Heading for spring XIII『before spring 後編』
土曜日の喧噪が店内に広がっていた。にぎやかな親子連れ、見つめ合うカップル、部活帰りの学生たちの大声、何かの集まりの帰りとおぼしき中年女性たちの絶え間ない話し声。耳を澄ませて意識を外に向ければ向けるほど、混沌が広がって行き、だんだん自分がどこで何をしているのかが判らなくなってくる。
「それで」と不機嫌そうな声がして、それに引っ張られるように溺れかけていた混沌から意識が浮上していく。ぼやけていた目の焦点が、ゆっくりと定まっていく。ぼんやりとした人影は鮮明に移り変わり、直視するのも眩しいくらいに、この凡百で埋め尽くされた混沌の中で異彩を放っていた。
あんなに綺麗な髪が、自分にもあったら、と幾度考えただろうか。小細工が不要なぱっちりとした大きな目も羨ましい。唇の艶めきと可憐さはいくら真似ようとしても再現できなかった。そもそも肌の白さが反則だ。自分だって周囲から綺麗とか可愛いとか、嫉妬混じりにもてはやされている程度には容姿は整っている。けれどどうしたって目の前の彼女には及ばない。
「で?」と彼女はまた不機嫌そうな声で言った。
香奈ははっとして「ありがとう、ございます」と歯切れの悪い返事をした。
「そうじゃなくって」と彼女は苛立ちを隠そうともせず、語気を強めて「あんたがこれからどうしたいのか、ってこと」
わざわざ嘘を吐いてやったんだから、はっきり話しなさい。と彼女はこちらを睨んで、それから特大のイチゴパフェにスプーンを突き立てた。カットされた無数のイチゴが花弁のようにデコレーションされた巨大なパフェである。
しかし話せと言われても、無言で幸せそうにパフェを食べ続けているところに話しかけるのも悪い気がする。でも、だからといって黙っているとまた催促されるのは目に見えている。
香奈はうつむいて手元に目をやった。冷めかけて表面がでろっとしつつあるカルボナーラが所在なさげに佇んでいた。怜が好きな物を頼めと言ってきたので、つい、あんまり食欲もないのに注文してしまったのだ。今日は朝からずっと食事が喉を通らなかった
フォークを手に持って、その先端でパスタを軽く突っついた。銀色の先端をソースが黄色く染めていく。「わからない」ようやく出てきた返事がそれだった。胸の中はもやもやしていた。まるで絡まり合ってさめたソースで固まりかけているパスタみたいに、どうしようもない状態だった。昨日、いやなことを思い出してしまったせいだ。昨日、大切な人を大変な目に遭わせてしまったせいだ。どちらも自分が悪い。自分のせいだ。ぐるぐると渦巻く自己嫌悪とか罪悪感を、フォークに巻き取ったパスタと一緒に腹の底へ飲み込む。パスタはのどを通って言ったのに、そういう嫌な感情はむしろ頭の方に上っていって、どんどん気持ちが落ち込んでいく。
「なんて顔してるの」と怜は呆れた表情で言った
。「せっかく、このチェーンのカルボナーラは美味しいのに。もったいない」
「味なんてわからないよ」と香奈は泣きそうな声で言った。「どうしたらいいのか、わからない」
「どうもなにも、勉強でしょ」
「もう結構したし」
一応一時間半くらいは問題集と向き合っていたはずだ。逃避するには勉強は都合が良かった。問題はその後である。一度集中が切れると、もう駄目だった。
「まだまだ足りないわよ」
苦悩に押しつぶされそうなこちらとは対照的に、彼女はとても冷淡だった。今日はもう、これ以上勉強ができる状態じゃない、と言った時も、彼女は「そう」とだけ答えてメニューの冊子を渡してきたのだ。
「まあ無駄に居座りすぎたせいで、できそうな感じじゃないけど」
問題集広げたらきっと追い出される、と彼女は肩をすくめた。パフェはすでに半分くらい減っていた。
あっと言う間である。
香奈がまごついている間中、ずっと怜は何かを食べていた。大食いだとは知っていたが、ここまでとは、と少しだけ感心していた。そんなに食べて、どうしてそんなに細いのか、とか肌荒れしないのはどうしてなのか、なんて本筋とは関係のない質問が幾つか脳裏に浮かんで来て、ぎゅっと目をつむってそれを頭から追い出した。いまはそう言う雰囲気ではない。
「私はきっと、宗平のそばに居ない方がいいんだと思う」
ずっと昨日から考えていたことだった。いざ口にして、言葉にしてしまうと、それはまるで十字架に磔にする杭の如き暴力的なものが胸を突き破って、痛みと苦しさで泣きそうになった。
舌鼓のような、けれどそれにしては厭に刺々しい音が鼓膜に突き刺さった。怜がこちらを睨んでいた。ああ、さっきのは舌打ちだったのか、なんて他人事みたいに考えていると、「そうしてくれるならせいせいするわ」と彼女が冷たく言い放った。
心臓が、きゅっと縮み上がるような感覚がしてから、ぶわっと涙が溢れてきた。
「自分で訳の分かんないこと言っておいて、それで泣くってどういうことよ。ああもう、面倒くさい」
困ったように彼女は右の手のひらで額を覆ってため息をついた。
気持ちと体と心のバランスがめちゃくちゃで、自分でも何が何だかわからなくなっていた。嗚咽がこぼれる訳でもなく、ただ見開いた瞳から涙だけがボロボロこぼれ落ちていく。香奈自身には泣いているという感覚がなかった。それなのにテーブルの上に次々と水滴が落ちていくものだからますます頭の中は混乱していった。
「少なくとも、そうちゃんは悲しむわよ」
ハンカチをこちらに差し出しながら怜は言った。
香奈はそれを受け取って、目元にぎゅっと押し当てた。
「本音を言うなら、あんたがそうちゃんから離れてくれるなら、私としてはありがたい。だって邪魔者が一人減るんだから。けど、そうなったらきっとそうちゃんは悲しむ。自分の行動を一生後悔する。そうちゃんはそう言う子だから」そう言って彼女は耳元の髪をかきあげて、憂うように目線を俯けた。「多少不本意なことがあったとしても、そうちゃんの幸せが、私の幸せなの。だからもし、それを害するというのなら、私はあんたのこと、絶対に許さない」
香奈はハンカチで目元を押さえたままその話を聞いていた。彼女の言葉に込められた敵意は、あるいは研ぎ澄まされ、もはや殺意と呼んでいい。幼少の頃、台所に放置されていた包丁を触って、指を切った時の記憶が不意に脳裏をかすめた。あのとき感じた得体の知れない恐怖が、四角く折り畳んだ布の向こうに待ちかまえている。そんな気がして涙は止まったというのに、ハンカチを動かすことが出来なかったのだ。
どうすればいいのだろう。
真っ暗な夜の海に筏一つで放り出された様な気分だった。
「あんたに連絡が取れないこと、そうちゃんはすごく気にしてたわよ」
険のない声が耳朶を撫でた。
恐る恐るハンカチをずらして、相手の表情を伺う。呆れた様な顔で、彼女はこちらを見ていた。
そっとハンカチをテーブルの上に置いて、「どう返事をしたらいいのか判らなくって」と香奈は答えた。
「なら直接会って話しなさいよ」ハンカチをバッグにしまって彼女は言った。
「そんなの、だって、怖い」
「何が?」
その問いに、香奈はすぐに答えることが出来なかった。何が怖いのだろうか。香奈は自問する。彼に拒絶されること? 確かにそれは怖い。けれどいま感じている恐怖とは少し違う。ならば、お前のせいでこんなことになったと詰られることだろうか。……それも違う。答えが見つからないまま俯いたその視線の先に、すっかり冷め切った気の毒なパスタがあった。
「哀れに思われるのが、怖い、のかもしれない」
