十話㉛
「また下手をすると、……頭がおかしくなるかも知れんな。もう半ばなっているのかも知れん。俺にはまた、……困った時に相談できる相手がいない」
「…………。健介がそう思ってるだけニャ。私は健介の役に立てるか分からないニャけど、健介のためにしてあげられることがないか考えてるニャ」
「ああ。お前がいる。お前がいてくれる。分かってるはずなのに、ふとそんなことが分からなくなる」
『失わなかったものは、人生の最後の時まで決められない。生きている内は、怯えて失って嘆くばかり。ただ今、あなたの声の届く場所に、誰がいるのか、手を伸ばして引き戻せるところに誰がいるのか、あなたが追いすがるのをやめなければ、そうして生きている内に失ったと決まるものもない。信じるべき根拠などどこにもない。人の心など、どう足掻いても目に見えたりはしない。想いがそのまま届くことなどあり得ない。願う通りに与えるられるものなど知れている。信じられるかそうでないかではなく嘘をついたかどうかではなく、真実はいつもあなたが聞きたい言葉で表されるとは限らない』
「市倉絵里に、電話しよう……。俺はまだ何も失ってない。難しいだけだ」
「知らせるのかニャ?ミーシーがいなくなったことも」
「……そうせざるを得ない。だがもちろん様子を見てからだ。ミナコと会ってる時携帯電話が繋がらなくなった。ここら一帯に同じ仕掛けがあって携帯が繋がらなくなるかも知れんし、俺の家の電話線に爆弾が仕掛けられているかも知れん。そうすると、おっさんへの救援要請は出せなくなる。考え過ぎだと思うか?」
「まあ、考え過ぎかも知れないニャ。市倉絵里はミーシーと違ってスイラの予知を変えることはできないニャから、いずれ健介が電話することも含めてスイラは分かるはずニャ。スイラの予知する時間が短かったり、健介がずっと連絡できなくなることなければの話ニャけど」
「まあ携帯がダメにしても俺も何かしら考えて連絡取ろうとはするだろうな。ただ、予知圏外が間にあるだろう。そこら辺はよく分からん。おっさんが予知できる場所にいたとして、そことこことの間に妨害エリアがある」
「予知圏外に入った瞬間に予知が途切れる感じだと思うニャから、予知できるエリアで電話は受けられるニャ」
「…………。ミーシーが、予知圏外へ近づかないのは、その後の見通しが立たないってだけのことだったのか?」
「多分そういうことニャ。予知圏外がどこかにある状況でも全く別の場所のテレビとかラジオの生中継とかは予知できてたはずニャ。予知圏外の中のことだけが分からないだけだと思うニャ」
「それだとなおのこと分からんのだが、誰か第三者を予知圏外の外に置いて、携帯で電話しながらアンミをそちらへ受け渡す手筈にすればそこは抜けられるんじゃないのか?『アンミを受け取った』と連絡を受ければ予知圏外から無事にアンミが抜けたことが分かる」
「実際、ミーシーがどう考えてたかは分からないニャけど、相手がスイラだと予知が曖昧になるし他だと危険を承知でアンミを受け取ってくれる候補が少ないし、もしかすると試してもダメだったのかも知れないニャ。ミーシーが抜けようとする時は、予知は抜けた後からやり直しにはなるニャから、まあ、アンミとミーシーが離れて行動する方法ニャし」
「仕様が分からん……。ごちゃごちゃ考えても仕方ないのか。やっぱり、中で逃げる方が楽だったのかもな。高総医科研も対応策を用意してた可能性はある。……さて、まあ、心の準備が万端に整う時など訪れない。電話しないとな」
いくら時間を費やして考えを巡らせたとしても電話しなくちゃならないことには変わりない。小さく深呼吸して携帯の画面を見る。
市倉絵里支給の携帯にしか電話帳登録はされていないから、そちらを操作してゆっくりと発信ボタンを押し込んだ。
「もしもし、どういったご用件?」
「聞きたいことがあって電話した」
「ええ。でも……、落ち着くまで関係のない話をしても良いのよ健介君」
「たった一声で、俺が落ち着きを失っていることが分かるのか?多分そうじゃない。俺が、落ち着きを失う事態を予見してたはずだ。お前が聞きたがった質問はなんだった?まだ足りないからと俺に聞かなかった質問はなんだ?」
「…………。あら、健介君。足りた?じゃあ研究所に裏切り者がいることもトロイマンは気づいてしまったわけね」
