十話㉒
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『誤解はあり得る。ミナコが俺に対して怒っている理由は、ちょっとした勘違いが原因だったりするのかも知れない』
おそらくどこの大学も、英語と第二外国語というのは必修科目になっているものなんだろう。こればかりは簡単そうだとか、興味があるとか、そういった選別ができなかった。
大学生であれば誰もが、それこそ海外に行く予定など関係なく試験が課される。どうせ使う機会など訪れないだろうと悟っている俺にとっては、教科書一枚捲るのも苦行だった。
『こんなものどうやって身につけたら良いんだ』とぼやいたところ、ミナコもそれについて考えてみてくれたようで、「辞書を使うから覚えることが多いように感じるのでは」とアドバイスしてくれた。
「授業の形式から考えて、何も難しい言葉を使う必要などないのだと思います。それこそ感想を求められてもグッドかバットしかない」
「グッドとバットなら確かに、文法やスペルで減点されなくて済むかもな。ただ、な……、相当心証は悪いぞ」
「まあしかし、健介の場合、運まで悪いのでは?親しいと調べてインティメイトが出てきますか?」
「他にも出てきたけどな。……そうだな、辞書にも不信感がある。だからお前にもチェックを頼むようにしてる。お前は外国語はどうやって覚えたんだ?」
確かにミナコの言う通り、知らない単語を調べて不用意に使うと、意図しないニュアンスが付け加えられてしまう危険性も孕んでいる。
電子辞書では……、あるいは紙の辞書でもそうなのかも知れないが、なんというのか、編集者による、下ネタを控えようとする余計な気遣いが含まれたりするんだろう。
まるで隠すかのように、性的なニュアンスが後ろの方に付け足されていたりする。
『親しい』と述べたい時、おそらく当初は三択だったろう。グッドかクローズかインティメイトだった。
『良い』かと問われると、さあどうなんだろう。
『閉じてる』かと問われると、別に誰でも入り込む余地はあるだろうと思った。
そうすると消去法でインティメイトが残される。ミナコと俺は、インティメイトフレンドということになった。その時は響きも格好良いと思っていたんだろう。
発表前にミナコが指摘してくれたお蔭で恥をかかずに済んだが、俺はもうそれ以降、短い作文でもミナコの監修なしでは安心できなくなってしまった。
調べ直してみると確かに、インティメイト、肉体関係をほのめかす、下の方に、そう書いてあった。
「どうやってと言われましても。聞いたことがある言葉を組み合わせたらなんとかなりませんか?別に僕も合ってると確信しながら話しているわけではない。なんとなくクリエイティブなアレンジなどをすると意味が途端に通じなくなってしまうこともあったりなどします。まあしかしですね、他の人が話しているのを見て、他の人が話している相手を見て、真似してみるのが良いでしょう。ちょっとくらいはシチュエーションが違っても許して貰える場面が大半です」
「他の人が……、いないだろう。仮にいたとして、ここが英語圏だったとして、それは一字一句間違わずに覚えられる奴の特権でしかない。あんまり参考にはならんどころか、余計にやる気をなくすな」
「一字一句間違わずというのは、どうでしょう。何も健介に限らず、僕も間違って覚えたり聞き取れなかったりすることは割とあります。何度か聞いてやっと覚えたりということもあります」
「?お前でも何度も復習するようなことがあるのか?具体例挙げてみてくれ」
やる気を失った俺に対する方便だろうと思った。見えたら覚えている人間が、単語帳で復習したりなどもしないだろう。一体何が覚えられなかったのかと聞けば、おそらく変な答えが返ってくるに違いないとは思っていた。
まあ、ただ、もしかすると俺は小さい頃から一貫して、ミナコでさえ覚えられないような間違った方法で、勉強に取り組んでいるかも知れない。だから成績が悪いのかも知れない。
とすると、その悪い方法を悪いのだと学ぶことで習慣を矯正してマシになる可能性は残されている。
「不幸中の幸いというのを不幸中のつらいだと間違って覚えていたことがあります。あと、日本語に限らずことわざの類は自信がありません」
「お前でも覚え間違いなんてことがあるのか」
