十話㉘
「ああ……。一緒にいて良いか?お前が電話してる側で」
「えっ、……うん、まあ、良いけどなんで?」
「なんで……?なんでだろうな。俺が、……お前が不安だろうからだ」
「じゃあナナは、もいっかい、アンミお姉ちゃん見てくるね。大丈夫?」
「うん、大丈夫。てかあたしが帰るって言ってんのおっけーに決まってんだけど。あんたはあたしのお父さんどんなんか知んないから心配なのかも知んないけどさ。そこで断られたら一周回って笑うわ、ホントに」
そして俺がいざその時になって耐えられなくなったら、意見を翻して引き止めるためだろう。
「もしかして、あたしに気ぃ使ってそういうこと言うの?帰るの嫌じゃないかとかって」
「そうかも知れないが、そもそもお前の決断は、俺のためにすべきものじゃない」
「うん。自分で決めた。でもあんたのお蔭で決めた。あたしがやるってそう決めた」
『あなたは、載せるべきものだけを天秤に載せて、傾きを眺めるべきでした。いつまでも、揺れていられるわけではありません。いつか壊れてしまうのではありませんか。今も背負い過ぎていませんか。これはそもそも、あなたにできることはとても少ないお話なのです。あなたは平等に人々に優しさを注ぐことはできるけれど、それは誰かの未来の幸福までを担保するものではない。ええ、もちろん無関心であるよりは、それがあなたらしくはありますけど、あなたは、あなた以外の決断を、それがどうであれ否定できると思わない方が良い』
それは違う。他人の幸福を願わない人間などいない。言葉を交わして無責任でいられるはずがない。
「まあ見てたら。あたしじゃなくてアンミと自分の心配してなって」
そう言ってハジメは受話器を取って、指をふらふら迷わせながら電話番号を押し込んだ。相手が応答するまでの間に「スピーカーにした方が良い?」と聞かれたが俺は無言で首を振った。
「もしもし?……」
低い声が受話器から漏れ出ていた。何を言っているかまでは分からないが、かなり大きな声で反応している。
「あたし。あたしの声分かる?ハジメ」
『分かるに、決まってるだろうが』という、半ば怒声のような大声は聞き取れた。
「あのさあ、相談があんの。……うん。ああ、うん。まずあたしのその相談っての聞かない?うん、そう。いや、まず相談の話したらそういうこと聞かなくて良いこと分かるから」
そしてしばらく無言が続く。相手が黙るのを待っていたのか、勇気を振り絞って言葉を選んでいるのか、多分そのどちらもだったろう。ハジメは小さく頷いて相手の話を聞いているようだったし、受話器を握る指が小さく動いて落ち着きがなかった。
「あたし、家に帰ろうと思うの。で、……だから、そういう話はこれからいくらでもできるでしょ?あたしもお父さんと話さなきゃいけないと思うし。…………。うん、うん。うん、何?いや、そういうの良いから。で、も一個お願いがあってさ。女の子一人連れてって良い?あたしの……、そう。うんそう、友達」
電話の相手は多分お父さんなんだろうが、ハジメが話を切り出してからすぐにオーケーを出したようだった。ハジメがちらりとこちらへ振り返り、右手で半円を作る。
受話器を持っているせいで半円で猿のジェスチャーのようだったが、多分『丸』という意味だろう。何となく他の雰囲気でもそうだろうことは把握できる。
「うん、そうだ、ね。そか、うん。それはまあ確かにそうなんだけど。えっ、ちょっと待って?」
ハジメが少しばかり戸惑いながら俺のことを見て、受話器の話口に手を当てた。
「いつが良い?今日来るとか言ってんだけど、あたし的には心の準備とかで明日の方が良いんだけど……。あんたは今日の方が良い?」
「いや、お前が決めて良い」
「じゃあ明日に……、するわ。で、あと、お礼とかなんかいるかって」
「いらない。いや……、また会えるようにできたら良いと思う。連絡も取れたら良い。訪ねて行ったら泊まれたりすると良いな。別にお礼でどうこうじゃないが」
「ふぅん。まあ、じゃあそう言っとくわ。…………。あ、お父さん?明日で良いって。明日っても日付変わってすぐ来んのとかはなしね。で、お礼はいらないってさ。スイラおじさんは今いないけど、ま、スイラおじさんにはまた違う時に話してくんない?うん。一応もしかしたら遊びにくるかも知んないからそん時は泊まるとことか用意してくれって。…………いや、……、ええと……、いや家主だから。その子は移住しないけど。えっ?…………男の子だけど?……はあ?…………。はあぁ……、面倒くさいわ。ん?代わる?代わりゃ良いの?」
受話器を右手に持ち替えて、ハジメは「ん、代われって」とこちらへ受話器を差し出した。まあ突然だったが、話を聞いておくべきかも知れない。
