十話㉔
追い掛けないと。追い掛けないとミナコはどこかへ行ってしまう。追い掛けて、引き止めないと。
まず、ミナコの要求はなんだった?どうしてやれば解決するんだった?その答えを、多分俺は聞いてない。なら、考えないと……。
……俺がアンミを、引き渡しても、もうこの問題は解決しないとして、……もし、アンミを引き渡して解決する話だったら、俺は何を正しいと決めただろうか。
そんな仮定の話に意味はない。意味がないことに、こうも揺らぐ必要などない。多分、アンミを引き渡すことなどない。そして俺はその決断によって、トロイマンと対立することになる。
アンミの側につくことは容易い。アンミの味方でいてやることは容易い。でも実際のところ、俺が何をどうしてやれるんだ。俺は今、現実問題として、何もしてやれたことがない。何もしてやれることがない。
だから俺は、……両方を失うことになる。常識的にいって、トロイマンの味方をする道理がない。道理はないが、せめてそうすれば、俺は片方を失うだけで済むのかも知れない。
俺が手元にあると思い込んでいた大切な一つだけは、もしかして失わなくて済むのかも知れない。いいや、そもそも、その手元にあるはずの大切な一つに、実際のところ、俺はもう触れることも叶わない。
失っているものだと、認識しなくてはならない。だからまあ……、両方を失うことはほぼ確定的で、その間どちらを味方してやれるかも決まりきっていて、そうすると胸の中には無力感しか残らない。
世界を敵に回して戦うような熱いハートのヒーローになれるわけもなく、正義を貫く高潔で清廉なヒーローになれるでもなく、俺は何事もない平穏を望む凡人としてここに、せいぜい数歩を進んだだけで、佇んでいる。
ミナコの姿はもう見えない。せめて座り込むなら、ベンチまで歩こうと思った。
「俺は……、なんにもできないな。何もできない」
『いいえ。あなたは、アンミを守ってあげなくてはならない』
具体的に、どうやって?
『…………。健介、これだけは信じてください。あなたが諦めなければ、良い結末が訪れる』
「市倉絵里が方法に言及しないのは、これが原因だったのか?ミナコを、……いや、トロイマンを、強引にでも止めれば、研究は終わるのかも知れない。俺にはそうするチャンスが用意されるのかも知れない。ああ、もしかして、だから友達観なんて、言ったのか?……さすがにそれは、あまりに、皮肉が過ぎるな」
『…………』
「俺はトロイマンに寝返ることもあり得た。あるいは、ミナコに心を向けたとして、間違ったことは正してやるべきなのかも知れない。残念ながら俺には……、どちらもできそうにない。市倉絵里の期待はここで破綻する」
『あなたが再び、トロイマンと会う必要はありません。トロイマンと一言も交わす必要はありません。私は難しい方法をあなたに求めたりしない。ただアンミの側にいてあげるだけで、それで十分……、なのですが、ああ。それすらも一時、あなたを苦しめることになるのでしょうか。私はあなたに、誠実であることを望みます。私は全てを見通すことはできない、その道の険しさまでは知ることはできない。けれど、……でも、ちゃんと方法はあるのです。あなたが途中で挫けてしまわない限り』
「…………」
『これにどうか、挫けないで』
これに、というのは、先程のことを指しているんだろうか。
それとも……。今まさに、この瞬間のことを、指しているんだろうか。小さな黒ずんだ影が揺らめいている。
それにふらふらと釣られるようにして歩く、赤い髪の、アンミの姿が見えた。
また、子供の声が、『知らせている』。
アンミに。
あるいは俺も含めた、この舞台に立つ全ての人間に、『知らせている』。
◆
『助けてって言えば、少しは変わったのかな』
『そうはならないことを知っている冷めた瞳で、世界を見つめながら』
『あんみたのしいです かぞくです』
『器を差し出さなければ、誰もそこに注げない。零れていく零れていく』
『どうして目が見えるようになって、大切な人ができたのに、あなたは綺麗なお花を探そうとしなかったの?』
「私、探した。お花も探したし、石も探したし、海じゃないのに綺麗な貝殻も見つけた」
『それなら、どうして……』
「私、家に着く前に、全部捨てた。スイラお父さんが作ってくれた料理が美味しかったこと思い出したから。ミーシーが私に難しい字の書き方教えてくれたこと思い出したから」
『それなら、どうして……』
「…………?」
『どうして……』
「どうして、って……?もっと良いのが、似合うから?」
『ああ。まるでかみ合わない私とあなたの会話』
月の形をした滑らかな石は、その時まるで宝石のように思われたのに。つまらない、小石でした。単なる丸い石で、どこにでも転がっているようなものでした。あなたが捨ててしまったから。
一日中外を探してやっと見つけた草花はあんなに綺麗に咲いていたのに。あっと言う間に色褪せてしまった。あなたが誰かに渡すことをしなかったから。
川底で光を反射した白い貝殻は……。ねえ、そんなものに、一体どんな価値があるというの?あなたが、それを、渡さなくて、渡さなかったそんなもの自体に、一体どんな価値があるというのですか?
