最終話②
『健介、もう私のことを……、信じていないのですね?あなたはもっと、なんなら苦しまなくてはならない。全てを伝えましょうか?私の名前を教えましょうか?アンミがあなたを気に入った理由を知らせましょうか?アンミが研究所から狙われることはなくなり、誰もが自由な選択をする、あなたが誰も失わず幸せに暮らす、冴えた方法を、私が、教えてあげましょうか?』
『苦しめってさ。言ってやりなよ、お前のことなんて知らないって。良いよ、もう少しだ。そのまま歩いていけば、ミナコに会えるから』
わけが分からなかった。夢の女の声と、子供の声の対立は、余計に事態を引っ掻き回して俺の頭を混乱させている。
俺がいつ、……苦しむべき?そんな恨みを買う覚えがない。それが夢の女の真意だとするなら、今までの振る舞いは一体なんだったんだ。アンミを救いたいんじゃなかったのか?
俺が苦しめばアンミが得するようなことがあるか?誰だ、誰なんだ。俺には思い当たる人間がいない。
『気にしたところで、どうせ分かったりしない。放っておくと良いよ、これでほら、あんなやつの声は聞こえない』
そもそもこいつこそ、何者なのかどんな目的があるのか、まるで分からない。俺は覚醒しているのに、眠ってなんていないのに、目の前の光景がぐにゃぐにゃと歪められて、お互いを罵り合う亡霊の舞台を、眺めている。
言葉から意味がはぎ取られ、声から律動が渦を巻いて、単に音は、連続した不気味なノイズに成り果てている。もう少しで、聞き取れそうな、ああ、……俺は踊らされている。俺の意志は全く無視されている。
暗闇の中に歩き続けているだけで、俺がどう動きたいのか、どう思っているのか、全く、自分で決められていない。気が狂いそうだった、いや、もう……、狂ってる。
アンミを守りたいという願いを、その願いを助けようとしたはずの夢の女は、もう余裕を失っている。何かに急かされるように吐き出されるぶつ切りのノイズは、俺のためでもなく、アンミのためでもなく、ただ、やはり、自分の目的のためだったのだと明かしていた。
「ミナコに、……会えるのか?お前は、お前の目的は一体何なんだ?」
『お前にも分かるように言葉を選ぶのが難しい質問だけど、見ていて面白いからかな。別に誰かの気持ちを汲んだりはしないよ。ただ君が操られてるのは気に入らない。もしも同じ結末になったとしても、過程を楽しむ次元だからここは』
◆
『峰岸ミナコが高橋健介と向き合うことを決められた理由。もしも、田原栄子に出会わなければ彼女は毅然と、トロイマンを演じきることができただろう』
「マナちゃん、マナちゃんを見なかった!?ずっと探していた子を見掛けたの。すぐに車に乗ってしまったけれども、見間違うはずがありません。あの子の空気を、私が間違うはずがないの。金髪の、女の子を、見掛けませんでしたか?」
あれから何年が過ぎたのか、何年も何年も過ぎたに違いないのに、私はまだあの子のことを探していた。けれど探していて、良かった!奇跡というのはこうして訪れる。
スーツの若い男性は、急に駆け出した私に驚きながらも、二つ三つ、私に質問をして、彼女が彼の勤める研究施設で働いていることを教えてくれた。
どれほど焦がれたのか分からない。もう身なりも変わって面影もないものだろうと思っていたのに、それでも私は見つけることができた!
その男性、佐藤さんはわざわざ、彼女の乗った車を呼び戻して、私と、彼女を会わせてくれた。途端に涙が溢れ出して、私は、『彼女があの頃のまま』であることを知った。
それは私の罪業に違いない。だから、私は、彼女を探さなくてはならなかったし、彼女と会わなくてはならない。伝えなくてはならない。
彼女は、当然のように私のことを覚えていてくれて、はっと顔を上げて少し私から離れた位置に立った。懐かしむようでもあったし、訝しんでいるようにも受け取れた。
それはそうでしょう。
『あれから、何年経って、今更、何ができるのか、私にだって分からない』、けれども、『何もできないなんてことがありますか』!
