十話②
「あんた、ちょっとさあ、両手挙げて目瞑ってくんない?大丈夫、ちょっとしか触んないから」
「いやあ……、オモチャにされてないか?多分似非化学だと思うぞ?女の子に抱きつかれたら誰でもドキドキするものだ。あと、急にやられたら多分びっくりして心拍が上がる。それでも心臓の音が聞こえるかどうかは知らんが」
「ダメなら脱げば良いでしょう?」
「ん……、分かった。見ないから。ちょっとまあ、ほら?」
「ほら……、て。俺の、お前に対する恋心の有無を知りたいのか?仮にあったとしてどうなる?付き合ってくれるのか?」
「はあ?そういう、そういうのじゃないじゃん、別に」
「…………。ん、いや、なんだろう。なんでか分からんが、ごめんな、今、全然ドキドキはしてない。抱きつかれてもあんまりドキドキする気がしない。多分そういうのは、ロマンチックというか……、別にロマンチックである必要はなくても、せめてそれなりのシチュエーションがないと無理な気がする。あるいはちょっとジョギングしないと……」
「ジョギングしてたら恋かどうか分かんないでしょうが」
「…………。やめんか、もう悪ふざけを。お茶でも飲んで落ち着け。今多分、俺は誰に抱きしめられてもドキドキしない。恋してようが、してなかろうが」
「でも、言葉にしたくても言葉にならない時があるでしょう?言葉をそのまま信じられない時もあるでしょう?そんな時に抱きしめてあげれば気持ちが伝わると、そういうことを言いたかっただけなのよ。ほら、健介も来なさい?抱きしめてあげましょう」
「……ホントにか?いや、すまん。今、さっきハジメがなんか吸い込まれていった時の気持ちがよく分かった。いや、照れるからやめろ。お前は俺が断ることを見越して言ってるんだろうが……」
「どうぞ?来なさい?」
「……ホントにか?けどな?……その腕を閉じてくれないか?吸い込まれるから」
「けど、何?別にスケベな話ではないでしょう?じゃあ、ナナ、先に来なさい?」
「ええ?わあい。ナナそれやりたいって思ってた」
ナナは遠慮する素振りもなくミーシーに抱きつき幸せそうな笑顔で目を瞑って頭を撫でられていた。頭をごそごそ擦りつけてポジションを決めてやはりミーシーの胸の位置に顔を埋めている。
「ミーシーお姉ちゃん、……ちょうど良い。……ナナ、すごいこれ好き」
「そうでしょう?クッションがちょうど良いのよ」
「ほら……、ハジメ、場を濁してくれ。お前への皮肉じゃないか?」
「ん、なんて?はあ?いやいや、あんたが言えば?ああ、ああ……、へぇー、ふぅーん?ふふっ、あっそう。照れてるから、あったしに止めて貰おうって?抱っこされてきたら?ミーシーのクッションの具合がさ、良いみたいだから」
まあいい。お茶だけ置いて、トランプの準備でもしていよう。ミーシーが俺を困らせたいのなら、とりあえず困ってやれば良いし、悪ふざけが終わればトランプを再開すれば良い。
「満足……。ナナ、今日は良い夢見そう」
「じゃあ健介、来なさい?」
「まだやるのか……。照れるんだ。俺はほら、男の子だから。これ以上どうぞと言うのなら、本当に行くぞ?」
「良いじゃん。やってくれるってなら。さっさとやって貰ったら?あんたが赤くなるの見てたげるからさ」
「いや、多分本当に赤くなるから……。あと、恋してしまうかも知れない。ハジメとかナナのを見てたら……、ほら、本当に、優しそうに抱きしめるから……」
「いいからさっさと来なさい。低くてやりにくいならソファに行きましょうか。……ほら、どうぞ」
