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AM ‐ アンミとミーシー ‐  作者: きそくななつそ
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十話⑯

『そうありたいと願う心が、そうして人を惹きつける』


 転職組の私なんかは知らなかったのだけど、役職による優先順位で社員寮へ入れるかどうかが決まったりするらしい。平社員はマネージャー以上にご指名を貰うか応募申込書に大げさ理由を書いて同情を誘うか、さもなければ三カ月に一度ある抽選に運良く当選する必要があるとのことだ。


 こうして社員寮に入らなかった理由を話す様子を見ているとおそらくこの子は一応寮に入りたかったのだけどどれにも引っ掛かることがなかったのだろうと思った。


 ただ寮の空き部屋は決して数が足りなくて入寮希望者が殺到しているというわけでもない。間取りが気に入らなかったり呼出しを敬遠して借り上げの賃貸へ移住する者も多いし、両隣と直上の部屋を空き部屋にしてくれと要望を出して認められている者が何人もいたから、私も同じように要望を出してそれが何の文句もなく通っている。


 まあ元より住宅手当があるのだから、通勤時間を気にしなければそこまで固執する魅力もない。


 こうして徒歩通勤する彼女を三歩下がって眺めていると、むしろ寮に入らなかったことで彼女は彼女らしく生きていられるようにも思えた。


 人が何気なく呼吸するのと同じように、彼女は道行く中で面白そうなものを求めている。大概それは簡単に見つけられるようで、やれ雲の形がどうだ一回で良いから綿に埋もれたい、何故無人のブランコが揺れているのかブランコは何語なのか、私が押し黙ると毎週日曜日にカラスを餌付けしていて名前はカアさんなんだと一人でペラペラと話し続けた。


 日光を浴びて、軽くウォーキングして、つまらないものを見てもさも面白いかのように認知変換していけば、穏やかな気持ちで過ごせるんだろうか。


 世界はきらきら、きらきら、輝いているのだと教えられた。心はいつも満ちているのだと教えられた。


 すれ違う人々が皆、彼女を見掛けると挨拶をしていて、私はそんな奇妙な風習に巻き込まれたくなくて彼女と知り合いであることを隠そうと所在なさ気に三歩後ろを歩き続けていた。


 どこが輝いているのか教えられた。何が満足なのか教えられた。


 そんなに言うなら、拾ってきてよ。どこにあるのか知ってて、あんたはたくさん持ってるんでしょ?もういい。お金を貯めて、代わりに何か買うわ。つまらないものに見えるでしょうよ、あんたからは。


 実際そうよ。でもどうしたって見つからないものを探すより、少しの間だけでも見つけたつもりになれたら良い。それをあんたは、一目で偽物だった見抜くんだろうけど。それがまあ、普通の人の分相応な生き方だ。


「かないっぺ、あのさあ……。私ちょっと、あんたの家まで辿り着けそうにないわ。なんであんた全員から挨拶されてんの?有名人なの?」


「ああっ、牧野さんあれ見てえ?なんかやってる」


「なんかやってるけど、なんかやってるのは小学生なんだけど……。あのさあ、何?あんたもしかしてあれに、あの、突っ込むつもりなの?」


「ねえ、何やってんの?」


 つまらない側に引き込むなんてこともしたくなくて、結局私はただそう確認しただけで、物理的に彼女を引っ張ったりはしなかった。


「えっ、見て分かんない?今真剣勝負中なの」


「見て分かんない。どういうルール?どっち勝ってるの?」


「ええー、知らないのかよ、おっくれてるー」


「知るー、今知る。牧野さん何してるの?こっち来てよ」


「…………」


「カナちゃん友達連れてんの?マキ?じゃあマッキーな。マッキーはペットボトルのフタ持ってんの?」


「……なんでいきなりマッキーだよ。牧野だよ。ペットボトルのフタなんて普段持ってねえよ。いやいや、私は別にこの子について歩いてるだけで部外者だから」


「ふぅん、じゃあ普通の大人だ。カナちゃんはいきなり混ざってくるもんなぁ」


「私も普通に大人ですぅ。どうせタッちゃんも大人になったらこんなんですぅ」


「違うもん。ちゃんと大人になって仕事してるよ俺だって」


「私だって仕事してるもん」


「分かったはいはい。これ一個やるよ。緑のな、お茶のやつがすごい有利だから」


 ああこの子は、人に対して賢く立ち回る方法を知っているというわけじゃなく、本当に上から下まで、まるで分け隔てがなく、どこまで行っても人と人なんだ。


 分からないことを分からないと言うために勇気がいるなんて考えたこともない人間で、人を見下すとか人から見下されるとか気にしたことがない人間で、喜ぶことにも悲しむことにも抵抗のない、真っ白な、そういう人間なんだろう。


