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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第五章
53/55

Heading for spring Epilogue『the road goes on』




         1





 「私もちょうど香奈と話したいと思ってたところ」

 無言で見つめ合う二人。

 張り詰めた空気。

 そんな中、靴音を響かせながら怜が歩いてきた。


 遠回りをして柵の切れているところから歩道に入ってきた怜は、二人には目もくれず俺のところへとやってきた。

 二人の視線がこちらに向けられる。

 俺の目の前で立ち止まった怜は、一度夏井たちの方へ振り向くと挑発的な笑みを浮かべ、それからこちらに向き直って、えへ、と笑った。

 その顔を見ただけで俺は彼女が何をしようとしているのか判ったので、溜め息を漏らしかけた。

 それより早く彼女の唇が迫ってきた。

 唇をふさがれたというよりは、口をふさがれたというべきか。中途半端に開いていた口の中に彼女の舌が入ってきて、ねだるように舌先で口蓋を撫でた。焼き肉のタレとニンニクの匂いがする。あとからそのことを指摘したらきっと真っ赤になるんだろうなあ、なんて考えているとだんだん愛おしさが頭を熱くしていって、思わず力強く抱きしめていつものようにしてしまいそうになる。

 が、ここは路上である。しかも夏井と井上がすぐそばにいる。

「ちょっと!」と夏井が怒鳴った。「なにしてんの!」彼女の隣では井上がぎょろりと目を剥いていた。

「あなたたちがオイタをしないように、マーキング」

 唇を離した怜は、そう言ってふふん、と鼻を鳴らした。それから今度は首筋に噛みついた。

 あぁ、と夏井が情けない声を漏らした。

 井上は相変わらず目を見開いてこちらを見ている。もの凄い圧を感じる。

 怜にキスマークをつけられるのも、ついでに血を舐められることも、すっかりいつものこととして慣れてきている自分が居て、だからこそ二人のリアクションを見ていると少し可笑しくなった。

 吐息のほのかな熱を残して唇が首筋から離れた。

「日付が変わるまでは、貸してあげる。でももし超過したら、怖いよ?」

 そう言い残して怜は待たせていたタクシーに乗り込んだ。

 後に残されたのは妙に殺気立った空気だけであった。釘をさそうとしたのだろうが、むしろ逆効果だったのではなかろうか。走り去るタクシーを見つめる夏井と井上の険しい表情を見るとそう思わざるをえない。



 

「ねえ宗平」

 いつの間にか夏井がそばにやってきて、俺の顔を心配そうにのぞき込んでいた。

「大丈夫?」

 そう言って俺の頬に手を伸ばした。公康に殴られた左頬だ。

「ああ、そっちは平気」俺は笑って答えた。

「でも」と夏井は表情を曇らせる。

「ほっぺたは関係ないから」

「じゃあこっち?」と彼女は鼻筋に指で触れた。「こんなに、ひどい」

「打ち身だけで済んだから心配すんな」

「でも」

「お前のせいじゃないからな。気に病むな」

「お姉さんも言ってたけど。でもそう言われたら余計に気にするよ」と彼女は俯く。

 それもそうか、と俺は思い直す。

「そんなに気になるなら、これは貸しってことで」

「貸し?」と彼女は潤んだ目で俺を見た。

「そう。お前は俺に借りがある、ということにしよう。自分のせいだと思ってて、それ相応のことをしないと気が済まないなら、どうぞお好きにってこと」俺は肩を竦めた。

「なにそれ」と彼女は笑った。「うん。でも判った。そうする。まあ、何をどうするかはまた今度考えるね」

「期待しないで待っておくよ」

 ごほん、と咳払いが聞こえた。

 振り向くと井上が冷めた目でこちらを見ていた。

「なによ。ちょっとぐらい、いいじゃん」と夏井が言った。少し細めた目の奥から集束された敵意が放たれていた。

「そういうことをしに来たんじゃないでしょ?」そう言った井上は、縄張りを主張する野生動物のような獰猛な目をしていた。

「おいおい、こんなところでいきなり喧嘩するなよ」俺は言った。「それこそ、そういうことをするためにここに居るんじゃないだろ?」

「それも、そうだね」井上は案外素直に矛を収めてくれた。

「確かに」と夏井も頷いて、それから大きく深呼吸をした。「誰かさんのせいで気が立ってしょうがないっていうか。なにあれ?」

 鋭い視線がこちらに突き刺さる。

「私らがいるんだからさ、せめてもうちょっと躊躇するとかさ。なんでされるがままなの?」

「それは思った」と井上も夏井の意見に同調して、「見せつけたかったの?」

「いや、あれは」と詰問されて思わず言葉を濁してしまう。実はあの瞬間、怜のことしか見えていなかったというか。ぶっちゃけ今日一日ずっと欲求不満だったので仕方がなかったのだ。ファミレス前でしたキスだけでは足りなかったのだ。

 などと開き直りたかったが、ここでそんなことをしたら、それこそ二人の本来の目的がそれてしまいかねないので、「今度からちょっと気をつける」とその場しのぎの言葉を口にした。

「ちょっと?」と夏井が顎を少し上げながら目を細めて俺を見た。期待外れの答えに対する軽蔑というか侮蔑というか。もの凄くキツい感情が込められていた。

「俺と怜は恋人同士なんだ。だからそれが妥協できるギリギリのラインだ」

 どういう目で見られようがそこだけは譲れない。譲ってしまうとそれはつまり怜への不義理となる。普段からあんまり良い行いが出来ていないので、最低限ここだけは死守したいのだ。