何となく口をついて出たことだったが、思いの外しっくり来たので、きっと胸の内にある恐れの正体はそれなのだろう。想像するだけで胸が痛い。
「考え過ぎよ。バカ」
こちらの苦悩をそうバッサリ切って捨てて、彼女は立ち上がった。
「じゃあ私はそろそろ次の予定があるから」
「待って!」
伝票を持って立ち去ろうとする彼女に、香奈は追いすがった。
「まだなにか?」
「一人にしないで……」
家に帰ってもひとりぼっちなのだ。お父さんが帰ってくるのは夜遅く。こんな気持ちのまま、一人で居たら頭がどうにかなってしまいそうだった。
「だったら約束通りそうちゃんに会いに行きなさいよ。友達の、奈々子ちゃんも一緒にいるわよ。きっと」
「それはやだ、怖い」
「我が儘ね」
ひとまず店を出るわよ。と彼女は観念したように言った。
2
向かったのは駅の近くにある焼き肉店だった。最近オープンしたばかりで、お値段は少々高めだが相応に良い肉が出てくると評判の店だった。
まさかとは思うが、これから焼き肉を食べるつもりなのだろうか。そう思って怜の様子を窺う。彼女はきりっと引き締まった顔をしていた。香奈はそれに似た顔をよく知っていた。ステージにでる直前の、覚悟を決めた時のそれにそっくりであった。
「焼き肉は戦いなの」
訊いてもいないのに急に怜はそう言って、涼しげな目でこちらを見た。
「へ、へえ。そうなんだ」
焼き肉ごときにそこまで覚悟がいるのだろうか。ちょっとついていけないな、と思いながら香奈は愛想笑いを浮かべて相づちを打った。
「ていうか、あの。私も一緒?」
「一人にするなって言ったのは、誰?」
まさしくそう懇願したのは三〇分ほど前の自分で間違いなかったので香奈は何も言い返せなかった。しかし、よく考えてみれば、他人のお金でお高い焼き肉が食べられるのだ。多少胸のつっかえを話すことが出来たからか、カルボナーラを食べなかったことを後悔する程度には、食欲が復活しつつあった。悪い話ではない。
「ちなみにその、支払いは大丈夫?」
先ほどのファミレスでも、結構な支払額になっていたはずだ。
「ちょっと前にまとまったお金が入ってきたばっかりだから」と彼女はどや顔で答えた。
「漫画家って儲かるの?」
「いまのところは、それなりに。といっても同人誌の方が主な収入源になっちゃってるけど」そう言って彼女は苦笑する。
「へえ。よく判らないけど。すごい、の?」
「私なんかより、さくらの方が凄いわよ。あの子、本が売れてるだけじゃなくて、テレビ番組だのCMだのに出てて、その気になれば、もう死ぬまで働かなくてもいいくらい稼いでるもの」
「流石です。相川先生」
「露骨ね……」
「信者なので」香奈はきっぱり言い切った。
「あっそ」と怜はため息混じりに言って、足を止めた。どうしたのだろう、と思っていると食欲を刺激する香りが辺りに漂っていることに気がついた。
「入るわよ」
話に夢中になっている間に、目的地に到着していたらしい。彼女との会話に夢中になってしまっていた事が少々癪に障ったが、しかしここで妙なことを言って機嫌を損ねて「やっぱり帰れ」などと言われるのも、それはそれで嫌だ。仕方なく、香奈は黙ってついて行った。
店にはいるとすぐに店員がやってきた。怜が予約している旨を伝えると「こちらです」とにっこりと微笑んで奥まったところにある、個室のお座敷へと案内してくれた。
堀のあるお座敷でテーブルの広さは四人掛け程度でこじんまりとしている。テーブルの真ん中にはくぼみがあって、そこにコンロが埋め込んである。香奈たちはそこに向かい合って座った。ちょうど二人分、そうなるように用意してあったからだ。
「なんか準備よくない?」香奈は言った。
「ほんとはお義母さんと来る予定だったの」怜は答えた。「けど、仕事でなんかトラブルが発生したとかでこれなくなったのよ。で、ちょうどあんたが帰りたくないとか言うから誘ってあげたの。感謝しなさい」
「それはどうもありがとうございましたぁ」
心にもないことを言って香奈は肩をすくめた。
怜はしかし、こちらのそんな態度に気を止めることはなく、「それに良い機会だと思ったから」と付け加えた。
「なにそれ」
「雪ちゃんの命令」
「奈雪さんの?」
「あんたと一回サシで話せって」
「意外」
「なにが」
「人の命令聞くタイプに見えないから」
「普段はそうなんだけど、ちょっと例外なの」と怜はおしぼりを手にとって揉み始めた。
「なんか知らないけど、もしかして苦手なの?」
そう言えば昔はもの凄く仲が悪かったとか言っていたな、と香奈は以前奈雪と話したことを思い出していた。
「そういう訳じゃないのよ。雪ちゃんのことは好き。けどね、なんていうか、相性みたいなのがあるの」
「ぐー、ちょき、ぱー、的な?」
「頭悪そうな例えだけど、まあそんな感じ」
「一言余計なんですけど」
「喧嘩になると絶対勝てない相手なのよ」
「無視ですか」
「事実でしょ?」
「そりゃ、お姉さんよりは頭悪いけど。でも一応勉強したお陰でだいぶマシになったんだから」
「私のお陰だ」
「宗平のお陰かな。勉強見てくれてたし」
えへへ、とわざとでれっとした表情を作って様子を見る。
「へえ、そうなんだ」と微笑んだ彼女の表情に居一瞬罅が入ったような感じがした。彼女は宗平に関することになると沸点が異様に下がる。挑発が成功したことに気をよくした香奈はさらに追い打ちをかけようと、咄嗟に脳内ででっち上げた彼との甘々な勉強会の様子を語ろうとして、ふと、我に返った。脳裏に先日の、あのおびえた同級生の顔が浮かび上がったからだ。
気分良く舞い上がっていた気持ちが、すぅっと冷えていく。そのまま零度を振り切って凍り付きそうなくらいに冷たくなって、胸が痛くなる。
いまやろうとしていたことは、あの女がよくやっていたことだ。この世で最も軽蔑すべき、あの女。母なんて呼びたくない最悪の人間。自分はいま、それと同じことをまたやろうとしていたのだ。
香奈はテーブルに両肘をついて、顔を両の手のひらに押しつけるようにして、こみ上げてきた自己嫌悪を抑えつけた。
「なにか悩みがあるなら聞くわよ」
突っ慳貪な声が飛んできて、香奈は恐る恐る顔を上げた。
怜は、まるで何も言っていない、とでも言いたげな様子で、おしぼりを折り畳んでいた。そのうち折り畳める限界に行き着いてしまって、「ああもう」と呟くのと同時にせっかく畳んだおしぼりを乱暴に広げてしまった。
「なにがしたいの?」香奈は言った。
「その言葉、そっくりそのまま熨斗つけて送り返してあげる」と怜はため息をついた。「人をおちょくったかと思うと突然落ち込みだして。なんなの? 月の物が近くて情緒不安定なの?」
「あ、私あんまりそういう影響でないタイプなんで」
「……羨ましい」
「ところで、悩みを聞くっていってたけど」
「聞くだけよ。せやな、って感じで」
「はあ。っていうかなんで関西弁?」
「母方の従姉妹は関西人なの」
「へえ。いや、それ関係ある?」
「ない」
「なんで言ったの」
「さっき雪ちゃんのことが苦手か、とか訊ねてきたけどね。私が一番苦手なのはあんたなのよ」
「これは、ありがとうございます、って言うべきところ?」
「生まれてきて申し訳ありません、って土下座すべきところ」忌々しげに怜は言う。
「これからも末永くよろしくお願いします」にっこり微笑んで香奈は答えた。
「……そうね。付き合いはこれからも長くなるだろうし」怜はそう言うと、おしぼりをまた手にとって、手際よく折って畳んで、うさぎを作った。
