十一話②
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『お互いの人間価値観について』
俺とミナコが陽太の家で過ごすことが多くなった。ミナコは自分の家がどこにあるのか明かさなかったし、大学から俺の家までの途中に陽太の下宿先がある。
大学に近い大学生向けのアパートに、大学生の陽太が入っているんだからそこは当たり前なんだが、陽太は自分の部屋に他人を招き入れることに特に抵抗がないようだった。
何となく一緒に歩いていて、何となく話に終わりがなくて、外は暑かったり雨だったりもするし、地べたに座り込んで話すわけにもいかないし、そうなると陽太が、上がっていったらどうだと言う。
みんなが暇なら、そうするのが当然だった。
特に何か用事があるわけでもなく、どうしても今日話しておかなくてはならないことがあるわけでもなく、大した理由はなく、日常的にそうしていた。話し足りないというわけじゃなく、ただ区切りが悪いと陽太の部屋に上がり込んで話題が尽きればテレビなんかをぼうと眺めたりもする。
その日は歴史に名を残した偉大な人物のドキュメンタリーシリーズが放送されていた。俺や陽太が『偉大な人物の一人でも挙げてみろ』とミナコを責めたてたのがよくなかったのか、ミナコはむにゃむにゃ悔しそうにこんなことを言った。
「例えば現代にこの人が現れて、すごい発見をしたのは自分ですと自慢してきたとして、でもどうせ、ウォシュレットの使い方も知らないだろうし、下手をすると水の流し方すら分からなくて困ります。下手にプライドが高いので人にどうしたら良いか聞くこともできません。そこまで世話をしてあげなければ生きていけないので、……こういってはなんですが、正直、僕の方がものをよく知っている。すごい発見をしていても、そこが足りないのは人としてどうかなあと思います」
「偉大な科学者もそこを突かれると痛いな。そういう部分は教えて貰えないと苦しいところではあるな。タイムスリップしてきたら普通に聞くだろうけどな、そこら辺は」
「仮に聞いてきたとして、僕が教えるかどうかは僕次第です。生かすも殺すも自在である」
「お前が教えてくれなかったら他の人に聞くと思うけどな」
「なんだと……。そんなことをされたら困ります」
「峰岸は過去の偉人に対する尊敬の念がまるでないのだな。こういう偉人のお蔭で今の文明があるのだぞ」
「現代で活躍している人々の多くは尊敬しています。でもなあ……?うんこ流さない人はちょっと尊敬が薄れます。文明を作ったと言いながら、うんこがそのままではどうなのかなあという文明人の上から目線の感想です」
「戦国武将とかはどうなのだ?文明人を気取っていない分、うんこ流さなくてもナチュラルなのだが、それはそれで、そことは別に現代でも通用するレベルの武力を持ってると思うのだ」
「今の時代、ちょんまげをしているだけで近所の人に笑われると思います。戦国武将は美容室に行ってカタログにちょんまげが載っていなくておろおろしますので、そこを攻めます。精神的に弱っているところを攻めます。そうして勝ちます。僕が勝てるレベルであれば大したことはない。戦国で名を馳せた武将もせいぜいその程度である」
まあ……、武将一人だけタイムスリップしてきたらおろおろして精神的に参ってしまうのかも知れない。
マゲを結い直すために美容室へ行ってもクスクス笑われ、カタログにもちょんまげは見つけられなくて、挙げ句そんなこんなで弱っているところをミナコが攻める。それなら、まあ、一応、勝つかも知れない。天下統一を成す才覚があったとして、現代でそう上手く事を成すことはできない。
「なんて無慈悲な……。精神的に弱っている武将を攻めてやるな」
「尊敬する人物がいないわけではありません。人を敬う気持ちは持っています。ただ健介や陽太がその人を知らないであろうから話題に出しにくいというそういうことです。歴史上のと言われるとその制限にも引っ掛かります。今生きている人も含めてください」
「じゃあ?それでも良いのだが?峰岸は誰のことを尊敬しているのだ?」
「僕のお父さんは、とても偉いお医者様です。おが……、あと、みね……、おじいちゃんも偉いお医者様です。あと、海外でもすごい偉い大学教授がいます。悔しいことに知名度では敵わない。知名度では敵わないのですが、多分、……少なくともその大学教授と歴史上の偉人が戦いになったら、まず間違いなく僕の知ってる大学教授の方が勝ちます。優れた人物です」
