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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第五章
55/55

番外編『西から来た双子』 中編


     3


 俺は正直雛のことも、小鳥のことも、それほど詳しく知っている訳ではない。本家の従姉妹たちのように同じ県内にいるならまだしも、二人は遠く離れた土地で暮らしている。だから顔を合わせることなんて年に数回、片手で数えられる程度だ。例年は年明けやお盆に、母さんの実家へ行くと、大体いつも叔母たちも帰省してきていて、そのときに会っている。母さんの実家は割と近場なので泊まりがけで、半日ほど滞在してその間に二人の面倒を任される、ということが定番だった。

 だがここ二年は俺が年末に入院していたこともあって、母さんの実家に顔を出していなかった。お盆も、去年は部活で全国まで行った関係で俺だけ遠征先に行っていたので顔を出す時間がなかった。

 俺の中では結構疎遠になってしまっているイメージだったのだが、どうも雛はそうではなかったらしい。


     4


 

 雛の問いに、俺は「ああ」と頷いていた。この場合はとりあえず、こうするべきだろう、と思ったからだ。どうせ怜も同じように小鳥の味方をして、色々話を聞いているはずだし。だからこちらもそうすれば良いと思ったのだ。

 少々甘かった。

 いまは少し後悔していた。

 俺が自分の立場を表明するや否や、雛はべったりくっついて離れなくなった。具体的に言うとソファに座った俺の膝の間にちょこんと座って、俺の体を背もたれか何かと勘違いしてるんじゃないかというくらい、無邪気に体を預けてきたのである。小柄なせいで、びっくりするくらいすっぽりと収まってしまったのがたちが悪い。気を抜くと小動物を愛でているような心地がしてくるのだ。眼下に見えるつむじを眺めていると、月子姉さんが花音の頭に顎を置きたくなる気持ちが段々分かってくる気がして、思わず溜め息を吐いた。

 なんだかもう、こういうことに慣れてしまっている自分がどこかにいて、それが言いようのない自己嫌悪を生んでいた。

「昔から、お姉ちゃんばっかり、みんなお姉ちゃんばっかり、かわいがっとったんよ」雛は言った。呪詛を吐き出すように、声を低くして。「うちは昔から、なんでか色んなことが人並み以上に出来たから、手の掛からんええ子やね、とは言われてたんやけど。でもお姉ちゃんは違う。運動神経鈍いから鈍くさいし、勉強も要領が悪い。けどいっつも明るくて笑顔で、知らん間にお姉ちゃんの周りには沢山の人がおった。私はそれを遠くから見ながら、ちょくちょくお姉ちゃんがやらかすアホなことの尻拭いをして、気がついたら私ばっか泥被ってた」

 足をばたばたさせながら饒舌にまくし立てる雛の頭を撫でながら、俺は「大変だったんだな」と相づちを打った。

「ほんまに。小学校の五年生の時やったかな。お姉ちゃん、友達とボール投げて遊んどって、それで調子に乗って無茶苦茶な投げ方して、変な方にボールが飛んで行って、そんで教室の窓ガラス割ってもうたんよ。でもお姉ちゃんってビビりでヘタレやから、自分からよう言わんかったんよ。そんで、誰がやったんやー、って騒ぎになってるうちに誰かが言うたんよ。雛ちゃんが投げたボールがガラスに当たったって。そしたら先生がうちの方見て、またか、みたいな顔したんよ。なんせそれまでも何回か、お姉ちゃんの身代わりになったことがあったから。せやから多分私がやった、って言うた子も、今回もそうしたらええわ、って思ったんやろな。流石にそん時はうちも頭に血が上って、嘘言うた子をどついたろ、とか思ったんやけど、でもお姉ちゃんがめっちゃ怯えた顔して、うちの事見てて、それですぅーっと頭が冷えた。なんか判らんけど。ああ、結局うちがお姉ちゃんのこと守ったらなアカンのやな、って、勝手に納得してもうて。それでもう、先生の訳の分からん説教をだらだらと聞かされて、家帰ってからもお父さんに怒られて。未だにあん時のことは覚えとるわ。全部終わったあと、お姉ちゃんなんて言うたと思う?」

 雛はぐるりと首を廻らせ、つん、と顎を突き出してこちらを見上げた。

「流石に、ありがとう、とかごめん、とかそういう事は言ったんだろ?」

「ちゃうねん。何も言わんと、眼が合わんように俯いてそのまま私の前を通り過ぎて行きよったんよ。酷いと思わん?」

 その目は同意しか求めていない、強い非難の色が滲んでいて、だから俺は「そうだな」と返した。

「そのぐらいから、やと思う」雛は顔を正面に戻して、「お兄ちゃんやから言うけどな、うち、正直学校に馴染めてへんねん。その、なんていうか、イジメっていうんかな」

 よぉ判らんけど。と俯きがちに言った。

 俺は何も言わず黙っていた。

「うちら姉妹って、自分で言うのもなんやけど、可愛いやん? それでうちは、勉強も運動も人並み以上に出来て、せやから昔からちょっと陰口言われとってん。可愛いからって調子に乗っとるとか。お姉ちゃんはええ子やのに、うちは憎たらしいとか。気がついたらシカトされるようになったり、うちのペンケースがゴミ箱に捨てられとったりとか。そう言うことが何回かあって、それでとうとう頭に来て、うちにちょっかい掛けてくる、飯田っちゅう子がおったんやけど。その子校舎裏に呼び出して、大喧嘩したんよ。最初は口で言い合うだけやったんやけど、向こうから手出してきて、仕方がないからうちも応戦したんやけど。そんとき角の所にお姉ちゃんがおるんが、飯田の肩越しに見えてたんよ。それで取っ組み合いが始まってすぐにお姉ちゃんがどっかに走っていって。しばらくせんうちに先生がやってきて、仲裁に入ったんやけど、まあ日頃の事があるから当然先生はうちが悪いって決めつける訳。お姉ちゃんもその時、その場におったんやで? せやけどなんでかうちの味方してくれへんかった。まあなんとなく理由は判るけどな。お姉ちゃん、飯田のことが怖いねん。あれに逆らって自分が虐められるのが怖いから、せやからまたうちを見捨てたんや。けど、そういうことがあったからか、中学校入ってからはお姉ちゃん、うちが手助けせんでも自分でちゃんと何でも出来るように努力するようになったんやで。勉強も忘れへんなったし、忘れ物も減ったし。変なトラブル起こすこともなくなった。うちが犠牲になったおかげでお姉ちゃんはまっとうな人間になれてん。すごいやろ」

 ほんま、笑えるわ。そう呟いた彼女の手の甲に、ぽとりとしずくが落ちた。肩が震えている。俺はまた彼女の頭を撫でた。

「うちはずっとひとりぼっちやのに。昔は話してくれた子も、眼すら合わせてくれへんなった。お姉ちゃんの身代わりになる機会もなくなったし、勉強は出来るから、先生からは優等生って思われて信頼されとるけど、それが返ってうちのこと気に入らへん子らには鬱陶しいみたいやわ。部活で、そこそこ活躍したんも悪かったみたい。うちな、陸上やっとってん。それで五〇〇〇メートルで県大会の決勝まで残ったんやで。凄いやろ」