◆
「ああ、ああ、かわいらしいアンミ。あなたのかわいいお顔が私からもっとよく見えるように、少し前髪を切りましょう。ねえ、そうしましょう?」
『愛を見て、愛を知る』
「ミーシー、私、料理した」
彼女はどうにかして、生煮えのいびつな野菜が沈んでいる塩水を、喜んでやれなかっただろうか。
「アンミ。……美味しくないわ。料理はやめなさい」
彼女はどうにかして、もう一つ深く思っていた心の内を、伝えてやれなかっただろうか。
「ミーシーが美味しそうにできるようにする……」
彼女は辛辣な言葉を当てつけて、うなだれる少女の姿を望んでいただろうか。
「アンミは、料理は嫌いでしょう」
さあ……、ゆっくりと沈め。その種を心と呼ぶ。土を掘り。掘り返し、芽吹く前に。
沈めて……、沈め……。その芽を始まりと呼ぶ。見つけて摘め。柔らかく摘み取り、根付く前に。
ゆっくりゆっくりと沈め。その蕾を予感と呼ぶ。手を汚し刈れ。鋭く何度も刻み、花咲く前に。
◆
『愛されないから愛するのをやめた』
そう一言呟けば全てが終わるのに、全て許されるというのに。
『…………。可哀相。……可哀相な子。どうして?答えが分からないのね。どうしたら?いいえ、何もしなくて良いのよ』
近寄れば、壁に身を寄せ、居場所がないと言う。抱きしめれば息が苦しくなると言う。
頭を撫でて誉めてやれば、あげるものが足りないと泣きながら、重い荷物を引きずって指が痛いと言う。
そんなことをしなくても良いと諭せば、生きていけないと言う。
『どうして一人で出掛けたの?』
(どうしてアンミの側にいてあげなかったの?)
「寒い日だったから。アンミが風邪を引いていたから」
『それなら、どうして?』
(どうしてアンミの側にいてあげなかったの?)
「アンミがいないとつまらないことが分かってたからよ」
『それなら、どうして?』
(どうしてアンミの側にいてあげなかったの?)
「私が出掛けることを知ったらアンミは行きたがったに違いないわ」
『それなら、どうして?』
(どうしてアンミの側にいてあげなかったの?)
「私が釣りが好きじゃなくても、アンミが次は行きたいと言うかと思った」
◆
『もしも愛が精神病の特効薬だと信じているのならあなたは可哀相な子に違いないわ。この辺りのどれだけの病院が廃業せずに、愛に飢えている人々を受け入れているのか知ったなら、きっとあなたはさぞやがっかりするのでしょうね。はっきりと断言しますけど、愛を吹き込んで治るならこの町に精神科医など一人もいない。あなたの隣に立つ者はすかすかの麻袋を膨らませようと絶えず息を吹き込み続ける愚か者に見えますよ。いくら息を吹き込もうと、誰かがあなたを呼吸させたとして、それは膨らみもしないし、ましてぷかぷか空に浮かぶようなことはない。あなたは常に自分の中のしぼんだ風船をどうにかしようと言葉を吐き出しますが、実はそんなことにはまるで意味がないのです。あなたは、いれものが、育たなかった。穴が開いている。いくら吹き込んだかは重要じゃない。愛の量は重要じゃない。愛情を受け止めることができない。人の心は普通ゴムでできている。小さく吹き込まれた愛を漏らさず常に満ちて、そしていくらでも膨らませることができる。愛が足りないと言えば他人のせいにできますか?愛を知らないと言えば教えて貰えるのが当たり前だと言いますか?愛さえあれば私はこんなはずでは!いつも惨めなのは私が誰からも愛されなかった悲劇によるものだ!あら、困ったこと。あなたの悲劇というのは一体何?どれだけ吹き込んであげれば、あなたは穴を塞ぐ気になるの?いい加減にしなさい、アンミっ!』
『果たして、夢の女は、ただ真実だけを伝えるか。彼女こそ誰よりも、都合の良い着地点を求めている』
『ああ、可哀相なアンミ。誰かに愛されたことのない奴は、きっとみんなを憎むに決まってるんだろう。”ありがとう。家族ごっこが、とても楽しかった。”』