これが後に、陽太によって『峰岸のせいで過去の偉人が台無しシリーズ』としてまとめられるようになるわけだ。
総括するに、ミナコ目線での他人の評価というのはこういう部分が基礎になっている。なんだかんだミナコも自分のことを普通だと思っていて、その普通の振る舞いから外れた人間を理解できない。
文明人としての自負心を持っていて、勝ち負けでいうと、ミナコは過去の偉人よりも上の位置にいる。
それは結構に重要な、ミナコなりの人間的価値基準だったりするのかも知れない。
ミナコはもしかすると、自分にはそういった現代人の常識的な振る舞いが欠けていることも少しは気づいていて、だから、それを教えてくれる人を探していたのかも知れない。
俺もさすがにその辺り、ミナコに負けている要素はないと思っている。何故こうまで優秀な脳みそをしているのに、ネジの外れた誤動作が発生するのかは理解に苦しむが、でも俺も、ほんの一掬いは、お前に正しさを与えてやれる。
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『お互いの歯車伝達比について』
俺が何を大切だと思って伝えるか、ミナコが何をそうでないと決めて伝えないか、俺とミナコが百パーセントを互いに知っていたわけじゃない。
付き合いが長くなれば当然、答えを聞かずにそうであろうと決めつけて、互いに思うお互いが現実と離れていくことがある。
善かれと思ってそうしているんだろう。でも実際のところ、俺にはそれを確認する術などない。
俺はそれで良しとしてきただろう。でも実際のところ、ミナコがそれで良かったのかなど俺は確認していない。
身につまされるような童謡が、かなり古くから存在してきたのだなあと思った。
「些細な連絡の行き違いというのはよくあることです。黒ヤギさんからお手紙着いた♪白ヤギさんたら読まずに食べた♪しーかたがないのでお手紙書ーいた、さっきのお手紙ご用事なあにっ♪この後、困ったことに黒ヤギさんまで読まずに食べます。やれやれ、さすがにヤギである」
伝えるべきことを伝えずにいたがために、互いの関係を壊してしまうことがある。手紙は届いていただろうか。読まずに食べたろうか。
俺は確かに、読まずに食べてたかもな。
やれやれ。……俺とミナコもやっぱりそうだったろう。
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『お互いの損得勘定について』
「例えば一億円の機械を買うことに決めたとします。これを一億個にバラバラ分解して一個一円で買い取ります。その内一個をおまけにして貰います。九千九百九十九万九千九百九十九個も買ってるので一個くらいはさすがにおまけしてくれます。それを一円で組み立てて貰います。一円で一億個の部品を組み立てるのは大変だなあと思いつつ、よく考えたら最初から組み上がっていたので、一円貰えるならと店主は喜んで了承します。こうすることで、消費税を払わなくて済みます」
「それは……、税務署に怒られるんじゃないかな。領収証が一億枚か、一億一枚になってしまうんじゃないのか」
「原料を仕入れて加工して小分けして販売する食品業者がたくさんあるので、実は可能なのでは?食品加工に限らずとも、人は皆、一個なのに使役者は便宜上時間単位で労働力を購入している。元々一個のものをバラしてはならないのならこれらはできないはずである。ちなみに税務会計上この場合の売り主は免税事業者でない限り損をしません」
そんな絵空事は現実にはあり得ない。それは机上論であって、現実の商取引でそんなことをしてまで消費税を免れたい人間などいたりしない。
……それはともかく元々一個しかない俺の心を、どれだけ刻んで渡していただろう。九千九百九十九万、九千九百九十九個の言葉や振る舞いを、どうせ一つに組み上げることなんてできそうもないお前に。
それが目に見えて存在していたならどれだけ良かったことか。丸ごと渡しても、国もさすがに、人の心にまで課税はしまい。
お前に丸ごと、売り渡せば良かった。たった一円負担して俺が組み立ててやれば良かった。
ああ、こうしてはっきりしてくるのは、やはり俺が、そしてミナコが、どうにもお互いのことなど知りもしなかったという残念な結論ばかりだ。