不覚にもできあがったウサギが可愛かったので、思わず見惚れていると、お盆を持った店員がやってきた。前菜の、三種キムチ盛り合わせが二人の前に並べられ、これから出てくるコースメニューと、追加でつけていたらしい食べ放題に関する説明が始まった。
コースなんて待っていれば勝手に出てくるから、と聞き流して、食べ放題のことにだけ耳を傾けた。どうやら前菜と一緒に運ばれてきた冊子に書いてある分がその対象らしい。飲み物も含まれている。
説明が終わったところで、「単品の注文いいですか?」と怜がまるで呪文でも唱えるみたいにすらすらと肉の名前を挙げていく。それぞれ三人前だの四人前だのと注文していて思わずぎょっとしてしまった。量もそうだが、値段も結構高い。
店員は驚いて幾つか聞き漏らしてしまったらしく、再度注文を確認していた。
「大丈夫なの?」
店員が下がったあと、香奈は心配になってそう訊ねた。
「大丈夫」
お金も胃袋も問題ないわよ、と言って彼女は自慢げに微笑む。
彼女がそう言うのなら、そうなのだろう。香奈はそう納得して、箸を手に取った。それから大根のキムチをぽりぽりかじった。ぴりっとした中に独特の酸味と、ご飯に合いそうな甘みがまろやかに口の中に広がって、最後に大根の風味がびりっと後味を締めている。
美味しい、と思った。あまり漬物関係は得意ではないが、これなら食べられると、思って白菜のキムチに箸を伸ばしたが、そちらは酸味が強くて食べられなかった。もう一つも駄目だった。大根だけが例外だったらしい。
苦手なものだけ残すのも子供っぽいし、特にこの女の前だけではそういうところは見せたくない。と香奈は葛藤していると、網の向こう側から手が伸びてきて「要らないならもらうわよ」と器をかっさらっていった。
「要らないとは言ってない」
「苦手なんでしょ?」
「……べつに」
「そ。まあどっちでもいいけど」
香奈が顔を背けてすねている間に、怜はキムチを平らげてしまった。
「で、あんたは一体何を悩んでる訳?」
「その、あんた、ってのやめてくれる? 偉そうにしすぎでしょ」
「ならそっちも敬語使いなさい。私は年上よ? 吹奏楽の先輩よ? っていうかたまに顔出しに言った時なんか、すっごいネコ被って怜先輩、って人なつっこい感じで呼んでたわよね。あれなんだったの」
「仮にもうちの吹奏楽部のレジェンド相手にこんな話し方できないっての。人前では」
「なるほど」
「なにが」
「照れ隠しか」
「違うから」香奈は言った。「吹奏楽部の先輩としては尊敬してるけど、それ以外のところはぜんぜん駄目じゃん。だからそういうこと」
「目の前に見えてる困難から逃げようとして右往左往してる奴がよく言う」
「……別に、逃げてないし」
「じゃあなんで、そうちゃんに会いに行かなかった訳?」
「だって……」と香奈は俯く。
怖い物は怖い。いままで自分が彼にかけてきた迷惑を思うと、拒絶されてしまうことだってあり得るかもしれない。そんなことになったら悲しすぎて生きていけない。
彼に限ってそんなことがあるはずがない。理屈では判っている。彼は優しい。きっと、まだ腫れが引いていない顔で微笑みながら、むしろこちらを気遣う言葉をかけてくれるに違いない。
あるいは、自分がおそれているのはそれなのかもしれない。香奈はふとそう考えた。彼の優しさの裏にある得体の知れない何か。違和感の正体が何かは判らない。ただ、あの事故以前は、そんな感覚はなかったはずだ。
そもそもあの頃は、血も繋がっていなければ戸籍上も他人であるはずの義理の姉に対する思いを抱えて、いつもどこか憂鬱そうだった。笑って居ても陰りがあった。奈々子が言うにはそういうところが魅力の一つだったらしいが、香奈にとっては小さな苛立ちの原因だった。
牛タンの皿が運ばれてきた。
二人分の、その薄切り肉をぼんやりと眺めていた。
網で肉が焼ける音が聞こえる。
怜はさっさと牛タンを食べ始めていた。
暢気に肉を食っている女の、その顔面を思いっきり殴ってやろうと思ったことは一度や二度じゃない。でもそれで誰かが幸せになる訳でもないので堪えていたのだ。そんな時期でも彼は優しかった。でも今とは違って、なんとなく裏にある打算のようなものが見えたし、同年代の異性に対する、思春期特有のはにかみたくなるような葛藤なんかも混じっていた。
事故に遭って死にかけて、野球が出来なくなって、相川さくらと別れて、怜と結ばれた。何かが変わってしまうには充分過ぎる出来事が重なったのだから、仕方がないことなのかもしれない。
じゃあ一体、彼の中で何が変化したのだろう。香奈は急にそれが知りたくなった。いままで及び腰だったのが嘘の様に、彼の元へと駆けつけたくなった。
しかし、その気持ちを制するように特上カルビだのなんだのを満載したお皿が運ばれてきた。
ちら、と怜の方を見ると「いいわよ、別に」とぶっきらぼうな返事が返ってきたので遠慮なく箸を手に取った。
「あ、すみません。ご飯、中盛りで」下がりかけていた店員さんに声をかける。
「私は大」すかさず怜も続いた。
先輩のおごりである。遠慮なく食えということなのだから、お腹を満たしてからでも遅くはないはず。腹が減っては戦が出来ぬ、という諺もあるのだから。なんて自分に言い訳しつつ網の上で焼けていくお肉に、熱い視線を注ぎながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
2
仕事で帰りが遅くなる。
そう母さんから電話があったのは、中里を見送った直後だった。
案の定、早く帰ってこいという電話が掛かってきて、彼女は帰宅しなければならなくなった。まだ調子は悪そうだったが、井上が付き添っているので大丈夫だろう。
心配なのは怜と夏井だ。
中里の話を聞いてすぐ、怜に電話をしてみたのだが、出なかったのだ。SNSでメッセージを送っても既読にならない。スマホをバッグの底に入れてしまって気がついていないのか、それとも無視されているのか。もし夏井が待ち合わせ場所にいたなら、最初から怜が嘘をついていたことになる。そうなると後者の可能性の方が高い。きっといま、怜は夏井と一緒に居るはずだ。二人で一体何をしているのか。流石に怜が、夏井のために焼き肉を放り出すとは考えられないので、そうなると二人で一緒にテーブルを囲んでいる可能性が高い。どこの店で食べているのか、おおよその見当はついている。
とはいえ、突然押し掛けたところで果たして事態が好転するとは考えにくい。そもそも俺に顔を合わせ辛いからこその行動なのだ。強引に出て行って、話を聞かせろ、なんて言っても素直に話してはくれないだろう。
ならばどうするべきか。週明けは遅すぎる気がする。けれど今日は早い。ならば明日か。しかし明日は怜との予定がある。
だったらやっぱり今日しかないのではないか。なんて考えていると腹の虫が呻いた。
そろそろ夕飯の時間である。台所へ向かったが、いまいち気が乗らなくて、それとなく材料を並べただけで手が止まってしまった。どうせ食うのは俺一人なのだ。もっとずぼらな食事でもバチは当たるまい。スーパーでお総菜を、と思ったが少し遠い。だから近所のコンビニで弁当でも買ってこようかなんて考えていると玄関の方から人の入ってきた気配がしてきた。井上が戻ってきたのだろう。
廊下に出ると上がり框に腰掛ける背中が見えた。
「そんなところで黄昏て、なんかあったか?」
俺は彼女の隣に立った。
「もの凄く真剣に告白された」
ぼーっとした視線を虚空に漂わせながら、井上はぽつりと呟いた。
「返事は?」俺は訊ねた。
「してない」