 そう言って振り返った彼女の目には涙が一杯に溜まっていた。

「それは、凄いね」俺は自分の服の袖で、彼女の目元を拭ってやった。

 くすぐったい、ってと雛は笑った。けれどすぐにその笑顔はしおれてしまう。

「せやけどな」と彼女は唇を噛んだ。じっと黙り込んで俺の顔を見つめたあと、また前を向いて、「大会終わって一週間くらいした頃やったかな。うちのスパイクがボロボロになって、学校のすぐそばを流れとる用水路に捨てられとってな。もうそれで、なんか心がポキって折れてもうた。元々人見知りやったけど、それまでは機械的にやったら誰とでも話せとったんやけど、急に周りの人間が信用でけへんようになって。そしたら言葉も出ぇへんようになって。部活もやめた。毎日下向いて、貝みたいに黙り込んでずっと耐えて。それでなんとか一年は我慢できたけど、でももうあかん」

 もう、嫌や。

 かすれた声で彼女はそう言った。

 それはまるで叫び声だった。

 理不尽に対する絶望を、血を吐くようにぶちまけたのだ。

 俺は彼女を抱きしめた。

「大変だったな」

 一言俺がそう言うと、彼女は「なんで、急に」と声を詰まらせた。

 正直何も考えていなかったので、なぜと聞かれても答えようがない。ただ、彼女の話を聞いていて、どうしようもない悔しさが胸の内にあったのだ。もし自分が近くに居たら、彼女の為に何か出来たかもしれない。けれど、俺には何も出来ない。出来なかった。その悔しさが衝動的にこうさせたのだ。ただの独りよがりと言われればそれまでだ。

「お兄ちゃんは、雛の味方やねんな?」

「ああ」

「うちな。もう、家に帰りたぁない。お姉ちゃんと一緒に居るのも嫌や。お父さんもお母さんもうちのことぜんぜん判ってくれへんし嫌や。学校も行きたくない。怖い。塾も嫌や。うちのこと変な目で見てくる気持ち悪い先生が居るから。なあ、なんでうちだけ、こんな酷い眼にあわなあかんの? なんでお姉ちゃんは、普通に暮らせるん?」

 助けてよ。そう言って彼女は、腕の中で身じろぎをした。腕を緩めると、彼女は膝立ちになって、こちらに向き直って、それから胸に飛び込んできた。それっきり顔を上げなかった。ぐっとおでこで俺の胸を押しながら、声を殺して泣いているようだった。

 一瞬、何か出来ることがあるんじゃないかと思った。夏井の為に行動した時のように。けれど、それは思い上がりで、俺に出来ることと言えば、彼女が泣きやむまで、肩を抱いてやることだけだった。胸骨に感じる痛みが、圧迫感が、そのまま胸を締め付けた。

「お兄ちゃんは優しいな」

 ぽつりと雛が呟いた。涙声はぐずぐずに震えていた。

「そんなにうちのこと知らんのに、そんな風に怒ってくれとるんやもん」

 ほんまに、うちの味方なんやな。

 泣きはらした目で、彼女は笑っていた。

 光の無い洞窟のように果ての無いその瞳の、その虚を埋めるのに、一体いかほどの愛情が必要だろうか。

 似た様な眼を俺は知っている。親戚中をたらい回しにされて戻ってきた怜も、こんな眼をしていた。

 けれど、怜の時のようにはできない。俺は雛のそばにずっと居てやれる訳ではないのだから。

 彼女の救いになるには差し伸べる手が短すぎる。

 それでも、彼女の目を見ていると、そこに引き込まれるように、思わず軽率な言葉を口にしそうになる。

「なあ、お兄ちゃん」雛は言った。「うち、ずっとお兄ちゃんと一緒にいたい」

 まるでこちらの葛藤を見抜いたかのように、縋り付くような視線を向けてくる。

 俺の胸板に彼女の手のひらが触れる。小柄な割に大きな手だ。白く長細い指が、まるで心臓を掴むように胸を押した。それから彼女はその手の横に、耳を押し当てた。

「鼓動がちょっと早いんとちゃう?」

「雛」

「ドキドキしとるん?」

「まさか」

 そう答えてはみたが、しかし冷たい汗が背筋を流れ、正直かなり焦っていた。

 雛はかなり興奮している様子だ。頬がほんのり赤く染まり、呼吸も少し荒い。悲嘆にくれて流れていた涙も、いまは抑えきれない昂進が理性の天端を越流するように頬を伝い落ちていた。

 うかつな事を言えば間違いなく決壊する。非常に不安定な状態でそんなことになれば、正直なにが起こってもおかしくない。

 しかし宥めるには、彼女が求める答えを口にしなければならない。そしてそれは、きっと実現が不可能な、いずれ彼女を傷つけることが分かり切っている気休めでしかない。

「お兄ちゃん。うちな、ずっと、言おうと思ってたことがあるんよ」

 恥じらうように眼を伏せた拍子に、押し出されて大粒になった涙が瞳からこぼれ落ちた。滴は俺の手の甲に落ちて、弾けた。

 いつだったか、公康が言った言葉が脳裏をよぎった。面倒な子を引き寄せる何かがある。そう言ってあいつは苦笑していた。そう言われて何となくそういう気はしていたが、ようやく今になって実感した。あまり付き合いのなかった雛ですらこうなのだ。

 俺は一体、過去になにをしたのだろう。

 もじもじと、言葉を選んでいる様子の雛を見つめながら考える。

 事故のせいで覚えていないのか。あるいは俺が無意識にやった何かが、彼女の心を捉えてしまったのか。

 判らない。ただ、思い返せば、幼い頃から雛は俺によく懐いていた。それは間違いない。だから今日だって彼女のスキンシップをごく自然に受け入れていたのだ。

 あるいは。

 幼い頃のある種の年上の従兄への憧憬をこじらせてしまったのかもしれない。姉の為に色んな苦労を背負い込んで、追いつめられて、そうして逃避を求めた心が、幼少期の憧れを歪め、恋心に昇華してしまったのか。その思慕こそが、彼女にとっての唯一の救いだったのだとしたら、俺はそれをぶちこわさなければならないことになる。

 逃げ場を失った彼女は、一体どうなってしまうのだろう。

 俺を恨むだろうか。恨まれるのは、嫌だ。理屈では仕方ないと判っていても、本能的な部分が拒んでいる。でも、やらなければならない。

「お兄ちゃん」と雛ははにかんだ。恥じらいながらも、その目に宿る意思は強かった。俺はいよいよか、と身構えた。そして彼女の小さな唇が、ほんの少しすぼめられて、「好き、やで」

「ありがとうな」俺は彼女の頭を撫でながら答えた。「雛は良い子だな」

「あ、お兄ちゃん。うちのこと子供扱いしとるやろ。あのな、うちが言うた好きっていうのは、そういう意味とちゃうんやで?」

 判っている。

 うやむやにならないかと思ってダメ元で子供扱いしてみただけだ。

「ライク、やなくて、ラブなんやから」

「そっか」俺は寂しげな表情を作りながら言った。「ありがとう。でも俺には怜がいるから」

「うん。知ってる。でもな。バレへんかったら、ええと思うねん」

 爛々と眼を輝かせながら開き直る雛を見て、俺は思わず天を仰いだ。

「お兄ちゃんの為に、うちな、ちょっとがんばった下着とか着てきたんやで。みる?」

「みない」俺は即答した。「雛、そういうのは良くない」

「なんで? お兄ちゃん、うちの味方なんやろ?」

「それとこれとは、別だ」

「お兄ちゃん、うちのこと、嫌いなん?」悲しそうな顔で雛は俺を見つめる。

「そうじゃない」俺は首を横に振って、「ただ、俺はお前とそういう関係にはなれないって言ってるだけなんだ」

「判らへん! だって、うちは、お兄ちゃんのこと好きなんやで? 小さい頃からずぅーっと好きやってんから。従姉妹同士は大丈夫やろ? せやのになんで? うちが好きやねんから、好きって答えてぇな!」

