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AM ‐ アンミとミーシー ‐  作者: きそくななつそ
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十話⑮

『ただそばに寄り添うだけで』


 ぴりぴりとした空気を受け付ける感覚器官が麻痺しているこの子は、どんなにヤバイ状況にも不用意に呑気に近づいて時折私からひどい攻撃を受けていた。


『馬鹿で役立たずなあんたは人の心配できるほど偉くなんてないだろうが』と、私はその時そんなことを言った。


 私は多分、この子がどんなに、『普通だったら苛立つこと』をしていても何故かイライラすることはなかったように思うし、まあだから要するに、私がイライラしている時にふらふら寄ってくる、私からすればむしろ当たり屋のような交通弱者が、この時も私の前に不用意に飛び出してきて、そうして攻撃を受けた。


 そういうことだ。なだめるようなことを言われて逆上して、私がこの子を攻撃した。


「頭悪いの、ごめんね。でも、馬鹿な犬よりは賢いよ。あとそれでね、ペットの飼い主はどれだけ犬が馬鹿でも馬鹿にしたりしないの。別に役に立ったりお金を稼いだりできないけど、信頼してて絆があるでしょ。飼い主は犬が馬鹿だからって嫌いになんてならないし、犬は自分が馬鹿だからって飼い主から愛されないなんて思ってない」


 仮に反論してくるにせよ、まさかペットと飼い主の絆を持ち出してくるとは思ってもみなかった。


 もっと順当に、『一学年下の子の無知を笑う嫌な奴』とか、『自分より下に見た子供なんかをつぶさに攻撃する奴』とか、そういった罵詈雑言を返してもおかしくない場面で、それでもこれは私の想定できなかった正鵠を射る模範的反論だった。


 だってこの子は一年経って私と同じように仕事をこなせるようにはならないだろうし、十年経っても私の担当している仕事は多分無理だろうし、そしてなによりそれより、


 ……この子は仕事はできないけど多分勉強も苦手で運動も苦手でそれでも、誰からも愛をもって受け入れられていた。


 私はこの子のことを、羨ましく思う。私はこの子の何倍も勉強ができるつもりでいるし、この子の何倍かは効率的に仕事をこなしている。


 だけど、私は自立した盤上の孤独な王で、この子は強大な軍勢を後ろに控える歩兵のようなものだった。彼女の周りに付き添う仲間の助力ももちろん彼女の発する力に違いないのだから、どうやら私は何一つこの子に敵うところなどない。


「ごめん……、あたしあんた見てると自信なくなってくんのよ。いっつも楽しそうにしてて。あんたみたいにはどうやったってなれないから」


「なれるよ」


「……期待しないで聞くけど、どうやって」


「美味しいものを食べて、短くてもぐっすり眠って、朝起きて楽しいこと考えて、それを人に話すだけでなれるよ?」


「普通はあんたと違って食べて寝て考えて話すだけで楽しくなれる構造してないの。美味しいもの食べても別に美味しくなくて寝ようと思っても悪夢で起きて、楽しいことより不安が多くて話したところで相手が何考えてるのかなんて分かんないんだから」


「…………?それ牧野さんだけじゃないの?なんか可哀相」


「…………。じゃあ、仕事終わった後で、何食べてんのか教えて。メモかなんかに書いといて。私が栄養失調なのかもね」


『ゆっくりと人の心は伝播していく』


「何やってるの?牧野さん?」


「ドラム缶の薬液かき混ぜてんの。量少ないからドラム缶使えってさっ!」


 正直言ってこの子と話すようになるまで、特定分野の人の才能はせいぜい努力で埋められる程度の小さな差なんだと思っていた。


 そう思っていてなんの不都合もない人生を送ってきてそこそこにはすんなりと納まるべきところに自分を納めた私は偶然にもこういう、いろんな意味で……、こんな規格外れの人間と出会ってしまって。積み上げてきた価値の土台を揺るがされることになる。


