十一話㉘
「なあ、お前は、……アンミが不幸だと思うか?今こういう状況でというだけじゃなくて、生まれとかセラ村にいた時のことも含めて」
「私よりも、遺伝学の先生の方が詳しいことを教えてくれるかも知れないわ。私も診て貰えば良かった。設計図を見るとね、大体どんな仕事が向いていて、どんな家庭を築く傾向が強いのか、そういうことも分かるそうよ?健康はどうか、精神はどうか、魂はどうか。どんな疾病のリスク因子があって、どんな免疫型と修復系を持つか、それによって標準で、どの程度長持ちする命なのかというのは昔からよくお話はされていたでしょうけどそれだけじゃなくて」
「……アンミが、セラ村にいて幸せだったと思うかと聞いてるんだ」
「私は知らないわ。でも、遺伝子の型を見てもちろん複合的なシステムとして幸福因子という言葉を作り上げたって構わないでしょう。容姿の美醜、脳の仕組みやホルモンバランス、そして自分と近い遺伝子を持った環境の構成員がいてそういう、星の元に生まれた。どういう言い方を適切と感じるか人によって様々でしょうけど、……私はこう思う。世の中に平等はないし人の世界に公平はない。幸福になれない人間は仕様が環境に耐えなかった。顕著な例として、赤い髪をしていては、どう頑張ったって幸せになんかなれない、なんていうふうに……、その内機械がぱっと表示するようになるんじゃないかしら。朝、テレビがやるような、星座占いみたいな根拠のないものの代わりに」
「お前は、アンミも自分も幸せになれないと言ってるのか……?」
「健介君。環境は人を幸せにしないかも知れない。どんな免許を持っていてもそれが本人の幸せには本質的に寄与しないのと同じに。結局人それぞれが、その人の資質が、行動を決めて幸福を得る。セラ村にいたかどうかが、アンミちゃんを幸せにしたり、不幸せにしたりしないわ。生まれは、不幸ね」
「なあやはりお前はやつれてる。疲れてるんだ多分。もっと前向きでいてくれ。不安になってくるだろう」
「…………私が、不幸だったからかしら。アンミちゃんの気持ちは分かるつもりでいるし、アンミちゃんは不幸せに見えた。でも、アンミちゃんはちゃんとね、幸せになれるチャンスがあるの」
「ああ。お前にだってそうなんだろう。アンミとお前では問題の種類も違うが、……一般的なことをいって、お前みたいに才能のある人間が、幸せになれないわけがない」
「才能、ね……。そうやって誉められたかったのかも知れないわ。最初はそうだったのかも知れない。でもそういうのって薄れていくものではない?……小さい頃に買って貰ったオルゴールが実家にあるの。すごく綺麗な音を出して私はそれが大好きだったけど、別に今それを聞きたい気分じゃない」
「そりゃ何度も誉められてきたってことだろう。素直に喜んだら良い場面だ。なんなら新しいことにチャレンジしてそちらで誉めて貰ったら新鮮な気持ちで嬉しく思ったりもするだろう。家庭菜園がやりたいと言ったよな。まだ何もしていないんだろう。家の手伝いを断られて嫌な気持ちになったんだよな。はっきりと、『家の手伝いをしたいんだ』と親に主張したら良い。絶対にダメだなんて言うはずがない。お前はそれができないと思い込んでるだけなんじゃないのか?」
「健介君は、お菓子やオモチャを買って貰えなくて泣いている小さな子を見たことはない?確かにその時その子は、悲しくて仕方なかったのだろうけど、十年も経つと同じようには感じられない。あれは大したことじゃなかったと、十年前の私に言う。十年後の私は今の私に同じことを言う。何でも打ち明けられるお友達が欲しかったかも知れないし、良い人がいれば結婚だってしたかったかも知れない。リレーのアンカーとして活躍したかったし、書道のコンクールで金賞を取ってみたかったかも知れない。農家の子として、家族で野菜の育ち具合を気にしてみたかったのかも。ねぇでもだから何?健介君。私は精一杯やってこうだったの。今更張りぼてを建てて誤魔化そうなんてこと思わないわ。ごめんなさい、ちょっと安全運転で向かうことにする。それと電波の妨害が入らない道順で行かないとならないから、少し、遅くなるかも知れない」
「ああ、気をつけて来てくれ。無理して話さなくても良いし、交通ルールを守ってくれたら良い。待ってるから」
遅くなるかも知れないというのは、確かにどうやら、市倉絵里が安全運転を心掛けているからのように思えた。車の発進速度であったり、窓の外の景色の流れ具合から考えると、下手をすれば法定速度を下回っていてもおかしくはない。
時間稼ぎという線は消えないが、市倉絵里の視線は常にまっすぐ前を向いていて、何かを探している素振りもない。道順を逸れてアンミを探し回るということはしていないだろう。
