十一話㉔
◆
それは陽太がいつも通り遅刻して、俺がぼんやり天気の具合を気にしてる時のことだった。
雨が降ってきたらどこへ避難すべきかとか、陽太に電話掛けてさっさと来いと急かそうかとかそんなことを考えていて、近くにいるミナコのことを全然気にしていなかった。
まあミナコも全然俺に話し掛けたりもしなかったし、もっというとこっちに見向きもしていなかった。公園の柵の前で座り込んでおとなしくしていたから、たまに視線を向けていなくなっていないかだけ確認していれば済んだ。
「働きアリの中には一定数、働かないアリがいるらしい。働くアリだけを別にして飼育をすると、その中でまた働かないアリが少しの割合で生まれてしまうらしい。働かないアリだけにすると一定数また働くアリになるそうです。そうなると最後に、何度も何度も繰り返し分けられて、たった一匹になってしまった時、そのアリは働くでしょうか。働かないでしょうか。これが要するに、支え合いの構造というものです」
「え?全然分からん。何についていきなり言い出した」
「助け合いの精神についてです」
定刻アリと遅刻アリを皮肉って陽太を説教でもするつもりなんだろう。
どの道天気も怪しいし何分かすれば陽太の家に向かうことにはなるわけだから、俺はそこまで気にならなかったが、しゃがみ込んで地面を見つめているミナコは、今までに合計何時間遅刻したか覚えてても不思議じゃないミナコにとっては、これはそろそろ堪忍袋のチャックが閉まらん状態だったりするのかも分からんな。
ましてアリを分けるだのという話し出しから考えると陽太放っておこうとまで言い出しかねん。
「そうか。人も同じようにグループ分けされると働いたり働かなくなったりするか?」
「それは分かりません。その人の立場とかやる気とか体調次第だと思います」
「ああ。まあそうだな」
「でもたった一人になった以上、どうしても死ぬまで働く必要には迫られることでしょう。そんなことよりも僕が言いたいのはですね、アリの方が、人間よりも遥かに高度社会的な動物で、ミツバチなども遥かに高度社会的な動物で、どうして人間はこう、種のための自己犠牲の精神が欠如しているのかという世界的な、人類のあり方について語っています」
「もっと個人的な問題点について話しているんじゃないのか?そんな難しい問題を俺に話してるのか?」
「ええそうですとも。ミツバチなどはあれは針がついていますが、刺すと自分も死んでしまうそうです。しかし大きな外敵がうろうろしていて仲間が危ない時などは刺します。死んでしまうというのに……。蜜を集めても自分ではほとんど食べません。女王蜂に卵を産んで貰うために集めています。どうでしょうか、そんなことが人間にありますか?何も教えられていないというのに、そのように振る舞います。誰にも命じられずにそうします。だからきっと、ミツバチは自分の仲間のことをすごく大切に思っているのだと思います。女王蜂のことがとっても好きなのだと思います」
「そうなんだろうな」
「健介はどう思いますか?」
「どう思うも何も、すごいなと思うが……」
「健介はそうしますか?」
「……いや、ちょっと、無理だな。どういうことだ?ミツバチ未満ということが言いたいのか?俺のことを」
「いいえ。僕は自分で稼いだお金を誰かにあげたり、外敵を倒そうとして死んだりできないので、もしかすると僕だけがなんというか、あれなのかと思っていました。安心しました健介もその、僕と同じ程度の人間のようです。ただしかしながら、もしもすごく大好きでお金をあげたり死んでも助けてあげたい人がいるなら、それはとても幸せなのではないでしょうか。人は結局どんなに賢くなっても、そうしたふうに進化はしてこなかったのですねと、クロオオアリを見ていて思いました」
「しゃがんで俯いて哲学的なことを言うから、なんか落ち込んでるのかと思った。こういってはなんだが、まあ人間もみんな税金を納めてそのお金でこう、色々とやりくりしてたりするから……」
「なるほど一理ある。いや?まさかミツバチもそうですか?別に女王蜂が好きだから集めているわけではないのでは?」
「いや、……そこは知らんが、そこはいいだろう。女王蜂のことが好きで集めてるということにしとけば良い。ほら、外敵から巣を守るために命を賭けて戦ったりしてるわけだし」