そう言って井上は俺を見上げて、それから俺のズボンの裾をぎゅっと掴んだ。
「私は女の子は愛せない。そう言おうと思ったけど、それじゃ、あまりにも突き放し過ぎてるし。だからどう言えばいいか判らなくて」
「どう足掻いても相手は傷つくよ」俺は言った。「思いやりはなるべく傷を浅くする為のものだと思った方がいい」
「判った風に言うね」
「そばで見てるからな」
「振った立場のクセに」
「いまならちょっとは俺の気持ちが分かるんじゃないか?」
「少しだけなら」
「で、それはそうとこれからどうする?」俺は訊ねた。
「香奈はお姉さんと一緒なの?」彼女はそう質問してきた。
「連絡がつかないからあくまで想像だけど」と俺は言った。「多分今頃一緒に焼き肉食ってるんじゃないかなあ」
「焼き肉……」と井上は何かに思いを馳せるように呟いた。
「そういえば、時間は大丈夫なのか?」
「ああうん」と井上は頷いた。「友達の家でご馳走になってくるって、言って出てきたから」
「その友達とは?」
俺がそう訊ねると、井上は不思議そうに俺を見上げて、それから上手く言葉を聞き取れなかった犬のように首を傾げた。
「今日は手抜きで、コンビニ弁当の予定なんだけどな」俺は言った。
「私も手伝う」
「いや、そもそも今日買い出しに行ってない食材があんまりないんだよ」
「なんでもいい」
「冷蔵庫の中身を適当にぶち込んだ野菜炒めでも?」
「三島の手料理ならなんでも食べる。というか食べさせてください」
それからしばらく無言で見つめ合い、おねだりをする犬のように潤んだ目に、俺が折れた。
「わかったよ」俺は言った。
井上は目を輝かせて「ありがとう」と言った。
「自分で言ったんだから、手伝えよ」
「うん」彼女はうなずいて、立ち上がった。「何をすれば良い?」
「何ができる?」俺は訊ねた。
井上は唇に手を当てしばらく考え込むそぶりを見せてから、「調理実習レベルのことなら?」と答えた。
それならば、と安心しかけたが、そこでふと気づく。彼女は大抵夏井と同じ班で調理実習を行っていた。そしてその班では大半の仕事を夏井が進んで請け負っていた。
「ちなみに普段家では?」念のため俺はそう確認した。
「お皿を出したり、並べたりするくらいはやってる」と彼女は妙に自信満々で答えた。
「なるほど判った」俺は一度天井を仰いで、「野菜の皮むきとか頼もうかな」
「うん。まかせて」
人参の皮をピーラーで剥くくらいなら安全だし、大丈夫だろう。
とりあえず、いくつか簡単な行程を、彼女のプライドを傷つけない程度に任せていかなければならない。やる気と自信に満ちた目を輝かせている姿を見たら、やっぱり待っててくれ、などとは流石に言えない。
手数は減るけど、普段より手間は増えそうだなあ、なんて考えつつ台所へと向かった。
3
網の上でじゅうじゅうと油が爆ぜて、香ばしく焼けた肉の香りが鼻腔をくすぐる。暖色系の柔らかな照明に映し出されたそれは、油の照りがなんだか少し上品で、ぼーっと眺めているだけで十分な気持ちにさせられる。
「食べないの?」と不思議そうな顔で怜が首をかしげた。「焦げるわよ?」
「食べる」香奈ははっと我に返って、網の上で自分の油でカリカリに揚がろうとしている特上カルビを箸でつまんだ。タレは何がいいだろうか。刹那、逡巡する。醤油ベースのタレと、野菜や果物の甘さとスパイス風味が濃厚なタレ、そしてニンニクとレモンの塩だれ。視界の端にご飯のお茶碗が映った。その瞬間頭の中で甘辛いタレにくぐらせたカルビでご飯を掻き込む未来が、とても具体的に想像できた。あ、これだ、と思ったときには体が勝手に動いていた。
美味しいお肉と美味しいご飯。濃厚すぎるかもしれない味をご飯が中和して、ほどよく広がる味わい。
ほう、と香奈はため息をついて、空になったお茶碗を見つめた。さきほど怜が食べないの? なんて訊ねてきたが、その実、香奈からすればすでにかなり食べている感覚だった。なにせ、ご飯ももう二杯目だ。流石にちょっと苦しくなってきた。小柄な割に食べる方だと自負している彼女であるが、しかし目の前で全くペースを落とさず、それでいて上品に肉と米をむさぼり続ける怜を前にすると、もしかしたら自分は小食なのかもしれない、と思わずにいられない。
そんなに食べて太らないんだろうか。細い手首や無駄な肉感が全くない顎のラインをぼんやり眺めながら羨ましく思った。自分は割と肉がつきやすいので、油断しているとすぐにおなか周りが怪しくなってくる。香奈は無意識に横腹に手をやっていた。部活がどれほどカロリー消費に貢献してくれていたかは定かではないが、引退してからの数ヶ月で3キロくらい太っていた。今日も少し食べ過ぎた。このままだと無事受験を終えて高校生になる頃には丸々と太ってしまっているかもしれない。それは流石に嫌だ。太ることもそうだけど、そんな姿を宗平に見られたくない。
「そうちゃんのこと考えてるでしょ」
トングをかちかちならしながら怜が言った。
「メスの顔してる」
「やな表現しないでよ」
「卑しい女め」そう言うと彼女はトングで網の残っていたカルビをまとめてつまみ上げて、香奈の取り皿に放り込んだ。「豚のように太ってしまえ」
「運動すれば平気だし」
挑発されると対抗心が湧いてくるし、なにより肉の誘惑は強烈である。香奈はカルビをぱくぱく食べた。
「それで?」と怜がこちらの目をまっすぐに見つめながら言った。
「なにが?」
「悩みの話」
「この流れで聞く?」
「そろそろおなかが膨れてきた頃でしょ?」
まるでこちらのことはお見通しだと言わんばかりの態度は気にくわないが、しかし話にはちょうど良いタイミングではあった。カルビと一緒に言いたいことを飲み込んで、それからお冷やを一口飲んだ。
どう切り出そうか。
迷ってしまうと言葉が出てこない。
そもそも胸の中にあるモヤモヤの原因が何であるか、香奈自身にもよく判っていなかった。宗平のこともあるし、奈々子のこともある。それに時折よぎる母の面影。いろんなことがごちゃ混ぜになっていて、とてもじゃないが簡単な言葉で言い表せるような状態ではなかった。
「二人で喧嘩してたみたいだけど、どうなってるのよ」
こちらが黙り込んでいることに焦れた怜がそう訊ねてきた。
「それは、その」
「そうちゃんを巻き込んで色々やってんだから、そろそろ決着つけなさいよ。何回病院送りにする気?」
そう言われた瞬間、胸がどくんと大きくはねて、呼吸が止まりそうになった。
「ごめん……なさい」
まずいな、と香奈は思った。自分でもびっくりするくらい声が震えていたからだ。何か言い返すよりも先に息が詰まって、視界が滲んで、テーブルの上にしずくが落ちた。
唇を噛んで嗚咽をこらえていると、目の前にハンカチが差し出された。
顔を上げると、怜がばつの悪そうな顔をしていた。
「言い過ぎた」ぶっきらぼうに彼女はそういった。
香奈はハンカチを受け取ると、それを目元にぎゅっと押し当てた。
「やっぱり気にしてるのね」溜息を吐き出すように怜は言った。「一回目は確かにあんたのせいだけど、昨日のは別よ。あれは最初からそうちゃん目当てだったの。むしろどっちかといえばあんたが利用された被害者よ」
「でも……」
「まあだから気に病むなって言っても、そう言うの気にするタイプよね。はあ、もう、面倒くさい」
怜はそう言うとジンジャーエールのグラスに口をつけた。そして一気に黄金色を飲み干した。
「そういうときは別のことを考えるのよ。そうね。例えばあんたたちの喧嘩の根本的な原因はなんだろうって、こととか。結局今回のことも、そこに帰結するはずだしね」