「マナちゃん……。やっと、見つけたわ。ずっと伝えたかったことがあるの。ずっと言わなくちゃいけなかったことがあったの。…………。先生ね……、マナちゃんを応援してるわ。難しいことも、分からないことも、……全部先生が教えて上げる。もしすぐに答えられなくても、答えが分かるまでずっと一緒に悩んであげる。私、……そのために、そうするために、先生になったのだから」
彼女が今も私のことを『田原先生』と呼ぶことを嬉しく思った。同時に、その呼び掛けが私をまたあの時に、引き戻していく。
彼女はぽつりぽつりと、あれからのことを私に語って聞かせてくれた。終始表情が綻ぶことはなく、苦々しそうに、恥じ入るように、彼女の人生の梗概を私に伝えた。
幸いであったのは、彼女の人生を支えた人物の名前が、彼女自身の口から幾人も幾人も溢れ出したことだった。ドイツの大学で過ごした二年間は、決して彼女の不遇の象徴とはならなかった。
そこには素晴らしい出会いがあり、今この時点の人生に繋げられたのだと、そういうことらしい。
私が彼女をずっと探していたことを知ると、今彼女が、まだ何も成果を上げられていないこと、とても難しい状況にあることも教えてくれた。
もちろんそれは色々とぼかした話しぶりではあったけれど、昔の彼女よりは、率直な、内面を隠さない振る舞いで、終いには『どうしたものなのでしょう』と私に聞いた。
ただし当然というべきなのか、彼女の動きは緊張を含んでいるようで、本心から、解決策を、私にねだっているようではなかった。ただ単に、間をつなぐための言葉だったのかも知れない。
ともあれ、彼女は自分の十年を、誇らしく思ってはいないようで、それを嘆いているふうでもあった。
「理想を諦めるなんて言わないで。夢を諦めるなんて言わないで。努力したから報われるわけではありません。成功した人がすべて努力していたとも限りません。私たちは有限の時間という対価を支払って、価値あるものを学びます。誰にでも必要であろうから、まず人生の一割を使って義務教育を授ける。長いと思いますか?けれど、皆が知っている文字を読めなくて幸福でしょうか。皆が知っている算数や歴史を知らなくて正しい判断ができますか?……もっと長い時間を掛けて知れることがあります。人に愛される喜びを学ばなくてはならない。人を愛する喜びを学ばなくてはならない。私たちは価値あるものにこそ、尊い時間を費やさなくてはならない。これだけはどうしても必要だと思うのなら、たかだか十年は決して長くない。あなたは、……私は、南重学園でそれを教えてあげられなかったでしょう?素敵な出会いがあったのなら、それを大切にして誠実に向き合いなさい。ねえマナちゃん、分かる?私……、あなたのお手本になりたかったの。だから、探していたの」
十年の時の中で、私の中にある私のあるべき姿は何一つ変わらなかった。それが苦しみの根源であったとしても、こうして報われるのなら、苦しみ続けていた自分にどれほどの感謝があることか。
私は決して、彼女が特別だから、目を掛けようなどと思っていたわけではない。特別の中にいて、なお特別だった彼女が強く印象に残っていたのはもちろん確かではあるけれども、それよりも重要なことに、彼女はまだ、この時にすらあの時と同じに、『持っていない』ように見えた。
「人を愛しなさい。愛されなさい。私があなたを愛するように。私があなたに愛されたいと願うように。それを差し置いて、他に何を積み上げても、届きそうで届かないままよ。愛こそが最上の人生の基礎となることを、知らなくてはなりません」
これは、私に都合の良い、あの頃の、続きだった。彼女が幼いままでいると思い込んでいる私が、やり残した仕事を今更こなそうとしているだけ。当の彼女がどう感じるかは定かじゃない。憎々しげに私を見ても構わない。ただ……。
「マナちゃん、よく聞いて。どれだけ時間が掛かっても良いの。どれだけ頑張ったって良いの。どれだけ失敗したって取り返しのつかないことなんてない。早いか遅いかなんて大した問題じゃないわ。重要なのは、手に入れたか、そうでないかでしょう?遅くなんてないわ。十年掛かったって、……いいえ、何十年だって、私はあなたの味方です」
これだけは、伝えておかなくてはならない。
◆
『ミナコほど、偏った可能性は、とても珍しいだろうから、僕はそれを見ていたい』
まだ俺は歩き続けていて、ちらほらと街灯のある辺りへ出ることができた。そこに人らしき動きのあるものが見えた。石段に腰掛けて両足を交互に振って、ただ顔は俯いたままだった。
……それがミナコの、姿であろうことは、滲んだ視界でもよく分かった。そこで、足を止める。俺は今どんな表情をしてるだろう。何も浮かべていないつもりでいる。頬を伝ったはずの涙ももう乾いた空気で消されているようだった。
何を話せば良いのか、どう話せば良いのか、ミナコが目の前にいるのに、何も思い浮かばなかった。
しばらくミナコを眺めていると、ミナコは左右をきょろきょろ振り返り、びくりと、俺の存在に気づく。足を振るのを止めて一秒、二秒が過ぎて、もう一度周りをきょろきょろ見回しながら石段を飛び降りた。こちらへと、歩いてくる。
「あの、……あのですね」
俺はミナコを呪っているんだろうか。ミナコを恨んでいるんだろうか。特にそんな感情が沸いてくる予感はなかった。呆然と、歩み寄る姿を眺めていて、ミナコが話してくれるのを待っていた。
「何か緊急事態が起こったようで、車に置いていかれてしまいました。あのですね、健介は……、無事でしたでしょうか。何があったか知っていますか?」
状況も聞かされていないようで、一人置いていかれたと、ミナコは俺に説明した。続けて、俺の、身を案じていたというようなことを言った。
その間も、きょろきょろと辺りを警戒はしているようで、視線がこちらに固定されるのはそこからしばらくしてからのことだった。
確かに、ミナコは、俺を心配するのかも知れない。ただそれは、過去の自分の、そうであって欲しいという、願望めいた、現実とかけ離れた、前までの、俺の、幻想だったろう。
トロイマンが俺に駆け寄る理由は、アンミの居所を聞き出すためだろう。アンミを捕まえるために、俺をまた利用するんだろう、そんな台詞が、俺から零れ出しそうだった。俺の中に確かに、そんな思いが巡っていた。
前提が、崩れ去っている。法則は続かない。地球はどこまでも平らだったし、天体は俺を中心に回っていた。俺の友人は、とてもとても、大切な人間だったが、……さて、それは本当は、一体どうだったんだろう。
そう信じたかっただけで、実際がどうだったかなんて目に見えたりしない。
街灯の明かりと別に、空には星がいくつも見えていて、それはずっと変わりそうにない。でも時間だけは過ぎていく。動けない俺をそのままにして、一秒が何度も通り過ぎていく。
「健介。健介?無事でしたか?どこかケガをしている?」
「そんな……、心配はいらない」
「いえ……、ですが」
幻のように儚げな声が、もう何年も聞いていないように懐かしく感じられた。俺はずっと、ミナコの顔を眺めていた。俺の足先から手先までを見て、続けて俺の顔を見る。
ザワと、木々が風に揺れて葉を鳴らして、ミナコの髪も俺がよく見ていたようにふわりとなびいた。俺との会話を躊躇しているような、切ない表情が前髪から覗いている。




