十一話⑯
さて、俺ができることなど元から限られている。どれだけの狐疑逡巡だったろう。なんて無駄な時間だったろう。なんならもっと早く、もっと純粋に信じて、市倉絵里と会っておくべきだったのかも知れない。
どちらにせよ、俺は会って話を聞くしかなかった。そのレールに乗ることしか残されていない。目的と方法さえ定まれば、俺は全速力で走ることができるはずだ。方法さえあれば、俺はどんなに疲れていても、結果を得るために走ることができる。
「アンミを……、研究所が追わなくなる。追えなくなる。追うことで不都合が出る?あるいは、追う必要がなくなる。追う理由がなくなる。追う人間が、いなくなる。追うためには何が必要だ?アンミの後見人は研究所にいる。物騒な話か、そうじゃないか。親権者がいなくなれば正当には保護できない。研究所は何をされたら都合が悪い?何によって諦める?医学の発展を目指していて、何を見て、何を聞いて諦めることがある?研究が無価値になる、もっと価値のあるものが見つかる。何を失うことを恐れるんだろう?信用か、資金か……。あくまで相手は人間だ。説得のための材料はなんだ?アンミの意思?誤解?対話で得られる条件はなんだ?優位な点はないか。市倉絵里が動ける範囲はどこまでで、一体どんな行動を取れる?俺が役に立つ場面はどこだ?俺がこなせる役割はどういう種類だ?なあミーコ。俺は真面目に考えているつもりなのに、今すごい間抜けなアイデアが浮かんでしまった……。俺とアンミが結婚したら俺がこう、後見人か親権者と裁判を起こすことができるんじゃないか?」
「…………。まあ悪くない方法だとは思うニャ。でも法律的にどうかニャ。もしアンミが十八歳未満の場合は、そもそも結婚はできないニャ」
「さすがに本気でこれだと思ったわけじゃないんだが、ダメか。年齢設定は微妙なところだが、十八かといわれるとちょっと微妙なところもある。もしそれで研究所がアンミを諦めざるを得なくなるなら、全然アリだとは思ったんだが……。ハッピーエンドに違いない。アンミがそのぉ……、嫌じゃなければだが」
「それは置いといて別の方法考えるニャ」
疑問を並べて見比べてみても、そのどれもがぼやけている。引き剥がして隠された真相が手に入るんだろうか。手を差し込んで掘り下げるような隙間があるだろうか。
『確固たる信念に基づいて、何があろうとアンミを手に入れたい高田誠司』に、有効な攻撃などあるだろうか。高田誠司の寿命が尽きるまで、アンミを逃がし続ければ、この一件は意外とあっけなく終息するのかも知れない。
高田誠司や、あるいはもしかしてトロイマンの野望など、いかに人類のためであろうが関係ないと言い切ってしまって良い……、んだろうか。
道徳に反する方法で、アンミを捕えようとしている。家族の絆などないがしろにして、アンミの心情などまるで無視して、あたかも道具のように『必要だ』とそれだけを告げている。
アンミを研究所から出さないなどというのがまさにそういう考え方を表している。……それは間違っている。……それだけが、間違っている。
「アンミが……、来たニャ?」
「ん……。来た?アンミが?」
足音にも気づかなかったし、アンミがいるにしてはドアを叩いたり開く様子もない。
「?」
ミーコの勘違いかと思ってドアから視線を逸らした瞬間に……、本当に気にしていなかったら聞こえないレベルの、指で突ついたかのようなノックが途切れ途切れに聞こえてきた。
もしこれより弱くノックされていたとすればまあ俺には聞こえなかっただろう。俺が寝てると思って遠慮がちにノックしたのかも知れないが、正直来訪者を知らせる役割は果たしていない。返事をして良いものかすら躊躇する。
「……これにこう、返事をするとなると、風に揺られたカーテンが壁に擦る音にまで反応しなくちゃならん気がするんだが」
俺の独り言は多分聞こえていなかったとは思うが、少ししてアンミがキィとドアを開けてこちらへと顔を覗かせた。表情から察するに俺が寝てると思い込んでいたんだろう。一瞬、はっとしたように顔を少し引っ込めて、またそろそろと顔を出した。
「健介?起きてた?」
「起きてた。早起きしたから寝てると思ったか?」
「うん。寝てると思った」
「そうか。ノックはもっと、……あれだぞ?寝ててもコンコンってくらいは叩いてくれて良い」
「うん」
「どうした?なんか、話したかったりするか?」