「香奈。その辺で」と井上が言った。「確かに、三島とお姉さんは恋人同士。私たちは横から入り込もうとしているだけなんだから、仕方ない」

「うんまあ、そうだね」

 と夏井は頷いたけれど全然納得している風ではなかった。

 やれやれ、と俺は二人の顔を交互に見た。二人ともしらけた表情を浮かべている。

 なんとも変な空気になってしまった。

 仕切り直すために場所でも変えた方がいいんじゃないか。

 なんて思っていると「もっと話し合いがしやすいところに行こう」と井上が提案した。

「そうだね」と夏井が頷いた。

 そのまま二人は歩き出した。

 流れ的に俺を省いて二人だけで話し合うつもりだろうか、としばらく遠ざかる背中を見守っていると、夏井が振り返って「宗平も!」と大声で言った。


 二人は待ってくれている。

 俺は自転車を押したまま走った。



 

      2

 

 


 移動中に会話はなかった。

 どこへ行くのだろう。

 打ち合わせもしていない割に、二人は迷いなく同じ方向を目指しているように見えた。

 10分ほど歩いただろうか。気がつけば堤防の天端に敷かれた道路に出ていた。まさか、と思っていると二人は河川敷へと降りるスロープに向かって歩いて行く。

 河川敷には遊歩道が整備されていて、天端に設置されたLED照明の電灯が、河川敷まで届いて寒々とした光で周囲を照らしていた。相変わらず思うのは、蛍光灯と比べるとこの灯は少々白々しい。遊歩道に落ちたベンチの影も、砂利や小石の陰影もなんだか映画のセットのようにどこか現実離れしたものに感じる。そこで美少女二人が向き合っているのであるから、なおさら演劇めいて見える。ベンチに座って見ている俺はさながら観客か。

 演劇であればここで大仰な口上とともに二人の愛憎劇が繰り広げられるのであろうが、あいにくこれは現実である。両者ともどう切り出そうか迷うばかりで何も言葉を発しない。川のせせらぎが穏やかに夜陰の中を流れて、枯れ草が風に吹かれてかさかさ鳴った。

 このままでは埒が明かない。

「とりあえず座ったらどうだ?」俺はそう提案してみた。なにか意味があるわけでもないが、状態を変えてみれば何か変化が起こるのではないかと思ったからだ。

「わかった」と井上が答えた。

「そうする」と夏井がうなずいた。

 二人は一瞬、隣のベンチに向かう素振りを見せたが、思い直したようにこちらを向くと、そのまままっすぐ歩いてきて、俺の両側に座った。右側が夏井で、左側が井上である。

 予想していなかった展開である。俺は前屈みになり、膝に肘をついて顔の前で手を組んで、難しい顔をした。

 そうしてむっつり黙り込んでいると右の脇腹を突っつかれた。

「手」

 振り向くと夏井が仏頂面をしていた。こちらに手を差し出している。

 なるほど、と思って俺は体を起こして彼女の手を握った。

「こっちも」と今度は井上が言った。

 夏井の手を握った以上断るわけにはいかない。ここで変に波風を立てては余計に事態がややこしくなる。

 だから俺は井上の手も握った。夏井と比べると大きくて、ボールを普段から触っているからだろう、女の子にしては固い手だ。というか手のサイズも俺より大きい気がする。

 二人が意地になっている様な雰囲気が感じられるのは、きっと先ほどの怜の所業のせいであろう。あれに対する報復が手を握るだけ、というのは普段の事を考えるとどこかかわいらしすぎる気がする。

「死なば諸共」ぼそっと井上が呟いた。

 ああ、なるほど。二人とも俺をがっつり巻き込むつもりなんだな。このポジションであれば、聞いていなかったなんてとぼけた言い訳も出来なくなる。それはつまり二人がかりで俺を拘束しているということである。怜に対する対抗心の表れなのだろうが、どちらがいうでもなくそれを成立させてしまうあたり、やっぱりこの二人は仲が良い。

 そして、狙ったわけではないだろうが、怜のおかげで二人が向き合いやすい空気ができあがった感じがする。

 手を握ってから二人は黙ったままだが、すぐにどちらかが口火を切るだろう。そんな予感があったので俺は静観を決め込んで、両手に伝わる温度を比べたりしながらせせらぎに耳を澄ませていた

 


      3



「ずっと考えていたことがある」井上がそう切り出した。覚悟を決めたように背筋を真っ直ぐ伸ばしてきっぱりとした口調で言った。「いまのまま、この関係を続けていたらきっと私たちは駄目になる」

 その言葉に動揺したのだろう。繋いだ右手にわずかな震えを感じた。

「そっか」と応えた夏井の声はどこか悲しげだった。彼女は俯いては何かを堪えるように唇を噛んでいた。

「本当は、香奈と友達をやめようと思ってた」

 ぎゅっと握りしめられた左手が痛い。平静を装いつつもその裏ではいろんな葛藤が渦巻いているのだろう。

「どうして?」とか細い声で夏井が言った。

「お互いに依存しすぎてるから」井上は応えた。

「そんなこと」

「ない、っていえる? 香奈は、私抜きでちゃんとやれる?」

「……できる。って、ちょっと前の自分なら答えたかも」そう言って夏井はうなだれた。「いまになってようやく気がついたの。私は奈々子のお陰でいままで上手くやれてたんだって。それなのに、私は、いつの間にかそのことを忘れて、奈々子の事をまるで子分みたいに……」

 ごめんなさい。そう呟いて彼女はさめざめと泣いた。

「いまさら、謝らないで」

 井上の声は震えていた。動揺なのか、怒りなのか。左手をきりきりと締め上げる握力が感情のうねりを伝えてくる。

「いまさら謝られたって、私が失ったモノはもう、戻らないから」

「じゃあ、どうしろっていうの!」

 急に、夏井が吠えた。その怒声はあたり一面に響きわたって、川辺の静寂を切り裂いた。

「確かに奈々子の事を、引き立て役みたいに思ってたよ。奈々子と仲が良かった子が、私の事を優先してくれる様になったときは正直嬉しかった。私はクズだよ。でも、今更そんなこと言われたって、どうしたらいいのか判らないよ。奈々子は私にどうしてほしいわけ?」