「喧嘩の原因」と香奈はその言葉の意味を確かめるようにつぶやいた。「でも、自分でもよく判らなくて」ハンカチで目元を押さえたまま香奈は言った。
「まだそんなレベルなの?」
「だから宗平にどっちか選んでもらって、それで終わりってことにしようって、奈々子と話し合って」
「それ、根本的な解決にならないんじゃないの? あんたらの喧嘩って、そうちゃんの取り合いだけってことじゃないでしょ?」そう言って怜は大きな溜息をついた。「そんなうわべだけどうにかしたって、そのうちまた再燃するに決まってるでしょうに。馬鹿なの?」
「そんなこと言ったって」
「お互い腹を割って話し合って、正面からぶつかり合うのが怖いだけでしょ?」
「一応、ちゃんと話し合ったもん」
そう、話し合った。けれど怜の言うとおりだった。決心して膝をつき合わせた癖に、いざ向き合うとお互い及び腰になって、結局彼にすべて託すという後ろ向きな結論に至ってしまった。
本当なら今日、奈々子と一緒に彼の家に行って、それから改めて三人で話し合おうと思っていた。昨日宗平にはっきりと結果を伝えられなかったのも、そういうふわふわした状態だったからだ。
情けない。それでいて、直前になって彼に会うのが怖くなって逃げ出してしまったのだから余計に情けない。
「正直なところを聞きたいんだけど。あんたはあの友達をどう思ってるの?」
「大切な、親友」
「そういう上辺だけの答えじゃなくって、もっとこう、腹の底で抱えてるような汚い部分を訊いてるんだけど?」
「そんなの」
口にしたら嫌な子になってしまう気がする。そんなことをしたら、いつも人の悪口ばかり言っていた母みたいになってしまう。愚痴ではない、悪口なのだ。誰かの汚い部分、汚いと思っているところを、もっと汚い言葉で罵る最低の行為。愚痴も褒められたものではないけれど、他人をおとしめる為に言う訳ではないからまだ救いはある。
「じゃあこういうのはどう?」と怜はミノを網の上に並べながら、「親友が、自分と同じ相手を好きだって判っていながら、自分のことを応援させてました。それはなぜでしょう?」
じゅうじゅうとミノが焼けていく。立ち上る白い煙。爆ぜる油。頭上で煙を吸い込む排気用のダクトの風音。心臓が跳ね回る音。いつの間にか涙は完全に止まっていて、その見開いた目で怜を見つめていた。
「なんで知ってるのかって顔してるわね。でもね、見てたら気がつくわよ。そんなに一緒に遊んだことはないけどね。わかりやすいっていうか。まあそうちゃんは気がついてなかっただろうけど」そう言って怜は肉をひっくり返した。「親友を見下しながら謳歌した青春は、楽しかった?」
「違う!」
香奈は身を乗り出して、怜を睨んだ。しかしカラカラに乾いた口の中で次の言葉が、砂のようにさらさらと消えていった。
「違わないでしょ。自分に対して気を遣ってくれるからって、いい気になって、見下して。でも本当はあんたの方が下。ずっと手のひらの上だった。多分ね」
「判ったようなこと言わないで!」
「判るわよ」彼女は焼き上がった肉を自分の取り皿に半分ならべ、もう半分をこちらの取り皿に、雑に放り込んだ。「私だって昔はさくらのこと見下してたもの。そしていまはあの子の手のひらの上」
「一緒にしないで」
「私がなんであんたのことが苦手かっていうとね。どことなく自分と同じ匂いがするからなの。同族嫌悪っていうのかな」
「だから一緒にしないで」
「そういうところ、認めないと先に進めないと思うけど?」
「それじゃあ、そんなことしたら」
「大嫌いな母親と同じ風になっちゃう?」
どくん、と胸が大きくはねた。その拍動は頭の中で大きく膨れ上がって、周りの音が遠くなっていく感じがした。
「そんな怖い顔しないで、食べたら?」怜は飄々として、泰然自若と焼き上がったミノを頬張り、ご飯を一口食べ、それからごくりと飲み込む。「こちとら雪ちゃんに脅されててね。何が何でも全部吐き出してもらうわよ。それまで帰さないから」
「どうしてお母さんのことを……」喉がカラカラに渇いていた。だから声もかすれていたし、殺しきれない感情の高ぶりで、今にも叫び出しそうだった。もし手元になにか鋭利なものがあったら、彼女に向かって突きつけていたかもしれない。
「あんたは知らないでしょうけど。あの頃、近所でよく話題になってたのよ。知らない子がどこからともなくふらふらやってきて、日が暮れる頃になるとまたふらふら帰って行くって。それで、どこからどう話が伝わっていったのかはわからないけれど、その子供は市立病院に勤めているお医者さんの子供で、その母親は昔から地元の嫌われ者だったって。東京に出て行って上手いこと良い金づるを誑し込んで、自分は家事も育児もせずに放蕩三昧ってそう言う情報がいつの間にかご近所さんの間で噂として囁かれててね」
「……噂」
「その反応からすると、本当みたいね」
香奈はがっくりと項垂れた。「そう。私はあのクズの娘。自分の中の半分があれと一緒だなんて思いたくない。でも、日に日に自分の行動とか考え方が近づいて行ってるような気がして」
「きっとあなたのお母さんにも、ずっと見下していた友達が居たんでしょうね」
「やだ。やめて」
「でもその相手はこう思ってるの。こんなクズよりはマシだって」
「やめてよ。なんでそんな、ひどいこと言うの?」
「……私も性格がねじ曲がったクズだからよ」そう言って怜は肩をすくめた。「私はね。基本的にずーっと周りを見下してきたの。みんな馬鹿ばっかりってね。実際間違ってないと思うけど」
「私はそんなこと」
「そうね。でもみんなブスばっかりとか、かわいい子とだけつるんでいたい、みたいなのはあったんじゃない?」
そう言われるとそれは確かにそう言う部分を否定は出来なかった。大石も長田も、太ってしまったけれど岡本もみんな平均よりは可愛かったり美人と言える子たちだし、公康は言わずもがな、宗平だって顔は別に悪くない。
そして奈々子は、自分よりも美人だ。
胸の中にどす黒いものが渦巻いた。
「あんたの腹の中にある醜いものの正体はね。簡単なことよ。見下してたはずの相手が自分の上を飛び越えて行こうとしている。それが堪らなく嫌だし怖いし、不安なの。その気持ちが心の中の怪物を生み出している。いまのあんたが求めているのは、以前のような関係であって、現状を鑑みて落としどころを探ったところで欲しいものはそこには転がってない。でもね、それは過去にしかないものなのよ」そう言って怜はこちらに人差し指を突きつけた。「だからまずはそれを認めて前に進む努力をしないと、そうちゃんに勝ち負けを決めてもらったって、きっとまた同じようなことが起こる。そんなことをやってるうちに、友達も居なくなって、あんたが軽蔑しているクズと同じ生き物になっちゃうわよ」
「認めないと、同じ生き物に」香奈はそう繰り返した。そして全身を怖気が走り抜けた。とても、鮮明に想像できる未来だったからだ。
「そう。だから吐き出しちゃいなさい。別にここで言ったって聞いてるのは私だけ。そして私はあんたの本性を看破している。何か不都合、ある?」
「偉そうなのがムカつく」
ふふ、と怜は笑った。
「ちょっと元気が戻ったわね」
「なにが、元気が戻ったわね、よ。ええそうよ。私は親友を見下していい気になって、でも気がついたらその親友が私よりも輝いてて、それで、それがとても嫌だった。いつまでも陰で居て欲しかった。私は、私は、奈々子のおかげでここまで来れたから。だからずっと何も変わらずに私のそばで、私を支えていて欲しかった。気がついたのよ。奈々子が居て、あの子にマウンティングしてたから、まだマシだったんだって。だからいまなら判るの。奈々子が、私に対して、香奈の為だからって何かと上から目線でものを言っていた理由が。きっと私は、全部奈々子の思うがままだったんだ」