アンミは中に入ってくるわけでもなく「うん」とだけ返事した。話したいことがあるわけじゃなく、ただ、話をしたいだけなんだろう。俺にもその気持ちはよく分かった。
ただ、いざ話すとなれば手元にそれらしい話題がないことにも気づく。俺もアンミと……、話そうとすべきだったろう。でもいざ話そうと対面すれば、こんな沈黙に悩まされることになる。
「中、入らないのか?」
「私、健介と話したいと思ってて……」
「ああ。俺もアンミと話したかった。……なんというか、俺はあんまり積極的に会話しようとしてこなかったな。思い返してみるとそんな気がする」
俺を嫌っていそうだったミーシーやハジメとは違って、アンミに対して積極的に話し掛ける動機が生まれなかった。おっさんやナナは割合、気にしてなくても俺へ話し掛けて関わろうとしてくれた。
アンミはもちろん、俺が話し掛ければ答えてくれるし、必要があれば俺に問い掛けることもあったわけだが、それでも、自分の意見を言うことは稀だった。
まして、自分のための、自分の意見を言うことなどおそらく、……ほとんどなかった。感情を隠しているわけではないように思うし、心を閉ざしているわけでも、まして人を嫌っているわけでもない。
周りを気遣ってバランスを取る役割を果たしていたように感じる。であるから、アンミの内面について窺い知る場面というのは、確かに少なかっただろう。
俺はきっと、アンミは『つらくて当たり前のことが悲しくて』、『嬉しくて当たり前のことを喜ぶのだと』、深く話す前から決めつけている。
それは割と俺だけが悪いわけじゃなくアンミと俺とのお互い様で、見えている以上をわざわざ触って確かめる必要をどちらも感じなかった。
だから、……要するに、アンミが俺と話したがるというのは、少し意外ではあった。アンミが俺に自分の意見をわざわざ述べにくるという予想もなかったし、俺の気遣わなさを責めるつもりなんかもないだろう。
何かを聞きたがっているにしては、言葉はすんなりと出てこない。話すのを躊躇するような距離でもなければ、何でもないことを話すためにわざわざ訪ねるような距離でもない。
すごく自然に、俺とアンミはそういう立ち位置にいた。
「…………。家事は好きだったか?遊園地は楽しかったか?」
「家事は好きだったし、遊園地は楽しかった。次行く時は……。うん、楽しかった」
予想通りと言えば予想通りで、とはいえ『何が楽しかったんだ?』と聞けば、途端に言葉に詰まってしまいそうな中身のない薄っぺらな感想のようにも思えた。
これはアンミの作文能力が問題になっているような気もするが、逆にいえば、結局どんな言葉で飾ったとしても結論はたった一言簡素にまとめられて、それさえ伝われば十分なものだったりするのかも知れない。
「そうか。良かった。そうだと思ってた。欲しい服はなかったか?」
「服は?見るのが楽しかった。ミーシーが少し楽しそうだった。でも持ってたから新しいのはあんまりいらない?」
「あんまりものを欲しがらなさそうだな」
「そう?健介は何か欲しいものある?」
「そう言われると特に思いつかない。だが俺は女の子は服を買って貰えば嬉しいものだと決めつけている」
「うん。……嬉しかった」
その『嬉しかった』は、多分、ほぼ確実に、『俺の服を買ってやろうという申し出が嬉しかった』わけではなく、『今着ている服を買って貰った時のことが、嬉しかった』という意味なんだろう。
アンミは少し俯きながらフードの端を軽く指でつまんで短く答えた。服を、抱きしめているようだった。
それに触れていると心が安らぐのだろうと思った。だからまあ、新しい服など特に欲しくはなかったんだろう。ポケットの内布が破れていることなど別に大した問題ではないし、デザインについてもアンミにはこだわりなどない。
高級ブランドメーカーの有名デザイナーであったとしても、きっと今以上を与えようなどないんだろう。それも、知ってた。
「アルバイトは上手くできそうか?」
「良い人ばっかりだったから、ミーシーが戻ってきたら……、あ、うん。ミーシーが戻ってきてくれたらお店は上手くいくと思う」
「そうだよな。なあ、俺は、『だからお前と話さなかったのかな』。『だからお前は、俺を避けてたのかな』。そんな気がするんだ。……話したくないような素振りを感じる。意図的に話を終わらせようとしているように思えてならないんだ。『家事は、本当に好きだったか?』『遊園地は本当に楽しかったか?』、『お前は料理がしたかったのか?』……服だけは、理由を知ってる」
