十一話⑥
「ああ。はい。……待ってました。ハジメも」
ドアを開けた時、厳めしい顔つきが一瞬覗いたことに少しおののいたが、その表情は多分ほんの一秒も続かなかったろう。
ハジメを見つけて、ハジメに向けるまなざしは、今にも涙を流しておかしくないほどに感極まっている。
「ハジメ……。でっかく、なったなあ」
「…………。いや、んなことないでしょ。そんな変わるわけないでしょ。あたし成長期終わってるし」
「いいや、変わったんだよ。俺がまっすぐこうやって、お前を見るのはもう何年ぶりにもなる」
「…………」
「でっかくなったなあ。ああ、女らしくもなったんじゃねえか?」
「……んなことない。変わんない。……ずっと変わんない」
「すっかり見違えたんだ。俺はよお、何年お前を見てなかったんだろうな……」
「っ、……ずっと、変わってないんだって。ねえごめん、まずちょっと待って。ねえあたしとはいっくらでも後で話せるんだから、ちゃんとまずお礼言ってよ」
「すまねえなあ。ありがとうよ、高橋さん。ホントに言い尽くせねえ。どうすれば良いのか考える時間ができた。感謝してる。抱きしめてやれる」
「まあ俺は別に……」
「お母さんは?」
「母さんはハジメが帰りてえって言ったっての信じてねえ。俺が無理やり帰らせるんだって思っちまってる。俺の普段の行いが悪かったんだなあ。で、ちょっとケンカして出てきてるが、お前と一緒に帰ればすぐ解決するこった。しまったなあ、昨日ちゃんと母さんにも電話替わってやるべきだった。俺はもうお前からの電話で舞い上がってよ。そこまで考えがなかった」
「あたしのことでケンカしたんだ……。しゃあないか。あたしも多分帰るって言わなそうだったろうし」
「…………。でもな。お前が生まれた時、母さんにな、『この子を俺が、世界で一番幸せにしてやる』って約束した。『ハジメが自分から帰ってくるまで家で待ってる』ってそのずっと後で母さんと約束はしたが、ありゃ言葉の綾だ。後から矛盾する約束させられたらさすがの俺もどっちもってえのは守れやしねえ。待つも待たねえもどっちだっていい。俺はもうお前を迎えに行ける。仮に今お前が帰りたくねえって気が変わったとしても、なあ、あんま関係ねえ。最初の約束を、俺は守りにきた。ここで粘るぞ」
「いや、迎えに来てって、あたしがお願いしてて、お父さんが迎えに来たんでしょ。そんな気変わるもんじゃないし」
「ああ、それならそれが一番良い。愛してる。お前を愛してる。そう見えなかっただろうが、もっかい俺を見てくれ。……お前を愛してる」
「…………。ホント変わってないなあ……」
ハジメの小さな独り言はため息のようにも聞こえた。嫌がっているわけではないだろうが、困っているのは目に見えて分かる。
ただし、当初危惧していたような、対面したら上手くいかないというような事態はなさそうだった。
思った以上に、これ以上なく愛している。言葉にして『愛している』と言う。嘘偽りなく、その通りであることが見て分かる。心配は、……ないか。
あとは、ナナの件だが、こちらも翻らなければ問題ないはずだ。ナナはハジメの少し後ろに身を隠すようにしているが、ハジメの顔とハジメのお父さんの顔を交互に見て嬉しそうにしている。
ナナ側は特に嫌悪を抱いている様子はなかった。
「あとよお、俺はもうどれだけの幸せ者なのは分からねえ。ナナ……、ハジメの大切な友達を一緒に連れて帰れる。なんだったら他の子も一緒に暮らして構わねえ。その方が気兼ねがねえ。俺はハジメと別れたくなかったから」
「ハジメお姉ちゃんのお父さんは、ヒゲがねえ、よく似合ってる」
「おうよ。よく分かってくれた。ありがとうな。家についたら好きなだけ触らせてやる」
口角を半分だけ上げて歯が覗かせる笑い方は独特だが、作った様子のない笑顔だった。ナナがヒゲを触りたかったかはどうかはさておいて、普通の、コミュニケーションができている。
ならどうして、これまでが悪かったのか。気構えがどうにかしてくれるものなのか。
……俺は詳しいことまでは分からない。水を差すような曇った表情だけは避けて、幸せなハジメとナナを願う。
「一つだけ……、俺から、約束して欲しいことがあるんですが……」
「俺にか?ああ、もちろん、恩を受けてばかりってわけにもいかねえ。できることはなんでも聞こう。遠慮なく言ってくれ」
「ハジメと、ナナと、また会えるようにだけ、してください。また会う約束をしてるから」
「ああいつでも。泊まりにきてくれて良い。住んで良い。ご馳走を用意する。なんならまた挨拶に来る。そんときゃちゃんと土産を用意する。今日はちょっと急いでてその辺に気を回せてねえ」
「ああ、良かった。ご馳走も土産も気にしなくて良いんですが、それだけ約束してくれれば満足です」
