162 月夜の魔法
「夜に開く部屋は、他にもあるかもしれないわね」
青褪めた月の波に戯れる鮮やかな石の蝶を眺めながら、カーラが言った。
「そうだね。ここは魔法に満ちた宮殿だから」
ケニスが同意する。
「ええ。壁や天井にも秘密があるのかもしれないわ」
シャキアは水晶の花園をゆっくりと見回しながら言った。ハッサンはもう突き当たりの壁まで到達していた。赤銅色の節くれだった剣士の指が、月光に現れて幻のように滲む。
「普通の壁だなぁ」
指先が、何もない白い壁に触れる。おかしなことは起こらなかった。魔法が始まる気配もなくて、一同はほっと胸を撫で下ろす。
「声がはっきり届くのね」
カーラは虹色の細眉を寄せる。
「そうだね。こんなに広いのに」
ケニスも不審そうだ。
「魔法じゃないんですかい?」
バンサイは魔法を使えないので、ハッサンが魔法で言葉を届けているのだと思ったようである。
「いや」
ハッサンが振り返って短く答えた。
「月の光がここの花に跳ね返って部屋中の音を運んでるみてぇだな」
オルデンが解説する。
「でも、うるさくはないよね」
「そうね、ケニー」
カーラが頷く。シャキアは柔らかく微笑む。
「むしろ心地良いわ」
逆さまの宮殿では、皆顔を出している。シャキアの黒い髪が緩やかにうねる。月光を湛えて青緑にも見えるその髪は、すらりとしたシャキアを凛々しく飾る。職人らしくしっかりとした肩は、目の粗い布に覆われていても丸くなだらかだ。
「落ち着くな」
オルデンはごく自然にシャキアの肩を抱く。恥ずかしそうにチラリと見上げた黒い瞳を、智慧を秘めた男の紫色の瞳が穏やかに受け止める。
砂よけの布は、砂や風を防ぐだけの日用品だ。オアシスの民は精霊の恵みを信じ感謝している。しかし、畏敬の念を表すために顔や頭を隠す、という決まり事はなかった。だから、不用であれば顔は剥き出しである。
手足をにょっきり出しても構わない。砂漠は暑いので、手足を出すと火傷する危険があった。オルデンやケニスがいれば魔法で冷たい空気を纏える。だが普通の人は、そうはいかないので、全身に布を巻き付けているのだ。
シャキアもオアシスの民なので、習慣的に布を巻き付けている。町外れの遺跡で、魔法の炉を守る炎の精霊アルラハブに招かれたほどの資質を持つ職人だ。本当は魔法や精霊の助けで、薄着でも砂漠に出られる力を持っている。
頭の布は外したが、風避け布は身につけたまま、シャキアは水晶と宝石の花園を前に佇んでいる。頭を預けるのは、さほど逞しくもない宿なし男の腕だ。流れる黒髪のくすぐったさに、オルデンは幸せを噛み締めていた。
「ここ、風が吹いてくる」
ハッサンの声が、束の間訪れていた沈黙を破った。
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