「でも、……話していたい。馬に念仏の意味は分からないけれど、聞いていて心地よいかも知れないでしょう?豚に真珠の価値は分からないけれど、何かをしてくれたことくらい気づくでしょう?さっき見てくれた?靴、貰い物なの。私が主任になった時に、早川が私にって寄越したものなの。私は靴の履き方すら分からないけど、それでも早川は正しかったと思う。履き慣れてない靴を履いて、外に出て、少しそう思った」
ふらついていたのも、運転が遅いのも、靴のせいだったか。何故それを今日履いてくるつもりになったのかは理解できないが、俺と会うのにオシャレをしようとしたとか、そういうことなんだろうか。
「履いてなかったのかずっと」
「うふ、似合わないでしょう。でもね、これは同じ歳の子だったら欲しいものだったんだろうと思う。恋をしてあとは流行りの素敵な服を調べて買って恥ずかしくないように街に出掛ける。出歩いている人はみんな自分に似合うオシャレな服を着ているから」
「……お前みたいな美人は何着てても似合うものだ。組み合わせの問題はあるかも知れんが」
「お上手ね。でも自分で選ぶのがとても難しいの。ファッション雑誌に載っている人なんてみんな特別な人ばかりだから参考にならないし、どれを着たら気に入って貰えるかなんて分からないでしょう?」
「評判のブランドショップに行ってコーディネートしてくださいと言ったら良いだろう」
「人の目が気になるのよ私はきっと。私を見てって主張したくないから、店員さんも、さぞそんな客には困るでしょうね」
「なるほどまあ……、ただそんなことは気にしなくて良いだろう。お前はスーツですら似合ってる。なんなら写真でも一枚くれればお前の代わりにアンケートとって集計してやっても良い。俺の美的センスが信用ならないにしてもそれならお前だって納得せざるを得ないはずだ。どんな服が似合いそうかというのもアンケートとってやる。そしたらお前のそんな、主張するだのしないだのというこだわりなんてあんまり意味のないことだって分かる。美人がオシャレな服を着て街を歩いていたら、みんなが幸せになる。それだけのことだ。お前は疲れてるから悲観的で否定的な考え方をしている」
「そうかしら。街の人が幸せになってくれる?ええ、だとしても当の私が満足かは定かじゃない。少し前に私、誰か大切な人から、私が一番聞きたかった言葉を聞いた気がするの。誰か大切な人に、一番言いたかった言葉を伝えられた気がするの。話し合ったような気がするの。でも、……誰だったか、日付がいつだったか、よく思い出せないわ。多分そういう、夢を見たのね。その時の私は、……なんていうのか、満ち足りていたわ」
徐々に徐々に、市倉絵里の表情は薄れていき、瞬きの長さと頻度が増えていった。
「眠いのか?寝不足だろう……。それも悪かった。この時間を選んだのも間違いだったかも知れない」
「ええ、でもこれが終わったらゆっくり眠れるから」
受け答えはできているものの、声に張りがないし、俺の言葉と市倉絵里の言葉の間に一拍以上空くことがあった。話している内容は悲観的で自虐的な話題がほとんどで、突然オシャレの話から夢の話へ移ったりと脈絡もない。
呼吸はいやにゆっくりでまるで常に深呼吸をしているかのようなペースで胸が上下していた。
「今にも壊れてしまいそうな世界にいる。心細いの。後悔してばかり。思い出す度につらいわ」
「…………。俺で良ければ話は聞いてやれる」
「神様が世界を丸ごと巻き戻して、もう一度やり直すことができたとしても、あなたも私も、きっと同じような失敗を繰り返す。同じように後悔を繰り返す。あの時、ああしていれば良かった。こうだったら良かった。戻れるものなら戻りたい過去があって、そしたら今度こそは上手くやれるような気がする。でもね、そんな都合の良い話はありはしないし、今こうまで苦しくてようやく間違ったっていうのが分かるの。リセットボタンだけじゃ意味なんてないの。誰かが悩みの芽を摘んであげなくちゃいけない。ねえ、私が、ねだったことを覚えている?」
「ねだったこと?」
「私、健介君とお友達になりたい」
その台詞だけは明瞭で、まるでプロポーズのような、強い想いを込めた言葉だった。懇願するようでもあったし、それこそ子供染みたおねだりのようにも聞こえた。
「……それは」
正直俺には、即答できない理由が見つからなかった。なのに何故か、言葉が上手く出てこない。「ああ」とだけ言えば良いのに、声の加減に気圧されてしまって正しい返答が手元にない。
