十話㉓
◆
『あなたが今思うような、その通りの意味ではありませんか?』
ミナコが、アンミを、研究に協力させたいと思う動機がない。俺たちと対立して強引に押し通すような事情がない。
もしもそうした動機や事情があったとして、俺とミナコは、友達だった。話せば分かる、友達だった。
だから?冷静に?お互いの話すことを天秤に載せて、俺はアンミたちと、ミナコとの、どちらかを選ぶのか?
馬鹿馬鹿しい話だ。
『あなたは、アンミを、選ばなくてはなりません』
順当に考えたらそうだ。ただ俺は全てを誤魔化しようなく突き付けられるまで、仮にそうであった時のことなど考えたくない。
ミナコに謝って、仲直りをして、それだけで良い。それは大層な願いだったろうか。そんなに難しいものだったろうか。
◆
公園に辿り着いた時、時計はまだ五時を少し回ったくらいを指していた。ベンチに座り込み、携帯電話に指を掛ける。
「信じている……。俺は、ミナコを、信じている」
気の抜けた独り言だ。笑い話だ。信じているも何も、俺が今、そんなことを口にする理由はなんだ?
「ミナコは、トロイマンじゃない。トロイマンと仮に交流があったとして、何かしらの取引があったとして、俺が懇願すればミナコは話を聞いてくれる。分かってくれる……。なあもし……、もしも俺の考えていることがことごとく悪い方向に転がったら、俺は全部、……全部とは言わないが、大切なものをほとんど失うことにならないか」
だから夢の女は、そして市倉絵里は、俺に知らせたくなかった。いくつものピースを渡しておきながら、最後の一つは俺自身がはめ込んで風景を決めなくてはならない。
そりゃそうだ。人から伝え聞いたら俺は喚くしかない。あり得ない、嘘だ、俺を騙そうとしている。
信じたくないことを教えられて、信じるべき相手だと思い続けることができるだろうか。目を瞑ったんじゃないか。耳を塞いだだろう。声を上げて反論した。なあ俺は、もしかして、もう立ち直れないほどに失ったりするのかな。
『いいえ。あなたは何も失いません。苦しいと感じることがあるのかも知れません。耐えられないと思っていることが現実に起こるのかも知れません。けれど、私が、あなたの味方です。あなたが手放さなければ、あなたは何も失いません』
耳障りの良い、曖昧な言葉だった。諦めなければいつかは叶うというような、空しい響きのようにも思えた。
俺はなんの決意もなく、力のこもらない指で携帯を操作し、ミナコに電話を掛ける。
「…………」
一回、二回、変わらないリズムでコールが鳴り続けている。三回、四回、もういっそ、このまま時が止まれば良い。五回、六回、……そして突然、ブツリと音が途切れた。
掛け直そうと携帯をもう一度操作して、圏外と表示されていることに気づく。いきなりこの地域が圏外になるなんてことはあり得ないわけだから、おそらく携帯電話の不調だろう。
とりあえず電源を切って、再起動して様子を見ることにしたが、カードが抜けているなんていうメッセージは表示されなかった。単に、画面上の文字が『圏外』とだけ、知らせている。
「圏外なわけないだろうに。なんか遮ってるのか?逆になんでさっきコールできたんだ?」
上にかざしてみたところでアンテナの表示は変わらない。立ち上がって電波を探そうと思った。もし見つかれば公衆電話でも良い。
だがそのどちらも、すぐに探す必要がなくなった。俺が連絡を取ろうとした相手が、ほんの数十メートル先を歩いていたからだ。
ミナコは、俺の方へと歩いてきている。にも拘らず、俺に合図をするような素振りはない。俺の姿が見えているのかすら怪しいくらいに、ただまっすぐを見つめたまま、無機質にこちらへと近づいてくる。
軽く手を挙げてみたが、それにも反応しない。一歩ずつ速度を変えることもなく近づいてくる。俺も近寄るべきなんだろう、本来なら。
だが、そうはしなかった。ミナコが立ち止まるのを待った方が良い。下手をすると俺を素通りしてどこかへ行ってしまいそうだったから。
「ミナコ……」
ミナコは俺と目線を合わせるためなのか植え込みのレンガを上ってからまたこちらへ振り返った。
まるで俺を、……どうしてなんだろう。憎んでいるかのような表情だった。いや、見下しているのかも知れない。どちらにせよそれは友好的な振る舞いには程遠くて、俺を遠ざけるための記号表現のように思われる。
なんで、……こうも違う。外見はいつも見ていたミナコに違いないのに、中身だけがすっかり他の人間に入れ替わってしまっているように思えた。
「ミナコ?」
俺が呼び掛けて、ミナコの首が動いたから、きっとミナコの表情も俺のために用意されたものには変わるはずだと思っていた。
変わらない。こちらを凝視している。俺の言葉を待っているんだろうか。
「ミナコ、ごめんな……。許してくれ」
「何を謝りますか?」
静かで冷たい、聞いたこともないような声だった。ミナコの声なのかすら分からない。でも、ミナコの唇が動いている。
「もっと友人を大切にすべきだった。お前のことを考えてやるべきだった」
「そうですか。どうやら全部、説明をしなくてはならないようです」
「説明……?何を説明することがある?そういえばほら、バイトをな?付き合ってくれるような段取りになってるのか?陽太もはっきり確実だとは言わなかったが」
「君は、説明を、聞きにきたのではないのでしょうか。時間より早く来たから他のおしゃべりができるとでも思っている?」
「何の説明だ?」