「私は、香奈とちゃんとした友達になりたい」井上は言った。

「ちゃんとした友達ってなに?」と夏井が訊いた。鋭い語気に苛立ちが混じっていた。

「判らない」と井上は頭を振った。「だからこそ、いまここで、お互いが思ってることを洗いざらい全部ぶつけ合うべきなんだと思う」

 けれどそれを正面からやってしまうと、言葉どころか手がでる殴り合いに発展しかねない。そこで俺という緩衝材が挟まれている。この状況を解釈するとそうなるだろう。

 夏井は身を乗り出して、信じられないモノを見るような目で井上の顔をのぞき込んでいたが、向こうが本気だと悟ったのか、きゅっと唇を引き結ぶと背筋を伸ばして、それから大きく息を吸い込んだ。

「それなら遠慮なく言うよ」

 彼女は高らかに宣言した。

「私は奈々子の上から目線が嫌。それに私の影にいるクセに、私より目立つ服着てくるし、私より美人だし。なんなの?」

「なんなのって、言われても。それが私」

「影とか言いながら自己主張強すぎるの!」

 それは確かにそうだろうな、と井上の格好を見て俺もそう思った。

「小学校の頃っていうか中一くらいまではもっと地味だったじゃん」

「我慢してた。でも、三島が誉めてくれたから」

 いつの話だろうか。覚えがないので少なくとも事故以前の出来事なのだろう。

「一年の時の七夕のあれ?」と夏井が言った。

「違う」井上は首を横に振った。「だってあのときはまだ隠してたし」

「はあ? じゃあ、いつ?」

「ないしょ」

「ちょっと、どういうこと!?」

 夏井がこちらをにらむが、俺には覚えがないのでなんとも答えようがなく、曖昧に微笑んで井上の方を見た。

「ていうか宗平って私のことそう言う風に褒めてくれたことあんまりないよね?」

「……話が脱線してないか?」

「いいから」

「はい」

「なんで?」

「いや、言われて慣れそうだし」

「そりゃもう、ご機嫌とりやら下心丸出しな感じで言われたりすることなんて沢山あったけど、でも違うでしょ?」

「香奈落ち着いて。別に香奈は三島の彼女じゃない」

「知ってるっての!」

 立ち上がって怒鳴る夏井。腕をがっと引っ張られて一瞬視界が揺れた。幸い肩に痛みはなかった。

「だいたいそう言う自分もちょっと彼女面しすぎでしょ」

「別に」

「してるでしょ。それも結構前から」

「してない」

「本の貸し借りする度に嬉しそうに自慢してきたじゃん」

「報告してただけ」

「そういうとこだよ。わざと私が入ってこれないように、私が解らない話をしたりとか。あと偶然出会った振りして、図書館で宗平に声かけて一緒に過ごしたりとかしてたんでしょ?」

 声を荒げる夏井。

 井上はそれをじっと見つめていた。

「……詳しいね」と応じた井上は苦笑を浮かべていた。

「自分が話したんじゃん」と夏井は指を指して、「嬉しそうにさ。私の事応援してるとか言いながらそういうことしてたのがすっごい嫌だった」

「応援してたのは本当」井上は言った。それから視線をどこか遠くに漂わせながら、「でも三島に告られたかったのも事実」

「それで私を出し抜こうって?」夏井は右手を腰に当てて、見下ろす形で睥睨した。

「そう。香奈は私からいろんなモノを奪ったんだから、それくらいはいいでしょって感じ」

 また、左手に強い圧力が加わってきた。ギリギリと締め付けるその強さは恨みの強度なのだろう。

「やっぱりそう言うこと考えてたんだ」

 急にしゅん、と萎れたみたいになって夏井はベンチに腰を下ろした。

「奈々子が宗平のことを好きだって、最初からわかってたよ。でも取られたくなかったから、私は奈々子を脅した。卑怯だと思う。私の為になんでもしてくれるから、きっとこれも聞いてくれるはずだ、って確信してやってたから」

 奈々子にはずっと、私のそばに居てもらいたかった。そう言った夏井の声は、悲哀に満ちていた。

「奈々子がそばにいて、奈々子を子分みたいに思ってたから、なんとか私は踏みとどまっていられた。奈々子のお陰でいまの私があるんだってことは判ってる。けど、だから私は奈々子の上から目線が嫌で嫌で、それに気がついたら宗平の気を引こうとしはじめてて、それも嫌だった。奈々子には自分のことは二の次で、ずっと私の為に尽くしてほしいっていう、そういう自分勝手な気持ちが私のなかにあったんだと思う。ううん。いまでもそんなことを思ってるんだ。私」

 夏井はそう言って、力なくうなだれた。元々小柄な彼女がさらに小さく見えた。

「でもそれは誰も幸せにならない」井上は言った。哀れむような目で夏井を見ていた。「ごまかしたってそのうち限界はくるし、私も、自尊心が日に日に磨耗していって、そのうち香奈の為になにかし続けていないと自我を保てなくなってたと思う。現に、そうなりそうだった」

 井上の手は震えていた。

「三島のお陰で色々変わることはできたけど、でもこのままの関係を続けていたら、私たちはきっと駄目になる。だからこそ、さっき言ったみたいに、友達をやめようと思った。でも、私は香奈のことが好きだし、離れたくない」

「私だって、奈々子と一緒がいいよ!」夏井が言った。それはまるで悲鳴だった。「奈々子のことが大好き。だから、私は奈々子に酷いことをしてる、って自覚する度に自己嫌悪で胸が苦しくなって、こんなに辛いならいっそ友達をやめちゃったほうが、って考えたこともあった。でも奈々子と離れる方がもっと辛い。絶対に友達をやめたりなんかしたくないよ!」