「駄々をこねるな」語気を強めて俺は言った。「俺は雛のことは好きだよ。でもそれは従姉妹としてだ。お前は妹みたいなもんだからな。でも、それ以上でもそれ以下でもない」

「判った。せやったら、もうええ」

 そう言うと彼女は俺から離れた。一瞬なにかを探すように中空を彷徨った視線は、台所に向かって定まった。俺はとっさに彼女の手を掴んだ。

「離して!」

 台所の方を睨みながら雛が叫んだ。

「何するつもりだ」俺は声を低くして言った。

「死ぬ」振り返った雛は、かっと目を見開いてそう宣言した。

 あまりの形相に気圧されそうになる。

 怯みそうになった心を鼓舞するように、掴んだ手に力を込めた。

「この、バカ! 早まるな」

「だって。うちはお兄ちゃんの事考えて、それでなんとかここまでやってこれたのに、お兄ちゃんに嫌われたら、もう生きる意味なんかあらへんもん! お姉ちゃんもうちが死ねばやっと判るんとちゃうかな。自分がどんだけアホやったかって! お父さんもお母さんもや。うちはみんなの心に思いっきりひっかき傷をつけるんや! 一生消えへんような、深い傷をな! もちろんお兄ちゃんも。うちのこと絶対忘れられへんように。怜お姉ちゃんでも癒せへんくらいの傷をつけたるわ!」

「落ち着け!」

「離して!」

 雛は腕をぶんぶん振り回して俺の手をふりほどこうとする。

 ずき、と肩に痛みが走った。とっさに右手で掴んでしまったのは迂闊だった。ぐっと奥歯を噛みしめ、後悔をすりつぶしながら、痛みに耐える。手を離してしまったら最後、雛は絶対にやる。あの目は本気だ。致命的な事態になるかどうかはともかくとして、自傷行為を完遂することは間違いない。だから絶対に離さない。離せない。肩の状態が悪化する程度のことで、大事な従姉妹を救えるのならやすい物だ。

「いいから、こっちに来い!」

 声を振り絞るのと同時に、掴んだ腕を全力で引いた。「きゃ」と悲鳴を上げて、雛はこちらに倒れ込んできた。逃げないようにしっかりと抱きしめて、そのまま一緒に床に倒れた。

「離してって、言うてるやろ!」

 腕の中でばたばた暴れ回る雛は、まるで捕まった野良猫みたいに俺の腕をひっかいたり、かみついたりして激しく抵抗した。

 俺はじっとそれに耐えながら、彼女があきらめるのを待った。

 しばらくそうしていると段々抵抗する力が弱くなっていって、気が付くと雛は腕の中で、荒い呼吸を繰り返しながら、力つきたようにぐったりとうなだれていた。

「落ち着いたか」俺は言った。

「うん」荒い呼吸の合間に聞こえたのは、憔悴しきった声だった。

「ならよかった」俺は心底ほっとしながら、そう言った。

「ごめん」

「気にするな」

「なあお兄ちゃん。しばらくこのままで居させてくれへん?」

「ああ」

「ありがとう」

 雛は眼を閉じた。まるで眠ったように穏やかに呼吸をしながら、肩を小さくすぼめて、俺の胸に頭を預けて、じっと動かない。何かに耐えているようだった。張り裂けそうなほど、胸が痛むのかもしれない。眼を閉じたのも、涙がまた溢れ出さない為。きっとそうなのだろう。

 俺の両手は雛のおなかの辺りで重なり合っていて、そこに伝わる呼吸のリズムを感じながら、ぼんやりと天井を見上げていた。庭の物干し竿か何かに反射した光が、天井に鋭い模様を描いていた。今日は良い天気だ。きっと太陽は暖かい。

「なあ、雛」俺は言った。「一緒に、買い物行くか?」

「買い物?」

「食材が足りないんだわ」

 なんやそれ、と雛は笑った。「お兄ちゃん、そんなこと考えとったん?」

「悪いか?」

「ううん。そういうとこ、好きやで」

「雛は正直だなあ」

「褒めてる?」

「褒めてる褒めてる」

「なら、しゃーないな。うちも付き合ってあげるわ」

「わー、ありがとー」

「心が籠もってないなあ」

「雛」

「なに?」

「俺が、叔母さんに話してやろうか?」

 俺がそこまでしてやる必要なんてあるのだろうか。という疑問は胸の中にあったが、ともかくこんな様を見せつけられては、悠長にまごついている訳にも行かない気持ちになって、つい俺はそんな提案を口にしていた。

「ええよ。そんなん」

 雛は寂しそうに微笑んで答えた。

 それは拒絶というよりは諦めの言葉だった。

「遠慮するなよ」

「ええの。うちはお父さんとお祖母ちゃんが納得せんとどうしようもないし」

 すべてを諦めたような言いぐさの雛を見ていると、胸が痛んだ。

「でも、それじゃあ、雛が、お前の心が壊れちゃうかもしれないだろ」

「お兄ちゃんはホンマにお人好しやな」呆れた口調で雛は言う。「ついさっき、あんなことがあったばっかりやのに」

「そりゃおまえ」

「従姉妹やから、って言うんやろ」あきれ顔を崩さず彼女は続ける。「あんまりそうやって優しさを安売りしてたら、いつかお兄ちゃんが酷いことになるかも判らへんよ」

「その辺はちょっと身に覚えが」

「ほんまに、しょうがないお兄ちゃんやな」雛はくすくす笑った。「ほんまに、ずっとそばに居てくれたらええのに」

「すまんな」

「なあ、もしなんかあったら電話しても、ええ?」雛はそう言うと俺の上でくるりと体を回転させて、うつ伏せになって、上目遣いに俺を見た。

「幾らでも」

 やれやれと思いながら俺は答えた。なんとなくであるが、彼女が同級生の女子から目の敵にされている理由が判ったような気がした。

「お兄ちゃんが話聞いてくれるだけでも、全然違うと思うねん」

 そう言って目を潤ませる姿は、見る人によっては可愛らしいというよりは、あざとい、と映るのだろう。きっと雛は、男子からは密かに人気があるタイプなのだと思う。

 余計なことを考えているな、と思いつつ、「腹にため込むよりはよっぽどいいさ」と俺は答える。元々年下の従姉妹として、交流は少ないけれど、ある程度可愛がっていたせいだろうか、彼女にこういう振る舞いをされると、どうにも甘やかしたくなる。