「こちらの仕事について、説明をしておいた方が良くなりました。事情についてある程度伝わっているものだと思っていましたがどうやらそうではないようなので、こちらからも最低限の情報は伝えなくてはならない」
「仕事や事情か。どうしてそんな喋り方をするんだ?俺が聞きたいのは、仕事や事情じゃない。説明すべきことは、お前が俺に対して、何を怒っていて何が気に入らないのかだ」
「いいえ、君が聞くべきことは私が何を怒っていて何が気に入らないかではありません。どうしてこういう喋り方をするかは聞いても良い。ただし本来、君は『ごめん』でも『許してくれ』でもなく、『アンミちゃんを渡すつもりなどない』というある程度事情を察した普通の反応をしてくれた方が良い。『アンミちゃんを引き渡すつもりはない。よく分からない研究に協力させるつもりはない。自分が守る』と言ってくれた方がこちらは都合が良い」
「…………。どうして、そんな喋り方をするんだ」
「順を追って説明をしなくてはならない。君はおそらく反対しますが、君が家に連れ帰った女の子を私の研究室で保護する準備があります。その準備についてこちらでもいくつか問題が起こっている。私はアンミちゃんを、生きている状態で保護しなくてはなりませんが、残念ながら研究所内にこれを邪魔しようとする動きがあります。何故私がこうして説明をしなくてはならないのかというと、研究所内に裏切り者がいて、単独か複数かは分かりませんが、君に接触している、あるいは今後接触してくる可能性が十分にあるからです。心当たりはありますか?」
「私の?研究室?裏切り者?」
「研究所に裏切り者がいて、アンミちゃんを殺すために、君に接触する可能性がある。こちらは生きて保護したいと思っている。それを邪魔したいと思う場合はアンミちゃんを殺してしまうのが簡単な方法になります。隠したり逃がしたりするよりも、よほど簡単で確実な方法です。観察するに、……そういうのを嫌がるであろうから、事情を説明して注意を払って貰わなくてはならない。こちらの内部で裏切り者が発生しているわけですので、アンミちゃんを研究所内に受け入れる場合は慎重に行動する必要がある。君は、こちらの準備が万端となるまで継続して、アンミちゃんをこれまで通り保護していてください、そういったお願いも兼ねて説明をしています」
「分からないか?俺が説明を、欲しいのは、……そんなところじゃない。ミナコ、分からないか?」
ミナコはパチンと胸元のプレートを引き剥がし、そのままぶらんと腕を振るって俺の足元に、何かを投げて寄越す。しゃがみ込んでそれを拾って初めて気づく。
もう一度立ち上がるのも億劫なほどに、足に力が入らなかった。ああ、やっぱりな。と、思った。
『高田総合医化学研究所』
『分子生物学分室』
『Philine Treuman』
名前と所属の他は、写真と数字とバーコードらしきものが印刷されているだけだ。峰岸ミナコという名前は、どこにも見つからなかった。
これが一体何を意味するのか、何かを意味するだろうから、これをこちらへ寄越したはずなのに、俺はその意味を上手く繋げて答えにはできない。
「おそらくもう、ミナコと呼ばれることはありません。高総医科研のトロイマンとして君と話をしている。この立ち位置でははじめましての君と私で、今、話をしている」
「俺の中ではずっと、ミナコなんだけどな……。友達、だったんだよな?」
「どうでしょうか。自由に考えてみてください」
「今もし事情があってそういう立場で話をしているとしても。だって、ほらそうだ。俺がアンミと会ったのはつい最近のことだ。それが事情を変えて、……つい最近事情が変わって、それでお前はそういう話し方をしている、わけだろう」
「…………。健介。私は、アンミちゃんを追ってここに来ました。アンミちゃんが村にいて、研究所が保護する計画をしている間もここにいました。アンミちゃんが、この地域に逃げ込むことはあらかじめ予想されていて、高橋健介か、斉藤陽太か、その辺りに匿われる可能性が高いことを私は、君と一緒に行動するようになる前から知っていました」
「おかしく、ないか?それはおかしいだろう。一年以上前から?アンミが逃げ込む先が分かってた?そんなはずないだろう」
「おかしくありません。百パーセントではない。ただし確率が高いだろうということを分かっていた」
「一年以上先のことを予知してたとでも言うのか?だったら、俺が匿うのを待つ必要なんてなかったはずだ。俺なんかを関わらせずに……」
俺なんかを関わらせることなく、俺の与り知らぬようなところで、アンミを保護してくれていたら、俺は、せめて、こんな思いはしなくて済んだんじゃないだろうか。
そんな最低な願いが滲むほどに、心がすり減ることはなかったんじゃないだろうか。
俺はアンミを、研究所に引き渡すつもりなどない、と、そう、言うべきだ。そう言うのが正しい。だが、そう、できそうもなかった。
「予知能力などとは違います。根拠に基づいて予測を立てていたということです。これはわざわざ説明をして納得して貰う必要はない」
「なんだじゃあ……、ああそういうことか?アンミが逃げ込む先を監視してたとでも言うのか?だから……」
例外を、リストアップして、その行動を見張っていた、アンミが、そこに辿り着く可能性は高いから。だから、友達のふりをしてた?それはいくらなんでもおかしい。
まだミナコが多重人格か、今話している人間がミナコの双子の姉妹である方がいくらか現実味がある。演技であったはずがない。
だってそうだろう?あれが演技?友達のふり?俺が気に入るように?俺を見張るために?