「もちろんありますとも」と、ミナコは言った。
「僕の場合は、初めては耳で聞いた言葉だったのですが、なんというか根拠もなしに、『今のは不幸中のつらいを、不幸中の幸いと間違って台本を読んだんだろうなあ、馬鹿だなあ』と思って間違って覚えてしまいました。『まあ似てるから許してやるか』という感じで間違って覚えていました。不幸中であれば大体つらいものですので、僕が当初受け取っていた意味でも、なんか文章の組み立て方が下手だなあというくらいの感想しかありませんでした。何度も何人も不幸中の幸いというので不思議に思って調べてそこでようやく意味が判明しました」
「俺とは種類違うな……。それはお前の推理間違いだろう」
「単語の意味を知っていても組み合わせで意味が分からなくなることがあるという例です。ことわざなどはクイズなどで見掛けますが実際に口にする人は稀です。例えば『地獄に仏』というのも全く逆の意味だと思い込んでいました」
「逆の意味?地獄に、仏様がいてくれてありがたいという意味の、逆ってなんだ?」
「仏が地獄に一人でいて、仲間もいないし世知辛いし、孤独でつらいという意味です。けれども僕は今でもこちらの説明の方がしっくりきます。アウェイである。第一地獄で仏に出会ったとしてもこの仏なんか悪いことしたんだろうなという感想しかない。助けて貰えるとは到底思えない。力を失っていそうである」
「……確かに。地獄に仏……、というのは、俺だけ転校生みたいな、そういう響きがないこともないな」
「おそらくですが、そういった誤解が生まれやすいので、自慢げに話し言葉の中で使う人が少ないのだと思います。僕も当初こそ、辞書で大体分かるだろうと思っていたところはありますが、単語を一つ知っているというだけで油断していると、不幸中の幸いですね、地獄に仏ですねと聞いた時に、良かったですねという意味合いは受け取れません。まあこれはですね、よくよく思い返してみると、誰も読み間違いを指摘していないわけです。良かったそうに、周りの人が頷いているわけです。どちらかというのなら、そちらに重点を置いて言葉の意味を考えてみるべきでした。話している人々の、雰囲気などをちゃんと観察すると、自分が勘違いしていることにももっと早く気づけたかも知れない」
「ああ、まあ、……そうだな」
そう、そして多分だが、分かりづらいことわざや比喩でなくとも、正しく伝わらないことはいくらでもある。
お前のことを百パーセント分かっているなんて言えない俺を、お前もどうせ百パーセント分かってくれてたりしないんだから、もし肝心なことが伝わっていないのなら、もっと冗長に、しつこいくらいに、簡単な言葉を重ねるべきだった。
◆
『たまたま機嫌が悪かったのかも知れないし、俺に見せるための演技だったのかも知れない。』
「他人が慮ることなくこちらへもたらす利益に対して『しめしめ』、自らの力で得た成果や報酬に『やった』、貰ういわれのない幸福には『ありがとう』。基本的には多分こういう使い分けをします。しかしながら、内心しめしめと思いながら、状況によってはやった、あるいはありがとうと言う方が角が立たないこともあります。マラソンで前を走っている人が転んだ時は、しめしめと思いながらも『ありがとう』というのが正解です。そんなことは望んでいなかったというポーズが必要です」
「マラソンのそのシチュエーションだと黙ってる方が良いだろうな。そして俺の感覚だとしめしめは相手を自分の思惑通りに動かした時にほくそ笑む表現だ。あんまり良い表現ではないな」
「内心しめしめと思いながら黙っているという選択もできます。僕は割とそういうのを器用にやっている方なのでは。陽太に関してはやれやれとしめしめを交互に思っている」
「そうなのか。コントロールできるようになったか?陽太を」
自分ルールで車線を決める二人の、一体どっちにブレーキを求めるべきなのかは決めかねる。場の雰囲気を察知して遠慮するのはミナコだったろうし、良識や常識でいうなら、陽太の方がまだマシだったりする。
そのどちらもかみ合わせが良くなくて事態を悪化させるということは間々あったりする。間を取っているようで、実はどちらが求めたものとも違う、そういうことがあったりする。
かみ合わない。
