十話㉕
「おままごと?」
「ねぇアンミ?私とあなたはずぅっとずぅっと、昔から今の今まで、やっぱりどうしようもなかったでしょう?家族ごっこにうんざりなのよ。だから『ここで』お別れにしましょう。もう一緒にはいられないわ」
「どういう意味?」
俺にもその意味は分からなかった。丁寧に説明をしているようでいて、何一つ状況を表していたりしない。
「出てくわ。アンミ。さよならを言うために追い掛けたのよ」
「…………?どうして?」
「どうしてとかないわ。まあただ強いて言うなら、もういいのよ。無理して家族ごっこをしているのが嫌になったのよ。アンミには分からないでしょうけど」
「出てく……?」
「ええ。だから、さようならね、アンミ」
木々はそこかしこで身を震わせていた。『まだか?』と問うているようだった。一つが傾いで、もう一つがそれに重なり、幾重にか捻じれた後に地面が揺れて、それらの根が地中から絡み出てくる。
その内いくらかは傾き過ぎて倒れそうな木を庇い、抱き留め支えるようにしていた。そして他のいくらもは、アンミの側を渦巻いていく。アンミの頬を撫で、ふらついた足を支え、まさしく生きていて、ギィギィと何かを嘆いて泣いているようだった。
「ねえアンミ、……私は、よくやったと思うわ。よく頑張れたと思うわ」
「行かせないよ、ミーシーは。健介……、ちょっと離れててね」
夢の女はこんなことを望まなかった。ただそれを、どうしようもなかったのだと諦めている。
子供の声は、いつかはこうなったのだと伝えている。こうならないことの方が不自然でその不自然さを保つことで見られるのは登場人物の心情を反映しない操り人形の劇なんだと、教えている。
そうなのかな。……そんなはず、ないんだけどな。
アンミは申し訳なさそうに呟いて俯いて、左手で自分の襟元を握った。呼吸は震えていて、泣いているようにも聞こえる。
ただ、泣いているのかは分からない。突然に別れを切り出されたアンミが、泣いてもおかしくないと思っただけで、アンミは深々とフードを被ってそれが目元を隠してしまうほどだったから、実際には泣いているのかどうか分からなかった。
「……行かせない」
その言葉は、『一緒にいて欲しい』とか、『出て行かないで欲しい』とか、そういう意味だと思っていた。アンミがミーシーに頼んでいるんだと、そう思っていた。どうやら、そうじゃなかったらしい。
『行かせない』というのはそのままの言葉の通り、物理的に、どこにも行かせないことを目的としている。蠢いた根はミーシーへ向かい走り、足を縫いつけようと地面へと潜った。ミーシーはひょいと片足をあげ根を蹴って後ろへと退く。
「おい、アンミ……。何をしてる?待て、話を聞くべきだ」
俺は聞こえるようにそう言ったのに、アンミはその声に反応する様子がない。次々に根は絡まり巨大化していき、細い根も蠢く数が増えていく。
「ミーシー、アンミを止めろ。何が気に入らないのか、何が原因かを話せばすぐ済む。それだけのことだ」
聞こえるはずだ、聞こえてくれ……。どうして、そんな目でアンミを見てる?どうして何も言わないんだ。
アンミは必死にミーシーの姿と木々の動きを交互に視線で追い掛け、根は確かにミーシーの方向を目掛けて勢い良く飛び出した。
……だが、ミーシーはそれをせいぜいかする程度で飛び越し、まるですり抜けるように左右へ跳ねバランスを崩すようなこともない。焦ったアンミが根を増やすと今度はぶつかり合い絡まる根によって視界を塞がれて、ミーシーの姿を見失ってしまった。
アンミがそれを何とか引き離すよう操ると、もうすぐ側にミーシーが迫っていて、飛びのく合間もなくフードを掴まれて引きずり倒された。
この争いは、おそらく百度繰り返せば百度繰り返したところで、アンミに勝ち目はなさそうだった。アンミは何とか立ち上がろうともがいて、一応立ち上がることは許された。
が、その際に襟元深くにミーシーが腕を突き込んでいたらしく、折り畳んだ腕をきりきりと回しアンミをおぶるように少し体を傾斜させる。アンミは空を見上げるように吊られたまま頭を動かし自らの首を引っ掻いた。
ぴたりと二人で背中を合わせたまま、十秒かそこらで、アンミの腕は力なく垂れ落ちた。これが始まってから考えても一分やそこらで、いやそれすらも過ぎない間に、アンミは為す術なく意識を失うことになった。
根はずるずると力なく地面を這い回るだけになり、既にミーシーを捉えてはいない。蠢いて触れ合って絡み合って静かに眠りにつく。
俺にあっても、まさか、ここまで二人の力が拮抗していないとは思っていなかった。俺は止められそうなタイミングを窺うことすらできなかった。