 このまま丸く収まりそうな気配がしてきたけれども、どうにもしっくりこない。このままじゃ結局元の鞘に収まるばかりで、何も進展しなさそうなのだ。かといって、ここでひっかき回すようなことをしていいものか。

 しっくり来ていないのは夏井たちも同じなようで、二人ともぱったりと交わす言葉もなくなって、居心地が悪そうに俯いている。

「話を整理しよう」俺は言った。やけくそである。「まず井上は、いまの関係は駄目だと思っていて、だから一度フラットな状態に戻してお互いが同じ目線の高さで語り合える関係を目指している。そして、夏井は、多分だけど、いまの関係が危ういことを理解しつつも、現状維持に甘んじたい気持ちがある」

 神妙な表情を作ってそう並べ立ててみたが、そこから先はノープランだった。

「宗平はどっちの味方なの?」と夏井が不安そうに見つめてくる。

「敵とか味方とか、そういうのはない」俺は答えた。そうだ、しっくりこないのは、こいつら相手の要求を飲もうという気がないのだ。だから味方がどうのなんて発想が出てくるんだ。

「二人ともに言いたいんだけど」俺は二人の顔を交互に見て、「自分の主張が一〇割通るとは思わないこと。どっかで落としどころを見つけないと、平行線に終わって、一番望まない結末を迎えてしまう可能性がとても高い。と、俺は思ってる」

「気持ちが良いくらいの正論」と井上がふてくされたように呟いた。「他人事みたいな正論だ」

「言い方が悪かったのは謝る」

「ううん。ごめん。私もちょっと苛立ってたから」

「それで、宗平。なにかアイディアはあるの?」と夏井。

「アイディアはないんだけど、この先夏井の受験が成功したとして、だ。互いに違う学科な訳だろ。そうなるとどう足掻いたって今みたいな関係は維持できないと思うんだ。結構教室離れてるらしいし」

「それは考えてなかった」と夏井は背もたれにぐったり凭れて夜空を見上げた。「そっか、そうなんだよね」

「夏井が何か粗相しても、井上がすぐにフォローに向かえる訳じゃない。なんだったら、手遅れになってから始めて情報が耳に届くかもしれない」

「なんで私がやらかす前提なの」

「なんとなく」俺は言った。「そしてついでに、だけど、普通科はクラスの数が多いから、俺とも離ればなれになるかもしれない」

「……それはちょっと心配かも」と夏井は自信なさげに呟いた。

「ということはだ、井上は夏井の世話を焼く機会が減ると言うことだ」

「急に来た」と井上は肩をすくめた。「そうだね。けど、それは私が望んでいることだから」

「急に変われるか?」

「それは、あんまり自信はない」

 これからやってくる環境の変化が二人に何かしらの変化をもたらす。それは或いは二人が望んでいる変化をもたらすかもしれないのに、二人とも、とても不安そうにしている。

「喧嘩とかしてる場合じゃなかったのかも」と夏井が呟いた。「なんとなく判ってた。頭の隅では理解してた。高校生になったらきっと私たちは、いままで通りで居られなくなるって。それが怖くて、だから私は、奈々子と今まで通りでずっと居たいって思ってたのかも。きっと喧嘩も、根本的な原因はそこだったんだ。少なくとも私の方の原因は」

 きっとそう、と彼女は呟いて唇を噛んだ。それから彼女は、「だから腹が立った」と言った。

「奈々子が私を裏切って、宗平に告白しようとしたことを知って、もちろんそれ自体にも腹が立ったけど、それ以上に、奈々子が私の為に行動してくれなかったことに腹が立った。見下してたってのもあるよ。それは否定しない。でももっと深いところで焦ってたんだと思う。奈々子なしじゃまだ私は、まともに人間関係を作ることも出来ないのに。それなのに奈々子に見放されたら私はひとりぼっちになっちゃう。昔みたいに、ひとりぼっちに。それがすごく恐ろしかったんだ」

「私は」と井上が言った。静寂の中で、ぴん、と張りつめた糸を弾いたような声だった。「香奈が三島を傷つけた事に、本当に頭に来た。それにいままで積もり積もったものもあった。そう言うのがめちゃくちゃに混ざり合って爆発した。ずっと言おうと思ってた。香奈のことは大好きだけど、でも、嫌いなところもたくさんあるって。どれだけ私がフォローしてやっても、感謝の一つもないし。当然みたいに私を召使いみたいにしてたし。でも、私もそう言うところに自分のアイデンティティを見いだしてたから、あんまり強くはいえないの。どうしようもない香奈をお世話してやっているっていう。私がいるから香奈は生きていけてるんだって。そう言う風にして私は、自尊心を削りながら自我を保ってた。だからこそ香奈が、私が望まない結果を持ってきたのが許せなかった。しかも、それが私の大切な恩人を傷つけたっていう最悪の結果だったから余計に我慢が出来なかった。三島が香奈のせいで入院したって聞いた時、本気で絶交しようか、とか考えちゃったくらい、本気でキレてた」

 しかしその結果俺を巻き込んで、その上二股したクソ野郎みたいなあんまりありがたくない(そして若干否定しづらい)評判をまき散らされたのだから、ある意味同じ穴の狢だろう。

「それじゃあ、改めて聞くけど、二人とも、お互いにどうして欲しいんだ?」俺は言った。

「香奈にはちゃんと自分でどうにか出来るようになってもらいたい」

「私は、さっき言ったことも嘘じゃない。けど、いつまでも奈々子に上から目線で助けられるのは嫌」

 俺を挟んで二人は見つめ合った。

 二人ともどこかすっきりした表情をしていた。

 険のない視線の交錯は、二人の間にあった蟠りが解れつつあることを言外に語るものであった。二人の手はいつの間にか俺から離れていた。

「じゃあ、後は具体的にどうするか、だな」俺はは二人の顔を交互に見た。なんだか討論のまとめ役みたいなことになっている気がする。ちょっと楽しくなってきた。

「具体的にって、なにをすればいいんだろう」

 夏井がつぶやく。ごもっともである。俺も何も考えていなかったのですっかり困ってしまった。

「そう言えば」と井上が何かを思いついたらしく、小さく挙手をして言った。「香奈は吹部でどうやって友達を作ったの?」

「どうやって、って。なんていうか、普段の私がどういう感じかってのが知られてて、それで周りが気を使ってただけというか。多分加賀ちゃん以外にちゃんと友達って呼べる子は居なかったかも」