「できるできる。内心こっちが悪いと思っていても怒ったふりをすると何故か陽太が謝ったりします。しめしめ。最近は通用しなくなっている。明らかに陽太が悪いはずなのに、謝らないことが増えている」
「怒ったふりというのはどうやってやってるんだ?」
「それが正直よく分からない。そういう時に鏡かカメラを持っておけば良かったのですが、とにかく陽太が言うには怒ったふりだそうです。それによって陽太が謝ります。もしかすると最近通用しないのは再現性が低いのかも知れない。こうです。こうします」
「目ぇ、瞑ってるだけじゃないのかそれは……」
「ではちょっと首を横に振ってみます。こうでしょうか?」
「えぇ……、分からん。お前怒ってるとそういう感じなのか?」
「?違うのでは?怒ってるように見えますか?今僕は怒っていたりはしないですけども」
「今はそりゃ、……今怒ってたらなおのこと分からん奴だが、怒ったポーズがお前の中ではそうなんだろう?」
「個人的な感想を言うと怒ってる時にこういう動きをする人はいないと思います。けれども陽太がこれを怒ってるのだと思ってるなら陽太を謝らせるためにはこうするのが正しい。陽太が悪いので謝ってくださいと言っても陽太が素直に謝るとは思えないですので」
「じゃあ俺の時はもう少し分かりやすい感じで頼むな」
「こうですか?」
「ちょっと怒った感じに近づいたかも知れん。まあ、勝手に不本意な決定されたら、ふりでも良いから怒ったら良い。陽太も悪気はないにしろ善かれと思って滅茶苦茶言ったりするからな」
それで実際のところ、ミナコは一体いつ俺に分かるように怒ったポーズを身につけられたんだろうか。
言葉の一つ一つがかみ合わない。気持ちの一つも絡まない。
例えば、陽太はどうして寝不足であることを俺に恩きせがましく伝えたんだろう。
ミナコはどうして抱き枕を作って貰えないなどと勘違いしたんだろうか。
多分、陽太はミナコに、こう言ったんだろう。
「峰岸がアルバイトをしてくれないなら、抱き枕を作ってやる約束はなかったことにする」
そしたら、ミナコは抱き枕を諦めるしかない。何故なら、仮にミナコ本人がアルバイトをしたいと思っていたとしても、そうできない事情がある。事情があって、それを明かさないながら、誘いを断っている。
俺も陽太も、あるいはミナコも、その話はそこで終えて良かったのかも知れない。普通なら、そこで終わる。
抱き枕作るのだって面倒くさいし、誘って断られることが分かっているのに、誘い続けることは難しい。
どちらも諦めてしまえば良い。
ただ俺は、ミナコからそうした相談を受けた後にも、陽太が抱き枕を作り続けていることを知っている。陽太が張り切って夜なべして何かに取り組んでいることを知っている。
陽太との付き合いもそう短いわけじゃない。陽太が次に、ミナコに、なんて言うかなど、想像できても不思議じゃなかった。
「アルバイトに来てくれないなら抱き枕を作ってやらないと言ったな。抱き枕を作ってやったのだから、峰岸はアルバイトに来なくてはならない」
相手の事情などお構いなしのひどい暴論だろう。でもおそらく陽太は、手作りの抱き枕をミナコへ手渡してそう言うつもりだった。ミナコがアルバイトに来てくれるなら、俺も喜ぶ。陽太も喜ぶ。店長もきっと喜ぶだろう。
この場合陽太は、ミナコの事情などどうでもいいものだと決めつけて掛かる。抱き枕のパラドクスというのは、およそそれで解決できるはずだった。
陽太がミナコと直近で連絡を取り合っていないにも拘らず、どうして陽太がミナコをアルバイト参加見込みだとしているのかも、抱き枕を作り続けているのかも、俺に恩きせがましく寝不足だと伝えるのかも、そうして一つにまとまる。
もしもその、陽太の穴だらけの謀略が上手くいったら、俺は確かに感謝することにはなるだろう。強引ではあったが、結果は良いものだったと。
ただし、その場合、おそらくだが、今現在、当のミナコはアルバイトに参加するつもりなど微塵もないはずだ。これは単に陽太が勝手に、ミナコを丸め込めると思い込んでいるだけなんだから。
だとしたら、……どうしてミナコは、『アンミが目的だった』とか、『アンミを追っている』とか、そんなことを留守電に残したんだろうか。アルバイトに参加するつもりなどないのにアンミが目的というのは、どういう意味だろう。




