九話⑫
「ちなみにラット……。アンミちゃんが特質を発現させたのに、あまりに重病で重粒子線治療の研究から外されてしまった、最後まで生き残った若いラットは、飼育の担当者だけじゃなくて研究所の中でも人気のラットだったようで、とてもかわいがられていたみたいよ。その時の記録を見ると指定されていた給餌を忘れられたことは一度もなかったらしいし、当時研究に関わった人は全て熱心に、実験とは何の関係もない記録を付けて健康状態を気遣っていた。こんなふうにこちらを見て、こんなパフォーマンスをしてくれたとか、きっとこんなことを考えているんだろうとか。写真や映像も他と比べれば必要以上に残されている。元々の実験の経過観察中という事情もあったでしょうけど、命に関わるような実験は研究員の猛反発で撤回されたりした。というよりも、命に関わるような実験に差し出したくないから、元々の実験が継続中だとされたのかも知れない。元々、そのラットが死ぬまで続けていた実験は臨床的にはそう価値があるものじゃなかった。研究チームはそのラットを大切にしていたし、……ラットの方も人を怖がることは稀で、飼育下でのストレス反応はほとんど見られなかった。人懐こくて、愛想を振りまくのが上手なラットだった」
「人懐っこく、なった?」
「以前の記録がないからそれはなんともいえないわ。でも普通のラットと比べると、人懐こい経過が見られた。今となって色々なことは限定呼応症と空間記銘症で説明できるわけだけど、研究の初期時点では、ラットが異なる特質を持つようになったと考えても不思議じゃなかった。健介君が言うように、植物とラットで全然違った能力を発揮してもおかしくはない。ということで、一つ実験をする度に、ラットの生まれつきの性質かどうかまで議論されていた。誰かに応援されていると、すんなり迷路を抜けるのに、誰もいないと何度か間違えた後やる気をなくして移動するのをやめてしまう。そんな様子を見るとね、まさかご褒美が出ることを学習して、人の顔まで判別して、課題に取り組むかを決めているようにも受け取れた。人が見ていると頑張るラット、人間並に賢いラット、特質の研究が進むまで、そうした記録を残していた所員もいる。ご褒美の量が昨日よりも少なくて、ケージに手をついてカメラを見るの。正式な報告としては残らないけれど、植物と同じだと結論付けた後も、植物と同じ感想を持ったかといわれたら、きっとそうではなかったでしょう」
「人間並に、賢くなったのか?」
「賢くなったとする先生も、当時いたわ。そして実際のところ賢くもなるんでしょう。普通のラットの平均を下回ることはなかった。健康にもなった。遺伝病の因子はほとんど駆逐されていて少なくとも全体の機能でみれば健康なラットと同じように動き回って餌を食べることができた。実験用ラットの平均寿命を超えて生きた。それはともかく、……愛称で呼ばれるラットなんて、後にも先にもあの一匹だけだったんじゃないかしら。研究所内で、一番愛されたラットだった。まあ、変な名前だったけど」
ラットが人間並に賢くなるのなら、猫など人間以上に賢くなるものなのかも知れない。元々あるものを、追加で用意されると、その分余裕もできるということなんだろうか。ミーコも、人間並に賢くなった。
「まだラットの話を聞きたい?」
「じゃあ、ひとまずはそこまでで良い。ミーシーの能力は……、予知ということで良いんだよな。それ以外に何か知ってるか?」
「それ以外は知らないわ。少なくとも研究所は予知しか把握していないし、それ以外はないものと想定している。ミーシーちゃんが見ている範囲での、未来をシミュレーションするという能力」
そうなるのか。これも納得できるようでいて、すとんと胸に落ちる感覚はなかった。まあ、予知は間違いないし、主観的な制限があることも知っている。予知が大概万能なせいなのか、俺がミーシーに対して抱く印象のせいなのか、それ以外の能力がないと、言い切れるものなのか疑わしい。
とはいえ、敵対組織の想定を超えて俺が探りを入れる必要もないようには思った。予知以外は、ないと、俺も想定しておくとして、……そうなると俺が知るべきはむしろ、敵が予知に対してどのような備えをしているかという部分なのかも知れない。
