最終話①
市倉絵里は、引き金を引いた。それが玩具や空砲でなかったことはすぐに分かった。
乾いた一瞬の音は街灯の下に赤い血溜まりを作り始めている。まるで舞台のスポットライトが的外れな場所を照らしているかのようにぼんやりとだけ、それを見せた。
俺は、殺されるのかと思った。
俺が殺されるんだと思った、殺されるのなら、銃を撃つのなら、せめて気に入らない答えを口にして市倉絵里を納得させられなかった俺なのだろうと思った、何も解決してやれない俺だろうに……、
目の前で膝をついた男は、腕を出して体を庇うよりも、逃げ出すよりも、ただ市倉絵里の方へ走ろうとしていたのだから、……おそらく俺よりも市倉絵里という人間を深く理解していて、市倉絵里が、俺やその男を撃たないであろうということくらい、きっと簡単に見抜いていて、
そして、銃声は響いた。
……止めたかったのに、止められなかった。その男は。だが、少なくとも、一歩も身動きできなかった俺とは違って、止めようとはした。
俺はもう、市倉絵里から、冴えた方法を聞き出すことはできない。呼吸が止まっていることを自覚し始めた時、ようやく、目の前の光景が俺の心臓を掴む。理解を拒むために、目の前の現実を誤魔化すために、だが俺は、直視せざるを得ない。
『市倉絵里が引き金に指を掛けた時から』
『銃口はそもそもこちらの二人へと向けられることはなく』
『市倉絵里は髪をかき流すように自らの頭へと突き付けた』
『男はそれよりも前に走り出していた』
『だが、途中で膝を折った』
『その時には』
『市倉絵里は、死んでいた』
ほんの一瞬の出来事だった。俺は立っていられるのが不思議なほどに体中の血管が収縮していくのが分かって、足先の感覚などとうに失って頭の中では繰り返し繰り返し『嘘だあり得ない』と呟いている。だがそんなもの、あっと言う間に恐怖に塗りつぶされていく。
こんなことは、あってはならない。嘘だ、あり得ない。嘘だ。
「市倉、さん」
男は膝をついたまま血溜まりの方へと這い寄り小さな声で呼び掛け続けている。果たしてそれは、その男だって震えているのだから、意味のない、呼び掛けに違いない。
その男もそれを理解しているのは間違いなくて、やがて声にならない嗚咽混じりの声で、もう一度、もう一度、呼び掛け続けている。
市倉絵里は薬を飲んで、錯乱していた?だからといって?苦しんでいた?誰にも救われることなく?だから、自ら命を絶った?
渦を巻いた目の前の光景はとてもそれ以外の答えを用意してくれそうにはなくて、俺はようやく、ふらふらと力を失って地面にへたり込んだ。でも、……でもまだ、信じたくない。そんなことがあって良いわけがない。
「嘘だ……。嘘だろう」
呼吸が上手くできない。どれだけ頑張ってみたところで息を深く吸い込むことができない。
カチカチと歯が鳴り出して、それを堪えるために固く噛みしめて、またすぐに呼吸が追いつかなくなる。喉を通る空気も震えながら俺の内側を引っかき回している。土を握って何とか体を支えてよろめきながら立ち上がる。
「死ぬはずが……、ない、市倉絵里が、死ぬわけがない」
でたらめだ、トリックに違いない。俺を騙すために演技をして…………。
ああ。
「…………」
ずっと呼び掛け続けていた男は、俺が呆然と、眺めていることに気づいて、俺が呆然と眺めていたものに、覆うように上着を載せた。
「君は帰りなさい。ここでのことは私が、……こちらに任せて早く帰りなさい」
血に塗れていた。市倉絵里は目を閉じて、眠り込んでいるようにも見えた。もし、……もしもそれが演技だったにせよ、男の、声が、男の表情が、全部、……全部知らせてしまうんだ。
「私が、責任を取るから、君は、帰りなさい」
責任を?帰る?男の声は低く気丈だったものの、震えに耐えられず言葉の切れ目にはひきずるような呼吸があった。