「…………。うむ、ではそういうことにしておきます。アリも持って帰った獲物をみんなで仲良く食べるのだそうです。アリの癖に生意気なので今進行方向に土手を作っています。なにっ、土手を避けている!まるで自分の方が賢いと言わんばかりである。囲います」
「囲うなやめろ。エスカレートしそうで恐ろしいから言っとくが害虫以外殺すな」
「さすがに意味なくは殺しませんけども……」
「陽太のことを言ってるのかと思った。陽太が遅刻アリだから、分けて働くようにしようとか」
「まさかそんなっ。ええと遅刻でしたか?時計を持っていないので全然気づきませんでした。まあでもいつまででも待ちます。天気と同じで文句を言って変わったりしません。大体いつものことなので心配をする必要もありません。分けるなどとんでもない。それは誤解です。オオクロアリを見てアリとかミツバチの話をしていました」
「なら、良いんだけどな」
そう。離ればなれになるなんて、とんでもない。どういった形で別れが訪れるにせよ、今になってもまだそれを到底想像しがたい。
別れは、今じゃない、ただ、それはいつかであって、この先必ず訪れるものなんだろう。それがお互い大人になってからの自然消滅的なものなのか、事故や事件によるものか、あるいはよぼよぼの老人になった後の死別なのかはともかくとして、俺はそのいつかが許せないでいる。
終わりがないことを、望んでいる。
◆
大学生に課されるノルマというともうせいぜい学期末のテストくらいとはいえ、昔は『二学期制』で一科目で『二単位』貰える仕組みだったらしい。それが俺の入学する少し前に四学期制になり一科目原則一単位となった。
少子化が入試難度を引き下げて、労働人口減が新社会人の要求水準を高める。そんなさなかに、世間へのイメージ戦略なのかなんなのか、大学は『年に二回』だったテストを、『年に四回』にまで、倍増させてしまった。
そして、それだけならともかく、必修である基礎教養科目の内容が劇的に、その年を境に、難化したらしい。それは大学側に言わせれば、確かに、大改革ではあったんだろう。
果たして真相がどうであったかは分からないが、学生の中では、こんな噂が囁かれていた。入学者が減っている、どうしよう?入試を簡単にしよう。でも入試が簡単になったら馬鹿が増えて大学の評判が悪くなっちゃう。名案をひらめいたぞ。入試を簡単にして、単位取得を、難しくしよう。
このひらめきが何を解決しているかというと、そう、大学の、経営を、改善している。馬鹿を入学させる癖に、勉強しない馬鹿を卒業させるつもりがない。少子化による入学者減少を、勉強しない馬鹿を八年間閉じ込めることで補おうとした。
待て、そのひらめきは、人材の輩出という大学の役割に反している。社会が大学に願う形ではない。そして、多くの学生を苦しめている。
かくいう俺も、年に四回このテストにひどく苦しめられている。おそらく解決方法は色々あって、なんならしっかりと勉学に取り組むという正攻法も存在はしていただろう。
が、俺は英数理の、天才と出会っている。
多少教える能力には乏しくともその人物が救いの女神に見えたりした。逆に暗記さえすれば良い科目の場合は絶対呼ばないことに決めていたが……。
「何とかの公式とかそんな名前を覚えて、この暗号を覚えて?それを必死の努力で覚えたとしてテストでは計算問題が出るらしい。何がこの本一冊で点数取れますからだ。あの先生は学生のレベルを甘く見てるな。この本を読むのがまずもって難しいんだぞ」
「一応覚えたら点数は取れるのでは?何とかの公式と名前がついているのなら数字を入れてその通りに計算するだけなはずです」
「じゃあまずこれを解説してくれ。これが絶対答えの通りにならない。何をしてるのか分からなくなってきた」
「さんるーとはちではなく、さんじょうこんはちです。要するに二です」
「…………。そうか。ありがとうな。この電卓は、そんな簡単なことも教えてくれないんだ。もっというと、こういう書き方を考えた奴がちょっと意地悪だと思うんだ」