ミーシーやおっさんがこの問題を解決できないのは、予知妨害というのが直接的な原因になっている可能性がある。特定の地域で、いわば電波干渉のように、予知を無効化できるらしい。
俺からすれば当然それは懸念材料だったし、市倉絵里が情報を隠そうとするか、市倉絵里の提示する解決策が予知を前提とするかは気掛かりになっている。
「当然、ミーシーの予知を想定しているなら、アンミをこっそり捕まえるなんて計画は立てたりしないよな。となると、普通に考えて、予知妨害を拡大させていくはずだ。その妨害工作はなんとかできたりしないか?」
「機械を壊せば、予知できる環境に戻るでしょうね。ただ……、壊して回ったりというのは良い方法ではないと思うわ。それぞれカバーする範囲が複数重なるようになっているし、抜けた先にもまた妨害エリアが何重に存在している。その先にも点在はしている。予知の妨害エリアというのは、ミーシーちゃんが簡単に通り抜けないように閉じ込めておくためのものだけど、もう一つ、トロイマン研究所が直接襲撃されないための予防策として設置されている面が大きい。現状、ミーシーちゃんの予知可能域は十分広いから、ミーシーちゃんが予知妨害のデメリットを感じることもほとんどないでしょう。……研究所も、例えばミーシーちゃんの居場所が明らかでかつ、その場に必ず留まり続けるというあり得ない保証がない限りわざわざ包囲を狭める意味がない。徐々になんていうのはあまりに時間が掛かり過ぎるし、ミーシーちゃんも当然予知が消える妨害エリアのラインを把握している」
「だが、ミーシーが油断した隙をついて近場を囲って設置を繰り返すことはできるわけだろう?」
「居場所が分かっていれば、ね。元々がかなり大掛かりな工事だった。さすがに今になってそれを半分ずつに区切っていくなんてことはやらないでしょう。閉じ込めているという表現でさえ、大げさなのよ。ミーシーちゃんは予知できない範囲を知っているし、なんなら出ようと思えばそこを出られる」
「……?出られる?」
「研究所は当然予知を警戒はするけれどね、世界中を予知妨害エリアにできるなんてことは考えていないのよ。あくまでミーシーちゃんが、予知できない場所にアンミちゃんを連れ出したくないだろうというくらいの効果しかないの。絶対にそうだとは言い切れない中で、単に可能性の高い場所から探し始めたというだけ」
「……妨害エリアで囲ってるわけだろう」
「ええ、まあ。それこそ県を跨いで囲っているし、県内は研究所もセラ村もあるからいくらか囲いになっているエリアがある。県内の人口密集地についてもそういったエリアが点在する。まあ、県外と比べたら多い」
「それを抜けようと思えば抜けられる?」
「門番がいるわけじゃないもの」
「心理的な牽制にしかなっていないってことか?」
「それでも狭ければ、ミーシーちゃんはアンミちゃんを連れてそれを抜けようとはしたかも知れない。けれどね、ミーシーちゃんが不確実性を取らないように、広い。そもそも、ミーシーちゃんが予知不可能だから簡単にアンミちゃんを奪えるなんて発想にはならない」
「でも……?予知を妨害した方が、有利にはなるだろう。順当に考えたらまず予知を妨害して、逃げ道を、塞ぐんじゃないのか?」
「なるほど。いきなり立場が決まったなら、そうだったのかもね。まあ、今回に関してはお父さんの方にもいえることだけど……。予知の効果を、完全に防ぐ方法はない。所員が村を包囲する前に、ミーシーちゃんがアンミちゃんを連れて村を出た。そうなると当然、周辺にいた所員は顔も覚えられているでしょうし、そこからはもう芋ずるのように情報が漏れたでしょう。現実にはどうあれ、予知の中では、そうなったと考える方が自然でしょう?こちらは……、こちらと言う時はあくまで研究所側という意味で受け取って欲しいのだけど、所内ではね、村にいた時のミーシーちゃんの記録も共有している」
「確かに、……そこはミーシーが、事前に確認していておかしくない」
