触れられるのか。
地面が微かに揺れている。俺がアンミに触れようとした瞬間に、その揺れはまともに立っていられないほどに大きくなった。アンミはぽろぽろ、ぽろぽろ、止めようもなく流れた涙を頬に伝わせて、じっと、俺のことを見つめた。
「そうだよね、あんなに親切だったのも、いるはずないし、ごめんね健介、無理してた」
俺たちの、今まで過ごしてきた温かな日々はあっと言う間に、またこの事情に巻き込まれてくだらない理由に全てを占拠されてしまう。アンミを家に留める理由は、俺がトロイマンの味方であるから、な、わけ、ないだろうに。
…………。「でも良い」
そんな言葉だったように思う。
ミナコが駆け寄って俺の袖を引いたのに、よろけた俺はその逆方向に弾き飛ばされた。
地を這い空を薙ぐ大蛇のように不気味に狡猾で、天から現れ空を破り捨て吠える否妻のように容赦がなく、地中から轟音が響いた次の瞬間には俺の四肢は縛り上げられ、ゴツゴツとした皮がうねりながら俺の骨を掴み上げた。
ああ、これは……、でも結局、『アンミが動かしている』んだろう。
『アンミが願った通りに動いている』んだろう。
暗い根がこうして俺を捕えているのは、そこに善も悪もなく、ただアンミがこう望んだからに他ならない。
アンミに『違う』と、言わない。『間違っている』と声を上げない。望まれたまま、願われたまま、アンミのためにこうして動く根は……、アンミに対してどれほど優しいことだろう。
アンミの肩を抱く根がいた。アンミの涙を掬い払う根がいた。でも、もし例えば俺が、正しさなどなく、疚しさなどなく、アンミに願われた通りアンミを癒してやれたなら、それがどれほど良かっただろう。
立ち上がる間もなくゴツゴツとした土色の根が俺の右肩を掬い上げそのままぐるりと胴体と首を固定しかろうじで足が地面につく位置にまで無理やり持ち上げられる。その後には確認するかのようにぞろぞろと体を這い回った。
アンミの背後の木々が引きずられるように傾斜していき、アスファルトの地面がひび割れギィと擦れる音が周りからいくつも反響して聞こえてくる。
「ぃ、……あ、アンミ。あいつは、……ミナコは、トロイマンはお前と会うよりも前から俺の友人だった」
「そうなんだうん」
とても無感動な声だった。ミナコはQCのスイッチを入れなかったのか?どうして根が動く?
『一応、教えてやるけど、空気の振動を、止めるような機械じゃない。ものの動きを制限するような機械じゃない。想いを、消し去るようなアイテムじゃないんだ。だから、発現前に止めないと、動くよ、それは』
子供の声は特にこの現状に、不満を抱いている様子はなかった。こんなことが誰かを得させるはずがないのに、なのに単に傍観している。それとも、『これを楽しんでいる』のか?
『QCはむしろやめた方が良かったかも知れないね。そうすれば、夢の女が少しはアンミの動きを止めようとしてくれたかも知れない。とにかく、その木はもう、動けるようになって、学び終えたし、誰の味方をするかも決めた。なあでもな、健介。もしも、もしもだけど、お前の願いが、アンミの願いよりも強い想いだったとしたなら、お前を縛っている根は、そうは動かなかっただろうな。とても、公平な、判断だった』
「お前の、力に、なりたかったのに……」
「アンミちゃん健介はアンミちゃんの味方でした。やめてください、こんなっ」
「トロイマンは少し、静かにしてて?私健介と話すことがある。健介にお願いがある」
そのお願いとやらがなんであれ、蠢く根はアンミを取り巻き俺に切っ先を向け、絶対の命令と、仕方なくの服従が用意されることになる。俺が、アンミのお願いを聞いてやりたいと思うかどうかなど関係なく、そんな簡単なことに、成り果てた。
「あのね、私、これからミーシーを探す。ミーシーを探して、捕まりたくない、隠れてね、だから、健介はちゃんと私の言うことを聞いて欲しい。こうするしかないから、健介はね、これから私の代わりをして?そしたら私、助かる」
「俺を?身代わりにして差し出す?ってことか?」
「?うん、そう」
向けられた根は動かなかった。少しばかり体の締めつけは緩んで、アンミは俺を身代わりに差し出すのだと言った。
おそらくアンミは問題の根源すら間違えている。トロイマンは別にアンミの命を狙っているわけじゃない。代わりに俺を差し出したところで何の意味もない。
いや、……さすがに、そんなことを、勘違いするか?逆に俺よりも複雑に現状を理解している可能性もないことはない。アンミは、人に、魔法を与えることができた。俺を使って十分な材料を揃えれば、もしかしてトロイマンにとって、それはそれで構わないのかも知れない。
それだったら、どうだろう?
