表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AM ‐ アンミとミーシー ‐  作者: きそくななつそ
268/289

十一話㉙


「自分で?どういうことだ」


「さあ?どうと言われても。セルラーゼが細胞壁を溶かしてリグニンが固める、中間体をバイパスする代謝経路が作られてフォスフォリラーゼやアミラーゼが貯蔵デンプンを際限なく分解していくようになった」


「いやそういうことじゃなく……、自分で決めたとか自分で動いたとか、植物にアンミを味方する意思があったってことなのか?」


「ええ。というよりも、誰の味方をするのかすらあの木が決めたでしょう。想いを受け取って、だから動いた。そういうことよ健介君。ちょっとは感慨を覚えたりする?」


「まあ、そうだな。枯れるのか、あの木は」


「分からないわ。何年かして少しずつ葉っぱをつけるようになるかも知れない。そしたら少しずつ元のように戻っていくこともできなくはないでしょう」

街灯の真下まではいかず、とても中途半端な位置で市倉絵里はこちらへと向き直った。どうやら明かりはこの程度で十分ということなんだろう。


「健介君、まずは、来てくれて、ありがとう。約束を守ってくれてありがとう」


「ああ、いや、こっちこそありがとう。最後まで疑うような真似をして悪かったと思ってる」


 今のところ、何事も、起こっていない。そう考えると途端に張りつめていたものが解け始める。


「ボディチェックはしなくて良いの?」


「しない。……ジョークならジョークだと分かるふうに言ってくれ」


「そう。うふふ。しなさそうね健介君は」


 小さく零した笑いは、俺の苦笑いに合わせてのことだったろうか。先程までの真顔の質問からの変化に少し戸惑うが、これがいわば、電話してた時の市倉絵里の姿だったんだろう。


 想像していたよりも小さく笑う。想像していたよりも遅れて笑う。個人差と言われてしまえばそれまでだが、どうにも笑い方すら、ぎこちなく思えた。


 俺はさりげないふうに市倉絵里の横を通り過ぎて市倉絵里よりも街灯の方へ何歩か進み出た。それに合わせて市倉絵里も体をこちらへと向ける。どう見ても、寝不足だという隈ができているし、寝不足だけで済まなそうな緩慢な動きだった。


「体調が悪いのか?薬飲んでただろう。座って話すか?」


「そうね。まあ?悪い方かしら。どうしたの健介君?いいえ、結構よ。ここで良い」


「どうしたも何も……。本当に休んだ方が良いぞ。俺が見て分かるくらいに調子が悪そうだ」


「そんなことないわ。それに、いいのよそんなことは。健介君とお話をしたかったの。私からの約束だったでしょう?それに質問もしたいと言った。その後に方法を教えてあげると言った。体調が悪くてキャンセルだなんて言ったら健介君だって困るでしょう?私もそんなことでこれをなしにしたくなんてない」


「そりゃそうだけどな。いつもならもう寝る時間か?」


「日によるけど、まあ、どうかしら。そうね、このくらいには寝るようにしてたと思うわ。そうでない日の方が多かったでしょうけど」


「なんなら、お前の悩み事から聞いても良い。元気がなくなってると思うんだ。お前からの質問があるわけだろう。目線を合わせるわけじゃなくても、お前の悩んでることを聞いてからの方が良い気がする」


「健介君の、答えが聞きたいという質問なのよ?」


「そういう話だったが。……別にお前が欲しがってそうな答え方をするつもりはない。……悩みを吐き出したら少しは元気が出るかも知れないと思っただけだ。そうすれば俺の答えも肯定的に受け取って貰えるかも知れないしな」


「ええ、じゃあ、そう。そんなことまでしてくれる?なら話したい」


「聞こう。過度な期待はしないでくれ。アドバイスとかフォローとか上手くできんかも知れんが人に話すだけですっきりするという効果はあったりする」


「あなたの中に私がいれば良いの。私という存在をリアルだと思えるくらいに想像できる下地があれば良いの。なんならそれは勘違いでも誤解でも、全く正反対の理解でだって構わない。私が嬉しく思うか欲しい言葉を与えられたかは何も重要なことではないの」


 要するに俺から市倉絵里を癒す言葉が出ることは期待していないということなんだろう。分かって欲しいというよりも、気にしてくれることが嬉しいと、そういうことだろうか。


 表現は独特だが、『的確に分かってくれなくても考えてくれるだけで十分よ』といった意味合いとして受け取っておこう。そこからはぽつりぽつり、市倉絵里の独白が続いた。


 前にも聞いた同じ話もあったし、市倉絵里の言い回しはいまいち心情を直接的に吐露するものじゃなかった。悲しかったとか、つらかったとか、嫌になったとか、そういう言い方をしたりはしなかった。