ハジメが立ち会っている以上、あまり突っ込んだことは聞けないだろうが、それでもなんとなくの雰囲気くらいは分かるだろう。
「もしもし、高橋です」
「おう……」
低くて渋いしゃがれたような声だった。応じたそのたった一言が、あまりに多くを語っている。
ハジメは多少緊張気味だったにせよ、用件だけを抽出して話しているようだった。淡々とやり取りをしているのかと思っていた。けどその声はそうじゃなかった。
歓喜を含んでいて、涙を流していておかしくないくらいに感極まっている。鼻声になってしゃがれて聞こえるのかと思ったが、どうやら別にそういうわけじゃなく続けたハジメのお父さんの声はやはり低くてしゃがれていた。
「ありがとうな、高橋さんよ。ああ、こんな日を、ずうっと待ってた。すっかり老けたじじいになっちまってそれでも電話のねえ夢を何回も見た。スイラさんの話じゃあ、楽しそうにやってるってことだったが、俺のことはもう忘れちまってんじゃねえかって……、そんな夢を何回も見た」
「良い友達が何人もいて、……ハジメは楽しそうにしてましたよ」
「俺はハジメが楽しそうにしてるって聞いて、そりゃ嬉しいけどよ……。俺はずっと、要するにできたのにやらなかったってこった。ハジメを喜ばせてやることが、できたのに、俺は他人様に任せてハジメのことをほっぽってたってこった。ああすりゃ良かった、こうすりゃ良かった、考え始めりゃきりがねえ。俺はまっすぐ目を見て、抱きしめてやるべきだった」
「…………」
「ああ、悪い。そういう話はあんた様に愚痴るべきじゃねえな。俺が悪かったことを、俺が後悔してるだけだ。あんた様方には感謝しかねえ。ハジメがまっすぐ写ってる写真見してくれて、本当に、良かった……。俺はもう失敗はしない。……明日、迎えに行く。その感謝と、決意を聞いてくれ」
「ハジメは、お父さんに愛されてたって言ってました。不器用で上手く受け取れなかったって。友達と一緒にいて、どうすれば良かったのか分かってきたって……。だから、誰が悪いわけじゃなく、失敗でもなくて、多分ちょっとしたすれ違いで……」
「…………。それは違うな。俺が悪かったってだけの話だ。ああもちろん。スイラさんから説明は聞いてるが、難しいかどうかじゃねえ。愛が通じて、それで初めて、父親として胸が張れる。親子なんだよ。愛し方も分からない奴は父親を名乗れねえ。それが俺の決意だ。運の善し悪しじゃねえ、ハジメの餌の受け取り方が上手いか下手かじゃねえ。十二分に愛して十分に育てて、それで親だ。俺は確かに昔失敗したが、この心の在り方を、他の何かで上手くいくなんて言わないでくれ」
なるほどちょっと合点がいく。おっさんが困るのも分かる頑固さだった。ただそれは愛情の裏返しでもある。正し過ぎるほどに正しい父親の在り方だろう。ハジメが家を出た時すらもきっと愛していた、愛されていた。そこから先は、どんな努力が実るだろう。
「おっさんから……、スイラさんからちょっとだけ話は聞いてました。とにかく、……ハジメは分かってるって言ってました。大好きだと思ってくれてるはずだって」
次の声が出る前に、ホッと息を吐く音が聞こえてきた。
「ただ……、そうだな。あいつが、俺を父親にしてくれるのかも知れねえ。どんだけか分かんねえくらい助けられてやっと父親になれるなら、……そういう意味じゃあ、運が良かったなあ、俺は。スイラさんやあんたがいなかったら、俺は今でも何が悪くて何が良いのか分からなかった。手本がなきゃ難し過ぎた」
予想通りといえば予想通りに、聞かされていた通りといえば聞かされていた通りに、これが人と人との隔たりなんだろう。これだけ愛していてそれでも無理でようやく、ハジメやアンミがいる。ナナももしかしてそうだったのかも知れない。
人がどれだけ高く跳べても、超えるのが難しい壁はある。人は愛する才能に満ちていて、愛される才能に満ちていて、そうして初めてお互いの距離を縮められる。身を寄せていられる。
「あんた様はもしかしてハジメの恋人か?恋人なら、あんた様も一緒に来て貰っても構わねえ。それもあるなら、それはそれでハジメとその事もよく話さなきゃなんねえ」
それが冗談のつもりで言っているのか、それとも本気なのかはさておいて、その調子の外れ具合にはハジメとの血縁を感じた。俺の声色から悲観的な空気を察してそんなことを言い出したのかも知れん。そうじゃないかも知れん。
だが、やっぱり親子なんだなあ。張りつめていておかしくない空気に柔らかい足場を用意してくれる。
「それは違うし、俺はちょっと、ハジメと別行動しなくちゃいけなくなった事情があって……」
「声若えよな。社会人か?電話してる時に近くにいたんだろ?さすがに俺だって普通ならそんな心配はしねえ。ただ、……ハジメはまあ、美人だからよお」