……というより、全て今一人でぽつんと立っている少女の思うまま、なんだろう。アンミを煽って怒らせることも容易かっただろうし、根を躱すことなど目を瞑っていても可能だったろうし、俺が立ち入れないことは織り込み済みだった。
かくして、俺がここでどう取り乱して懇願したところで、……きっとアンミとミーシーが、離れることを?止められない。
何故なら、ミーシーは、こうなることを知っていて、こうするつもりで行動した。こうまでして、気が変わってくれるような期待は薄い。
「どうしてだ、ミーシー……。一緒にいてくれ」
アンミが聞いて、『どうして』がないとミーシーは答えた。俺の説得や疑問に律儀に応じてくれるとは思っていない。俺は全て諦観に包まれていながら、でも、言葉を堪えることができなかった。
死人に帰ってきてくれと乞うような、聞き届けられるはずのない願いを口に出している。ああ、そういうことか。だからアンミは、強引な方法を取るしかなかったのかな。
それはまるで破綻した本末転倒な選択のようにも思われたが、俺の頭はもうぼんやりとしぼんでいて、何が最良なのかを判断できる状態じゃない。そう、他に方法なんてなかったのかも知れない。
「無理よ、健介」
「何が気に食わなかった?何が我慢ならなかった?お前を出て行かせたくないのは俺も同じだ」
「アンミの問題のこと、健介は知っているわけでしょう?そうすると、私が何度も予知をやり直して、どうにか解決しようとしたことも分かっているでしょう?」
「そうするはずだ、お前なら。そうしてたはずだ」
「けど、何度やったって上手く解決しないことだってあるわ。予知を続けていくと、電源が切れるみたいに、予知が消えることがよくあるのよ。特にアンミが捕まってからだと思うけど。もしかすると私がどこにいても予知を妨害できるように囲んでいたりするのかも知れないし、あと、銃を持ってる人がいるわ。気づかない内に撃たれのかしら。どうやっても予知が消えて、どうやってもアンミが助けられなかった時に、……良い方法を思いついたのよ。アンミを放って、私がどこかへ行ってしまったら、多分私はケガもしないしまして死ぬことなんてないわけでしょう。そういう、良い方法があるのよ。それに、気づいた時、とても嬉しくなったわ。幸せな気持ちになったのよ。まあ、健介には分からないでしょう。こういう感じは」
「……どうにも、できないか。だからなのか?ただそれは、……アンミの側にいてやれない理由じゃない」
「その内分かるわ。側にいる意味なんてないのよ。健介もしも、アンミの側にいて危険だと思うことがあれば、あなたもどこかへ行ってしまいなさい。私は、その方が良いと思うわ。近くにいると無茶をしそうだから」
「……待て、側にいる、意味がないわけない。アンミが」
俺はミーシーの肩口の布を握り込んだ。振りほどこうとするだろうと想定していたし、女の子だからなんて遠慮が必要な相手じゃないことは十分に分かっていた。
一応言っておくと、俺は中学高校六年間柔道をやっていたし、どう衰えたとしても利き手の握力は六十キロ以上はある。つまんだり、引っ掛けたり、単に握ったのではなく、俺は、絶対に逃がすつもりなく全力で『握り』『込んだ』『はずだ』。
……ギュルリと、俺の指と、布の摩擦音が響いた。
「……っ」
「服が破れたらどうするのよ。余計な体力使いたくないわでも……」
俺は今この瞬間まで、いくらなんでもさすがに力負けだけはしないだろうと踏んでいた。だからいざこんな時、しがみついて動きを止めることくらいはできる……、はずの、つもりだった。
掴んだ『後』に、簡単に引き落とされた片手だけで……。
「なんならやりましょうか、健介。嫌いではないのよ、こういうのも」
布の握り目が、偶然にも指の隙間を抜けやすいより方をしただけだ、第一、敵う敵わないじゃなくここで止めなくてどうする。掴んでいないとミーシーはどこへとも去ってしまう。それが怖くて、俺は再び手を伸ばした。
階段をたった一段上れるということは、片足で自分の体を持ち上げることができるということに違いない。なら両足で倍の重さを持ち上げて何の不思議もない。だから理屈からいって、正しい方法でなら、人は階段を上るのと同じくらい簡単に同じ体重の人間を持ち上げることができる。らしい。
ただもちろん、相手だって無抵抗にそんなことを許すわけじゃないんだから、それは単なる絵空事だ。持ち上げられてしまう正しい方法に収まって大人しくしているはずがない。抵抗するはずだ。抵抗する猶予が、普通、与えられているはずだ。
ああ、ただ確かに、こんな経験をしたことがある。
こんなにも、無抵抗に、投げられたことがある。重力が明らかにひいきして俺の体重を奪い去ることがある。
力の綱引きをまるで感じさせないまま、俺の足腰は踏ん張る場所を失っていることに後から気づく。