「…………。ああ。スイラさんにも伝えといてくれ」
「じゃあ、行くね。あたしも待ってるわ。また会うってか、次会う時楽しみにしてるから」
「えっと、ナナも。ハジメお姉ちゃん、これはえっと、ナナが会いたい時の、ナナがここに来ることはできる?」
「言ってくれりゃ俺がいつでも運転してここに来れる。別に閉じ込めてえわけじゃないからな。行きたい場所があればどこでも連れてってやれる。一緒にいることが大事なだけだ」
「ナナはそれを聞いて安心した。じゃあ、健介お兄ちゃんまたナナが会いたくなった時に来る」
「ああ。ええと、俺も楽しみにしてる。ナナ、またな」
「うん」とだけ返事をしたのを合図に、ハジメが靴を履き荷物を持ち、ナナが靴を履き、俺に背を向けた。俺も見送りをするつもりで靴を履いて後ろに続き、アンミもそれに釣られるようにしてついてくる。
アンミは一言も喋ってない。振り返ってアンミの表情を窺うが、少し寂しそうに見えるだけで落胆していたり不満を持っているようには見えなかった。ハジメが普段通りにして欲しいと言ったから言葉を飲み込んでいるんだろうか。
確かに俺にあっても、言い切れない想いが渦巻いている。悪い話じゃない。ハジメが一歩踏み出して、それが良い方向に転がり始めるところだ。
不安になる要素などない。愛情に溢れた父親だ。それは、完全で、ケチをつけられるようなところがない。
ハジメとナナは手をつないで歩いていた。聞き取れないがハジメとナナが話していて、どちらも交互に相槌を打っている。
……ケチを、つけられるようなところはない。……だから何も、俺が文句を言ったり、こうしてくれとせがむような部分はない。俺がこれを、嫌なことだと思うような道理がない。
どうして俺は今、表情を取り繕っているんだろう。
「じゃあね」「またね」と、俺は「ああまた」とだけ言葉を交わして、二人は車の後部座席へと乗り込んだ。ハジメの父親だけが車へ乗り込まず、助手席から荷物を取り出して、俺の方へと向き直った。
「ホントに世話になっちまった。すまねえ、大変だったろう。これをよ、受け取ってくれ」
「……?」
荷物を車から取り出した時点では、車のトランクにでも移すつもりなのかと思ったが、どうやらそのアタッシュケースを俺に差し出している。
……仮に中身がなんであれ貰ういわれなどまるでない代物だが、そのアタッシュケースというのをドラマとかでしか見たことがない俺には、何か嫌な予感がする。
「この世にゃ金で買えねぇもんが山ほどある。だがよぉ、俺は馬鹿を承知で金を詰めてここまで来た。ハジメをほっぽってた俺の時間を買い戻しに来た。お前さんは、それを売っちゃくれねぇか?ただ、『それを売った』と言ってくれりゃ良い。その後でならドブに捨てられようと怒りゃしねぇ。俺は大手を振ってハジメを抱きしめてやれる。良い買い物をしたんだ、俺は気分が良いんだ、ってな」
「……金か。……まさかとは思ったが。いや、いらない。いらないです。俺は別にハジメの面倒を見ていたわけじゃなくただたまたま一緒にいただけで、ましてギャグでもなければそこに詰めた?全部金だとすれば大金が入っている。とてもじゃないが受け取れるものじゃない」
「買えねえのは分かってる。『売った』と、言ってくれりゃ良い。俺がここに金を捨てたか渡したかお前さんがどう思おうと勝手だ。なあ俺には、ドブに捨ててた時間がある。それが勿体なくって仕方ねえ。どうにも悔やみ切れねえ。それを、買いてえんだ、俺は。お前さんは、『売った』と、言ってくれりゃ良い。なあそう言ってくれ……。ああ、分かってる。単に俺の気分の問題だ。単なる礼のつもりで受け取ってくれるのが良い。それ以上求めるもんじゃねえだろうが、……勝手だが、……俺はそれがどうしても欲しい」
俺はもちろん、それがハジメの父親の単なる気分の問題で、俺がどう言おうがどういうつもりで受け取ろうが関係ないことは分かっている。
『売った』と言ったところでそれが契約染みた何かになるはずがないことも理解している。多分、ハジメの父親は、俺が『時間を売ったつもり』で『売ったと言いづらい』ことも分かっていて、それでもなおこうして懇願している。
どうしたものか……。頭を下げかねない。良い気分で帰って貰うのがハジメのためにもなるだろうが。
「ああ。……『売った』。ハジメの、大切だった時間を、……なくしてた時間を、ハジメと、ハジメのお父さんが、取り戻せるように、買ってください。ハジメもそれが欲しかったはずだから」
「ありがてえ、……ありがてえ」