「……年少組には早川とトロイマンがいた。だから、特に、所外の人間からは誤解を受けやすい場所にいたわ私は。農家の子だから他の人のようにできないのかしら?それは違うと思うし、早川やトロイマンまでいかなくても、私が……、もっと頑張れば良かった。ねえ、お医者様になったら土を触ってはいけないの?そんなことどこにも書かれてない。重里さんは家庭菜園が趣味だって仰ってたわ。…………。身の寄せ場がない」


 言葉を挟まれることを前提としていない語りだった。端的にいって、天才に囲まれてそれと同じようにできないことを嘆いている。努力をしてもどうにもできなかった限界を見て自分を責めている。


 それに加えて、逃げ出す先が見つけられずに苦しんでいる。だが結局のところそれは、市倉絵里の中にしかない悪い思い込みに違いなかった。


 市倉絵里が、優秀でないはずがないし、能力や努力を嘲るような人間が登場したりもしない。『土を触ってはいけない』なんて、単に『ゆっくり休め』と言われただけのことだろう。実家に帰ってきた娘に仕事の手伝いをさせようと思わなかっただけだ。


「香苗ちゃんと一緒に残れば良かった。アンミちゃんとミーシーちゃんを見て、……悔しくなった。健介君とミナコちゃんを見て、……寂しくなった。私は香苗ちゃんにこうしてあげられたのよと言いたい。胸が張れないの。でもそこで美や善を、私は見つけた」


 美や善。……何度か聞いた言葉なのに、それが一体何を指しての言葉なのかはてんで見当がつかない。それこそ、宗教染みた概念の話のように思われた。


 実際のところ、市倉絵里が欲しかったものは美や善などではなく、単に『たまには帰っておいで』と、そんな親からの一言だったんじゃないだろうか。『今何してるの』と友達からの電話一つだったんじゃないだろうか。


「夢が叶わないというのはとてもつらいことだもの。ねえ私は、こうしてあげられたのよと、言っている。もしも私が健介君だったりアンミちゃんだったりしたら、そしてそれぞれが想う人が香苗ちゃんだったとしたら、私はこうしてあげられたのよと言っている。そんなもしもにはまるで意味はないけれど、私はどうであれ満足したいのよ。私はそうして想像する。どうにもならなかった私とどうにかできそうなあなたとがいて、私は……、あなたが大好きな香苗ちゃんだったとして、アンミちゃんが私だったとして、私はようやく他のもしもを捨てられる。私があと、十年早く生まれていれば……、それとも私がもっとずっと賢くて早川のようだったとして……、不毛でしょう?そんなことは不毛だった。私がいくら頑張ったところで、私は誰とも約束を果たしていない」


 時折こちらへと顔を向けるのに、俺の目を見ているようには感じられなかった。すぐに目を逸らしてしまうし、まっすぐ以上には首を上げないようだった。とても気だるそうに首を傾げていた。


『もしも』に、まるで意味はなくて、『頑張った』ところで、『不毛だった』。確かにそうだろうと思う。現状、市倉絵里は求めている結果とはまるで無関係な努力を続けてきたはずだ。結局それらが破綻したから、俺やアンミに自分を投影するんだろうか。


「お父さん、お母さん聞いて。みんなが私のことを誉めてくれたわ。私の歳でドクターまで取ったのは日本では珍しいらしいの。お金だって沢山貰えているし、この前、ちゃんと学術誌に論文を載せて貰った。もちろん、色々な人に査読して貰ってアドバイスを貰って、私だけの力じゃないけれど……。高田総合医科学研究所は日本では一番の医科学研究施設だし、私は……役職の名前だけは、ほら、あの早川忠道と同じとこまで来た。…………」


 それがもしも、市倉絵里にとって意味があることだったなら、こうして俺の前に立つことなどなかったんじゃないだろうか。


「でも聞いて」


 その意味のない努力に、疲れている。聞かせるべき相手が俺じゃないことを、市倉絵里はもちろん自覚しているだろう。最早俺に語っている言葉だったりはしない。


 同じ台詞を、同じように言えば良いのに。聞かせるべき相手に。


「運動会で誉められる子が羨ましかった。絵画コンクールで肩車をして貰ってる子がいたわ。お父さんとお母さんは、昔は私のこと誉めてくれたじゃない。私、独りぼっちになってから、何も手に入れられたりしなかった」


 これもまた、……俺に語ることも間違った努力なんだろうと思う。市倉絵里ははっと気づいたかのように顔を上げて俺のことを見つめた。それが一体どういうつもりの動きなのかは分からなかった。


「ねえ、香苗ちゃんのおじいちゃんを助けたのは私以外のお医者様だったわ。私が震えながら死体をバラバラにしてる時に、何冊も重たい辞書を広げて論文を読んでいる時に、まだ誰も助けられない時に、免許も持っていなかった時に、……。助けるなら、私だって思った。何が何でも約束を守るんだって思った。でも意味ないの。意味なかったの」