「なにぃ、それ。カッコつけてる?」雛はおかしそうに笑った。

「かもな」

「買い物、行かんでええの?」

「ちょっと準備してくるから、待ってろ」

 手をほどいた。

 雛は俺から離れると、へへ、と気恥ずかしそうな笑顔を浮かべて、それからソファに移動した。

 洗面所に行って顔を洗って髪を整えて、それから腕と肩の状態を確かめた。肩は痛い。じんじんと熱を持ったような感覚が首の付け根から肩甲骨に掛けての辺りに広がっている。今日中は大丈夫だろうが、多分明日の朝は地獄だ。長袖のシャツを着ていたのが幸いして、ひっかき傷はついていなかったが、噛まれたところが赤く腫れていて、所々ミミズ腫れが走っていた。しばらく袖の短い服は着られそうにない。いや、というよりこれを怜にどう説明するかだ。下手なことを言うと雛に対してキレるかもしれない。

 後のことを考えると急に憂鬱になってきた。

 そういえば、怜はちゃんと小鳥を捕まえたのだろうか。

 スマホを取り出そうとポケットに手を突っ込むと同時に着信があって、スマホが震えだした。画面を見ると怜からだった。まるで図ったようなタイミングだ。苦笑しながら俺は電話にでた。

「そっち、どう?」開口一番彼女はせっぱ詰まった口調でそう言った。

「色々あったけど、いまは落ち着いてる。そっちは?」

「なんかすっかり塞ぎ込んじゃって。悪いのは自分だ、とか、ごめんなさい、とか部屋の隅っこで膝抱えてブツブツ呟くだけで、埒があかない」

「もしかして、実家?」

「うん」

「俺も行こうか?」

「うーん。もう少し粘ってみる。それに、そのうち雪ちゃんも来てくれるだろうし」

「奈雪姉さんが?」

「あ、そっか。そっちのこと言ってなかった。あのね、今日たまたま雪ちゃん暇してたみたいだったから、駅まで忘れ物の確認に行ってもらってたの。そしたら小鳥ちゃんたちの荷物が保管されてて、それをうちまで持ってきてくれることになったの」

「へえ」

「あ、いまさくらじゃないんだ、とか思ったでしょ」

「なんで急にさくらさんが」

「声が焦ってる。図星だ」

「まあ、ちょっと期待はしてた」

「残念だけど、さくらは今日は何かの撮影があるとかで泊まりがけで出かけてます」

「撮影かあ。すごいなあ」

「ね。あの人見知りが人前に出ていっちょ前に、台本通りに動けるんだから。多分そういう才能があるんだと思う」

「可愛いし」

「なんか本音がダダ漏れじゃない?」電話口からくすくすと笑う声が聞こえてきた。

「ぶっちゃけ怜の気を引きたい気分」

「なにそれ」

「好きだよ」

「急にどうしたの。私も好きだけど」

「いや、なんとなく」

「大変だったんだね」

「判るか」

「私を誰だと思ってるの?」何故か誇らしげに彼女は言った。それがおかしくて思わず笑ってしまった。

「なんで笑うの?」

「えっと、可愛くて」

 変だったから、とは言えないので俺はそう言ってごまかした。

「そう。んー、なんか素直すぎて調子狂うなあ。嬉しいけど」

「あとからまた話すよ。色々面倒くさそうだし」

「そうだね。小鳥ちゃんも、何か凄い罪悪感を抱えてるって感じの独り言をブツブツ言ってるから、それとなくは察せてるけど」

「まあそっちのことは頼むよ。俺は雛と買い出しに行ってくる。どうせ奈雪姉さんも泊まるとか言い出しそうだし」

「かもね。さくらが居ないからつまらないって言ってたし」

「じゃあ、またあとで」

「うん。気をつけてね」

 通話を終えて鏡を見て、ぎょっとした。

 雛が俺の斜め後ろに立っていたからだ。

「怜お姉ちゃん?」

「あ、ああ」思わずたじろいでしまった。

「うちと話しとった時と、ぜんぜん声の調子が違うんやね」拗ねた口調で彼女は言った。

「そう?」

「なんかこう、柔らかいっていうか、甘えてる感じがした。お兄ちゃんでもそんな話し方するんやな、ってちょっと意外やった」

「まあ甘えてたのは確かかもなあ。怜の声聞くとほっとするんだよな」まあ一番落ち着くのは怜の心臓の音だけれど。

「うわー。やめて」と雛は耳をふさぐポーズをした。「ここで惚気聞かされたら膝に来る」

「足腰立たなくなるくらい聞かせてやろうか」

「あかんやめて。再起不能になるから」

 大変なことになるけど、ええの? と雛は神妙な面もちで言った。

「それは困るな」

「そう言うわけやから。お兄ちゃんはこれからうちとデートな」

「どういう訳だよ。あとデートじゃなくてお買い物な」

「二人で行くんやし、実質デートやろ。あ、浮気やな」

 楽しそうにはしゃぐ姿は、ついさっき見せた恐ろしいばかりの暗さとは似ても似つかないほどに、無邪気で年相応に見える。

 俺はため息をついた。

「まあ誘ったのは俺だしな」

「よっしゃ。じゃあ手、繋いでええ?」

「好きにしてくれ」

 先ほどのようになるよりは、こうしてはしゃいでくれている方が何倍もマシだ。


        

             5


 