……やはりギャグではなかったようで、ずしりと物理的に重たい。一応、受け取りはする。ただこれを俺が手をつけるつもりで開けるようなことはないだろうし、なんなら返さなきゃならないような預かり物をしているくらいのつもりでいれば良い。
まあこの父親はどうしても返されるのを嫌がるんだろうが、なんならしばらく間を空けてハジメからハジメの通帳の口座番号でも聞いて振り込んでやれば良い。
ハジメも現物を渡されては困るに違いないだろうし、口座振込であればおそらく騙すのも容易い……。その際は……、ケースくらいは貰ってもバチは当たらないか……。
これもこれでぴかぴかで高級そうだが……、使い道がないながらも格好良いのは格好良い。これくらいなら……、いや、まあ、機を見てハジメに受け取らせよう。中身が振込済みで空っぽで、単に鞄をプレゼントする程度なら、ハジメもそこまでは不審に思わないはずだ。
いや、いっそ正直にハジメに話せば、渋々ながら父親に内緒で受け取ってくれるかも知れない。後々のことを考えるとその方が良いかも知れんな。
とにかくさすがに金品を受け取るいわれれがない。先程の懇願から、ぴしと頭を下げてありがたがるハジメの父親の気分のための、ひいてはハジメのための、単なる受け取るパフォーマンスに過ぎない。
むしろ、……まあ、逆に、こうまで受け取る義理のないお金で良かったのかも知れない。こんな形で受け取ったら使おうとは思わない。
ハジメとナナは、あんまりこちらの様子を気にしてはいないようだった。世間話をしてお礼を言っているだけのように見えているのかも知れない。俺は結構な衝撃を受けているというのに特に変わった様子はなかった。
というよりむしろ気が抜けたようでうとうとしながら目をしょぼしょぼさせている。会うまで気を張っていたということだ。それが安堵に変わったのなら言うことはない。ナナまでハジメの眠気に釣られて眠そうにしている。
「良かった。……そうだな。今生の別れじゃない。また会う約束がある。それじゃあ、……ハジメと、ナナを、よろしくお願いします。俺が……、口を出すようなことじゃないんですが、ハジメは本当に頑張り屋で……、上手くやりたいってちょっと気を張って空回ることががあるかも知れなくて……。ただ、ハジメがセラ村にいた時間は、ハジメが友達と一緒にいた時間は、……スイラさんと一緒にいて、どういうすれば良かったか分かったって言ってたからだから……」
「なんも心配はいらねえ。何があっても問題はねえ。ああ、俺も折角だから約束しとこう。お前さんに、もうそんな顔させないでやる。スイラさんにも多分心配掛けちまってるが、次会う時には、安心して見てられるようにしておく。自分のための約束だが、まあとにかくそんな顔はしねえでくれ」
「すみません……、なんか俺はハジメとナナと離れるのがちょっと寂しいだけで、余計な心配をしてるわけじゃなくて、……安心はしてるんです。ハジメにも、ハジメのお父さんにも、ケチをつけるようなところはないですから」
「ハジメの家族は俺の家族だ。敬語使うなよ。遠慮もするな。言いたいこと言ってくれて良い。そんなことでへそ曲げたりはしねえし、俺が情けなかったのは確かに事実だ。不安に思ってて間違いねえ。ただ、今度は違う。お前さんが遊びにくりゃ、みんなで笑って迎えてやる。こっちに来る時も一緒だ。とにかく、また会おう。そん時不安に思っててすみませんって謝らせてやる」
「じゃあ、まあ、……俺はそれを楽しみにしてる」
「まあ、寂しいのは分かるぜ。いつでも電話してくれて良い。遊びにきてくれて良い。呼び出してくれて構わねえ」
「いや、……心配ないはずだから、俺が連絡を待つようにします」
「そうか。じゃあな。スイラさんにだけよろしく言っておいてくれ。まあもちろん直接挨拶するつもりだが」
「分かりました。じゃあ、そういうことで」
こうして話している間に、ハジメとナナは完全に眠ってしまっていた。こうなると多分大富豪が尾を引いてる可能性もあるな。まあゆっくり休むと良い。変に感傷的なやり取りをしないで済んだともいえる。
ハジメの父親もしばらく寝顔を眺めて心なし車のドアをゆっくりと閉め、俺に片手を上げて合図をして車を発進させた。意外なほどにすんなりと、俺の中の濁りは消えていく。
安心させて貰えた。これはこれで良い着地で一段落がついた。寂しくないわけじゃないが、きっと良い着地だった。悪い予想は全て覆って、安堵と期待しかない結果だ。
さて、そうなると、俺は俺がやるべきことを正しく行わなくてはならない。折角こうまで綺麗に俺に回してくれたバトンを、俺が台無しにするわけにはいかない。
車が見えなくなると、寂漠感よりはむしろ、俺が果たすべき責任が重くのしかかってくる。
俺が耐えるべきはこちらだったのだと思い出す。何を、どうすべきだろう。