「それに知ってるのよ、私は。多少ケガさせたくらいだと走って追い掛けてくるでしょう。私が、あなたをケガさせないと決めていると、いつまでもいつまでも、追い掛けてくるでしょう。……走るのも、私の方が速いわ。お父さんやハジメの加勢も間に合わないと思うわ。だから別に走って逃げても良いのよ。だけどいつまでも、探し回るのは疲れるでしょう?」
俺は木の根に叩きつけられ、茫然自失のまま空を眺めて、ミーシーが話しているのを聞いていた。
「疲れるもんか……。お前を連れて帰るまで……」
痛みは少ないが、左の股関節で骨のズレる嫌な感触がした。走れなくなってるだろうか。あとは打撲だ。そこまでの重症ではない。ただ、ミーシーが言う通り、追いつけないような、そんな気がした。
だからここで、話を続けなくてはならない。抱きついて倒れ込めば良い。
ミーシーは身を躱して俺が伸ばした腕を掴み、そして俺の足を踏みつけながら体幹を回転させ、懐深くへと潜り込んだ。俺は当然、まずは踏みつけられた足を引こうとして、……そのまま、また空中を漂っていた。
靴の裏で、膝がほぼ真上に跳ね上げられた。引こうとした足がいきなりアクセル全開で急加速して逆の左足に重心を移す間もなく、為す術なく浮かんだ。
操り人形が右足の糸だけ突然引っ張られたような体勢で浮かんで、巻き込まれた腕に釣られてまた木の根に真っ逆さまだ。
ぐいと引っ張られたらぐっと堪える、そんな浅はかな想定は通用しない。まともに組み付いてなんとかできるとは思えない。抱きついてしがみついて抑えて絶対に離さない、それしか方法はない。
「……っ、もし、お前が……、柔道着を着てて、俺が現役最盛期の頃だったら、少しは勝負になった」
「別に挑発しなくても追い掛けるのを諦めるまでは行かないわ。後ろ向いて走って逃げたら追い掛けてケガさせるわ。ほら来なさい?お相撲が終わったらちゃんとおねんねするのよ」
互いの手の届かない距離を保って、ミーシーが冷静に落ち着くのを待つべきだとも思ったが、こちらが近寄らなければミーシーが平然とこちらへ一歩二歩と歩いてくる。
逃げる意味はない。捕まえて落ち着かせて話をする。……捕まえた場合は締め技を警戒しないとならないから俺はジャケットを後ろへ放り、次の手がタックルであることを悟られないよう高い重心のまま立った。
手近に殴りつけるための石が転がってないかは注意しなくてはならない。
一歩……、まだ遠い。二歩……、まだ確実とはいえない。腕一本と違って両手を広げて包む。後ろに退こうが横に跳ぼうが、俺が突っ込んでいけば躱されるはずがない。捕まえて、足を踏まれようが離さない。体重は俺の方がはるかに重い。金的は足の踏み出し方でなんとか防御できるはずだ。シャツだけなら締めはない。腰に腕を回して地面に倒れ込めば、しばらくは……、引き止められる。
引き倒して、『絶対に出て行かせない』と、何度も何度も言えば良い。息を、吸って、絶対に捕まえられる距離で、ミーシーの動きをしっかりと目で追いながら、俺は、一歩踏み出すと共に、両手を広げた。
俺はただでさえ背の低いミーシーの腰より下に肩をぶつけるつもりで精一杯に低く、低く踏み込む。ミーシーの膝裏を抱えて倒れ込むくらいのつもりで。
……ただ、俺はこの瞬間、こうも思った。
ミーシーは、タックルが来ることも、まあ当然知っているわけで、それでも逃げないということは、もしかすると、俺に止めて欲しかったんじゃないかと、……そんなことを思った。
抱きついて少しでも気持ちが伝わるなら、思い直してくれたりするんじゃないかと、思った。
ミーシーの重心が左右どちらにも移動しないまま、俺は両腕を少しずつ狭めていく。
くるりと背を向けしゃがみ込んだミーシーはそれよりも更に低く俺の両腕を潜り抜けて、なら俺はもう覆い被さるように押しつぶすしかないわけだが、ミーシーは、すぅと、降り始めの雨を確認するかのように手のひらを上に向けて右腕伸ばし、それを引っ掻き下ろすように俺のシャツの襟に指を掛けた。
こんなので、……いや、俺が、浮き上がる、はずがない、はずがない。ただ誤算だったのは、ミーシーは俺が想像していたより更に深く踏み込んでいたようで、ちょうど俺の股下あたりに屈んでいて、そうすると、俺がナナにしていた肩車の要領で、俺の両足は地面の感触を失う。
ぐぃと襟を引き寄せられる感触から逃れようと首をのけ反らせてみたが、もうそんなことには、何の意味もなかった。
「っ……」
「携帯返しておくわ。ごめんなさいね。壊れてたと嘘ついてたのよ。まあ、ちょっとは嫌いになったらどうかしら。そうしてくれると助かるわ」
立てない。これはしばらく立てない。
待て……。おい、……おい。待ってくれ。
「…………」