 彼女は、私の遺伝子をどう組み換えて人型にまとめたとしても生まれ得ない架空の生物で、私が赤ん坊から大人まで生育する間に得た順当なリズムから外れた式でグラフを描く。


 心情的なことをいうなら、人間から除外して別の生き物として扱って良いのではないかと思っていた。


「ええ?なんで怒ってるの?ねえそれやって良い?重いのそれ?」


「……?やって良い?って何を?」


「かき混ぜるの。私にもできるよねえそれ?」


「いや、……気ぃ使わなくて良いよ別に。すぐ終わるし、そんな怒ってないし……。なんであんたそんなニッコニコしてんの?」


 この子は四六時中朝から晩まで何事もなければいつでもニッコニコしていて、何事かを引き起こした時だけ唇をへの字にひしゃげて泣きそうな顔で謝る。謝ってパタパタ慌ただしく仕事をして次の休憩時間にはまたニッコニコ笑ってお菓子を頬張っている。


 その次の日にドヤ顔で反省文の書き方の本が欲しいですと経理主任におねだりをして、もちろん却下されるわけだけど、『それがないと良い文章が書けないんです』と食い下がる。


 そもそも誰一人として反省文の提出など求めていないにも拘らず、『一生懸命書きますから無駄にしないです』となだめる周りの意見も聞かずにそう主張する。


 重ちゃんの求心力のお蔭もあってようやく総務も余裕が出てきて、余裕があるとこの子は反省文を書きたがる。そういった迷走思考回路をスタートからゴールまで辿るのはきっと頭の良い天才にだってできないことだろうし、いくら環境を整えて経験を積んだとしてもやはり再現できるようには思えなかった。


 不機嫌そうな人を見掛けるとワクワクそわそわ興味津々で近づいて『どうしたんですか?』と聞く。道行く見知らぬ他人の持ち物に釣られてふらふらついていき挙げ句それを貰い受けるほどに相手をどん引きさせる熱弁で魅力を語って聞かせる。


 食べ物を口に入れると豆だろうが肉だろうが必ず『美味しい』と言うし、風を体に受けるとそれが北風だろうが空調だろうが『風が良い』と言うし、あまつさえ階段を上る時の自分の足音に感心して、他人にその評価を聞きたがる。


 それは多分、脳の構造とかホルモンバランスとかそういったのが人類と別方向に進化しているからに違いなかった。


 この子と一緒に仕事を担当してたったの四カ月で私の口癖一位に『マジかよ』が堂々覆しようもなくランクインしたし、当初それはもう不動のように思われたけど、しばらくすると『ヨカッタネ』が怒濤の猛追で二位に台頭しはじめた。


 私は『多分、まあヨカッタんだろうな』とあんまり深く考えたことはないけど多分心から思って、そんな言葉を口にするようになった。魔法の言葉だ。何が起ころうと、大抵のことは良かったんじゃないだろうかと思い始めている。


「?私にもできそうなのになんでダメなんですか?やらせてーやりたい。すごい役に立つよ?ちょっと疲れたと思いません?それ気のせいじゃないですきっと。代わるっ。代わるからっ」


「……じゃ、じゃあ、お願い。混ぜるだけね。変に体重掛けてドラム缶倒さないように。あと、底の方をぐるぐるするだけで良いから。バシャバシャやらないように。で、一応言っとくけど、ハマんないように注意してな。そんだけ……、気をつけてね」


「くーるくるくるぐーるぐるっ、どう?むいてる。うふ」


「なんでやりたいの?こんなの」


「牧野さんは分かってないなあ。もしだよ?例えば無人島で遭難するとして、急に何かをかき混ぜなくちゃいけなくなったとするでしょ?そしたらこの時の経験がすごい役に立つと思うんだよね?そう思いません?」


