十一話㉒
「…………」
ミーシーがいなくなってしまったことで、風呂の準備は俺が専任することになった。俺がやらなきゃアンミが見かねてやってくれただろうし、やってくれと言えば『うん、分かった』と返ってきたことだろう。
何故だか……、任せたくなった。いや何故ならそれは、風呂の、蛇口を捻るエネルギーすら節約したいほどに、数時間先のことを憂慮しているからだ。
そんな心配事が頭の中を百パーセント占拠してしまったから、俺には蛇口を捻る余裕すらない。蛇口すら捻れない男というのがどれほど情けないか考え直して、渋々ながら、俺は浴室へ行き、浴槽に湯を貯め始めた。
勢い良く湯が流れ出て、しばらくするとドボドボと大きく音を立て飛沫を散らしながら水位を上げていく。
『どうしてそんなのを眺めているの?』と聞かれるだろう。眺めていても仕方ないのは分かっていて、動かずにいたら、眺めることになっていただけだと、説明する。湯の貯まり具合は、別に見ていて面白くなんかない。
幸いといって良いのか、浴槽に湯が一杯になるまでに、そう大した時間は掛からなかった。ついでのように入浴を済ませて、また自室へと戻る。時計を見つめて一分の長さにため息をつく。
「ミナコに、電話をしようかな。俺は前に、多分こういう気持ちの時に、電話を掛けなくて失敗したわけだから」
それはよく考えてみると不自然な思いつきではあった。誰かと話したいのなら、事情を知ってるミーコや、あるいは夢の女を候補に含めても良かった。事情を知らない人間とただ話したいのなら、アンミや陽太がいる。
本来この時点で、ミナコは相談相手として不適格だろう。消去法で下手をすれば一番に消去されていておかしくない。心細い時に声を聞きたい相手として早い段階で思い浮かぶにしたって、……消去法で消去される。
あえて、なんとなく、それに逆らっても良い。
市倉絵里が、研究所を裏切っているのなら、原因と呼べるような出来事や人物がいたりするかも知れない。だがそれを探るとすれば、研究所の裏切り者が市倉絵里であることが露顕しかねない。
口を滑らせることはないにせよ、ヒントを与えてしまう可能性はある。俺がそんなドジを踏んで市倉絵里が拘留されてしまったら目も当てられない。
◆
『下手をすれば市倉絵里は、研究所の中核であるトロイマンの、この件における役割や立場について、全くの、無関心とすらいえる』
彼女が、私を面談相手として選んだのかも知れない。これがもしも数年前の出来事だったなら、どんな心境でこうして向かい合ったのか、当時の私と、当時の彼女とを想像する。
彼女と私が出会った六年前に訪れ損ねた機会が、もしも遠回りをして今更巡ってきたのだとしても、私にはもう、そよそよ横を通り過ぎていくそれを、ぼうと眺めていることしかできそうにない。
「絵里さんが私の上司とか初めて聞きましたけども」
「遺伝学部でチームを作ったんでしょう?だから本来なら、そちらが直属の上司にはなるでしょうね。ただあなたがそちらも違うと言って突っぱねてしまったから、」
「いいえ。遺伝学部が上司ということはやはりありません。完全に独立しています。あちらから何か指示されることなどもありません。もちろん指示されるつもりもありません」
「まあそのつもりでしょうけど……。そうなるとあなたはともかく、あなたに連れていかれた人が誰に管理されていてどこに籍を置いてるのか難しくなってしまうのよ」
「分子生物学分室に所属しています。そして分子生物学分室の長は室長の私である。……?何か都合の悪いことはありますか?あるならはっきりと指摘して貰わなくては分からない」
「そうよね。そのつもりでしょうけど、もしそうなるととても都合が悪くて……、分子生物学分室というのは、……言いづらいけれど、あなたが勝手にそう言っているだけでしょう?独立部門を新設するならそれこそ代表を決めて審査を受けないといけないし、本部に運営計画書を提出して予算を立てて貰わないと、本当なら一円だって使えないはずなのよ?」
「……一円も使えない。どういうことですか?買いたいものがタダで貰えるということですか?ドル建て?ドル建てですか?」