 外に出ると思った通り日差しは柔らかく、ゆったりとした時間が春を思わせる陽気の中に流れていた。

 空気があまりにも気持ちよかったので、玄関先で思わず大きな深呼吸をしてしまった。

 隣で雛も真似をするように深呼吸をした。

 目が合うと彼女は恥ずかしそうにはにかんだ。

「なんかのんびりしたくなる天気やなあ」そう言いながら彼女は空を見上げて、日だまりでくつろぐ猫のように眼を細めた。

「ほんといい天気だな。気温もちょうどいい」

 空気はまだひんやりとしているけれど、上着を着て日差しを浴びているとほどよく暖かくて、心地が良い。

「お兄ちゃん」面白いことを思いついた、という顔で雛は言った。「ちょっとひなたぼっこ、しぃひん?」

「ひなたぼっこ?」

「こんな天気のときは、二人でまったりしたいやん?」

 その気持ちは分からなくもない。いや、よく解る。俺はスマホで時間を確認する。まだ14時過ぎだ。

「まあまだ急ぐような時間でもないし」

 彼女のアイディアに乗ることにした。

 俺たちは玄関の段差に並んで腰掛け、それから手を繋ぎなおした。

「雛って意外と手、でかいよな」これといって話題がなかったので俺はなんとなく思っていたことを口にしてみた。

「そうかなあ」と雛は首を傾げる。「お姉ちゃんも同じくらいやし」

「じゃあ二人とも手が大きいんだ」

「でもお兄ちゃんの方が大きいで」

「そりゃな」

「ちょっと嬉しそう」雛はにやにやしながら言った。

「まあなあ」俺は肩を竦めた。「一番よく手を繋ぐ怜が、俺よりちょっとデカイからな」

「へえ。そうなんや。怜お姉ちゃん、背も高いしな」

「ああ。けどもっと背が高い奴もいるぞ」

「あの子とか?」

 雛の視線の先に、確かに背の高い女の子がいた。玄関先で和んでいる俺たちを奇異の目で見つめている彼女は、「中里じゃんか」

「えっと、事案ですか?」中里は肩に下げていたバッグからスマホを取り出した。

「どこをどう見てそう思った」

「見知らぬ幼女と一緒にいたものですから」

「従姉妹だよ」

「従姉妹? 知りませんね」中里は雛をちら、と見てそれから眉を顰めた。

「中里は、初めてだっけか」

「なあ、お兄ちゃん。この人知り合いなん?」雛が怪訝そうな顔で訊ねてきた。

「まあ、ご近所さんだ」

「先輩。別にそれでもかまわないんですが、せめてもうちょっと言い方を」中里は不満そうにそう言った。「流石に他人行儀すぎませんか?」

「いや、友達とか幼なじみとか言ったら嫌がるかな、と思って」

「別にかまいませんよ」

「そっか」

「で、何してるんです? 浮気ですか? 浅井先輩に報告しますよ?」詰問口調で中里が詰め寄ってくる。

「従姉妹だって言っただろ」俺はあきれながら言った。

「従姉妹は合法ですよね」

「お前も、その言い方はどうかと思うぞ」

「まあ先輩にその気がないのは判ってますよ」

 けど、と中里は言いよどんだ。彼女は雛の様子をうかがうように、視線を二度、三度、俺のとなりに移し、それから何か言いたげな表情で俺を見た。

 雛の精神状態についてなにかしら察したのかもしれない。ある意味彼女はモテまくってる訳だし、そういうことにも敏いのだろう。

「なあ、うち置いてけぼりなんやけど」雛が冷たい声でそう言った。「なんなんその子」

 雛が中里へ向けた視線はあからさまな敵意に満たされていた。思わずそうなった、という風ではない。あえてそうすることで相手を牽制する威嚇の目だ。

 中里は一瞬驚いた様に瞬きを数回繰り返したが、すぐに普段の不機嫌なんだか不遜なんだか判らない表情に戻って、「こんにちは」と口角をわざとらしく持ち上げてほほえんだ。それはまるで猫科の猛獣の威嚇を思わせる表情だった。

 隣で、ひゅ、と息を飲む気配がした。振り向くと雛の表情は恐怖でひきつっていた。彼女は俺の腕に無言で抱きついて、中里を見上げた。

 ちょっとは手加減してやれよ、とあきれながら中里の方へ視線を向ける。

 中里は気まずそうに目をそらした。ちょっとだけ突き出した唇が自分は悪くないと言外に弁明していたが、これは流石に中里が悪い。

 やれやれと思いつつ俺は雛の頭を撫でた。「ほら、自己紹介しなさい」

「宮本雛」とぶっきらぼうに名前だけ言って、すぐに俺の肩の後ろに隠れてしまった。

「へえ。可愛い名前」と中里は声色を柔らかくして言った。少し低めの澄んだ声が、日差しにとけ込むように響いた。「私は中里優衣。先輩の後輩よ」

「回りくどい言い方するなよ」

「いいじゃないですか。ところでこの子何年生です? よく見ると可愛らしいじゃないですか。五年生くらい?」

「うち、中一なんやけど」恨めしそうに雛は言った。「今度中二や」

「え、一個下」と中里は驚いたように口元を手で押さえた。「確かに。言われてみたら骨格と肉付きが」と中里は雛の腰の辺りを見ながら「なにかスポーツ、やってるの?」

「別に。前は陸上やってたけど」

「やってた、ってことは今はやってないのかあ。でもその体つきからして、多分いまも走ってる」

 雛はどうして判るんだ、とでも言いたげな顔で中里を見つめていた。

「こう見えて、私は女の子の体を見る目だけはあるのです」

「人の従姉妹に汚れた視線を向けないでもらえますかねぇ」

「すみません。つい。可愛かったので」と中里は悪びれた風もなく言った。

「いや、せめて否定しろよ」

「で、ちょうど先輩に確認したいことがあったんですよ」

「急に話題を変えやがって。それで、なに?」

「浅井先輩はいま家にいます?」

「怜なら実家の方にいるよ」

「ああ良かった」と中里はほっと息をついた。「思い立ったが吉日と、見切り発車で買って来てしまったものですから」と彼女は手に持った紙袋を持ち上げて言った。

「それは……ケーキ?」

 隣町にある美味しいと評判のケーキ屋さんの紙袋だ。

「正解です。先日病院に付き添っていただいたお礼に、と思いまして」

「まあちょっと立て込んでるかもしれないけど、ケーキ渡すくらいなら大丈夫なんじゃないかな」

「立て込んでる、というと作家のご友人が?」

「いや、もう一人従姉妹がいて、まあなんだ」俺は雛を見た。雛はつん、と顔を背けてしまった。「喧嘩してて、その片割れを怜が宥めてるところなんだ」

「はあ、ではなおさら甘い物はうってつけじゃないですか。善は急げ、ですね」

 ポイント稼ぎが出来ます。と中里はぐっと拳を握った。

「お前は前向きだなあ」

「浅井先輩の為ならば、私はなんでもできますから」

「あっそう」俺は言った。「じゃあ、まあ頼んだぞ」

 中里はにこにこしながら「はい」と答えた。それから雛の方を見て「可愛い顔が台無しだよ」と言った。

「大きなお世話や」と雛は言って、ふん、と鼻を鳴らした。

 中里は肩を竦めた。それからこちらに近づいて来て、雛のそばにしゃがんで、「心配しなくても私が狙ってるのはそっちじゃないから」

 安心して、と中里は微笑んだ。

 雛は意味が理解できなかったらしく、ぽかんとした表情で「はえ」と気の抜けた声を漏らした。

「怜に変な事したら、金輪際マッサージはなしだぞ」

「それは困りますね」

「もしくは時々死ぬほど痛いツボをぐりぐりする」

「先輩、それはこの前やりましたよね」

「バカ。あれは痛いけど効くツボだ。俺が言ってるのは痛いだけの場所だ」

「それ絶対押しちゃだめなツボ、っていうか急所みたいな何かですよね」

「バスケ人生を続けたかったら用心することだな」

「うわー。怖い顔」と中里は言って、それからくすくすと笑った。「似合わないですよ」

「悪かったな」

「それに先輩はそう言うことできない人ですし」

「お前は俺の何を知ってるんだ」

「浅井先輩を観察すると必ず先輩のことも目に入ってきますから。少なくともそこで妹面してる子よりは知ってますよ」

 そう言うだけ言って中里は「それでは失礼します」と逃げるように小走りで、怜の実家の方へ去って行った。

「狙ってへんのとちゃうの」雛が不機嫌そうに呟いた。

 そう言えば先日俺が兄ならどうのこうのと言っていたが、案外本気だったのかもしれない。

 なんて考えているとわき腹をぎゅぅっとつねられた。

「お兄ちゃんも、なんなん? 結構仲良さそうやったやん。ていうかマッサージってなに? そんな関係なん?」

「あいつ生理が酷いから、楽になるようにマッサージしてやったことがあるだけでだな」

 あの後怜に頼まれて、今後も中里が望めばマッサージをするという話になってしまったのだ。なんだかんだあいつは怜のお気に入りだし、怜が望むのならば俺はそれに答えるだけだ。

「普通そんなんただの近所の幼なじみに頼まんやろ。なんやったら彼氏でもそんなんせぇへんのとちゃうん? なんなん?」

「まあ色々事情があるんだよ。あいつも、家じゃ親と折り合いが悪くて、居場所があんまりないみたいだからなあ」

「それ関係ある?」

「……多分」

 思えばあいつが女バスを私物化してハーレムを作っていたのも、居場所を求めた末のことだったのかもしれない。まあ流石にやりすぎな感は否めないが。そう言う意味では雛に対して挑発するような事を言ったのも、俺の妹ポジション、というよりは怜と俺の妹ポジションを奪われるかもしれないと思ったからなのかもしれない。