「そういやどういう経緯で加賀と仲良くなったんだ?」

「向こうから話しかけてきてくれたんだよね。加賀ちゃんだけは私に気を使うような感じもなくて自然に接してくれてたから、それでそのまま友達になった、って感じかなあ」

「そのことだけど」と井上がまた挙手をした。今度は何か申し訳なさそうに背中を丸めながら、「多分私が加賀さんの背中を押したからだと、思う」

「そこで奈々子が出てきたかあ」と夏井が言った。「まあそんな気はしてたよ。あれでしょ。奈々子のところのお母さんと加賀ちゃんのお母さんが同級生だったんだっけ? それで昔から面識があったとか」

 初耳の情報である。

「というかお前加賀のこと苦手そうにしてなかったか?」

 合格発表の時の反応からして、ほぼほぼ初対面だと思っていたのだが、どうもそうではなかったらしい。

「うん。苦手」井上は頷いた。「多分向こうも私のこと苦手だと思ってる。私の態度のせいだと思うけど」

 それに、と井上は肩を竦める。

「面識があると言っても、ママの実家に用事がある時に、何度か会ったことがあるだけ。こっちに引っ越すまで三年くらいは顔を合わせてなかったんだけど、向こうは覚えてたの」

 びっくりした、と井上は苦笑した。そしていきなり夏井のことを相談されて、背中を押すことになったらしい。

「加賀ちゃんってそういうところあるんだよねえ」夏井はそう言うと腕組みをして、「ありゃ地味に人誑しって奴だと思うな。公康くんも落としちゃったし」

「先生からも気に入られてるもんなあ」俺は言った。「で、まあそれはそれとして、だ」

「それとして?」と夏井が首を傾げる。

 雑談は楽しいが、脱線した話を元に戻さなければならない。

「吹奏楽部でも、新一年生になる予定の連中が高校の練習に顔を出す、っていう風習はあるのかなあって」

「あるよ」と夏井は答えた。「去年卒業した先輩も春休みから練習に参加してたらしいし」

「そこで、だ」俺は少しもったいぶった口調で言った。「春休みに、とりあえず練習に参加して新しい友達を作ってこい」

「なに、それ」と夏井は困惑した様子で眉間にしわを寄せた。

「井上の手を借りずにやっていくための練習」

「他人事だからって、結構無茶なこと言うなあ」と夏井は背もたれに体を預けて、足をぶらぶらと揺らした。「友達作れって何様?」

「いや、まあ別に気が合いそうにない奴ばっかだったら無理はしなくていいぞ」

「あのさ」足を一度振り上げて、その反動で体をひょいっと起こした。「宗平って結構どころか、かなり上から目線だよね?」

「香奈、また脱線してる」井上が窘めるように言った。

「けど、そうじゃない?」

「判るけど、いまはその話じゃないでしょ? その件はまた後日」と夏井に言い聞かせるように言ってから、井上はこちらを見てうっすらと笑った。「約束」

 すっと目の前に差し出される小指。俺の小指よりも長いんじゃないかと思う。井上は手がでかいんだなあ、なんて思いながら俺はその小指に自分の小指を絡めた。ぎゅっと力強く絡みついてくるそれはまるで獲物を締め上げる蛇の様で、ゆーびきーりげんまん、と唱和する間、生きた心地がしなかった。

 彼女はしばらく自分の小指を見つめてから、「それで、三島。私はどうしたらいい?」と小さく首をかしげて訊いた。ヘッドドレスがふわりと揺れる。

「井上は何もしない」俺はそう言って井上から少し目をそらした。「夏井が失敗しそうでも手を貸さない」

「それは結構難しいかも」と井上は表情を曇らせる。けれどすぐに何かを思い出したように顔を上げて、「そう言えば春休みに先輩から合宿に誘われてたんだった」

「合宿?」

「うん」と井上が頷いた。「北高にコーチとして来てくれてる人の実家が旅館らしくて、毎回夏と春にそこの大広間を貸し切って合宿に使わせてもらってるんだって」

「贅沢だなあ」俺は言った。

「北高運動部で一番実績上げてるのが女バスだから」と井上がちょっぴり誇らしげに胸を反らせた。「ちなみに普段はちょっと高めの温泉旅館で、テレビに取り上げられたこともあるらしいよ」

「マジで贅沢じゃねえか」

「参加するか迷ってたんだけど、せっかくだから行ってみようと思う」

「羨ましい。……温泉。そういえば、相川先生たちも卒業旅行で温泉行くんだよね?」と夏井が訊ねてきた。

「ああ」と俺は頷いた。「二人で行くのか、奈雪姉さんも一緒なのかは判らないけど」

「宗平。私も温泉行きたい」真剣な顔で夏井は言った。

「俺も行きたいわ」俺は苦笑した。「というかそれよりもまずは受験だ。北高に受からなきゃ話は始まらないからな」

「そうだよね。うん。頑張る。制服も着たいし」

「制服?」と井上が首を傾げた。

 夏井はここぞとばかりに自慢げに胸を反らし、「相川先生からお古を譲ってもらえることになってるんだぁ。いいでしょ?」と満面の笑みで言った。

「……聞いてない」声のトーンを低くして井上が言った。

 地の底を這うような怨念の籠もった声だったが、夏井はそれを意に介することもなく。「だって言ってないし」と軽い口調で答えた。「だいたい奈々子じゃサイズ合わないでしょ。無理矢理着たっていかがわしいお店のいかがわしいコスプレみたいにしか」