 人を怖がることも人から怖がられることもない、愛される人間。それが正しいといくら頭で分かっても真似することなんて到底できない。地球上の人間が全てこんな子なら、もう世界に小さな争いすら起こらないような気がした。


 もしも人類が種の繁栄を願うのならまさしく、これが理想の人間像のように思われる。


 私は、こうして突き付けられ続けている。間違っている。小学生すら受け入れられないし、小学生にすら受け入れてもらえない。ただそれを今すぐどうにかできるようなものでもない。


 だから……、私はこの子を見ていたくなる。


「探し物はなんですか♪見つけやすいものですよっ♪机の中もっ鞄の中もっ♪いっぱいなのに見つからないのを、まだまだ探す気ですか♪」


『それなら私と、散歩でもしませんか?』



「ねえ、小学生とどうやって仲良くなんの?」


「タッちゃんがいが栗坊主だったから撫でさせてって言って撫でてあげたら友達にしてくれたの」


「違うかんな。部活の帰りに後ろからついてきて頭掴んだよいきなりっ。ビビって何してんのって聞いて、その後じゃん撫でたかったとか言ったのは。せめて順番逆だろ、頭おかしいんだよカナちゃんは」


「触っちゃダメなのは触っちゃダメって書いとかないと。書いてないのは触って良いの。大人はそうやって判断するんだよ」


「…………。なんであんたの行動範囲にだけそこら中に『触るなシール』べたべた貼ってあんのか分かったわ。研究棟来んなよ?マジで危ねえから」


 触りたかったら、触っちゃうのが普通なのかも。触っちゃダメなもんには触るなって書いてあるべきなのかも。世の中そうやって、分かりやすくしとくのが良いのかも知んない。


 触って良いのか分からなくて、考えても答えなんかなくて、結局諦めて我慢して触らなかったものが多分たくさんあるだろう。触るなって書いてあるもん以外は、まあ大抵触るななんて書いてないだろうし、触っても良い。


 仮に怒られて謝る分差し引いても、この子見る分にはそっちのがよっぽど人生が、輝いて見えるんだろう。


『馬鹿と一緒にいても、得することなんて何一つない』


「インキュベーター?……昔の、ゲームの名前でしょ?流行ったやつ」


「横文字に弱いのかな。恒温器のことね、そう呼ぶんだよ」


「耕運機?」


「恒温動物の恒温ね」


「モグラとか?ですか?」


「モグラも恒温動物だけど勘違いしてるよねきっと。体温が一定のやつだよ。モグラは恒温動物だよね。体温が一定だから」


「モグラは……、風邪をひいても熱が出ないんですか?」


「出るよね多分ね。恒温動物でもまったく一定ではないよね」


「畑を、耕す動物の話ですよね?」


「え、そこに戻るの?違うよ。畑を耕さなくても恒温動物は恒温動物だし、モグラはどちらかというと畑を荒らすよ?」


「じゃあモグラはそれとは違うんですね?」


「モグラは恒温動物だし、体温が一定なのが恒温動物だよ」


「そうするとモグラは風邪を引いても熱は上がらない……?」


「ちょっとホワイトボードのところに行こうか?まず変温動物と恒温動物というのがいてね……。それは正直どうでもよくて温度を一定に保つ箱の機械を恒温機械といって、普通はそれをインキュベーターと呼ぶんだと伝えたかったんだけどともかく一応順を追って説明しようね」


 馬鹿と一緒にいても、なんにも得ることなんてない。役に立たないし……。説明だって手間が掛かるし……。


 でもどう見ても、この子の方が私より幸せだ。この子と出会う前の私より、この子と出会った後の私の方が、はるかに幸せだ。


 こんな人間がいるんだなあ……。



「誰だよ……」


 携帯電話を耳に当てながら、ぽつりとそう呟いた後、ぞわりと悪寒が走った。恐る恐る振り返るが、もちろん誰かが背後に立っているなんてことはない。


『必死だなあ……。でもさすがにこれは、使わせてやらないぜ?自然にこれと会うこともないんだろうから。まあ、友達観の参考にでもしなよ。それくらいなら許してやるからさ』


 夢の女の声じゃない。いや、夢の女の声が微かに遠くから聞こえてくる。口を押さえつけられているかのようにモゴモゴとどこかで喚いているのは、おそらく夢の女だ。


 今俺のすぐ近くで響いている声は夢の女の声をかき消して、凍りついた爪で俺の背中を撫でさすった。子供の、……男の子の声だった。使わせてやらない?