「確かに……。まあ美人、うん、まあ。そうですね。俺は大学生で……、で、あと、まあまず恋人とは違……」
「ちょちょっ、何?あのさあ、返して?なんかどうでもいい話してるでしょあんたら。さっちょっとそれ返して」
「あんまりにも電話もすぐ代わるもんだからよお、手でも繋いで話してたのかと……。一緒に住んでるとなりゃ、俺でも」
「じゃあ、代わりますね。……ハジメが、代わって欲しいみたいだし」
「おぉ?ああ、そうか。一応話があったんだがなあ……」
「あのさあ!何?はあ?お礼ちゃんと言ったわけ?娘預かって貰ってて何しょーもない話してんの?」
ハジメが困ったようにちらりとこちらを窺って父親を叱責し始めたので、俺も一応ハジメが気づくように軽く手を上げてから一言だけ添えておく。
「いや、……お礼は言ってたぞ、ちゃんと、……割と大部分はすごい良いこと言ってた。ハジメのことが大好きなんだと、そういうのは伝わってきた」
「そういう話する場面じゃないんだって。空気読んでよ、恥ずかしいわもう。……、あたしが、そんな大好きって思われてたら、……どんだけわがままだって思われんじゃん」
セラ村がどの程度の閉鎖環境だったかは分からんが、ナナが引き取られる事情を察していたとすれば、ハジメは上手くいかなかった家族関係の原因が自分の行動にあるとは思わないはずだ。
ナナをあまり知らない人に近づけないように注意していた。ハジメはナナのことを大切に思っている。だから、ナナが嫌われる理由が、ナナの中にあるなんてハジメが信じているはずがない。
ただ、もちろんその辺りの心情を簡単に割り切れるものでもなさそうだ。もっと、上手くやれる。確かにそうだろう。どんなに精一杯だったとしてもその僅かな隙間に後悔が積もっていく。
『失敗』だったんだろうか。誰の『失敗』だったんだろう。どうすれば『失敗』しなかっただろう。楽な居場所にいたって良い。ただ、……事が家族である以上その天秤の傾きを許してくれない。
ハジメは、娘を愛してやまない完璧な父親のどこにも、上手くいかなかった理由が見つけられなかったのかも知れない。だから自分が悪かったのだと言うのかも知れない。
俺は平然と、『それは単なる不運だ』と断じてしまいそうになる。いくら最良を選んでいても、運命と偶然がそれを台無しにしてしまうんだと、慰めてやりたくなる。人は本当なら、そんなに強く生きていられるものじゃない。逆境にめげずにいられるものじゃない。
でも、ただ、……ぎこちないながら少しずつで良いから、ハジメの努力が実ることを願っている。
最初こそ強張っていた声色も少しずつ落ち着きを取り戻してきたようで、普段聞いていたハジメのトーンでスイラさんと、アンミとミーシーとナナと、そして俺のことにも少し触れた。
おそらくハジメの父親はセラ村に入ったことがないんだろう。ハジメと直接そのことを話す機会もなかったはずだ。そうなるときっといつまでも話は尽きない。
ひとまず大丈夫そうだと判断したちょうどその時に、ナナがアンミの手を引いて洗面所から出てきた。
アンミは、落ち込んでいるとか、悲しそうにしているというより、具合が悪そうに見えた。表情がどうこうではなく、全体的に生気がなく動きも重い。
「健介……。ナナとハジメも……、出てく?」
「アンミ、ちょっと……、横になった方が良いんじゃないか?」
「ナナとハジメも、出てく?」
「一時だけな。また会える。ミーシーのこともおっさんに頼んである。アンミ、疲れてるだろう。あんまり思い詰めないでくれ。これはすぐに良くなることだ」
「……どうしよう」
事情を知らないことになっているアンミに、どう説明をすべきなのかは分からなかった。ただアンミは『どうして?』ではなく、『どうしよう』と言う。自分の振る舞いのせいでミーシーが出て行ったと思っているのか、とにかく心細そうに『どうしよう』と繰り返した。
「ちょっとの辛抱だ。ミーシーとはすぐ仲直りできる。ハジメとナナはアンミが元気になれるように実家の方で元気の出る薬草かクローバー?とかをな、探してくれるらしい。どうした?おっさんだってよく出掛けてたんだろう?ずっと離ればなれになるわけじゃない。もしそう思ってるならそれは違う」
「健介は?一緒に?まだここにいる?」
「……ああ、まあ、俺の家だしな。俺はずっとここにいる」
「うん、そっか。それは良かった。ミーシー戻ってきてくれるかな」
「大丈夫だろう。おっさんが説得して連れて帰ってくれるって約束した」
「そっか。良かった……。ナナとハジメにもまた会える?」
「当然会える。会えなくなるような選択を俺はしない」
「そっか、良かった」
少しだけ、表情が緩んだような気がする。
「アンミお姉ちゃん。ちょっと安心した?」
「うん。ありがと」