 みえないじゃん、と言い掛けたのだろう。はっとした表情で口を噤んだ夏井の視線の先では、井上が張り付けたような薄笑いを浮かべていた。

「香奈、どういう意味?」笑顔のまま、井上が説明を迫る。

「えーっと」と夏井は助けを求めるようにこちらを見た。が、知ったことではない。地雷を踏んだのはそっちなのだから、俺を巻き込むな。

「どういう意味?」

「ごめんなさい」

 圧に負けた夏井はうなだれるように頭を下げて謝った。

「ふふ」と井上は笑った。先ほどとは違う楽しげな表情で、「冗談。そこまで怒ってないから」

「でも怒ってるじゃん」

「だって、制服をもらったなんて、羨ましすぎるし」と井上は拗ねた口調で言って、つま先で地面をぐりぐりと嬲った。「香奈のことだから、あとで自慢しようと思ってたんでしょ」

「流石奈々子」

「香奈の考えそうなことはだいたい判るから」

「けど、そう言う奈々子こそ。相川先生の家にお泊まりしたり、宗平に耳掻きしてもらったりしたんだし、おあいこでしょ」

 そう言いながら夏井は何故か俺を睨んでくる。

「あー、私もなんか耳がかゆいなあ。これじゃあ勉強に集中出来ないかもしれないなあ」

「道具がないんだから、いまはどうやったって無理だぞ」

「じゃあ明日は?」

「怜との約束すっぽかしてお前の耳掃除なんてやってたら刺されるわ。俺もお前も」

 多分色々用意しているというのは脅しではないだろうから、そういうところで一線を越えるようなことをしてしまうと、本気で自宅軟禁に処されかねない。

「じゃあ月曜日。約束だから」

「俺はやるとは言ってないぞ」

 俺はそう言って、ちらりと井上の方を見た。てっきり夏井と張り合うかと思ったが、何か超然とした態度で見守っているだけだ。

「む。なんか奈々子は余裕がありそうだ」と夏井が難しい顔をする。

「いいよ。耳掻きくらい。私はもっと凄いことしたから」

「は? なにそれ」と夏井が鋭い語気で言った。

「ひみつ」そう言って彼女は自分の唇を舐めた。

 ふふ、と微笑む横顔はどこか妖艶で、俺は昨日舐められた耳の感触を思い出して思わず背筋にぞわぞわ、っと寒気みたいなのが走り抜けた。

「宗平、何があったの?」

「ごめん」

 俺自身に後ろめたいことはないのだが、なぜだか話すのが嫌だった。

「何が?」

「いや、ほんと。逃げられない状況だったから」

 そう。俺は悪くない。不慮の事故のようなものだ。

「ちょっと、奈々子、マジでなにやったの?」

「香奈には出来ないこと。三島もきっとお姉さんには言えないようなこと」

 したり顔で爆弾を投下する井上。

「言えないようなことしたんだ。へぇ、お姉さんに話しちゃおうかな」

 わざとか天然なのか判らないが、井上から的確なアシストをもらった夏井は勝ち誇ったようにほくそ笑んでいた。

「あの、耳かきさせていただきますので、ここはどうかご内密に」俺は時代劇に出てきそうな揉み手をしながら言った。

「うわ、また出た」と夏井が大げさに仰け反った。

「なにとぞ、なにとぞ」

「いや、だからそれなに」

「あやつもこう言っておる」と井上。「ここは一つ、武士の情けと思って」

「奈々子まで変なこと言い出したよ」夏井は溜め息をついた。「まあちゃんとその約束守ってくれるなら言わないって。ていうか言ったら最悪奈々子が酷い目に遭うかも知れないし。お姉さんが本気になったら平気で高校生活ぶち壊しそうだし」

「お前の中の怜はどんな極悪人なんだよ」俺は苦笑した。

「だってさ。最近知ったんだけど、相川先生を虐めてた同級生や先輩って、なんかみんな余所の学校に転校したり不登校になったって噂があるんだよね」

「噂だろ?」俺は言った。どこでそんな話聞いてきたんだか。

「まあそうだけど。でもそう言う噂が立つってことは裏に何かあるってことだよ。私や奈々子みたいに。火のないところに煙は立たないっていうじゃん」

 それもそうだが、時折人は好奇心や悪意やらを火種にして何もないところに煙を立てることもある。

「お姉さんはヤバい人オーラが出てる」と井上が言った。「あの人と本気で敵対するのはちょっと嫌」

「まあ確かに性格はあんまり良くないけどさ」散々な言われ様だが、とはいえ怜自身に原因がないとは言えない。

「というわけだから、今日はそろそろこの辺でお開きにしない?」と夏井が言った。「あんまり遅くなると怖そうだし」

「いま何時?」と井上。

「22時」とスマホを見ながら夏井が答えた。

 時間的にはまだ多少余裕がありそうではあるが。

「見回りの人に見つかったら怒られるね。補導されちゃうかも」

 井上がそう言って苦笑した。

「うわー、それやだなあ。二人は普段真面目だからいいけどさ、私は絶対学校に親呼ばれる奴じゃん」

「まだ長期休暇にも入ってないし、大丈夫だろ。そんなに熱心に見回りしてる風もないし」俺は立ち上がった。「夏井、俺のチャリの後ろに乗るか?」

「いいの?」ぴょん、と跳ねるように立ち上がって、「でもどうして?」

「いや、お前だけ徒歩じゃんか」

 ここから夏井の家まで、多分歩くと一時間弱はかかる。自転車なら二〇分もあれば着くはずだ。

「こっちでもいいよ」と井上が夏井の腕を取った。

「や、宗平の自転車にお邪魔するから」

「そう言わず」

「……私が宗平と二人乗りするのが気にくわないだけでしょ」と夏井は井上を睨んだ。

「……あたり」と井上は答えた。

「今日、宗平と一緒に居たのは誰ですか?」夏井はそう言って井上の方へ詰め寄る。

「私、だね」

「晩ご飯、食べたんでしょ?」

「食べた」

「宗平の手作り?」

「手作り」

「というわけで私は宗平の後ろに乗るから」

 手を振り払って夏井はそう言った。

「ちょっと待って」

 井上はそう言って夏井を呼び止めた。

「なに?」

 夏井は振り返る。

「紅茶も飲んだ」

「何の自慢だ」

 呆れ顔で夏井は言った。



        4


 