「そんなわけないでしょう。正式には分子生物学分室というのは存在していないと言ってるのよ。高総医科研の中には分子生物学分室というのは存在しないわ。開発局みたいに外の扱いにするならそれはそれで大変なことでしょうし」
「どうして……?どうしてですか?そんな馬鹿な」
「こちらとしてはむしろどうしてあなたが言うような形で半ば成立していることになってしまったのかが分からなくて困ってるのよ。高田院長が絡んでいるから誰も強くは言えないし」
「あのう、では、……ではどうすれば良いのでしょうか?いきなりそんな、私の管理している部門が実は存在しなかった……?存在しないとは……。さすがにそれはあんまりである」
「所属がないと言ってるわけじゃなくて……、分室の室長じゃなくて、遺伝学部内で講義単位の客員教室長をしているということでしょうって……。そうするとあなたの面談は」
「違います。それはまるで違います。分子生物学分室は遺伝学部でのどこにも取り扱いのない研究をしているから切り離されています。分室というのは文字通り『分けた』だけです。分けたということは下とか上とかなく遺伝学部と同等ですしそこで指揮を執ってた以上、私がそこの長なのは間違いありません」
「文字通りも何も、遺伝学部の室長という肩書で管理権限を受け取って分室と言い始めたのがトロイマンなのではないの?でもそれは多分……、元々は教室長の……」
「何故?絵里さんはシニアマネージャーだというのに……。早川先生もシニアマネージャーだというのに……。そんな私も私なりに、たくさんの仕事をこなしているはずなのですが。いや?まさか?シニアマネージャーよりも室長の方が偉いのでは?ということで絵里さんは室長を馬鹿にしたりできません。どちらかといえば私の方が上司なのです。上司命令です。絵里さんが間違っています」
議論したくない話題が出るとこちらの言葉を遮ってひたすらかみ合わない言葉を続けて相手の諦めを待つ。それが彼女のやり口らしかった。
こんなふうに幼い子のわがままのように振る舞われてしまっては、確かに……、他の人々が話し合いを投げ出す理由もよく分かる。
実際のところ私だって、トロイマンが正式にどこの所属扱いでどの報告義務を負うのかに、希望なんてありはしない。好きにして貰って構わないと思っている。
「…………。あなたが、まあ、分子生物学分室の、チームを監督してるということになるわけよね?」
「そうです」
「そう。じゃあそれで良いわ。その問題は置いておきましょう。ただ今回、チームの監督をしている人は、私も含めて全員、面談を受けて順番に上に報告をしなくてはならないことになってるのよ。だからあなたも誰かに面談して貰わないとならないの。そこは分かってくれる?」
「私が誰かに、あるいは誰かを、面談しなくてはならない」
「そうね。あなたは部下……、部下というか、まあ、そうね。部下の監督をしていないとならないし、それとあなた本人を含めた報告をしなくてはならないの」
「なるほど。誰に報告をしますか?」
「…………。報告をするとしたら誰にしたいのトロイマンは」
「誰に?誰に報告をさせたいのですか絵里さんは?では、絵里さんに報告するものなのでは?」
「じゃあ私に報告してちょうだい。書式は後であなたへ届けて貰うわ」
特に、物寂しいという思いはなかった。彼女はこれまでも、きっとこれからも、何かを困難に思うこともないでしょうし、誰かの助けを必要としたりもしない。だから正直な話、後悔のしようがなかった。
歳だけが近くても、それ以外は何もかも離れている。
まずもって私が、年下の子を気遣うような振る舞いを学ぶ機会に恵まれなかったし、……いいえ、ずっとそうされてきたのだから見本はいくらでもあったけど、私自身は、そんな立派な挙措を身につけられる気が到底しなかった。
この歳の頃の子がどのように話してどんなことをどういう思いで語るのか、むしろ私が知りたいくらいだった。私が教えて欲しいくらいだった。