「お兄ちゃんはモテるんやな」そう言って雛は俺の腕からゆっくりと離れた。「そら、うちなんか、告っても無理やわ」

「いや、そもそも俺には怜がいるからな」

 もっと身も蓋もないことを言うと、互いの母親が双子な上に、雛は母親似な訳で、つまり雛はうちの母さんと顔がそっくりなのだ。なのでそもそも、そういう対象として見るのは無理な話なのだ。まあ流石に雛が可哀想なのでこのことは伏せておくが。

「なあ、そこはノリで、そんなことないよ、とか言うところとちゃうの?」と雛は不満そうに言った。

「言ったらお前、都合の良いように解釈するだろ」

「……なんで判ったん?」大きく開いた目をくりくりさせながら彼女は言った。

「ちょっと思ったけど、雛って実はちょっと腹黒いタイプだろ」

「しゃーないやん」そう言って雛は両膝に肘をついて、チューリップのように広げた両手に顎を乗せてふてくされた様にため息をついた。「うち、お父さんにもお母さんにもあんまり好かれてへんねん。お父さんはなんかもう性格が合わへんし、お母さんは、うちのこと見てるとお姉さん、せやからお兄ちゃんのお母さんやな、を思い出して苛つくんやって。お酒飲んで酔っぱらう度に言うねん。姉さんは何でも出来て人気者だったけど、私は落ちこぼれで、誰にも相手にされなかった、って。せやからうちよりも出来の悪かったお姉ちゃんばっかり贔屓して、うちのことはずっと二の次やった」

 雛は大きな溜息を吐いた。

「せやから。上手いこと媚び売ったりして立ち回らんと、どこにも居場所がなくなってまう。ううん。もうホンマにうちの居場所なんてないんかもしれへん」

 ほんまにもう、家に帰りたぁないわ、と雛はため息と一緒に呟いた。

「時々な、越えたらあかん一線を越えそうになることがあるねん」そう言って雛は俯き、体を屈めて、膝の上に重ねた両腕におでこをぎゅっと押しつけるようにして、丸くなった。「教室の窓から下を見た時とか、電車待ってる時とか。向こう側に行ったら楽になるんちゃうかって。でもな。そう言うとき、いっつもお兄ちゃんの顔が浮かぶねん。楽になるのはええけど、そうしたらお兄ちゃんと二度と会えへんなるやん、それでええんか? って自分の中でなんか問いかけてくる声が聞こえてきて、それでなんとか踏みとどまれとってん」

 けど、と言って雛は顔を上げた。その目の中の光は、まるで薄暮の稜線にわずかに漏れる残光のように、微かで、いまにも消えてしまいそうだった。

「お兄ちゃんに会えて、気持ちも伝えて、それで振られて。なんかもう、燃え尽きたっていうんかな。いまやったら、多分、一歩先に踏み出してしまえると思うんよ」

「行かせないぞ」俺は言った。「その向こう側になんて、行かせない」

「言うと思った」雛は柔らかな笑みを浮かべて言った。「けど、なにが出来る?」

「俺が叔母さんたちに掛け合ってみる」

「無理やって」

「やってみなくちゃ判んないだろ」

「それでもアカンかったら?」

「こっちの婆ちゃんのところに、雛が避難できないか、話してみる」

 母方の祖母は、雛のことをかなり可愛がっている。溺愛していると言っても良い。最悪そこに縋るという手はアリだと俺は思う。

「それって、いつまで?」

「お前にその気があるなら、こっちの学校に転校できないかっていうところまで、話すつもりだけど」

「お兄ちゃんって、なんか、変なところでびっくりするくらい、思い切りがええなあ」雛は感心したような呆れた様な表情になって、それからくすくすと笑い出した。

「なんだよ」

「ううん。なんやかんや言うて、お兄ちゃん、うちのこと好きなんやな」

「そりゃな」俺は雛の頭に手を乗せた。「妹っぽい何かだし」

「そこはもうちょっと、言い切ろうな」雛は笑いながら言った。

「まあなんていうか。雛のことは可愛いと思うし、美人だとも思うけど、異性としては見れないからなあ」

「うん。ありがと」そう言って雛は立ち上がった。そしてこちらに手を差し出した。「なあ、握ってくれへん?」

 俺は頷いて、立ち上がった。そして彼女の手を握った。

「絶対に、離さんといてよ」

「ああ」

「離したら、うち、たぶん二度と戻って来られヘんなるから」

「判ってる。だから離さないよ。例えいまふれあっている手が離れたとしても、俺はお前の、心が助けを求めて差し出した手を握ったんだ。俺がお前のことを大切に思ってる限り、絶対に離したりなんかしないよ」

「……お兄ちゃん」雛は顔を赤くして、表情を隠すように俯いた。そして肩を震わせながら「いまの、ちょっと、待って」

「お前、そこで笑うなよ」

「だって。そんなクッサイ台詞言われたら笑ろてまうって」そう言うのと同時に耐えきれなかった雛は、腹を抱えて大声で笑い出した。

 歯が覗いて、喉の奥まで見えてしまって。欠伸をする猫みたいに目を細めたまま、おかしそうに笑う姿は、なんだか不思議と愛おしかった。

 一頻り笑った後、雛は真面目な顔になって、俺に言った。

「さっき言うとったこと、うち、信じるからな」

「まかせろ」と俺は力強く答えた。が、正直勝算もなにもあったものではない。勢いで言っただけだ。とはいえ、やると言った以上はやるしかない。叔母夫婦がうちに来るのは明日だ。そして恐らく雛の顔を見るために祖母もついてくるはずだ。もし一緒ではなかったとしても、雛の抱えている問題を電話で話せばすぐに飛んでくるだろう。祖母の家からうちまで車で一時間程度だ。

「もしあかんかっても、うち、お兄ちゃんのこと恨んだりせえへんから。お兄ちゃんがちゃんと味方やって判ったから」そう言って雛は熱っぽい眼差しで俺を見つめてくる。「なんかあったら、お兄ちゃんに頼ればええねんもん」