「…………。あ、後で……、文句言うなよ?セクハラだとか、そういう、あれか?オチをな?……俺は、お前が、じゃあ、そう言うから、やるだけで……、別に疚しい気持ちがあるとかじゃ……」
……吸い込まれていく。
俺の足が、ゆっくりと一歩動いたのを自覚した。近づいていく。ソファに座ったミーシーとの距離が短くなっていく。
あと、二歩か三歩、近づいたら、俺はミーシーに抱きしめられることになるだろうに。おそらく、ハジメもナナもアンミも、誰も俺を止めないだろうに。
「赤く、なってないか?もう十分なんじゃないか?」
「赤くなってないわ。もっと近くに来なさい」
まだ、一歩進まなくちゃならない。俺はソファの背もたれに手をついて、ミーシーへ首を差し出した。ふわふわとした、不思議な気持ちだった。
ミーシーはソファから少し体を起こして、大して力を入れるでもなく俺の脇から腕を通して肩口を引き寄せる。
俺はソファに突いていた手を引き寄せられるまま折り畳んで、ミーシーの鎖骨の辺りに首を載せた。首を抱えられて、やはり先程の二人と同じように胸元へ埋められる。
ミーシーの頬が俺の頭の上に載せられる感触があった。
「おい……?ミーシー」
「何?健介」
「…………。なんでも、ない」
意識が薄らぎそうだ。目を閉じて頬ずりしたくなる。その、卑猥な意図ではなく。……単に心地よかった。
こうまで深く受け入れられて、俺自身が身を預けてしまうと、もう到底、一人で立ち上がることなどできないような気がした。
そのまま眠りたくなる。腕を畳んで、引き寄せたくなる。……なんて、穏やかな気持ちにしてくれるんだろう。
「…………」
「…………。いっぷーん」
「ハジメ?茶々入れるのやめなさい。良いのよ、ずっと。こうしてても」
「すま、すまん……。いや、ありがとう。い、息を止めてた。引き込まれてた。なんだろう?……俺の心が、平穏で満たされていた。本当に……、ずっと、このままが良いとか思っちゃたんだが、いや断じて疚しい気持ちでそういうのじゃないんだ。お前もちょっとは感じただろう?この、愛のさざ波に包まれる感じを」
「いや、まあ……、まあ、分かんなくもないけど、いやごめん。じゃあ、やってて良いわよ。ごめん邪魔して」
「……うん。我に返ると絵面的にはどうかという問題もあるから。ほら、トランプな。再開しよう。いや、照れるな、やっぱりよく考えると。ミーシー、……すまん。ちょ、ちょっと間お前の顔とかみ、見られないかも知れない。ちらちら見たりするかも知れない。その辺りは許してくれ」
「良いわ。私もまあ満喫したからそろそろ寝ることにしましょう。じゃああとは三人でトランプしてなさい。おやすみ。お茶だけ貰うわ」
「あ、ああ。おやすみ……」
「ああ、寝んの。まあ、あんたも朝早いか。……てかじゃあ、あんた今寝ぼけてたりするわけ?」
「別に寝ぼけてたりしないわ。おやすみハジメ。ナナもおやすみ」
「ん、おやすみ」
「おやすみなさい。ミーシーお姉ちゃん」
そうして、アンミに続いてミーシーがトランプから抜けることになった。というよりは、アンミが抜けたからミーシーも寝ることにしたのかも分からん。
ミーシーはそれぞれにおやすみの挨拶をしてお茶だけ飲み干し、特に眠そうには見えないしっかりとした足どりで二階の自室へ戻っていく。
「……寝ぼけて、ると思うんだけどなあ。あんなふうに言う、普通?」
「分からん。眠くても眠いように見えないのかも知れない。素でああいう感じなのかも分からん。アンミが寝たから抜けただけかも知れんし」
「なんであんた下向いてんの?何?まだ照れてんの?」