『友達だった』とはなんだ。『友人らしい振る舞い』というのはどれを指している?俺はせいぜい、自分が納得できる理由が欲しかっただけだ。そこにさして、何かを証明できる具体的な根拠などない。
それこそ、友達になるための儀式でもして、正式な契約を結ぶべきだった。今度、……そんな約束をしよう。
俺が泣いて頼んだら、アンミを諦めてくれるという条文でも盛り込んで、俺と友達になってくれるようにお願いしようか。
……それが良い気がした。俺とミナコはまず最初に、そうしなくちゃいけなかったような気がする。
『友達になろう』『そうしよう』、たったそれだけ聞いていたら、一つそれだけは確かなままだった。
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疲れているんだろうな。俺が引き出しから取り出す記憶の欠片は、もっと適切なものがありそうなものなのに、手に取ることごとくが微妙にズレている。諦めてもう寝ろと言わんばかりだ。
俺も疲れているし、俺の記憶を読み出す補助役も疲れている。
悪いな、悪かったな。お前ももう寝てくれ。あとは俺一人で、大丈夫だから。
『おやすみなさい、健介。明日はハジメのお父さんが、ハジメを迎えに来ます。』
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朝、目が覚めた時、頭はぼんやりとしていて、昨日の出来事が悪い夢だったんじゃないかと、そんなふうに思った。体を起こしてまだ鳴っていない目覚ましを止めて階段を下って、朝食が用意されていないことと、ミーシーが座っていないことを確認する。
玄関に回って、ミーシーの靴がないことを確認する。
ああ、なるほど。……こう、なるのか。
俺がほんの少しの間気づかなかっただけで、俺の家は元はといえばこうまで寂れて冷え込んでいる。こんな場所に、一人きりでいられない。
『一時のことだ』、『悲観することはない』、そう言って昨日の夜、俺は自分を納得させたはずなのに、やはり一日の始まりにこれを突き付けられると簡単には動揺を隠せない。
すぐ、戻ってくる、今、この瞬間だけの、ほんの少しの我慢だ。また俺は、強く自分に言い聞かせて、浮き上がる不安をねじ伏せなくてはならない。冷えた体を温めながら歯を磨いて顔を洗って、鏡に映る自分を見つめる。
「……元気なく見えるかな?元気一杯なのもさすがにこの状況ではおかしいだろうが」
ただ、こういってはなんだが、頭痛がするとか関節が痛いとかそういったことはない。派手に投げ落とされてそこら中打ちつけているだろうと思っていたのに、今日になっても普通に立っている分には特に違和感がなかった。
体はそこそこに健康で、そうなると俺の気の持ちようだけが、この、青白い病人のような顔色を作っている。
何をそんなに焦燥することがあるんだろうか。ミーコがいる。おっさんがいる。夢の女と市倉絵里がいる。誰もが安心しろと、まあそれに近いことを言っていたのに、俺が何を焦っているんだろう。
俺がこんな顔して手を振ったら、ナナもハジメも困るに違いないだろうに。苦笑いしか出てこない。
俺がこんなだから……、ミーコも、考えるのは無駄なことだと言う。
普段よりは遅いのかも分からんが、こんな時でもアンミは早起きのようだった。どうにかならんもんかと思っている内に階段を下ってくる足音が聞こえた。
「おはよう?健介。今日も早起きしてる。私よりも早起き。起きるの遅かった?私が遅くなってる?」
「おはよう。俺が早くなってるんだとは思うけどな。二日酔いだったり夜更かしだったりで一周回って早起きなだけかも知れん。朝御飯作るか?」
「うん。…………?健介、もしかして作るつもりだった?」
「いや?どうだろうな。まあ、もしアンミが疲れてるみたいだったら作ろうとしたかもな」
万全ではないとはいえ、アンミに昨日の夜ほどの落ち込みは見られない。アンミがこうして躊躇することなく俺に話し掛けてくれることに少しばかり救われる。
落ち着きを取り戻している、というのか、気丈に普段通りを努めているだけかも知れないが、もしアンミが口をつぐんでしまっていたら俺はどんな言葉を掛けるべきか分からなかった。
「うん?……疲れてる?作ってくれる?」
「?手伝うくらいは構わないが、どうなんだ?やっぱり疲れてるなら休んでてくれても良いぞ?」
「健介は私が疲れてるかどうか分かる?」