「ミーシーちゃんが……、単に逃げ道を教える案内役だったら、今のやり方は回りくどいように思えたかも知れない。けれどね、本質的なことをいうなら、事前の、予知を含めた時のミーシーちゃんの学習能力の高さというのが脅威になっている。予知を妨害して装備や配置を変えたとして、所員をごっそり置き換えることなんてできないでしょう?利き手も癖も変えられないし、どの程度で戦意を失うのかも変えられない。こちらはせいぜい、人質に取られやすい所員や、組織の中枢にいる人員を危険地域に出さないというくらいしか注意できない。それを今の時点で、その場で、予知を妨害しても……、まあ所員が、逃げるくらいには役に立つことはあるのかも知れないけど、少なくとも地域でやる意味は薄い。あと、一応ついでに伝えておくけど、一部の所員は、携帯できる予知妨害の装置を持っている。それもあくまで、お守りみたいなものね。ミーシーちゃんに対しての嫌がらせくらいにはなるでしょうけど」
「?じゃあ、妨害エリア外でアンミを捕まえるつもりでいるのか?それか、その携帯してる装置で予知を妨害して」
「今はまだ、探せというだけで、見つけたらどうするのかというのは聞いていない。健介君ならどうする?アンミちゃんを捕まえたい場合」
「…………。複数人でなら、ミーシーを妨害エリアに引きずり込んで、アンミと引き離せば、可能性はあるかも知れない。ミーシーが事前にそれを察知しないことが前提にはなるが」
「なるほど。いわゆる強行手段ね。けれど実際、うふふ、健介君がやれと言われたら嫌でしょう?その場の予知の有無に関わらず、所員の誰も、ミーシーちゃんに人間の常識的な身体操作を期待していたりしない。数秒で何時間も予知して、現実で全く同じように再現できるミーシーちゃんが、お友達のために戦う場面で、うっかり転んだりしてくれないでしょう。それこそ運動力学的な理論値で動けると考えていて差し支えない。体重が倍あったとして、複数人で協力して同時に襲い掛かったとして、……ミーシーちゃんがよほど冷静さを失っていなければケガの一つもさせられない。今のところこちらに死傷者がいないのは、予知で情報が漏れているお蔭なのかも知れないわね。私以外には見つかってもいないし。それも今後ミーシーちゃん次第のところはあるでしょうけど。逆にいえばね、健介君。ミーシーちゃんを動けなくする強行手段を取るとすれば、予知妨害をした上で、拳銃を向けて取り囲むというくらいのことはしなくてはならないのよ。どうしようもなくなったら最後の最後にはそうする可能性がないことはないけど、それはまあ見つかった後、逃げ場所がなくなって、こちらの所員が渋々危険性を承諾させられてからでしょう。やらないとは思ってるわ。だから健介君もそういった準備はしなくても良い」
「拳銃も持ってるのか、まさか……」
「…………。携帯は禁止のはずよ。でも免許があれば所持はできる。撃ちたがる人はいないにしても自衛の備えに持ち出すくらいはする可能性が、ないことはないわね」
「銃刀法違反だろう……」
「それは私に言われても困るわ。同条においては国益の伴う物品及び機密の取り扱いに関しこれを保護するために必要と判断される場合、技能講習を経て同法の定める当該許可とする。あるわよ、所内には。裁判になったらどうなるのか私は知らない。……でもまあ、これは別に高総医科研だけじゃないのよ。国がお金を出していて警察官が立ち入れないところはそうなってる」
「……そう、なってる。……なってるって」
常識的に考えて、仮に銃を持ち出せるとして、いくら組織の命令だとして、人にそれを向けるとは思えない。ただ、……撃てるという状況は、ミーシーもおっさんも把握しているだろう。万が一という危険性はある。
「電話していて気づいたけど、声が少し疲れてるみたいに聞こえる。夜にまた電話してくれても良いのよ?それまで少し休んで聞きたいことがあればまた聞いてちょうだい?」
「そう、か?よく、気づいたな。俺は普段通り喋ってるつもりだったんだが」
「よく……?そうなの?うふふ。まあお医者様だから。じゃあね、健介君」
「ああ、じゃあまた。これからも聞きたいことが出てくるだろうし」
俺はそのまま電話が切れるだろうと思っていた。「ねえ、ただし……」と市倉絵里が続けた言葉を危うく聞き逃すところで、下手をすれば俺から電話を切っていておかしくなかった。