「土日ならすぐに駆けつけてやるよ」

「あ、言うたな。絶対やで?」

「出来る範囲でな」

「うわ。いきなり弱気になった」

「お金がな」

「あぁ、確かに」

「まあ、だから電話でもなんでもいいから相談してこい。一人で悩むな。俺が聞いてやるから」

「うん。そうする」と雛はほほえみながら頷いた。「今考えたら、なんでいままでそうせえへんかったんやろ」

「遠慮してたんだろ」

「かもしれへんなあ。あんまり会う機会もなかったし」

「ああ。俺も正直お前のことそこまで知らないからさ。だから、ちょくちょく電話で自分のことを話してよ。俺が十分、雛のことを知るまで」

「そっかー。なるほどなあ」と雛は感心したように、「そんな約束したらおいそれと死なれへんやんか」

「そう言うことだ」

「じゃあまあとりあえず」ごほん、と咳払いをして雛は、「今日はこの後、うちの好きな食べ物をお兄ちゃんに教えたいと思います」

「よろしくお願いします」と俺は畏まって一礼した。

 あはは、と雛は笑う。「なにこの、なに?」

「笑いの沸点低いな」俺は苦笑する。「じゃあ、買い物行こうか」

「うん」と雛は頷く。「手、繋いだままでええ?」

「あー。自転車で行くつもりだったんだけど」

「自転車? あ、じゃあそれでもおっけー」

 むふふ、と雛は何かを企むようにほくそ笑んでいた。

 だいたい何を考えているのか判ったので俺は自転車の荷台にクッション代わりのカッパの袋を巻き付けて、玄関先に戻った。

「じゃ、お兄ちゃんから先に跨がって」と雛に催促されたので俺は「はいはい」と答えながら自転車に跨がった。

「それじゃあ、うちも乗るから、ちゃんとバランス取っといてよ」

「まかせろ」

 ほ、と言うかけ声と共に自転車が左側に一瞬傾きそうになったので、それを脚でぐっと踏ん張って押しとどめた。

 背中に雛が抱きついて来た。

「おっきい背中」恍惚とした呟きが背筋に響いた。「ええ匂いやし」

「堪能してるところ悪いけど、出発していいか?」

「ええで。もう、がっしりしがみついとるから。死んでも離さへんで」

「なら安心だ」俺は苦笑して、それからペダルを踏み込んだ。

 初春の陽気の中といえど、風を切りながら自転車で走ると、少しばかり肌寒い感じがする。雛は機嫌が良さそうに鼻歌を歌っている。何故かそれは、季節外れの少し古い夏の流行歌だった。

「なんかこうしてると小さい頃のこと思い出すわ」

 懐かしそうに雛が呟いた。

「覚えてへん? まだうちが小学校の三年生くらいのころやったかな。お盆にこっちに遊びに来て、一緒に花火見に行ったことあったやん?」

「そんなのあったっけ」

「あったの」背中にどん、と衝撃を感じた。たぶんおでこを少し強くぶつけてきたのだろう。「怜お姉ちゃんが一緒やなかったから、覚えてへんのとちゃう?」

「それはあり得るかも」俺は苦笑した。

「否定しぃな。もう、そうやもんな。お兄ちゃんは昔から怜お姉ちゃんのことしか見てへんかったもんな。うちとお姉ちゃんが視界の端でどれだけぴょんぴょん跳ねても無視やったし」

「おまえらそんなことしてたのかよ」

「うちらかって構って欲しかったの」

「小鳥も?」

「お姉ちゃんも昔はお兄ちゃんのこと好きやったんとちゃうかな。いまは彼氏おるけど」

 まあそんな話はええやん、と雛はまた背中をとん、と押した。

「その花火大会の時にな、うちの草履の鼻緒が切れて、そんでこけて、おまけにその先が水たまりで、せっかく可愛い浴衣着とったのに、どろどろになってもうて。それでもう、悲しいやら情けないやらで、わんわん泣いてもうてな。そしたらお兄ちゃんがうちの頭撫でながら、大丈夫大丈夫って言うてくれて。それから汚れるのも気にせんと、うちのことおんぶして、連れて帰ってくれたんやで」

「そう言われればそんなことあったな」

「うちな、あのとき、お兄ちゃんの背中の上でな、あ、好きやわ、って自覚したんよ」

 腰に回された雛の手の、力が少しだけ強くなった。

「お兄ちゃんの背中って大きいし、なんか安心する匂いがするなあって。そう思ったら体の奥の方がきゅぅって切なくなって。胸が痛いってこう言うことなんやなって理解したんよ」

「そっか」

「いまもな、こうしてると、あ、うちお兄ちゃんのことが大好きなんやなって、再確認出来て、めっちゃ切ない」

 振られたあとやから余計に。そう言って雛は笑った。いや、正確に言うと、微かな笑い声を漏らしただけだ。もしかしたら、本当は泣いているのかもしれない。

「ありがとうな。ほんまに」

 そう呟いたきり、雛は何もしゃべらなくなった。

 背中に感じる体温だけが、いまはそれが彼女との唯一のつながりで、この暖かさこそが、俺が絶対に手放してはならない大切な物なのだと強く感じていた。




     6


 スーパーで俺たちはカレーの材料を買い込んだ。雛が食べたいと言ったからだ。彼女はチキンカレーが好きで、特にジャガイモが崩れてとろとろになるまで煮込んだカレーが大好物だと、幸せそうな顔で教えてくれた。きっといつも食べているその味を思い出していたのだろう。

「料理しとるときだけは、お母さん機嫌がええねん」

 会計を終えて店を出てすぐのことだった。しようがない、という顔で雛がそう言った。

「うちのことあんまり好きやない癖に、料理だけはちゃんと作ってくれてな、めっちゃ美味いねん」

「そうなんだ」

「うん。お母さん、ほんまは料理人になりたかったんやって。お父さんともレストランで下働きしとる頃に出会ったって言ってた。お父さんはそのレストランに出入りしてる業者の人間やって、お母さんを見て一目惚れしたって言うてたわ」

「へえ、じゃあおじさんの方からアプローチかけたのか」

「そうなんよ。野暮ったい顔しとる割に、積極的やったんやって。それでお母さんが折れて、結婚したらしいわ」

「確かにあんまりそう、ガツガツ行くタイプには見えないかも」

「やろ? そんで最初はお母さん、料理の仕事を続けてたんやけど、お婆ちゃん、こっちの方のお婆ちゃんな、と一緒に暮らさなアカンなって。そのお婆ちゃんが仕事をやめろ、言うて煩かったんやって。結局別れるるか仕事続けるかどっちかにしろ、って迫られて、もうその時お腹ん中にはうちらが居ったから、道半ばで夢を諦めてもうたって」

「そんなことが、あったんだな」全部初耳だ。よく考えてみると俺は雛たちのことだけじゃなくて、叔母夫婦のこともあまり知らないんだ。そう思うと、なんだか急に途方も無い気持ちになってきた。

「悔しかったと思うで。たぶんうちに辛く当たるのも、それが原因の一つなんかもしれへん。でも料理だけはちゃんと作ってくれるねん。教えてって言うたらちゃんと教えてくれるし。料理人としてのプライドがあるんやろな」そう言って雛は、ふっと悲しそうに微笑んだ。「うちはお母さんの料理は好きやねん。料理の美味しいその味の中にだけ、なんか愛みたいなものが感じられるっていうんかな。うちがやることなすこといちいち文句付けてくるくせに、おかわりするときだけは、ほんまに優しくご飯よそってくれるねん」