「そういうことを奈々子ちゃんと話しなさいよ。対等になるためにはまずそういう思いをぶつけ合って、真正面から殴り合わないと」
彼女はそう言うと急に照れたように目をそらして、すでに空っぽになっていたグラスを呷った。
「お姉さんは、相川先生とどうやって、今みたいな関係に持って行ったの?」
「さあ、どうやったのかな。自分でも判らない」と彼女は空のグラスをテーブルに下ろして、「私もずいぶんひどいことをしてしまったから。さくらを言いくるめて、そうちゃんを奪い返して。それから追い打ちをかけるようなこともした。正直、どうしてさくらがいまでも友達で居てくれるのか不思議なくらい、あの子を追い詰めた」
物憂い表情でグラスの縁を指でなぞる姿は、先ほどまでとは違ってとても小さく、弱々しく見えた。
「幸せってのは絶対数が決まっているんだと思う。だから誰かが幸せになるとその分誰かが割を食う。どん底から這い上がったなら、その分誰かがどん底に落ちる。奈々子ちゃんはきっとあんたの代わりにどん底に落ちたのね。どういう意図があったのかは判らないけれど」
「私の、代わりに……奈々子が」
「でもそんな彼女も気がつけばどん底から這い上がってきて、あんたの隣に居る。だからいましかないの。ちゃんと話し合う機会は。私とさくらは、そうね、きっと時間がなんとかしてくれたんだと思う。お互いを許し合うというか、適度に恨まれて、それを受け入れる心構えが出来たというか。けど多分、あんたたち二人は放っておくと一生戻れない分かれ道を進んでいくことになる。まあ、予想だけど。でもそんな気がするから。それはきっとあんたを幸せにしないし、そうなるとそうちゃんも悲しむ。だからとにかく、明日でもあさってでも良いから、頭ん中の熱が冷めないうちに大喧嘩をしてきなさい。私から言えることはそれだけ」
「なんだか判るような判らないような話だ」と香奈は苦笑した。
「ノリよノリ。雪ちゃんに言われてなければ、あんたたちのことなんて正直あんまり興味もなかったんだから」
「そっか。ううん。そうなんですね。でもなんとなく決心がつきました」
「うえ、なにそれ。いつも通り話しなさいよ。気持ち悪い」
「せっかく年上の先輩として敬ってあげたのに」
「その上から目線、気に障るわね」そう言って怜は肩をすくめた。
「そろそろシメのアイスとかどうです? せんぱい?」メニューの冊子を広げながらいつもよりトーンの高い声で香奈は言った。
「だからそれやめなさいって」
「あ、私このチョコレートアイスがいいですぅ」
「……私はゆずシャーベットにしようかな」
溜息に続いて、店員を呼ぶチャイムの音が響く。
先のことがどうなるかは判らない。ただいつの間にか気持ちは幾分軽くなっていた。
4
疲れていた。ただ料理を作っただけなのに、えらく疲れていた。
原因は確実に井上の行動にある。
まず思った以上に手つきが危なっかしかった。ピーラーですら指を切りそうになるので途中で何度か止めようとしたのだが、要らぬところで負けず嫌いな性分を発揮して、手放そうとしなかった。皮を剥いたついでに野菜を切りたいと駄々をこねた。無論、これは全力で阻止した。バレンタインに色々邪推した彼女の指の傷だが、単純に包丁の扱いが下手すぎて湯煎前のチョコを刻む工程で失敗しまくっただけなのかもしれない。
そして調理中、彼女は常に俺の後ろに張り付いていた。どういう意図があってのことかは判らなかったが、とにかくそれが無言のプレッシャーとなって、とにかく気疲れしてしまったのである。そしてその井上は、というと「これ、美味しい」と幸せそうに余り物で作った野菜炒めに舌鼓を打っていた。
「もしかして、まだ怒ってる?」俺は訊ねた。
井上は「なにを?」と首をかしげる。その仕草の中に作為的なものを感じて、俺は訊き方を間違えたかな、と少し後悔した。
「お見舞いに行かなかったこと」
「別に」と井上は言って、味噌汁のお椀を持ち上げた。ず、ずず、と控えめな音を立てて啜った彼女は、「別に」と重ねて言った。
「そういえばさ、お前隠れて写真撮ってただろ」
俺がそう訊ねた途端、ごほ、と井上が噎せた。
「写真って?」
「いや、お前メールしてきただろ」
「ああ、あれ」と彼女は安堵したようにつぶやいた。どうやら、そっちじゃない方と勘違いしたらしい。まあどこからか隠し撮りされていたらしいことは夏井から聞いているので、別にそっちの方向から切り込んでいってもいいのだけれど。出来れば手札として残しておきたい。少なくともここで切るべきカードではないだろう。
「どういうつもりだったんだよ」
「カッと来て」と彼女は言った。「あそこで二人を見かけたのは本当に偶然」
まるで偶然じゃないことがあり得るかのような言い草である。
「私のお見舞いに来ないで、二人でなにやってんだって思って」
「それならそれで声を掛けてくれれば良かったのに」
「だって、香奈が楽しそうだったから」そう言って井上はうつむきがちになって、もじもじとヘッドドレスを弄り始めた。
「でも結局脅すようなことしたんだろ?」
「それとこれとは別。ちなみに私がいま怒っているのもそれ。急にぶり返した」
「えぇ……」
「実は結構わがままだから。本当の私は、結構面倒くさいの」そう言って彼女は寂しそうに微笑んだ。「本当の私って、なんだろう」
「哲学的な悩み?」
「かもしれない」と彼女は俯いた。「香奈と出会う前の私は明るくて活発な女の子だった。でもいまは違う。私ってなんだろう」
「どちらかが正しいってことはないんじゃないか。どっちも井上だと思うよ」
「気休め」
「だろうな。でもさ、バスケットコートを駆け回ってる井上は、その明るくて活発な女の子そのものだと思うんだけどな」
「どうして?」
「いつも笑顔でエグいプレー連発してるから」
挑戦的な笑みでファールをとられるギリギリのラインで相手チームの選手を薙ぎ払いながら猛進する姿は、普段の物静かな彼女からは想像しがたいものだ。けれどどちらも彼女なのだ。まあ、ごっそりと2年分の記憶が抜け落ちている人間が偉そうに断定出来ることでもないのかもしれないけれど。
「コートの中では香奈のこととか、関係ないから、かも」
それは独り言だったのかもしれない。
けれど俺の耳に確かに届いた。
それを拾い上げるべきかどうか。俺は少し迷った。どうするか決めかねているうちに、空っぽのお茶碗が目の前に差し出された。
「おかわり、いい?」
「よく食べるな」俺はそのお茶碗を受け取った。
「体大きいから。燃費が悪くて」と恥じ入るように彼女は言った。
「まあ、よく食べる女の子は好きだよ。怜もそうだし。夏井の奴も結構美味そうに食うんだよな」
「いまは別の子の名前ださないで」
「なんで?」
「いまはお詫びのデート中」
「いつからそうなったんだ?」
「香奈がバックレたので急遽」
「先に言ってくれよ」
「言ったら帰れって言うでしょ?」
「よく判ってらっしゃる」
そう言って俺は席を立った。
20:30。食事の後片付けを終えて時計を見ると、卓上のデジタル時計にそう表示されていた。
「そろそろ帰らないと家の人が心配するんじゃないか?」
「うん。だから、送って?」
「断ったら面倒くさそうだな」