「……別にそういうわけじゃない。フリーハグ、というのを知っているか?街角で自由に抱きついてくれて良いですよ、とそういう感じの看板を持って、お願いするとハグして貰えるという、そういうのがある。都会では、そういうものがある。俺は今まで、そもそも恥ずかしがって誰も抱きつきにいかんだろうと思ってた。でもな、逆に考えればそういうのが『ある』ということは、それはな、意味があって、文化的な下地があって、だからその……」
「……そう。うん。まあ、別にあたしも責めてるわけじゃないから」
「ナナともする?」
「しようか。ナナなら俺は恥ずかしがらずにできる気がする」
「わあい。じゃあナナが今度はねえ、抱っこする方がやりたい。ナナが抱っこする側の方」
「おお、じゃあお願いする。俺の心をまた平穏で満たしてくれ……」
今度はナナが手を広げて俺を迎え入れてくれる。今度は微笑ましい気持ちで一杯になった。ナナの肩にトンとおでこをつけると、ナナの腕が首に巻きついた。
「ナナはねー、ナナも。ナナも、ミーシーお姉ちゃんみたいにできてる?」
「できてると思う。ミーシーは多分、こういうのも完璧にやるのかもな。予知をして、どうすれば人が心地よく感じられるかを、よく分かってるのかも知れない」
「ナナも、未来のことを考える」
トクンと、鼓動とは違う一つ、何かが跳ねる音がした。
俺はナナの肩に頭を載せているだけだから、当然ナナの鼓動など聞こえるはずがない。だが、トクン、トクンと。何かが遠くから近づいてくる。
トクン、トクン。
一度目を開けて、再び目を閉じてみた。
トクン、トクン。
このリズムを、俺は何故か聞こえる前から知っているような気がした。なんだろう……。何の音だ?
「ナナも未来のことが分かったら良いのにな」
ナナの独り言はしゃぼん玉に包まれたかのように俺の耳元をかすめて浮き上がり、そのままふわふわと漂っている。
いや?そうじゃなく、今、二重に聞こえた。トクン、トクン……。これは多分、俺の鼓動に合わせて聞こえている音だ。俺の鼓動がどんどん遅れて聞こえてくる。
ナナの言葉はまだ空中に浮かんだまま、俺の鼓動もその言葉に寄り添っている。俺の鼓動も、時計の針も外の風も、しゃぼん玉に包まれてふわふわと自由気ままに散歩に出掛けようとしている。
いや、妙だ……。『俺が、どこにいるんだ?』『俺がどこにいて、俺の鼓動はどこに置き去りにされているんだ?』
『ナナは健介お兄ちゃんのこと、平穏でね、満たしてあげる』
「……っんっく、」
◆◆
「?」
「あ、……ナナ、だよな?ハジメ、もいるよな?アンミが今そこで寝てる」
「あんたも、もしかして眠いの?」
「寝てないよな?俺は、今」
「?ナナに抱っこされてってこと?まあ寝てないけど。良かったねナナ。寝ちゃうぐらい気持ち良いって」
「ナナは健介お兄ちゃん寝ても良いと思ってるよ?」
「いや……。いや、大丈夫だ。トランプ、トランプ再開しようか。俺はまだ眠くない。ナナが眠くなるまでやる約束だったろう?ハジメもまだ大丈夫か?」
「ま、さすがに二人になったら寝るけど。あんたが大丈夫ならあたしも全然余裕」
もしかして、俺はもしかするとだが、自分で考えていたよりも遥かに眠かったのかも知れない。
ついさっきまで。……寝そう、だったのかな。それで下手をすると、今、起きた?寝てない、よな?……寝てたはずがない。
何故ならついさっきまでおっさんとミーコを除いたこの家にいる人間全員がトランプをしていて、つい今に繋がるまで俺もそれに参加していた。