「…………。まああんたが無人島で遭難するとこまでは納得なんだけど、そこで何をかき混ぜなきゃなんないわけ?」


「か、……海水とか?あと土とかも掘るよ?」


「そっか。んじゃあ、……良かったね」


「良かった良かった。一安心っ」


 あんまり主役には向いてなさそうな平均的でこれといった特徴のない顔立ちで、タッパはそこそこあるけど、ぴちぴち豊満ギャルと細枝モデルのどちらにも転向できなさそうな普通より若干丸ぽちゃの体型。学力テストの結果は下から確認した方が楽ちんであろう、外見や成績で同じ条件の子を探せば東京駅から出てものの二分で五人は見つかりそうな女の子だった。


 そんな程度の子はどこにでも大勢いるものだろうけど、肝心の中身とそれを反映するであろう人間関係がもう、レーダーチャートに納まらなさそうな飛び抜け方をしている。私の会う人会う人が、彼女の味方をした。


「あんたさあ、もしかして髪、結ってた?面接の時」


「あっ、はい。結ってた。イエスっ。イエスアイアムっ」


「……ああ、やっぱり。あの、あれだ。面接官やってたジョンの心挫いた奴か。あんまりに英語ができなくて、英語での面接を中止に追い込んだのがいたらしいって。ジョンが根負けして結局日本語で質問したって、その相手が髪結った女の子だったって。やっぱあんたか……」


「なんで採用されたんでしょう?あの時が人生で一番ヤバかったなあ」


 人生で一番ヤバかったというのが、この子にとってどれほどのヤバさだったのかは分からないけど、それでも多分メーターを振り切るほどのヤバさではなかったんだろう。


『英語はどうやら苦手なようだけど、ジェスチャーだけで魅力的な人物であることは伝わった』と、ジョンは評価シートにそんなふうに書いたらしい。


 元々別に語学の評価項目なんてのないし、この子に限っては、『ジョンがたまたま英語の面接をやりたくなった』ことによって、しかも『この子が英語が苦手』なことによって、評価が好転した珍しい、他に例のない採用だったろう。


 あまりに英語ができなくて、普通なら目を凝らすようなところじゃない部分が、ぴっかぴかに光ることになった。


「他のみんな、いきなり知らない言葉で話し始めるし、すっごい困ってねえ?でも話せる人は一応その時はほらライバルだったわけじゃないですか……。教えてって言えば教えてくれたかも知れないけど、でも頼ったら評価下がるのかもと思って……」


ジョンはこう語る。

『私たちは知らない言葉で質問を投げ掛けられたら、きっと戸惑い黙り込んでやり過ごそうとするだろう。伝えたいことがあるのだという意思を示すことさえできずに。彼女と対面すればおそらくだが宇宙人ですらも……、日本語を勉強しなくてはならない責務に駆られる』


「ジョンあんたのこと好きなんじゃない?あんたのこと誉めてたよ」


 身振り手振りで、ここで働きたいことを伝えたんだろう。当たり前なことにジョンにとって、英語が話せることなんてのは特に価値のないスキルだ。あいつは日本人より日本語が達者なわけだから、他の求職者がいかに流暢に英語を話したところで丸をつけるような理由にはならない。


 そんな中で、この子はどれだけ目立っただろう。他の子が全員英語ペラペラで、一人だけ満足に喋れもしない。身振り手振りで一体何が伝わるってんだ。


 でも、ジョンが根負けするまでこの子は諦めたりしなかった。どんな空気にも負けず恥じ入ることにはならなかった。そりゃあ、結果として、ジョンの判断に誤りは見出せない。


「えっ、ジョンさんが私のこと好き?何それ何?女の子としてってこと?」


「ミスターかドクターな。ジョンはさん付け嫌がるから。さあ知らん。確認してみたら?」


「やだよお、恥ずかしぃ……」


 そこを、恥ずかしがるのが、正解なんだろうか。私は今まで何を、恥ずかしがっていただろうか。


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