「確認を、させてくれ……。市倉絵里が死ぬはずが、……ない。なあ、責任なら俺にっぐっ」
男は元より苦痛に歪んだ表情を浮かべていた。だが俺の言葉が気に入らなかったのは明らかで、涙を一粒こぼしながら俺の胸ぐらを両手で掴み、「帰るんだ」と、怒気を込めて言い放った。
続けて俺を突き飛ばし、俺はまた地面に転がってその冷たさで気づく。
逃げ出したいんだ。俺は今すぐ、ここから逃げ出したい。心臓は異常なまでに跳ね続けていて、呼吸がまるで間に合わない。血を含んだ空気が恐ろしくて、俺の臓器が必死に吐き戻そうとしている。喉を引っ掻く風が通る度に吐き気が邪魔をする。
片手で喉を絞ってぐらつく地面を支えてすぐそばにあった屑入れに指を掛けもたれ掛かる。
男はまだこちらを見て何かを呟いていた。何も聞き取れない。離れないと、……離れないとならない。後ろをもう見たくない。血の飛沫が手のひらにないことを確認して、歩いて、歩いて、なんとか歩いて、もう、動けなくなる、まだ、歩いて、歩いて、息が苦しい。
結局俺は何度も跪いて、それでも這って、立ち上がって歩いて、へたりこんで、寄り掛かれるフェンスを伝って公園を抜け出した。
『…………』
夢の女の気配がした。夢の女は何も言わないのに、ただ気配だけを俺に伝えて、だがもう、……そんなことが俺を安定させてくれたりはしない。むしろ誰とも会いたくなかった。
俺が悪くなかったと、聞いたところで、俺自身がそんなことを信じられない。
「な、んで黙って、るんだ。俺が、俺は何も、俺が……?俺が悪かったのか?」
『いいえ。誰も、誰も悪くなどないのです』
「違う、……それは違うっ!あ、俺は止められる距離にいた。あいつはそしたら助かっただろうっ……、俺の、答えが気に入ってたらもっと、俺がもっと、だからあんな、話を、聞いて市倉絵里は……」
『市倉絵里は、あなたの答えを気に入るようなことはなかった。あなたがどれだけ聞いてあげても、どれだけ思いやりを持って接したとしても』
「違う……、そんなことない、……そんなこと、ない」
『もう、諦めなさい、高橋健介には、やるべきことがある』
「俺は何も分かってなかった。今俺は、あそこから逃げて……っ、市倉絵里は、……、良い方法が、あったのかも知れないのに……。俺がもっと早く、もっと信じてれば、それを聞けたかも知れないのに」
『健介、諦めて。それはもう、どうしようもなく、市倉絵里の決めたことだったのだから、もう、それは決まっていたのだから……』
ジャリジャリとノイズが迫ってくる。夢の女の声が空気の揺れに阻まれて俺の頭から離れていく。
「いいや、市倉絵里は、……市倉絵里は元から俺を騙すつもりだった。俺を罠に掛けて、裏切るつも、裏切るつもりだった、アンミを捕えるつもりで俺を呼び出して、だから俺はもう、あ、……」
『健介、落ち着いて、よく考えて、アンミを、探してください』
「……俺が?」
そう、だった。アンミを、アンミはどこにいるんだ?はっと顔を上げて俺自身がどこにいるのかをまず確認した。あの現場からまだ百メートルも離れていない。続けて手元に垂れ下がっているイヤホンの存在に気がついた。
慌てて耳に押し込めるがジャリジャリ、ジャリジャリと砂に潜るようなノイズが続くばかりで何が起きているのか全く見当がつかない。ポケットから携帯電話を取り出して画面を見ても通話状態が続いているようだった。
なのに音はまるでアンミの状況を知らせてくれたりしない。
「電波妨害か……?」
一度通話を切って、アンミの持っている携帯へとコールする。コールが途切れて、通話は切れた。また同じ手順を繰り返すと今度は無機質なアナウンスが流れて音が消える。
『アンミを、探しなさい、健介』
こんな俺に、夢の女はまだそんなことを言う。
「なあ、……見えないか、お前には。俺は今、俺の、服も血に染まってない。でもな、こびりついてもう、動けないんだ……」