「峰岸ミナコと名乗っていました。けれども、それは本当の名前ではありません。私にはやらなくてはならない仕事があります。それは友達らしい振る舞いではありません」
「誰か大切な人が病気だったりするのか?」
「いいえ?」
「誰かに脅されてたりするのか?」
「全くのいいえ」
だったら一体、今この瞬間は、何なんだろう。これまでのことはなんだったんだろう。大切にしていたものを失ったように感じているのに、その大切なものは、一体何だったんだろう。
俺はそれを、天秤に載せるのが恐ろしくて仕方ない。
「俺とお前は、友達だった。仲の良い、友達だっただろう?」
「事情があってのことをどう解釈するかはお任せします。ですが、前提として、私がアンミちゃんを保護しなくてはならないということは何が起きても変わりありません。いざ、こちらが強引にアンミちゃんを引き取ることになった時、友達であるとかそうでないとか、そういった部分は何も影響しない。友達のような振る舞いが友達だと思うのなら、友達だったのかも知れません。事情を加味する場合、評価は変わるかも知れません。これからを考えるのなら、友達ではなかったし、友達になることもないのだと思った方が良いでしょう。おそらく君は、アンミちゃんを研究所に引き渡したいとは考えていない」
「どういう理由で、アンミを保護しなくちゃならない?理由による……。俺は場合によっては、お前の味方でいてやれる……。妥協点を探して……、アンミの身の安全を保証して、月に何度か通院して研究に協力して貰うくらいなら、もしかしたら、できるかも知れない。俺にだけは話してくれ。どんな理由がある?もし俺が納得するなら、もちろん口外しない。アンミやミーシーや、他の人間にも頭を下げて泣き縋って、……別に悪い話じゃない。医学の発展か?きっと誰かの役に立つ」
「私、個人的には医学の発展は特に目的としていない。君が失望するであろう、利己的な理由で取り組んでいるのかも知れない。これについては私から話すつもりはない。この研究において、トップである高田院長の考えからいうとアンミちゃんは研究所から一切出さない方が望ましい。私もその方が良いと思っている。アンミちゃんを管理するコストが大きく違うし、条件がいつ反故にされるか予想できない。それに研究所内だけのことではなく、アンミちゃんを外に出して放置しておくのは危険です。アンミちゃんの身の安全はそれによって保証できないし、アンミちゃんによって周りに危害が及ぶ可能性も否定できない。よって条件面で妥協して解決できる部分はない」
努めて平静を保とうと思っても、感情の抜け落ちた表情しか浮かべることができない。ただ立っているだけなのに、すぐにでも座り込んでしまいたいほどに足が、痺れている。
ある意味、ミナコの台詞は重要なものだったろう。俺がアンミの味方であるべきだと決めるために十分な後押しだったはずだ。なのに……。
「……お前と友達でいるために、俺はどうすれば良い?」
わけの分からないことを聞いた。俺もわけが分からなくて、信じがたくて、それでも、目の前のミナコは、どうしようもなく、俺の知っている、俺が知らなかったミナコだ。
動けない俺を、まるで哀れむかのように見た『その女の子』は……、振り返り、ゆっくりと去っていく。ああ、もう終わってしまうのか、この会話は。
幻であって欲しいと願った。どんな映画よりリアルな体験だった、と『その女の子』に話したかった。
夢だと……、思い込むことができたなら良い。こんな夢を見た、悪かったと、『その女の子』に謝れば済む。小突かれれば済む。
嘘であったらどれだけ助かったろうか。冗談だよ、と口元を上げる『その女の子』の笑顔を見たかった。その後ろ姿は幻にしては、はっきりとし過ぎていて、夢にしては思いも掛けず、嘘や冗談にしては……、あまりにも、見えた瞳が冷たかった。