「確かに手書きだと分かりづらいですが、なんでしょう。印刷されている教科書の書き方は普通なのでは?それを言い出すとひらがなやカタカナを考えた人すら意地悪です。でも大抵の人は似ていてもちゃんと見分けがつきます。しかもそれはなんというか、できなかった人ができるようになって嬉しい気持ちにさせるためのすごく簡単な例題なのでは?」
「お前はまた俺の無学を笑うのか。勉強というのは中学までが義務教育だ。高校以上はやりたい奴が趣味でやるものだ」
「……小学校で習いませんでしたか?」
「そんなわけないだろう、馬鹿にするのも大概にしろ。これはなあ、多分だが高校で習うやつだ。ルートは、ち、中学だったかも知れんが、いや、高校で習う」
「では最近習った話なのでは?」
「最近といってもなあ、だってこんなのはもう使い道が分からん代物だろう。少なくとも一般人にとってハイレベル物理やハイレベル数学というのはロマンを感じるためだけの存在だ。俺は単に卒業したいだけだぞ。お前はできるから苦に思わないだけで、例えば、嫌いで使わないのに難しいとかやりたい気持ちすら起こらないだろう」
「テストで使うのでは?」
「そうだな……。テストでだけな」
「算数というのはですね、工夫を学ぶものです。昔のすごく頭の良い人が簡単に計算できるようにと工夫して公式を作ったわけです。そして別に名前をつけるほどではない工夫の方法があります。健介の場合多分なのですが、あっちこっち計算をしてしかも間違っていますが、普通は公式の形になるように調整をして公式の通りになったものを最後に計算すると良いでしょう。計算をしようとして公式からどんどん離れていってしまっています」
「なるほど。お前の言う通りだ。なんだなるほど。そういうことか。俺はつまり、昔のすごく頭の良い人が作った公式を頼らずにやろうとして分からなかったわけだな。それなら仕方ない」
「今回に関してはさんるーとはちとさんじょうこんはちを間違えていたのでは?」
「それもあるけどな。それは、ほら、たまたま間違えただけだから……」
簡単な講義、というのを、一回生の頃にまとめて履修した結果、どうやら目ぼしい簡単な講義をすべて食べ尽くしてしまったようで、確実に前もってアタリと見分けられる講義が残らなかった。
時にこういった、理系の難問に半泣きでトライすることになる。
「もう、俺はもうダメだ。dy/dxをdで約分して、y/xだろう……。これでもう微分できてるだろう」
「それは微分記号ですので約分してはいけません。そして微分は割と普段使うのでは?」
「使わん。絶対使わん」
「そうですかしかし、これもまたできなかった人が簡単にできて自信をつけるための簡単な問題なのでは?」
「なんだ。違うぞ。俺はお前に、できるだけ俺でも分かるように簡単に解説をして欲しくて手伝いをお願いしてるんだ。馬鹿にされたくて連れてきたわけじゃない。初めて会った時も俺のことを馬鹿にしたな。そういえばあれは一体何の式だったんだ?」
「初めて会ったときの式が?何の式か?何の、何がでしょうか?」
「俺を馬鹿にしてただろう。この問題解けるかってニヤニヤ俺を馬鹿にしてた。解けたら一体どうだっていうんだ、こんなもの。昔、同級生だった高志君はな、こう言ってた。勉強なんて社会に出たら使わないぜ。まあ、同感だな。お前の出した問題だってどうせ社会に出たら使わないだろう」
「ナゾナゾの練習をした時の話ですか?」
「そうじゃない。最初に会った時に話をしただろ?そしたらお前が俺になんかの問題を出したんだ」
「…………?僕が寝ている時などですか?」
「そんなわけないだろう喋ってるんだから」
「人違いなのでは?僕が覚えていなくて健介が覚えていることなどないと思うのですが」
「…………。いや、…………。あのなあ、まあ、それはそうかも知れんが」
だから結局、実利などもちろんあった。お前に助けられたことがなかったなんていえない。まして、俺は、俺が心安らかであるために、お前と一緒にいたいと思う。それは俺のためでしかないだろう。
そうすると何の証明にもならないんだろうか。お前から一つでも貰っていたら、お前を愛していることの証明にならないだろうか。
一つずつ、一つずつお前から貰ったものをなくしていったら、俺はお前のことが好きじゃなくなるんだろうか。