「そうなったら別の要求をするだけ」そう言って井上はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そう言う顔も出来るんだな」俺は肩をすくめた。
「どういうこと?」
「さっきの顔を鏡の前でやってみろ」
「褒めてる?」
「まあ、一応」
「ありがと」
「どうも」
それから俺たちは支度をして外に出た。夜の空気は冷え切っていた。見上げた夜空は、しかし真冬と比べるといくらか霞んで見える。井上は自転車に乗ってきたらしい。だから俺も自転車を用意したけれど、二人とも乗らずに、押して歩いた。
「冬みたいだけど、ちょっと違う」白い息を吐きながら井上が言った。「寒いけど、ちょっと湿度が高い?」
「そのうちどんどん気温が高くなっていって、蒸し暑くなるんだろうなあ」
「ずいぶん先のこと考えるんだね」井上がくすくす笑った。
「お前さ、俺と居るときだけ妙に表情豊かじゃないか?」
「どっちかというとこっちが素に近いよ」
「普段からそうしてればいいのに」
「私は香奈の影だから」
「それさ、あいつはそう言う上から目線が気に入らないって言ってたぞ」
「でも香奈は頼りないから。私がちゃんと見ててあげないと、きっとすぐ昔みたいに笑顔が曇っちゃうから」
「そう言うの、そろそろ卒業すべきなんじゃないか?」
「どうして?」
「お前らの喧嘩ってさ、結局そういうところが根っこになってんじゃないかって思ってさ」
「三島は鋭いね」
そう言って井上は立ち止まった。
振り向いた彼女は猛禽を思わせる笑みを浮かべていた。
「昨日香奈と色々話し合ったけど、結局香奈はそこへ踏み込まなかったし、私はあえてそうしなかった。だから、私たちの喧嘩は三島に決着をつけてもらおうって、そう決まったの」
「お前らが良いなら別に俺はかまわないんだけどさ」俺は言った。どうしようもない時は頼れと言ったのは俺なのだ。そこに二言はない。「でもさ、結局俺がどうこうしたって、さっき言ったとおりなら、根本的な解決にはならないよな」
「ならないよ。きっとまた喧嘩をする。多分次に同じことになったら、私たちはもう、仲直り出来ないかもしれない」
「そこまで判ってるならなんで」
昨日、なんでもっとしっかり話し合わなかったんだ。俺は睨むように彼女を見た。
「だって、香奈はそれを望んでいなかったから」
彼女の顔から表情が消えた。
夜の闇の中に溶け込んでしまいそうな虚無がそこにはあった。
俺は何か空恐ろしいものを感じて、そして思わず訊ねた。
「本当に、それだけか?」
井上は答えなかった。
曖昧に微笑んで、それから「遅くなると親が心配するから」と一人で歩き出した。からからと、自転車を押す音が響く。
早足で彼女に追いついて、隣に並んだ。
頑なな横顔は、何を訊ねても答えてくれそうにない。
ただそこに、何かしらの決意とも諦めともつかない感情が浮かんでいるように見えて、不安になった。
果たしてそれは誰に対する、どんな決意であろうか。
考えているうちに俺はふと思った。
井上は、近いうちに夏井から離れていくのではないか。理由はわからないけれど、きっとそのときが来たら彼女はこういうだろう、それが香奈の為だから、と。
「前言撤回だ」俺は言った。
「急に、なに?」と驚いた顔で井上が振り向いた。
「喧嘩はそっちで片をつけろ。俺は知らん」
井上は大きく目を見開き、それから唇を噛んだ。血が滲むんじゃないかってくらい、強く噛んでいて、ハンドルを握る手が震えていた。けど、何も言わなかった。
少し大きな通りに出た。車道を車が行き交い、等間隔で立つ街頭のおかげで通りの向こうまで見通せる。けれど俺たち以外に人の姿はない。車の往来に比べて、歩道はあまりにも閑散としていた。
「三島が決着をつけてくれるなら、私はそれに従う。絶対に」井上は、俯きながらそういった。「三島がそうして欲しいっていうなら、その通りにする」
「さっき言った通りだ」
「どうして……」
そう言って井上は足を止めた。
俺は彼女の前に自転車を回り込ませ、そしてこう訊ねた。
「それよりもさっきの質問に答えて欲しい」
井上は困惑した表情のまま俺を見ていた。
「じゃあもっと直接的に聞いてやる。お前、そのうち夏井と縁を切るつもりだろ」
彼女は何も言わず、空を仰いだ。星々の煌めきの下で、彼女の顔は青白く褪せて見えた。口元はまるで己を嘲るかのように、口角だけが不自然に持ち上がっていた。
「運命の人がいるなら、きっとそれは三島だね」彼女は言った。「三島は私のことを判ってくれている」
「やっぱり、そうなのか」
「でも勘違いしないで。その為に喧嘩を始めた訳じゃないから。香奈が三島に怪我をさせたことに怒ったのは本当。それに香奈が、私の抜け駆けに怒ったのも本当」
「じゃあいつから?」
「昨日だよ」
「昨日?」
「そう。香奈から学校で何があったかを聞いた。それで思ったの、きっと私が香奈のそばに居続けることは、香奈の為にならないって」
「また、それか」
「香奈の為ってところ?」そう言って井上は首をかしげる。「うん。まただよ。これは私にとっては呪いみたいなものだから」
「呪い?」
「そう、自分で自分に掛けた逃れがたい呪い」
なるほど。と思った。
夏井はこれを上から目線だと言った。けれど本当は違うのだ。いや、ある意味ではそれも正しいのかもしれない。だがその本質は、夏井の影に徹する自分に言い聞かせる言葉だったのだ。
「最初は、ただ純粋に香奈の笑顔が好きで、それをずっと見ていたいって思いからだった」懐かしそうに語る彼女の眼差しはとても柔らかく感じられた。「小さい頃は私の方がみんなの中心に居るような子で、香奈は控えめで大人しかった。笑うことも少なかったし、いつも暗い表情をしていた」
「その話は、まあそれとなく聞いてる」俺は言った。「一体何があったんだ?」
「6年もあれば人は変わる。変わってしまうものなの」そう言って井上は目を伏せる。「香奈を立てているうちに、気がついたら以前私が居た場所が香奈のものになっていた。真っ先に私に挨拶をしてくれてた友達が、香奈ばっかりに話しかけるようになって。気がついた時にはもう手遅れだった。私が夢見た未来は、二人で、みんなの輪の中で笑い合う光景だった。でも現実はそうじゃなかった。きっと、あの集団の中に用意されていた役割は有限だったんだろうと思う。だから、香奈が笑顔が素敵な女の子になった代わりに、私が地味で暗い女の子になった。もし誰かに陥れられたとかなら、そいつを恨めば良い。でも私は、少なくとも香奈がそうなることに関しては自発的にやったことだったから。だからそう自分に言い聞かせるしかなかったし、かといって香奈からそのポジションを奪い去ることも出来なかった」
香奈の笑顔の為に、っていう気持ちは本当だったから、と井上は泣きそうな目で笑った。
「だからそう。私は自分に呪いを掛けた。自分の顔立ちが人より良いことにはなんとなく自覚してたから、重たい髪の毛で顔を隠したし、運動神経の良さもあんまり目立たないように努力した。香奈の影で、香奈の為にって思いながら、目立たないように生活する。最初はつらかったけど、だんだん慣れてくると一人で時間を潰せる趣味が見つかったりして、それなりに楽しかったのは、事実。でも小学校を卒業する直前に、私と香奈の引っ越しが決まって、そのときに少しほっとした。悲しくて二人でお別れ会をして目が腫れて声がかれるくらい泣いたのに、でも頭の片隅ではそんなことを考えてた。だから同じ町に引っ越して同じ中学校に通うんだって判った時は、泣きながら抱き合うくらい嬉しかったけど、同時に結局私は新天地でも新しい自分を再出発することは出来ないんだなって、投げやりな気持ちもどこかにあった。だから私は強く思ったの。中学校生活も香奈の為に頑張らなくちゃって」
