310 風の便り
会場がざわつき始める。互いに囁き合いながら、人々は周囲を見まわした。貴賓席の仲間たちも心配そうに顔を見合わせる。
扉は閉じたままなのだ。
カーラが来ない。時ばかりがノロノロと過ぎてゆく。
王妃用の冠は玉座の前に置かれた台の上、黄緑色のクッションに鎮座している。
ケニスも不安になり始めたころ、ようやく知らせがやってきた。脇扉が細く開いて、小走りに侍従が近寄ったのである。
「カーラ様が見当たりません」
「見当たらない?なんで?」
「わかりません」
「分からないなんて、そんな」
ケニスはさあっと血の気が引いて、ふらりと足をよろめかせた。慌てて支える精霊と侍従に軽く感謝を示すが、それは殆ど反射である。頭の中は真っ白だ。
「いかがいたしましょうか」
「まさか、魔女の残党か」
「まだ何とも申し上げられません」
ケニスは冠の脇に控える家臣団に目配せをする。慌てて寄ってきた大臣たちと二言三言交わす。すぐに家臣団の輪はばらけて、ケニスは列席者の方へと顔を向けた。
「ここで休憩を挟みます。しばし水分補給などなさってお過ごしくださいませ」
風の魔法で隅々まで伝えると、ケニスは玉座裏のカーテンを分けて姿を消した。
ケニスは控えの間で手早くマントと冠を脱ぎ精霊たちに預けると、速足で廊下を進む。祭礼準備室、祭具置き場、衣服保管庫を確認した後、その他の部屋部屋を訪ねて歩く。片端から扉を開く。
初めは無言で静かに開けていたケニスだが、次第に焦燥が見え始めた。ガチャリと音を立てて開け、バタンと閉める音を響かせる。
「カーラ」
おずおずと名前を口にする。その部屋にはいなかった。
「カーラ!」
次の部屋にも、愛しい乙女の影は見えない。
「カーラ!返事をして?」
声にも焦りが現れる。足が次第に速くなる。コツコツと踵が鳴り始めた。
「カーラ!どこ!」
顔が歪み、ドカドカとブーツが荒々しい音を出す。
「カーラ!出てきてよ!」
庭園を走り回り、生垣を覗く。階段を駆け上り、回廊を飛ぶように抜ける。
「カーラ!ねえ!カーラ!」
泣き声混じりの声はどんどん割れて大きくなった。
「カーラ?」
ケニスは最後に、戴冠式直前に2人でいた部屋にたどり着いた。誰もいない。窓辺には長閑な初夏の陽射しが揺れる。小鳥が窓枠に遊んでいた。ひらりと蝶が迷い込む。蝶は窓際の円テーブルに飾られた花を慕って飛んでゆく。
「カーラ」
ケニスは奥行きのある窓辺に手をついた。
「どこに行っちゃったんだよう」
その時、ケニスの緑色に渦巻く髪を風が分けていった。
「カー、ラ?」
カーラの声が聞こえた気がした。
「心配しないで」
それきりまた何も聞こえず、ケニスは呆然と立ち尽くしていた。
列席者を放置するわけにもいかず、引きずられるように会場へと戻ったケニスは、王妃の冠に目を止めた。しばらくつらそうに唇を引き結んでいたが、やがてゆっくりと口を開いた。そして、はっきりと皆に告げた。
「精霊よ、讃えよ!我がフレグマイーロスは、初代国王ケニスとその妃カーラの元に、新たなる門出を迎えた!精霊よ!冠を捧げよ!ここに初代王妃カーラの戴冠は成された!」
ざわめきと戸惑いを経て静まり返った会場に向かって、ケニスは精霊を従え、揺るぎなく立っていた。
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