『何を描いたの、アンミ?どうしてクレヨンがあったのに、色を塗らなかったの?どうして髪を切ってとねだったの?どうしてそんな服を気に入っているの?どうして料理なんて始めたの?ああ、ああ……。アンミ。あなたは健介と出会うべきでなかったのかも知れない。あなたにその資格はなかったのかも知れない』
「神様だと思いました」
『それを知ったら、さぞや皆、がっかりすることでしょうね。どうして、こうも、人を信じられないのでしょう』
『手を繋いでいるから、引っ張られて痛いのでしょう?どうして同じ方を見て歩こうとはできないの?』
「アンミは私に、助けられたくないんだと思うわ」
『それなのにどうして手を繋いで歩くのでしょう?アンミを大切に想っている?』
「でも、アンミの気持ちなんて私にはどうでもいいのよ。小さい頃の私は知らなかったわ。小さい頃は……、アンミは私のお人形だと思ってたし、私がアンミの世話をするの。私がアンミに教えてあげて、私がアンミを助けてあげて、かわいいお人形の髪を切ってあげて、髪をといて、満足してそれを撫でるのよ。私はアンミをお人形だと思ってたから、別にお人形からどう思われてても、私が、アンミのことを好きならそれで良いと思ってたわ。でもそれじゃあダメだったのね。ダメだったわよね。どうしようもなくなってからそういうことに気づくのよ」
……そう。もう。無理ですか。隠しきれませんか。耐えられませんか。これはあなたの蒔いた種なのだから、どのように終わらせても、あなたが満足ならそれで構わないのかも知れない。そうすること以外に、どうにもならないのかも知れない。
けれど私には、一つだけ諦められないものがある。それくらいは願っても許されるはずのわがままがある。
『良い子ぶるのはフェアじゃないな。何もお前だけに欲しい結末があるわけじゃない。お前だけに理由があるわけじゃない』
『駒を動かしたいのなら、その筋書きくらいは知らせてやるべきなんじゃないかな。お前の目的で他の駒が動くのは気に食わないぜ。だってそうだろう?僕は、お前の人形劇を見にきたわけじゃない。台本の用意された劇を眺めたいわけじゃないんだ』
『でもそれだとあまりにお前が報われないな。お前にだって想いがあるなら確かに盤上の駒には違いないんだから……、こうして譲歩してやる』
『もし、ルールが守れないなら、僕が、教えてやっても良いんだぜ、公正な、これまでとこれからを』
◆
『あんみはとてもたのしいです。 かぞくです。』
『いいえ、あなたに。家族なんていません。今でもあなたは何一つ変わらずに、独りぼっちのままなのです』
◆
アンミはふらふらと黒い影を追い掛けて手を伸ばして、けれどどうやらそれには触れられないようだった。触れられないことに気づいても立ち尽くして、諦められないのか、黒い影をずっと眺めている。
その間も夢の女と子供の声は口論を続けていた。
『どちらが、正しいんだろう?』
夢の女の声と子供の声の主張は食い違っている。仮に矛盾がなかったとして、両者の主観はまるで違っている。
それでいて、どちらが公平であるかというと、……どちらが感情を交えない冷静な視点かというと、明らかに、子供の方が筋が通っているように感じられた。
ああ、そうなんだ。理想というのは確かにある。でもどうにもならないものを、どうにかするためには、何かを曲げて作らなくちゃならないんだろう。何かを歪めてそう見えるように加工して、こうだと言い張らなくてはならないんだろう。
だからこれは、今この瞬間が、歪んでいない場合の景色なんだろう。俺はそこに吸い寄せられていく。
「アンミ……」
黒い影を見つめているアンミに声を掛けたのは、青い髪の女の子だった。ミーシーは静かに、後ろから、アンミへと呼び掛けた。家を出たアンミを追ってここまで来たんだろう。
アンミは、気配に気づいて振り返ったのか、それとも呼び掛けに応じたのか分からない。何気ないように振り返って、ミーシーの姿を見つけた。
「ミーシー、……健介?どうしたの?」
「どうもしないわ。…………。ただ、おままごとは終わりにしましょう」
意味を、受け取りかねる。始めてもいないおままごとに終わりを求めることなどない。