 いっつもあんなんやったら、ええのにな。

 少し日が傾き始めた空を、雛は寂しそうに見つめていた。

 その肩が、あまりにも小さく見えたので俺は思わず彼女の肩を抱き寄せていた。

「ん」と彼女はくすぐったそうに身じろぎして、それからこちらに体を預けてきた。「なんかこうしてると恋人同士みたいやな」

「そうか?」

「うちはそう思うで」ふふ、と彼女は笑った。「せやから、ちょっと恥ずかしいかも」

「帰ろうか」

「うん。安全運転でお願いな」

 雛は笑ってそう言った。

 ああ、と俺は頷いた。

 前カゴに買い物袋を押し込んで、それから自転車に跨がる。

「よっ」かけ声とともに、雛が荷台に跨がった。

「そういやそのスカートで跨がるの大変じゃないか?」

「結構スリットが深めに入ってるからそうでもないで。あ、結構セクシーやろ?」

「ばーか。ほら、ちゃんと掴まってろよ」

「りょーかい」

 日が陰りだした帰路の風は少し冷たくて、頬が熱を持つのが判った。

「お兄ちゃん。そう言えばなんやけど」

 信号待ちをしている時だった。

 それまでずっと黙り込んでいた雛が不意に口を開いた。

「どうした?」と俺は後ろを振り返った。

「うちらの荷物って結局どうしたらええんやろ」

「ああ、それなら」と答えようとしたところでスマホがポケットの中で振動し始めた。

「電話?」と雛が首を傾げる。

「誰からだろう」

 スマホを取り出して画面を見る。

 お姉ちゃん、と表示されていた。奈雪姉さんからだ。一週間ほど前にうちに遊びに来たときに、勝手に人のスマホをいじって自分の登録名をこの名前に設定して、変えたら怒るから、などと言って押しつけてきたのだ。俺が自分でやった訳ではない。

「お姉ちゃん? 誰?」

「本家の従姉妹」

「ああ、奈雪さん、やっけ?」

「あれ、知ってるんだ」

「年賀状は毎年貰ってるから」

「マメだなあ」

「ホンマにな。なんか小さい頃に会ったことはあるらしいねんけど、ぜんぜん記憶にないし」

 それはそうと、出んでええの? と雛はスマホをのぞき込みながら言った。

「どうせ到着したけどいまどこにいるのか、とかそんな内容だろうし」

「そんな可哀想なことしたらあかんで。お姉ちゃんなんやろ?」

「向こうが勝手にやってるだけだよ」

「あれ? でも確か腹違いって聞いたけど」

「なんで知ってるんだよ」

「前になんか、うちのお母さんが酔ってぐちぐち言ってた時にポロっと」

 そんなやりとりをしているうちに、スマホの振動が止まった。と思ったら間髪入れずスタンプの通知が連続で入ってきた。

「折り返しかけたりぃな。うち待っとくから」

「ああ」

 やれやれと思いながらロックを解除して、奈雪姉さんの番号にかけ直した。

「やっとだ!」と奈雪姉さんは大声で、「いまどこ? ぜんぜん電話出ないから心配したんだから!」

「いや、ごめん。自転車乗ってて気づかなかったよ」俺は適当な言い訳を口にした。

「なんともないのね?」切羽詰まった声が電話口から聞こえてくる。

「心配しすぎだって」俺は苦笑しながら言った。

「だって、そう君のことだもん。心配するよ」

「いま買い出しから戻るところだから、家で待ってろ」

「家っていうか、怜ちゃんの実家で待ってるね」

「そういやそっちの状況どうなってる?」

「うーんと、小鳥ちゃんが膝抱えて部屋の隅っこでうずくまってて、怜ちゃんとその後輩ちゃんが頭抱えてる感じ」

「なんで中里も一緒に頭抱えてるんだよ」

「やー、なんか怜ちゃんは小鳥ちゃんをどうしたらいいのか判らなくて頭を抱えていて、その怜ちゃんにどう手助けをすればいいのか判らなくて後輩ちゃんも頭を抱えてて、私はお手上げって感じかな?」

「帰りたくないなー」

「待ってるからね。無視してこっちに顔出さなかったら恨むから」

「判ってるよ。じゃあ切るよ」

「なるべく早く帰ってくるように」

「りょーかい」

 やれやれと思いながらスマホをポケットにしまう。

「ほんまに、なんか、あれやわ」

 ペダルに足をかけたところで、雛がそう呟いて俺の背中をどんどん叩いた。

「痛いって」

「うちが知らんお兄ちゃんが一杯おってほんま、悔しいわ」

「だからって俺に当たるなよ」

「しゃーないやん。やり場の無い気持ちが、もう、なんかぐわーっと暴れ回っとるんやから」雛は拗ねた口調で、「お兄ちゃんはお兄ちゃんやのに、なんかそうやって弟って感じのこと言ってるの見たら、ちょっと寂しいわ」

「どういう理屈だよ」

「お兄ちゃんには判らんやろな。うちもよぉ判らんし」

 雛は、ふん、と鼻を鳴らしてほっぺたを膨らませる。そして思いっきり俺の腰に抱きついて来た。

「苦しいぞ」

「知らんもん」

「知らないと言えば」俺はペダルを踏み込みながら言った。自転車が前へ進み出す。また、冷たい風が頬を撫でた。

「なにぃな」

 続きを言わないでいると、じれたように雛が催促してきた。

「昔から俺に懐いてたけどさ、でもこんなに甘えん坊だとか、すぐ嫉妬する所とか、今日初めて知って、びっくりしてるぞ」

 正直こんなにずっと一緒にいて沢山話をするのもいったいいつぶりなのだろうか、という具合なので、とても新鮮な体験であったことに間違いはない。特に、すっかり思春期真っ盛りに突入してしまった年下の女の子と話す機会というのがあまりなかったので、余計に新鮮ではある。まあ従妹なんだけども。

「……アホ」

 消え入りそうな声が背中をくすぐった。

 本当になんだか背中がくすぐったくなるような甘い響きがして、俺はまた何か駄目な方向の正解を引き当ててしまったのではないかと、少々不安になった。ここで自転車を止めて雛の顔を見ればきっとその答えは判る。でもそれを確認するのがひどく億劫だったので、俺は何も聞かなかった振りをして、黙ってペダルを漕いだ。

 夕暮れに染まる町並みが、すぅっと影に飲まれるみたいに色を失った。雲が出始めていた。頭がぎゅうっと圧迫されるような感覚がして、ずき、と重たい痛みがわき上がってきた。思わずため息をついてしまった。

「どないしたん?」心配そうに雛が言った。

「いや、大したことじゃないよ」俺は言った。「今夜は雨が降りそうだな、って思っただけ」

「雨か」雛は憂鬱そうに言った。「うちも雨は嫌いやな。体が重たくなるもん」

 嫌やわぁ、と雛は心底嫌そうに呟いた。きっとおでこが震えるくらい眉根を寄せてありったけの嫌悪感を表現するようなしかめっ面をしているに違いない。

「お兄ちゃんの匂いかいで紛らわせよ」

 うなじに柔らかい感触が触れた。

 彼女の鼻だ。その鼻息が産毛をくすぐる。

「くすぐったいぞ」俺は言った。

「うちも鼻にお兄ちゃんの産毛が触れてくすぐったいんやけど」

「じゃあおあいこか」

「おあいこ。せやから気にせんといてなー」

「ならしかたないか。ってなんでだよ」

 あはは、と雛は笑う。

「今度は乗ってくれた」そう言ってうれしそうに足をバタバタさせる。

「あんまり暴れるな。こけたら大惨事だぞ」俺はそう言って諫めた。

「はーい」と雛はしおらしく返事をした。「あ、そういえば荷物は?」

「奈雪姉さんが回収してきてくれたらしい」

「そっか。あとでお姉ちゃんと一緒にお礼言わんとあかんな」

 やれやれ、と言いたげな溜め息が後ろで聞こえた気がした。



     続く

お久しぶりです。色々予定が狂ってほぼ二ヶ月ぶりです。

軽めの短いお話のつもりで書き始めたはずなのに、どうしてこうなった。

次回は8月の連休辺りに更新します。多分。

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