「ああ。俺が、身代わりになろう……。それでお前が満足なら、それで良い」
それはそれで、まあもし本当にそうならではあるが、それでいっそ、構わない気がする。最初からそうだったら良かった。こうしてアンミに失望することもなく、俺から言い出せたのなら、少しは心が晴れたはずだ。
アンミに利用される俺でもトロイマンと敵対する俺でもなく、アンミを庇ってやれて、ミナコを分かってやれる、それなら、そんな俺なら、格好良かったろう。
「あ、そっか……。ミーシーが。トロイマンは分かった?私、健介をあげることにした。研究所に健介を閉じ込めてて?」
ミナコがどう動いたのかは、俺の見える範囲では分からなかった。だが、アンミが頷いたところから察するに、それを了承したと、いうことになるんだろうか。
少し、分からなくなってきている。アンミはむしろ俺よりもトロイマン研究所の都合やら事情やらをよく知っていて、アンミなりに解決策をちゃんと考えていたんだろうか。
誰でも良いから一人差し出すなんて程度の低い発想をしているはずがない。俺が、アンミの代わりだとするなら、その前提で考えてみるなら、一体どうなるんだろう。
高総医科研は魔法能力に期待をしている。俺はその期待される能力が具体的にどういったものなのかを事細かに知っているわけじゃない。
当然俺には自覚できる特殊能力など何一つないわけだが、もしかして、アンミが既にもう、俺の特質を発現させていたりするんだろうか。それとも元から俺にはそういった資質があって、平凡に生きてきたようで実は魔法使いだったりするんだろうか。
俺は魔法使いを恐れない例外だと言われたが、魔法使いだって魔法使いを恐れない。
俺自身は普段の人づきあいで困るようなことはなかったわけだが、能力的に未熟な時期には恐れられづらいのかも知れないし、あるいは例外的に例外以外にも恐れられない魔法使いなのかも知れない。陽太や店長は例外だし、他は思い当たらない。
……意味が分からんが、例えばそうだな。夢の女とかは、俺の能力だったりするのかも分からん。
だったら、…………市倉絵里は、そういう提案を、したんじゃないかな。
アンミの代わりに、俺が研究に協力すれば良い。そうすればアンミが研究所に追われることはなくなる。アンミとミーシーは一緒に暮らせる。俺はミナコと一緒にいられる。
ハジメとナナには、……会えないかも知れないが、それでも、手紙くらいは出させてくれるかも知れない。
店長や陽太に会えないのは心残りだが、俺はアンミと違って、人を憎む心配とかはあんまりする必要もないだろうし、だから、護衛付きでなら外出許可が出るかも分からん。戸籍もはっきりしてるはずだしな。
でも、なら……、もうそれで良いよな。それで良い。
「それで良い……。もう、考えたくないんだ」
ミナコを信じられない俺が嫌で、アンミに信じて貰えない俺が嫌で、誰も彼も離ればなれになって、誰一人救うことができないのなら、もういっそ、その冴えた方法に縋りたい。
「それで、良いから、もう、……終わりにしよう」
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