あれ?いやいや、大丈夫だ。記憶が消されたとか、そういうわけじゃない。全然今の状況も把握できる。今に繋がるまでを把握できているし、ハジメやナナが不思議がっている様子がない。アンミは寝たままだ。……ということはつまり、俺はあれだけ寝てもまだ、眠り足りなくて眠かったのか。
「じゃあナナ。トランプを配ってくれ」
「うん。枚数がちょっと増える」
「また、革命できるかも知れないな」
「あ、ナナはちょっと良いこと思いついた」
「ナナはたくさん良いことを思いつくな。これからも引き続き良いことを思いつくと良い。ナナの人生が楽しくなる。今度は何を思いついた?」
「ナナはできないけど、ミーシーお姉ちゃん予知をできるから、カードをねー、開ける前にねー、あのー、選べる。選べないけど、あと、みんなが出すカードは分かる」
「そうなんだが、一応予知しないでやってくれるぞ?あいつもあいつでカードとか全部分かってたらつまらないだろうから。どういう感じなんだろうな、そういうのは。一回ナナがカードを出すのを見て、どうしようか決めて、で、カードを決めて、ミーシーがカードを決めたらそれで他の人間がカードを決めて出すから、それを予知で見てカードを決めてと、結構面倒くさそうな感じはする。神経衰弱ならまだしもこういう形式のゲームでだとよほど勝ちたい場合以外は何回も何回もやり直したりはしないだろう。実際ミーシーもずっと勝ってたというわけじゃないしな」
「?ミーシーお姉ちゃんはズルしないけど、ナナはもしできたらするかも知れない。あとは、……あとはねえ、あと、ナナちょっと眠くなってきたかも知れない。まだやって良い?ハジメお姉ちゃんと健介お兄ちゃんは本当に眠くない?」
「あったしは全然?まあ、ナナが寝たら一緒に寝る。……あんたはどうすんの?」
「いや、俺もナナが寝たら寝る」
「ナナ?じゃあ、ナナだともしかして最後かも知れない。ナナは今どんどん眠くなってる。ナナは気づいたけど、こんなに夜に遅く寝ることなかったからナナが起きてるのはたまたまだと思う」
「じゃあ、今回はこれで最後にしようか。ナナはそれで満足か?」
「うん。あっ、でも、ナナこれが、一回終わったあと、ハジメお姉ちゃんでもねえ、健介お兄ちゃんでも良いけど、一回抱っこをして欲しくて。先に、……先にやって良い?」
「おお。じゃあ、先にな?お返しをしておこう。今にも寝そうだな、ナナ」
「?ナナ、寝そうに見える?本当に寝るかも知れない」
ナナは体ごと大きく頷いて、手に持っていたカードを床へと置いた。「よいしょ……」と小さく声を出して両手を広げてよたよたとこちらへと歩いてきた。
俺も体を起こして、ナナの背中を抱えて顔を上に向けてやる。もうその瞬間には、目を閉じて、腕は脱力しきっていた。腰の方も引き寄せて抱き抱えて運ぶ準備だけしておくが、あんまりすぐ動かすと起きてしまうかも知れん。
「……かわいい」
「まあ、かわいいけどさ。あんたがなんかかわいいわ、それ」
「さて、あと、五分くらいこうしてることにした。その後、仏間へ運ぶ。ハジメも付き合ってくれてありがとな。夜遅くまで。今日はこれで終わりだ。ゆっくり休んでくれ。明日は寝坊しても全部俺に文句を言ってくれたら良い」
「うん……。あたしも五分くらい見てるわ」
「ん?そうか。俺が変なことしないようにか?」
「や、違うけど」
一分経って、ナナが動き出す様子はない。二分経って、ナナが寝返りを打とうとした。多分割とこの体勢が窮屈だろうと思って、まあ五分の予定だったが、ナナを抱えたまま立ち上がって仏間へと進む。
ゆっくり、慎重にナナを降ろして、布団を掛けて頭を撫でてしばらく眺めて、そうして立ち去ろうとした。
「あのさあ……」