本心からの答えを期待しているはずだ。嘘をついて誤魔化されたくないはずだ。でも、俺はなにも、市倉絵里を嫌っていたりなどしないのだから、「ああ」と答えて不都合なんてないのに。
「それは、……今する話じゃない。フェアな時に、正常な時に、答えるべきことだ」
「そう……」
「多分何度か話した。誤解のないように言っておくが、友達にならないと言ってるわけじゃないんだ。終わった後の話にしよう。俺は喜んで友達になりたがる。お前の手伝いなら喜んで引き受ける。それじゃダメか?」
「ええ、別に。それで良いわ」
一転してもう興味を失ってしまったような冷めた言葉だった。
猫を見掛けて手招いて、そっぽを向かれたら踵を返すといったような、最初から何も期待していなかったと言わんばかりの無表情だった。慌てて追い縋ったところで、もう見向きもしてくれないのではないかと思うほどに、ため息一つなく話が途切れる。
窓の外の景色は夜だから分かりづらいが、見覚えのあるような風景に思えた。もうそろそろ、近くまで来ていておかしくないだろう。
「着いたわ。……ああ、ごめんなさい。ええと、上着を、脱いで良いかしら?」
「?寒いぞ、車の外は」
「まあそうでしょうけど。スーツにハイヒールなんておかしいわ。それに、思っていたより暗いから、その方が見つけやすいでしょう?脱いではいけないというなら脱がないけど」
「まあ、……好きなようにしてくれて良い」
俺の言葉を待ってから市倉絵里は一度屈み込んで座席を後ろへスライドさせた。上着を脱いでそれを助手席側に置いたんだろうがその辺りは画面から見切れていてよく分からなかった。
代わりに助手席に置いていたバッグを手にとって肩に掛け、ホルダーに取り付けられた携帯電話を見つめる。
「じゃあ、車を降りるわ。良い?」
「ああ。そしたらまた、一応自分が映るようにして携帯電話持って歩いてくれ。俺もそっちに向かうから、直接声が聞こえるようになったら、電話は切る」
俺も駐車場方面に向かって画面を確認しながら歩いていくわけだが、市倉絵里はこちらへ向かう途中に立ち止まり、携帯の画面越しに上を見上げた。
続いて地面を見て少し俯いた。市倉絵里の表情が見えたのはほんの一瞬のことだったが、何かを見て、表情が曇った。何かというのは多分だが、……アンミとミーシーのケンカ別れの現場だろう。
俺の肉眼でも市倉絵里がその目の前で立ち尽くしていることを確認できた。携帯の明かりを右手で掲げて、白っぽいシャツ姿で、俯いている。
一度念のためアンミとの通話が切れていないことを確認して一呼吸を入れる。
俺が歩いて近づくと市倉絵里も俺の存在に気づいたようでゆらりと首を上げた。
「悪かった。もう携帯は切って話そう」
「声だけは聞いていたけど、とても久しぶりみたいに思えるわ。ねえごめんなさい。こんなところで立ち止まってしまったけど、明かりのあるところまでは行きましょう」
「ああ」
そう言って市倉絵里は俺よりも少し前を歩いて行き、何気ないふうに俺がついてきていることを確認してまた前へ向き直った。
「あれな、ミーシーが出て行こうとした時のだ。アンミが止めようとしたが無理だった」
「そう。あの木は、止めようとしたのね」
「あの木はアンミが動かしてああなっただけだが……。アンミがあの木をと、まあそういう言い方もできるかもな」
「…………。いいえ、あの木が、選んだのよ。アンミちゃんの魔法というのはそういうものって、あれ、私言わなかったかしら。気持ちを汲み取って、アンミちゃんの味方をした」
「そういえば、そんなような説明を聞いたような気もする。なんか気になることがあったか?木を見た時、お前が悲しそうに見えた」
「……酵素で、細胞壁を溶かして鱗を重ねたような外骨格を再合成していく。液胞内の代謝産物のイオンを利用した浸透圧調整で自由に、動いたり伸びたりできるようになる。でも元々は動くようになんて当然できていないわけだから、少なからず遺伝的な変異を伴う。……とても簡単にいうと、水と栄養が足りなくて枯れちゃうの。もちろん、土壌からも水分を取り込むわけだけど、あの木がね、動こうとした時点で、茎や葉に供給する通道組織も含めて近くの組織が浸透圧の加減で急速に水を抜かれて死細胞になる。細胞壁が溶けた状態で硬化してしまうと、もうその木は葉っぱもなくなって色素タンパク質の合成機構も失って、……光合成もできないわ。まあ、数日中に雨が降ってあの木がまだ生きたいと願えば助かる可能性もあるけど、ただでさえ道管のない根が、ほとんど地上に露出してしまって水が十分には手に入らないから、きっとそのまま硬化してしまうわね。まあ、少しは、戻ろうとした形跡もあったから、どうかしら。でも、自分で決めたことでしょうから私が気にしても仕方ない」