 ずっとずっと、かすれがちな声で、助けを求めている。なのにその言葉は、ほんの数歩の距離で聞き取れない音だった。


「聞いて。私のこれからずっとは、きっと大好きな人の一言のありがとうに替えられない。お父さんとお母さんが誉めてくれていたあの頃に替えられない。お医者様になるんだって別れた香苗ちゃんに合わせる顔がないの。偉い学者になりますって家を出たから、『ただいま』と言っても『どうして』と聞かれるのが怖いの」


 依怙地だとかプライドが高いとか、そういうのとは種類が違うのかも知れない。ただ純粋に、見失っている。


「ねえ、聞いてる?私、何も手に入れられたりしなかったわ。私、不幸だったと思うの」


「俺は聞いてる。でもお前の話したい相手は、俺じゃないんだろう」


「いいえ、必要なことよ。どうにかしてと言ってるわけじゃないの。単なる、愚痴みたいなもので……」


「どこを見てるんだ?なあ、どうした?」


「どこを?見てるって。私健介君と話しているのよ?健介君に話しているの」


「いや、なんでそんなにふらふらしてる?おい、……」


「よろついているのは、靴が……、早川という男はね。平等な、男だった。私が主任になったお祝いにって、踵の高いこんな靴を買ってきたわ。十六歳なら、オシャレしたい盛りだよね、とか、そんなことを平気で言う人間だった。私は黒い服しか持っていなくて、他の人からのお祝いも当然万年筆とかスーツに合わせるリボンなんてものだったのに」


 その話はもう聞いた。市倉絵里はついさっき自分が話したことも分からなくなっているんだろうか。嫌な予感がする。


「私はすぐに他の所員からのプレゼントをありがたく使ったけれど、この靴だけは一度として履かなかった。トロイマンの時もそう。入所して少しの間、彼女はドイツの大学に籍を置いていたから、そこから出た時のお祝いにって、赤い髪留めをプレゼントした。包装もない雑貨屋さんにそのままぶら下がっていそうな質素な代物で、彼女はとても困っているように見えたわ」


「気分が悪いなら、座った方が良い、それより……」


「……それまで、誰も、腫れ物に触らなかった。彼女は基本的に書庫と研究室にこもりきりで、眠るどころか、お風呂に入っているかも謎だった。ぼさぼさの髪に裾だけ直しただぶついた白衣を、着てて。髪の毛、長くて鬱陶しくないかい?なんて、そんなことを言って……。子供がつけるような髪留めよ?数百円のがらくたのようだった。米山達彦という大金持ちが後ろ楯にいて、高田研究所の施設は一部、事実上彼女のものだった。峰岸昭一からは実子のように気遣われていた彼女に、そんなもの、普通冗談でだって渡さない。だって、彼女、買おうと思えばもっと高価な宝石だって買えたもの。一流のブランドの一流のデザイナーの、真っ当な一流の品物を手に入れられたもの。私だって、そう。どこで見つけたのかも分からないセンスの欠片もないこんなのより……、良い靴を買えた。早川がやったことは、誰がどう考えてもおかしな、余計なお世話だった。……ただ、やっぱり、というか、結局……、私はこれよりかわいいものを買えなかったし、それどころかこの靴さえ今まで履くことはできなかった。ただ、トロイマンは渋々ながらに受け取って、苦々しくお礼を言ったの。トロイマンなりに気を使ってか、その後に見掛けた彼女はそれで髪を結っていた。…………。私は、彼女がそうであって嬉しくは思った。けれどね、自分が、そうあった時、どれほど滑稽な様か、分からないはずがないでしょう?……そうよ?髪留めを受け取った彼女はまだ九歳で、小学校に通って、何も考えずにワイワイやって、夕飯までお友達と仲良く遊ぶの。靴を受け取った私は女子高生で、くだらない夢を見て、誰が格好良いとか何がかわいいとか、それらしい話をしてオシャレをして、親ともケンカして、でも仲直り。わざとらしいほど在り来りな普通を、外れてしまった私たちに、早川だけは、平等だった。それを、押しつけがましい善意に取るか、皮肉たらしい悪意に取るか、ただ、それだけだった」


「聞いてるか?おい、変な薬じゃないだろうな」


「聞いてるわ。何を?このバッグも大学でね、高級なものが良いと言われた。それまで教科書しか買わなかったのに、高いバッグを買った。私と同じ。中身はすかすかで重たいだけで、あんまり役に立たなかった。でも今回、ようやく役に立つわ」


「おい、薬を飲んでただろう。それについて聞いてるんだ」


「…………聞いて分かるの健介君に?薬の名前なんて。ええ、くだらない話に付き合ってくれてありがとう」


 話を遮られたことに苛ついたのか、こちらへ向けた視線は厳しかった。


 履き慣れない靴だからといって、寝不足だからといって、こうもよろめき続けるはずがない。市倉絵里は逐一バランスをとって左右に足を出してようやく体を立たせていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