 このようなやりとりを経て結局夏井は俺の後ろの乗ることになった。最後まで井上は恨めしそうにしていたが、「言えないようなことしたんでしょ」という夏井の一言が決め手となって渋々引き下がった。

「うわー、なんか緊張する」

 俺たちは天端の道路に移動していた。

 俺が跨がった自転車の荷台を見つめながら夏井は一人で勝手に興奮していた。

「ねえ? これめっちゃ青春って感じがする奴じゃない?」

「いいから早く乗れよ」

「後ろから掴まっていいんだよね?」

「いいから」

「背中に顔をぎゅっと埋めてきゅんきゅんしても?」

「香奈」井上がうんざりした表情で、「早くして。寒い」

 少し雲が出てきて、風が強く吹き始めていた。しかし夏井は自転車で二人乗り出来るのがよっぽど嬉しいらしく、風に髪が乱れまくるのもお構いなしにはしゃいでいる。

「それじゃ、お邪魔します」

 夏井はそう言うと、恐る恐る俺の自転車の荷台に跨がった。

 そのままでは痛かろうと、前カゴに常備していたカッパの収納袋を押し潰して少し平らにしたモノを、荷台にゴム紐で固定して簡易的なクッションにしていた。そこに彼女のお尻が乗った。

「痛くないか?」

「ちょっと固いけど、平気」と弾んだ声が背中に返ってきた。

「三島。早く行こう」と井上が言った。とても不機嫌そうに小刻みにブレーキのレバーを叩いていた。

 夏井はそんな様子を気にしていないのか、気がついていないのか、俺の腰に両腕で抱きついてきた。背中に彼女の存在を強く感じる。どの辺に彼女の顔があって、吐息が吹きかけられているのか、とか胸の柔らかな感触とか。そう言うモノを意識した途端に少し緊張してきた。よく考えてみれば女の子を自転車の後ろに乗せてやることなんて怜を除けばいままでなかった気がする。さくらさんともやってないな。

「鼻の下伸びてる」と井上が冷たい目でこちらを見ていた。

「えへへー。そっかあ、宗平は私のこと意識してるんだ。なんだろ、ちょっと可愛いかも?」

「あんまり調子に乗ってると振り落とすぞ」

「えー。じゃあもっと強く抱きつくから」

 そう言って夏井が腰を強く締め付けてくる。意外と腰回りを圧迫されるのは気持ちよかったりするのだが、井上の視線がさらに冷たく、いたたまれなくなってきたので「それじゃあ行こうか」と彼女に微笑みかけて、ペダルに足を乗せた。

 井上は大きく溜め息をついた。いろんな感情を押し殺して絞り出された溜め息だった。それから彼女はうなずいた。「うん」

 

 

        5 

 

 

 夏井の家の方が近いのでまずそちらに向かった。

 町は静かに夜の中で眠っていた。夜空は雲に覆われていて、少しだけ湿った風が吹き渡った。今夜の予報はどうだったろうか。

 夏井は俺の背中に抱きついたまま、併走する井上と賑やかにいろんな事を話していた。受験のことだとか、高校に入った後のことだとか、それに春休みにどこへ遊びに行こうかなんていう他愛のない話ばかりだ。俺は同意を求められた時だけ相づちを打って、後はずっと二人の話に耳を傾けていた。楽しそうな二人の邪魔をするのが憚られたからだ。二人はまるで何かを惜しむように話し続けていた。そんな風だったから、夏井のマンションの前まで来ても二人のおしゃべりは続いていた。

 俺の自転車の荷台の上に、横向きに腰掛けたまま井上と談笑を続けるその様子は、まるでこのお喋りを終わらせたくない様に見えた。いや、事実そうなのだろう。彼女は一度マンションを見上げて、寂しそうに俯いた。きっとまだ彼女の父親は帰ってきていないのだ。

 話が途切れそうになると、何か適当なことを言って(例えば、そういえばあのときの、とかあれ覚えてる? なんていう抽象的な言葉で)間をつないで次の話題に強引につなげている。その姿はちょっと痛々しくて、思わず会話に混じって彼女を寂しがらせないようにしようか、なんて考えてしまう。

 このまま二人だけにして、俺だけ先に帰ってしまう方がいいんじゃないか。そんなことを考え始めた頃「それじゃあ」と井上が優しく微笑んで言った。

 夏井は一瞬何か叫び出しそうな素振りを見せた後、きゅっと唇を引き結んで、「うん」と頷いた。

 夏井が自転車の荷台から降りた。

 手のひらに伝わった自転車の揺れ。それがどこか名残惜しくて、俺は夏井の方を見て「風邪引くなよ」と笑いかけた。

「急になに?」と夏井も笑った。

「俺たちが風邪引いたんだから、次はお前かも知れないだろ?」

「えー。あ、じゃあそうなったら看病してくれる?」

「行けそうだったら」

「大丈夫」と横から井上が入ってきた。「私が面倒見るから。三島が出る幕は、ない」

「だ、そうだ」

「くそー。そうなったかあ。じゃあ風邪引かないように早く寝よ」

 おやすみなさい。

 そう言って彼女はマンションの玄関へ駆けていった。寂しさを振り払うように走る背中に、やはり俺は何か声を掛けそうになって、しかし井上の手が遮るように俺の前に差し出されて、ぐっと言葉を飲み込んだ。