「?服の理由?」
責めてるように聞こえるだろうと思った。責めてるような物言いだっただろう。
ただ、心情を述べるに、俺はただただ、純粋に落ち込んでいた。
無味無臭で食感もなく、腹も膨れない会話であることに、心底落ち込んでいた。
俺に残っているアンミとの思い出はせいぜい一カ月程度のものだが、もしこれらが、『十年過ごした末の言葉』だったらどうだろう。
どれほど悲しいことだろう。もしかして、ミーシーが出て行ったのは、こんなところが一つ原因になっていたんじゃないか。おままごとにうんざりしてしまったんじゃないか。
もちろんそれをアンミのせいだと非難するのはあまりに酷だ。だが、俺はともかくとしても、ミーシーにだけは、アンミが報いてやるべきだった。アンミは感謝を述べただろう。喜ぶ素振りもあっただろう。嬉しそうにしていただろう。
にも拘らず、こうだった。
ともすれば、『医学の発展に貢献するのが好きか?』と聞けば『うん』と答えてしまいかねないほどに、上の空で言葉を作り出している。こんな状況で、アンミを責めるべきじゃない。アンミを責めてる場合じゃない。
けど、これはもっと根源的で、たった一カ月やそこらの話じゃなくて、これからずっとのために必要なことだったりしないだろうか。こんな状況じゃなければむしろ、全く見過ごしてしまうことじゃないだろうか。
「ミーシーは、仲良しじゃなくて、家族になりたかったと言ってた」
「ミーシーが?うん。……そうだったんだ」
この答えも、期待通りのものじゃない。せめて『私は、家族だと思っていた』と、アンミは言うべきだ。あるいは最悪、『そうしたいと思って努力をしていた』ことを述べなくてはならない。
◆
『そう。お前もさすがにそろそろ、気づき始めなくちゃおかしい』
『どうしてこう、ひたむきな人間がないがしろにされるんだろうな』
『お前はきっと、アンミにがっかりすることになるんだろう』
『お前を騙してるのは、ミナコじゃなくて、むしろアンミの方だったはずだ』
『お前が知ったつもりになって実は何も知らないのは、アンミの方だろう?』
『そうだから同時に、お前は市倉絵里にも夢の女とやらにも騙されている』
『利用されている』
『お前が望まないハッピーエンドのために、誰かのハッピーエンドのために、お前は利用されている』
『もしも偶然によってそうなったのなら僕はお前を哀れに思うことはなかっただろうけど、さすがにこれは可哀相だぜ』
『お前は知らない内に操られて、どことも知れない場所に置き去りにされる』
『自分で歩いたように幻を見せられながら、元はといえば一歩も動かないそこがゴールだったことを知る』
『ああ、あんまりにも可哀相だ』
『ミナコもお前も、あんまりにも可哀相だ』
◆
俺は、気づかないようにされていたんだろうか。誰かに誤魔化されていただろうか。アンミと二人きりになって初めて思い至るこのやりきれなさを、隠されていただろうか。
いいや、そんなことはない。俺が持ったアンミの感想は、至極真っ当だったはずだ。柔らかく包み込むように寛容で、相手を思いやる心を、俺は知っている。
アンミの喜びを知っている。アンミの怒りを知っている。その間にある、穏やかな幸せを知っている。
「でもね、これから良くなると思う。私、ミーシーのこと大好きだったから、ミーシーがどうして欲しかったかも分かってる。だから、きっと良くなると思う」
「そう、なんだろう。そうなんだ。俺は何か……、何を言ってるんだと思われるかも知れないんだが、良からぬ謀略の中にいるのかも知れない。少し弱気になった心を突つき回して本心以外を口にさせる悪魔に呪いを掛けられてしまっている。お前が、ミーシーのことを大好きなら、きっとそれが重要なんだろう。アンミを責めたいわけじゃなかったんだ。ごめんな。俺は……、ミーシーが悪いと思いたくなくて、……だから余計なこと言った。何かがほんの少し良かったら、あいつは出て行かなかったかも知れないと、そんなことを思った。それは別にアンミのせいじゃないのに……。俺だって満足に、あいつが気に入るようにしてやれてなかったのに」
でも、……一番できたのは、アンミだったはずだ。俺などよりよっぽど、ミーシーが気に入るようにできたはずだ。……そんなことを今更思う。