「俺が……、トロイマンのこと知ったら、足りるのか?お前が言わなかった理由は分かってるつもりだ。お前から聞かされていたとしてもまともに相手しなかっただろう。……仮に知ってたとして、多分意味などなかっただろう」
「そう?でも、丁寧に説明をしていくらでも証明することはできた。私はそうしなかったの」
「わざと知らせなかったかのような言いぶりだな。……それで足りたか?お前は満足か?」
責めたてるような物言いになっていることに気づいた。というのも、前の記憶の件と違って市倉絵里がまるで反省していないことが透けて見えたからだ。
トロイマンの正体を知らせなかったことについては、市倉絵里は反省したふりさえしない。
「私が、知らせなかったよりも前に、健介君が知らなかった。それにトロイマンが知らせなかった。私はそのことで満足だったり不満足だったりはしないけど、健介君がそれをどう思うのかは気になるわ。健介君が気にしているところは、私が口を挟むようなところではないでしょう。むしろ、『仲が良かった方が、融通が利く』のではない?いいえ、けれど。健介君はそういうことではなくて、単に好き嫌いでお友達を決めるのよね。だったら別に『こんなことは友人同士の関係に何も影響しない』」
まるで俺を挑発しているようにさえ感じられる。事実そうだろう。こんな話し方をする理由が他にない。
「お前がする予定だった質問はなんだ?」
「健介君はまず事実を確認したいのではないの?それをしっかりと把握して考えて貰った上で、私と直接会った時に私からの質問に答えて欲しい」
「俺が今この状況でまだ事実を確認することがあるのか?」
「ええ。きっと。健介君、私は、あなたたちを見て、本当に、仲が良さそうだと思った。トロイマンはこうして安息を得ているのだと思った。あなたも、そうして安息を得ているのだと思った。だから……、ねえ、健介君は諦められないんじゃないかと思うの。仲直りしたいはずだと思うのよ。『ミナコちゃん』と……」
「その名前がお前から出て、もう何も覆ることなんてない。それが事実だ」
「ここまでの流れを納得できている?だって普通なら考えられないじゃない。いざそうだと言われても簡単に飲み込めるものではないでしょう?あなたはアンミちゃんの味方でいたかったのに、ミナコちゃんと仲の良い友達でいたかったのに、どうしてかそれが上手くいきそうにない。一応確認しておきたいのだけど、『まだ、アンミちゃんを助けたいと思っている?』それに、『まだミナコちゃんと友達でいたいと思っている?』」
「お前は俺がどう答えると思ってるんだ?」
「どちらもイエスだと思っている。違う?」
はっきりいって、もし市倉絵里の聞き方が違えば俺の答えも違っていておかしくなかった。どちらかを選べと言われたら、どちらかを諦めていたかも知れない。
「……違わない。だからもし、お前が俺に提案する方法が、ミナコとの関係をこれ以上に悪化させるようなものなら躊躇する。お前の質問がもし、どちらを選ぶのかという問題なら答えはない」
「私本当に、幸運ね。……心から、あなたと、友達になりたいと思う。羨ましい」
「……いい加減にしてくれ。お前はそうやって、……俺を馬鹿にするために友達のような振る舞いをしようと言ったのか?良いサンプルだろう?端から見れば裏切られたに違いないのに、まだ諦められないでいる俺のような奴は」
「皮肉で言ってないわ。あなたが私の友達だったらどんなに良かったかと思う。私がどんなに不器用でも、どんなに不運でも、また仲直りできそうな気にさせてくれる。無制限に、無条件に、許してくれるのかしら。それは健介君、とても貴重な、才能だと思うの。…………ねえ、健介君?私が、役に立ったら、本当の……、友達になってくれる?」
「……なあ、俺は。お前を量りかねている。もし時間を掛けて良かったなら少しずつお前のことを分かっていけただろう。お前が俺の思っている通りに善良な人間だったなら、ずっと友達でいたいと思う。だがな、悪いが今はまだ、信じきれない。ミナコのことがあったせいなのかも知れない。俺が元々人を信じるのが苦手なのかも知れない。けど、だから……、もし……、お前が善良な人間だったら、俺はお前に対してどれだけ謝れば済むのか分からん。俺は、お前に裏切られるのが怖い」