『Du Egoist, heb die Gießkanne hoch über die Blumen, die nur danach beten und spiel dich wie ein Gott auf.』


『ぼうっと見てるのが一番良いって結論の内は文句はないけど、なあ、……ぶち壊すなよ。もしお前が何かを変えられると思っているならとんだ見当違いだ。ぶち壊すなよ。あの子は答えだけ欲しがってたか?』『なあ、エゴイスト。お前がもしも神様のふりをしたいなら、そこら辺の花にでもジョウロを掲げて偉ぶってろ。祈ってるだけで何もしない花に雨でも降らして自己満足していたら良いだろう?お前はどうせ、どちらにしたって幸せにはなれるんだからさ』


 その声が、どんな言葉だったのかは聞き取れなかった。だが言いたいことだけははっきりとしていて、『ズルをしてゲームに参加することは許さない』、『それは誰かの、誠実な思いを汚すことにしかならない』、『お前はぼうっと見ているだけで、どちらにしたって最良の結末が用意されている』、『だから、悪いことは言わないよ。ズルは、するべきじゃない』


 この『ズル』というのがどうやら、夢の女そのものか、夢の女の与えようとした情報を指している。諭すようでもあったし、脅しているようにも思われる。


 ただ直接的に、俺を批難している様子ではないことが分かった。批難の対象は、どちらかというなら夢の女であって、少年はあくまで、そのアンフェアさに、審判として苦言を呈する必要があった、ようだ。


 あまりにアンフェアな、その情報を、もしも俺が受け取っていたなら、何かを変える、力になったんだろうか。何を?


「誰だ?お前は誰だ?どんな目的で、……敵なのか?」


『…………。おかしなことを言うよなあ健介。僕が誰かなんてどうだっていいことだろ?僕も、お前が夢の女って呼んでるチビスケも、同じ劇を眺めている単なる観客に過ぎないんだから。普通お互いわきまえてる内は、どっちも知らんぷりしてたら良い。場外から野次を飛ばす奴がいたからそれを注意しただけだろ。お前は、何も気にせず、与えられた役割をこなせばそれで良い』


 その声が、誰のものであろうが、なんの意味もない。……確かにそうだと思った。確かに。この声はあまりにも遠い。明確な仕切りの外と内とで、例外的に言葉を交わしているに過ぎない。


 その声の主は舞台へ上がるつもりなど毛頭なく、野次を飛ばすつもりすらない。ただ冷笑を浮かべて、眺めて楽しんでいるに過ぎない。動物園の檻の外からただ視線だけを注いで、……あるがままにあることだけを望んでいる。


 それをどうやって敵や味方に分類できるだろうか。気にする必要などないのだと言われた。


 サッカーのコート上にいる審判はもちろん確固として存在しているわけだが、その進行上、当然なことに、いない方が望ましい。存在しないものとして扱うのが正しい。


 ゲームを有利に進めるためには、その審判を味方につけるのが得策だと考えるサッカー選手がいるはずなんてなく、俺ももちろん、世の法則に従ってのみ、最良を目指すべきなんだと、そう言われた。


 夢の女よりも遥かに聞き取りやすく、そう言われた。


 ただし、果たしてそこに人間味がない。俺が何か言葉を発したとしてそれに律儀に答えてくれる道理がない。赤信号は止まれと伝えてそれで終わり。俺がいくら急いでいようと関係なく、仮に内心で俺に同情してくれていたとして配慮などなく、だがそうであるからこそむしろ、俺を納得させるだけの公正さが厳然と存在する。


 それを残酷だと言う人はいるかも知れない。心がないと批難しても良いのかも知れない。だがいくら声を上げたところで、まかり通ることなどあり得ないと、誰もが知っている。


 なら、……確かに聞くことに、意味などない。


「意味など、ない……」


 俺は携帯電話をようやく耳から離して、床にへたり込み、部屋の壁を眺めた。試しに心の中で、夢の女を呼び出してみた。


 ああ微かに、夢の女は応じている。遠くから、何かに脅えながら応じている。一体何を伝えたかったんだろう。



 結局俺が陽太に出発確認の電話するよりも前に、陽太本人が到着してしまったようだった。俺がへたり込んで遠くの声に耳を澄ましている時間が長かったのか、あるいはそれは一瞬のことで、陽太がここに来るのが早かったのか、はっきりと判断することはできない。


 どちらでもないのかも知れない。夢の女が俺に与える時間は、あまりにも現実の経過とかけ離れていて、ゆったりと、間延びして流れる。おそらく走馬灯なんかと同じ種類なんだろうが、一瞬が一瞬でない世界に酔って、俺の知覚はかなりぐにゃぐにゃと歪んで見えた。


 立ち上がる動作一つに、体の重さが伴う違和感がある。チャイムの音が鳴り響いて、携帯電話が鳴って、それを同時に対処できないもどかしさがある。頭の中で起こることは、すごく端折られていてするするとスムーズに流れるのに、現実の時間は一秒が一秒で刻む。


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