「香奈に付き合ってたら、お姉さん、へそ曲げるよ?」そう言って井上はスマホの画面をこちらに向けた。

 22時45分と表示されていた。

「でも私も送って欲しいな」

「判ってるよ」

「うち来るのは初めてだよね?」

「そういえばそうだな」

「ここから5分くらいだから平気」

「それはありがたい」

「だから歩こう」

 そう言って井上は自転車を押して歩き始めた。

 五分とは、果たして徒歩なのか自転車での時間なのか。

 訊くのも野暮な気がしたので俺は黙って彼女の隣に並んだ。

「香奈、寂しそうだったね」

「ああ」

「いまちょっと、自分が香奈の彼氏だったら、とか考えてた?」

「どうだろう」俺は曖昧に言葉を濁した。でももし、俺が夏井とつき合っていたら、あるいは怜と恋人同士でなければ、きっとあそこで躊躇せず呼び止めて、彼女のための話し相手になっただろう。

「三島は贅沢」井上はこちらを見ないまま言った。「お姉さんにさくらさん、それに香奈に私」

「そうだな」

 公康に殴られた頬の痛みがぶり返してきた様な気がして、思わず手で触れていた。触るとまだ少し痛い。そこをぐっと指で押し込んだ。

「殴られ足りなかったかな」

「何の話?」

「こっちの話だよ」

「そう」と井上は不思議そうにこちらを見た。

 ずっと正面に見えていた自販機のある角を曲がったすぐのところに、井上内科、という看板が掲げた四角い建物の病院が建っていた。

「だいたい五分」スマホを確認しながら井上は言った。「ほら」

「51分だな」

「ね? だいたい」井上は楽しそうに笑った。

 病院の裏手に立派な庭のある二階建ての一軒家が建っていた。

 俺たちはそちらへ向かっていく。

 門扉には井上と彫られた表札が堂々と掲げられていた。

「ここお前ん家だったんだな」

 この辺りを通った時に、なんとなく立派な家が建っているなと思ったことはあったが、そこがまさか同級生の家だったとは。

「うん。ママの実家」

「もしかしてお前んところのお父さんって、婿養子?」

「そうだよ」井上は頷いた。「元々ある程度経験積んだらこの病院を継ぐっていう約束で結婚したんだって。ちょうど私が小学校を卒業するタイミングでこっちに来るっていうことになって。そうしたら偶然香奈のお父さんもこっちの病院に転勤することになって」

「本当の腐れ縁って奴だな」

「私の赤い糸は三島だけじゃなくて、香奈とも繋がっているのかも」

「井上って結構ロマンチストだったりする?」

「する。すごいよ。素の私は」そう言って彼女は自転車を止めて、二歩三歩と歩み出して、その場でくるりとターンした。広がるスカートの裾が優雅な円を描く。「普段はよくこんな風に謎の踊りとかしてる」

「謎だな」

「三島だからだよ。こんなの見せるのは」

「そう言う特別感を押しつけるのやめろよ」

「やだ」彼女は笑った。またあの獰猛な笑みを浮かべていた。「私は香奈よりもぐいぐい行くよ。お姉さんが居たって諦める気はないから」

「北風と太陽の寓話はご存じで?」

「凍えきるまで吹き付ければ良いだけ」井上はそう言ってまたくるりとつま先でターンをした。「矛盾脱衣ってご存じ?」

「お前は俺を殺すつもりか」

 体温が低下しすぎると体温維持の為に体の中でなんやかんやあって、そのうち暑いと錯覚して服を脱いでしまうというあれだ。前に怜がレンタルしてきた八甲田山の映画で見たことがある。

「冗談」と言って井上はくすくすと笑った。「じゃ、そろそろ三島を解放してあげようかな」

「そりゃ助かる」

「私も早く帰らないと、ママに怒られちゃう」

「門限とかあるのか?」

「もうとっくに過ぎてる」

「俺が一緒に行って謝ろうか?」

「三島。そういうとこだよ」井上は苦笑していた。「そんな彼氏みたいなことされたら、本気で彼女だと思い込むよ? ママとパパに恋人ですって紹介するよ?」

「それは御免被りたい」俺は苦笑した。

「じゃ、ここまで」と言った井上はどこか残念そうに見えた。それから彼女は「おやすみなさい」と微笑んだ。穏やかだけれど、どこか寂しげな陰りがあった。

「ああ、おやすみ」俺は答えた。もう少し話につき合っても良かったかな、などと考えてしまった。ずっと賑やかだったのが、急に静かになってしまった。

 彼女が門の中へ入っていく。

 小型犬の甲高い鳴き声が響いた。前に散歩していた犬たちだろう。

 彼女が玄関に入っていくのを見届けてから、自転車に跨がった。

 風が吹いた。

 カサカサと、井上邸の庭木が揺れて音を立てる。

 急がないと雨が降るかも知れない。

 幸い風は追い風だった。

 だから俺は一目散に自転車で駆けた。

 今日別れ際に抱いた、二人分の未練を振り切るように。それは帰るべき場所へと帰るために必要な儀式だった。

 夏井と井上の関係は、きっとこれからも上手くいく。そんな風に思えた。

 けれど俺は、夏井や井上と、これからどうなるのだろうか。どうするべきなのだろうか。大人になったときいまのこの関係を若かったと笑える日は来るのだろうか。

 夜の闇のように、不安は尽きない。

 けれど、だからこそ。

 いまはただ怜に会いたい。

 そんな気持ちでいっぱいだった。



     


         了

  

 

お久しぶりです。

最近月一更新が滞っております遠野です。

第5章はここまでです

次は春休みのエピソードをメインとしたチャプターになる予定です

年末年始に向けて色々忙しいですけれど、頑張りたいです

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