299 氷河
ジャイルズが愛する妻を救けるために疾走した昔と比べて、ノルデネリエの荒野には人影がかなり多かった。主に放牧で生活する人々だ。そのまま北に上れば雪原となり、氷河の下流域に入る。そこに住む人々は、城下町の貧民街すら追い出された弱い者たちだった。
ケニスはぎりりと歯を食いしばった。寒さに耐えながらよろよろと暮らす子供や老人が眼下に過ぎゆく。カーラは優しくケニスを宥めた。
「今は我慢よ」
「わかってる!まっすぐギィのところへ行くよ」
程なくノルデネリエ城下に差し掛かる。オルデンの両親が倒れた裏路地も見えた。だが、ケニスたちにはそこがオルデンの生まれた場所だとは分からない。道に倒れた骨と皮ばかりの人々にも、今は目を瞑るしかない。
「息が絶えても放っておかれるのね」
「剥ぎ取るボロすら無いんだな」
声を震わせ、ケニスは虹色の瞳に怒りを燃やす。その怒りは、憎しみを伴う濁りとはならなかった。心は凪いでいる。ギィを消し去った後で真っ先にすることが決まった。
ケニスならば精霊たちの助けも望めるし、魔法も使い放題だ。財源や資材の心配がない。ただ、人の尊厳を取り戻し意欲を持たせることの難しさを理解するのは、ケニスにはまだ出来ない。
修羅場は抜けて来たが、元はのびのび育ったケニスである。オルデンの苦労を聞いてはいても、目の前で衰弱してゆく人間を見たことがないのだ。それが、ほとんど唯一の課題であった。
城は流石に守りが堅い。幾重もの魔法と精霊が侵入者を警戒していた。ギィも既にケニスの到着を感知していることだろう。サルマンはもの問いたげにケニスを見た。ケニスは周囲に目線を走らせる。
城は氷河が流れ下る雪山に抱かれて、ノルデネリエを見下ろしていた。風に紛れてゴトゴトと奇妙な音が聞こえる。時折水が穴に吸い込まれるかのような、ゴボリという音もする。
「何の音だろう」
「氷河だよ」
風の中から樹氷の精霊が顔を出す。
「氷河が溶け続けてるんだ。これから冬になるっていうのに」
「氷河が?」
「ギィたちが無理に連れてゆくから、氷河では精霊が生まれても生まれても、固めておくほどの力が貯まらないんだよ」
「自然の力」
ケニスが呟いた。
「そうだ、自然を味方につければいいんだ」
「ケニー?」
カーラが怪訝な顔をした。
「ハハッ!オルデンが来る頃には終わっちゃってるねぇ!」
カワナミが冷やかしに飛び出した。笑うだけ笑うと消えてしまう。流石にギィの本拠地でウロウロしていたら捕まるからだ。樹氷の精霊も、長居は無用と逃げていった。
「ギィは今、器のコントロールが出来ずに素早く動けないんだよね?」
「そんな話を聞いたわね」
「だったら、邪法使いの悪運を集めてギィだけを炙り出すことが出来るかもしれない」
ケニスは勝ち筋を見つけたようであった。
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