「……うふふ。とにかく、楽しみにしてるわ。無理を言いたいわけじゃないの。後出しの条件になってしまうし、まあ、……結局のところ、私が健介君の役に立って、そしたら良く思ってくれるんじゃないか、と、それだけのことよ。本当に友達になってくれるかなんて、そんなの今分からないに決まっていたし、私と健介君とは友達がどういうものかも違ったりするかも知れない」
「多分、同じなんだお互いが……、友達だと思ってればそれで友達に違いない」
「健介君が言ってた意味が分かったかも知れないわ。『事情なく出会っていれば』、というのは、ああ、そういうことを言っていたのね。私今になって、ようやく、なのかしら。どうでもいい話をずっとしていたくなった。健介君とたまたま同級生で、席が隣で、おしゃべりなんかをしていたら、とても楽しかったと思うわ。まあ事情がなければ出会うこともなかったでしょうし、事情抜きの話がなんなのかも想像できないけれど」
「事情抜きに、話せたら良かったな。俺も想像できないが」
「健介君には少し想像してみて欲しい。あるいは今、事情と関係のないお話をしてみても良いの。健介君は時間が勿体ないと思うのかも知れないけど」
「…………。仲の良い友人はいたか?」
「どうでもいい話に付き合ってくれるというわけ?」
「お前のことを知りたい」
果たしてそんなことには、意味がないようにも思った。ただ、話したいようではあった。それこそ事情なく出会っていれば、聞きたいとも思ったろう。
聞く気がないと言えなかったのは、市倉絵里のご機嫌を窺ったからだろうか。その声の響きに、信じるべき根拠をいまだに、……探しているからだろうか。
「…………。いたわ、小学生の頃までは。四年生までは、町立の小学校に通っていた。仲の良い、というか、すごく魅力的な女の子が一人いたわ。仲良く……?してくれてた。優しかった」
「…………」
当然そこに、解決すべき問題のヒントが潜んでいたりはしない。ただ、俺が思い浮かべる市倉絵里の像は、こうも明瞭に違う。
懐かしむように、あるいはまるで語りたくないことを渋々白状するかのように、人間らしく言葉を引きずる。全てを見通すような鋭さはどこへ消えてしまうのか。決められていたかのようになだらかな言葉が、どうしてそう変わるのか。
「飲み物を買ってきて良い?オチのない話なんだけど、聞いてくれたりする?」
「ああ、別に構わない」
電話口からはカツンカツンと、おそらく階段を下る足音が聞こえてきた。どこか施設内にいるらしいことは分かるが、出掛け先なのか自宅なのかは分からない。
市倉絵里はとにかくゆっくりと歩いていた。飲み物を買うと言っていたから自販機が近くにあるのかと思っていたが、小銭を取り出す音も缶が落ちてくる音もしなかった。
「ごめんね、健介君。何を話したら良いか考えていたの。優しくて、魅力的な女の子だった。それ以外に、何か紹介するようなことあるかしら」
「飲み物もう買ったのか?」
「?ええ。小学四年生の時にね、同じクラスになった、優しくてすごく良い子がいたの」
「……それは分かったんだが、それだけか?友達の話だろう?優しくて良い子じゃ……、正直イメージも湧かない」
「ええ。そう。何が良かったかというと、どんなところが魅力的だったかというと、……多分それは言葉では難しくて、でも会えばすぐに分かると思うわ。元気が良かったし、感情表現も豊かだったし、運動も私よりできた。みんなと仲が良くて、それにいつも楽しそうにしてた」
話したそうにしていた割に、話の内容はぼんやりしている上、市倉絵里自身にも覇気がない。どこで区切りが入るのかさえ判断できなかった。
「……活発で明るい子だったということか?お前も小さい頃から美人だったろう。頭も良かったろう。人気者だったろうと思うけどな。それともその女の子も美人だったりしたのか?」
「カナエちゃんは……、そうね。カナエちゃんていうの。香る苗と書いて。美人?……。まあ、そうかしら?そう言う人もいるんじゃないかしら」
「…………。まあ、小さい頃は顔立ちなんかは関係ないのかも知れんな」
「考えたことなかったわ。でも多分素敵な結婚をすると思う。見た目はそれこそ相手の好みで化粧やオシャレをすれば良いでしょうけど、内面であの子に敵うような人いないと思うもの。親切だったし、優しかったし、思いやりがあったし、元気をくれた。多分、例の一つでも挙げろと思うんでしょうけど、でも挙げきれないくらい、あの子の普通が、あまりに私より高かった」
「親切さの水準がか?」