呼吸の荒いまま立ち上がってまた、フェンスを伝って、少しずつ、また歩く。アンミの、アンミがどこにいるのかも分からない。ミーコ、……ミーコ、頼む。
『早く、急いでアンミを探して。健介、早くアンミを……』
『ひどい話だと思わないか、なあこれが、……夢の女の、望んでいた結末だぜ?』
『一人今も泣きじゃくって縋りついている男がいる。血まみれの上着に、ぽろぽろと涙の粒を落としている。手を握って、もうそれが、ものと変わらない温度であることを知って、魂を、削り取られている。夢の女の望む幸福に、多少の犠牲はやむを得ない。なあ、アンミを探す前に、ミナコと会ってよ。もう信じられないだろう、夢の女なんて』
『健介、アンミを探しなさいっ、そんなに遠くはないはずです、方角は分かるでしょう!』
「や、めてくれ……。もう、無理だ、助けてくれ……」
夢の女は子供の声に気づかないのか、俺にアンミを探せと何度も何度も繰り返している。分かってる、アンミを、探さなくちゃならない。でもどうしても夢の女の声に、責めたてられているようにしか感じられない。
市倉絵里を殺したのは、俺だと、夢の女が一番よく分かっている。言葉にしていないのに何故かそれだけはよく分かった。
もう、……市倉絵里は、死んだのだから、俺のせいで死んだのだから、せめてアンミを探さないと……。
歩いて、歩いて、歩いて、もう、何も考えなくて良いようにと足だけを前に出して、明かりのまるでない暗い道を歩いて、掴まる物がなくなるとへたり込んで、また、数分して歩き始める。
アンミがいない、ミーコも見つからない。
車の音が近くを通り抜けていく。こんな夜中に?高総医科研の人間だろう。あの出来事で、人が集まらないわけがない。アンミは上手く隠れててくれるんだろうか。もう、それとも……。
「どうして、どこにいるんだ、夢の女は、おい、どこを探せば良いんだ……。俺は、アンミ。力になりたいと思ってた、なのに」
どうしていてくれないんだ。
夢の女がいない。アンミがいない。ミーコがいない。ミーシーも、ハジメも、ナナも、誰もいない。
「ミーシー、……どうして教えてくれなかったんだ、こんなことになるって。ハジメ、……出て行くなと言えば良かった、俺じゃあ無理だ。ミナコ……、ミナコが味方なら良かった、こんなことにはならなかったのに」
誰かのせいにできるのなら、それが一番楽な方法だったろう。俺は逃げ出したいにも拘らず、全て投げ出してしまいたいにも拘らず、それでも何かを探して歩き続けている。
足を引きずるように前へ進んで、何もあてがない。ふらふらと彷徨うことに一体どんな意味があるのか分からない。
アンミを見つけて、どうするのか、逃げて逃げて、一体どこに、どこまで逃げれば良いのか、そんなことを、考えているはずだった。
答えが見つからない問いの中で、暗闇のさなかで、どうしても死の光景だけが鮮やか過ぎるほどに脳裏に焼きついている。目を閉じても無駄だ。振り払うことができない。
必死に、必死に、何も考えずに歩き続けるしかない。自分の四肢が暗闇に溶けて曖昧に、俺を拒んでいく。指はしびれて、もう掴まることもままならなかった。夢の女はまだ、『俺が殺した』と、叫び続けている。
「市倉絵里は……、確かに、死んだが、それは薬で錯乱していたからだ……」
俺の言葉には誰の答えもない。腕をだらんと垂らしながら、俺はその出来事を、なんとか理由をつけて片づけてしまいたかった。
「本来なら、俺の答えが気に入るか気に入らないかに関係なく、俺に方法を伝えると約束していた。それが、果たされるはずだった。なのにそう、ならなかった。市倉絵里は自分の出した条件を忘れるほどに判断力を失ってた」
『……そんなことはどうでもいいのです、健介、アンミを早く探しなさい』
ぞっとした。夢の女の声に、穏やかさの欠片もない。