もちろんトロイマンがその歳の子に当てはまらないとしても、普通がどうであるのかさえ知っていたのなら、それに合わせた振る舞いをするのが正しい。
あの時、『友達になりましょう』と言ってくれたら、どれだけ救われたか知れない。
『友達になりましょう』と言えてたなら、どれほど楽だったか知れない。
でもそうはならなかった。そうなるようにまるで思えなかった。
私と違って彼女は、たった一人で陸地に向かって泳げる。羨ましいとは思うけど、私、そうはなれない。正しさも分からない。
◆
で、あるから、トロイマンに問い合わせても無駄、ということだろうか。市倉絵里はトロイマンに深く関わろうとしてこなかった。
トロイマンは市倉絵里を敵対勢力の候補とは見なしていなかったんだろうし、市倉絵里が敵対していると知らされても、結局その理由には思い当たらない。まあ、理由から探って目星がつくのなら、市倉絵里がこう野放しだったりしないだろう。
つまり、トロイマンに電話をして、市倉絵里が俺に協力をしたいと言い出した『本当の理由』を探ることは不可能だと、知らされた。夢の女は、ミナコへ連絡することを不都合だと思うんだろうか。
『いいえ。何も知れることがなくても、それでも電話をするべきだと決めるのなら、あなたにとってそれはとても大切なことだと思います』
直接的には、市倉絵里のためでもなく、アンミのためでもない。別の問題として向き直って受け入れるのが妥当なのかも知れない。
俺は、ミナコと、話がしたいんだ。意見を変えられたり、味方にできたりしない。だが、こうまで体が苦しいというのなら、どうしたって必要なことだろう。とても大切なことなんだろう。
「なあ、ミナコ」
「……もしもし。なんでしょうか?何もどうせ、重要なことを健介は話しません。ですので、こうして電話をする意味などありません。何か意図があってのことでしょうか。それとも、誰かからこのようにしろと指示を受けていますか?だとすると、その人物はどんな狙いがあるのでしょう。私に個人的な恨みを持っている人ですか?」
「どうしてそんなふうに思う?俺がお前に電話をすることに、どうして意味がない?お前を恨んでる誰かの指示で俺がお前に電話をすると思うか?」
「可能性は捨てきれない」
「お前の言う、重要なことってなんだ。俺にとって重要なことは、お前とただ、……どんなことでも、お互いの声を交わすことだ。俺の意見とお前の意見が違ったって良い。違うのならなおのこと、もっとじっくり話をしよう」
「何についてでしょう。意見を述べて状況が変わるような題材がありません。そうすると話せることなどもう残っていたりしないのでは?健介の立場に立って考えると、アンミちゃんを高総医科研に引き渡すか引き渡さないかという二択でしかありません。どちらを選ぶかは決まっているはずです。そして、どちらを選んだかによって結果が変わらないことは分かっています」
ミナコの声は落ち着いていて淡々としたものだった。棒読みとまではいかないが、感情による抑揚はほとんどなく、まるで音声案内のようにさえ聞こえる。
「お前は高総医科研に引き取った方がアンミのためになると言ったな。それが本音なら、アンミのためを思って行動してる」
「いいえ。そういうわけではありません。しかしながら確かに、アンミちゃんのためにはなるでしょう。結果的なことをいうならば」
「今、アンミが不幸だと思うか?」
「?ええもちろん」
「…………。それはお前が何か伝え聞いたことを根拠にそう思うのか?」
「まさかとは思うのですが、今アンミちゃんが幸せそうに見えますか?こうして研究所に戻る戻らないの話をしている最中だというのに」
「?あのなあ。『今』というのは言い方が悪かった。セラ村で暮らしていたアンミが不幸だったと思うのかと聞いてるんだ。それよりも研究所の方が良いというなら」
「それは複雑な事情がありますので、一言で幸か不幸か言い表すことはできません。当然生きていればどんな場所にいようと良いことも悪いことも起こります。普通の子が普通の家庭に育つことに比べたらやはり相対的にアンミちゃんは不幸な生まれだったと言わざるを得ません」