「ちょっと気になってたことがあってさ」俺は言った。「こっちに転入してきてすぐの頃、大石とかにちょっかい掛けられてただろ?」
「そうだね。香奈は結構ひどいことされてた」
「あのときやり返したのって、お前なんじゃないのか?」
「どうして?」
「なんとなく。でもお前がバスケ部でやったことを思うと、もしかしたらって」
「……誰から訊いたの?」
「それは内緒だ」
「岡本さんかな?」
すっと目を細めて、井上は問うた。
心臓をえぐるようにその目は鋭い。
「どうだろう」俺はそうとぼけた。中里との件で岡本には恩がある。「案外中里かもな」
「まあいいや」と井上は溜息をついた。「私は直接何もしてない。ただ香奈にこうしたら良いんじゃないか、ってアドバイスをして、ついでにちょっとだけお手伝いしただけ」
「やったんじゃないか」
「いいでしょ。それは」
「そうだな」俺はうなずいた。「で、なんでそんな風に夏井のことを想っていたお前が、あいつを裏切ったんだ?」
「それは、三島のせい」
「俺?」
「三島が中途半端に呪いを解いてくれたから」
「それは、つまり?」
「失って久しかった自己肯定感とか自尊心とか、そういうのがちょっと戻った。それに私が私らしくあるための免罪符をくれた。三島は覚えてないかも知れないけど、三島は私の容姿を褒めてくれた。きれいだって言ってくれた。バスケという宝物を私にくれた。三島のおかげで私は、昔の自分を少しだけ取り戻すことが出来た」
「昔の俺はとんでもない奴だったんだな」
「いまも一緒。すぐに褒めるところとか。何も変わってない。記憶だけがなくなってる。ねえ、本当に覚えてないの?」
「ごめん」
「ううん。ちょっと話がそれちゃった」と彼女は苦笑した。「とにかく、そういうきっかけがあって、私は少しずつ、現状に不満を抱くようになった。以前のことを思い返したりして、香奈の踏み台にされていたことがあったなあ、とかそう言う胸の奥底にしまい込んでいたはずの不満もどんどん再燃してきて、だから私はどうにかしてやりたくなった。でもいまさら香奈に直接どうこうしたって手遅れだから、」
だから、三島をとろうと思った。そう言って彼女はまた猛禽のような笑みを浮かべた。「私の抜け駆けは二年の時からすでに始まっていたの。三島と本の貸し借りをするようになったのもちょうどそれくらいだった。私、結構頑張ったんだよ? 流石におおっぴらに香奈を裏切るほどの度胸もなかったし、香奈のことを応援したい気持ちも同時に抱えていたから、もし三島が私を選んでくれたらそれを受け入れるつもりで、そうなるように友人としてできる限り距離を縮めようとしてたの。正直ちょっと行けそうだって思ってたんだけどな」
「もしかしたら、そっちから告ってたからオッケー出してたかも、って公康が言ってたな」
「近くで見てた栗原が言うならきっとそうなのかも知れない。惜しいことしたな」
「俺はあの頃、怜を諦める為に必死だったから」
「だから、陰りがあったんだ」と井上は得心して、なるほど、と唸った。
「なんだよ陰りって」
「私が三島に惚れた理由の一つ」
「じゃあいまはそれはないわけだ」
「そうでもない」と井上は言った。「いまはいまで、別の陰りがある」
「あんまり褒められてはないよな」
「私のこれに限っては褒め言葉だから」
「えっと、ありがとう」俺は愛想笑いで答えた。「それで?」
「どこまで話せば良い?」
「俺が病院送りになるまでだ」
「それなら簡単。徐々にフラストレーションが溜まって行って、とうとう耐えきれなくなった。香奈はなかなか宗平に告白しないし。したと思ったら、ふられたけどまだまだこれから、とかよく判らないことを言い始めるし。なんか変だな、と思っているうちに香奈のせいで三島が入院したって聞いて、そこでもう、限界を超えて、行動しようって思った。ちょうど、クリスマスプレゼントにと思って編んでいたマフラーがあったから。それを手に、私はあの日三島の病室を訪れた。あとは知っての通り。そして逃げたあと、勢い余ってマフラーを川に捨ててしまった。それからしばらくして、香奈と会った。そこで私は香奈に、裏切ったことを伝えて、もう応援してやらないって言ったの」
「それで喧嘩が始まった、と」
そういう経緯だったのか。
「というか俺の入院とは関係なくマフラー用意してたんだな」
俺がそう言うと彼女は、瞬きをぱちぱちと繰り返してから、ごほんと咳払いをした。
「なんだいまの?」
「重い?」
「友達同士のプレゼントにしては重いなんてもんじゃないな」俺は苦笑した。「何もなくても、それだけで裏切っただの裏切ってないだのって言う喧嘩になってたんじゃないか?」
「……確かに」
「井上はさ、本当はあいつと対等になりたいだけなんじゃないのか?」
「なに? 今更」
「お前がいまの関係を解消したいって思ってるのも、詰まるところ一度リセットしてフラットな状態から再スタートしたいだけなんじゃ?」
「人の苦悩をさらっと一言でまとめないで」
「……ごめん」
「けど、それ、正しいかも」
ある部分では、と付け加えて彼女は肩をすくめた。
「実際はそんな綺麗な感情じゃない。私は、香奈のことは好きだけど、多分結構憎んでる。心のどこかで、そのうち身の程を思い知らされればいい、なんて考えていたのかも知れない。きっと昨日のことも、無意識のうちにそんな考えが周囲に影響を与えていて、あんなことになったのかも知れない」
それは流石に考えすぎだろう。そう思ったが俺は彼女の深刻そうな表情を見ると軽々しく口にすることは出来なかった。
「憎いけど、心配で、愛してる。どちらかと言えば後者を肯定したい。だから時々私はやりすぎる。香奈の為にって思って、色々やってしまう。そして香奈はそれを当たり前の様に受け入れている。お互いに依存し合ってる。でも、それはきっと、駄目なんだと思う」
対等な友達同士であるためには。と彼女は唇を噛んだ。
ちょっとひっかかる話だった。彼女がいまの関係をリセットしたい理由はよく判った。だがこのひっかかりは、二人のことがどうこうと言うよりも、以前彼女は俺に依存したいなどと言ったのである。つまりは対等の友人であろうと言う気がそもそもないのではないか、という疑問が脳裏に浮かんで来た。
俺は彼女を友人として見ている。それなのに勝手にそれ意外の何者かになられるのは少々困る。
が、取りあえずいまは関係ないことなのでぐっと飲み込んだ。
「三島は、どうしたらいいと思う?」
そう言って彼女は俺に意見を求めてくる。けれど多分彼女が本当にほしいのは答えなのだ。自分らしく生きるための指針をくれた俺にそれを求めているのだ。
俺がもし、夏井と縁を切れと言えば彼女はきっとそうするし、いまのままで居ろと言えばそうするだろう。そもそもそう言う考えが根底にあるからこそ喧嘩の勝敗を、別の思惑があったとはいえ、俺に委ねたのだ。
「したいようにしろよ」俺は言った。「最終的にはこれは二人の問題だろ。俺がいろんな事のきっかけになっていることは認めるけど。だから、サポートくらいはしてやるけど、でもそういう決断は自分でしろ。決断に自信がもてないなら相談してこい」
「決心がつかない。私は、香奈と一緒に居たい」
「それが答えだろ」
「どうしよう」
「ちゃんと話し合えばいんじゃないか。さっき俺に話してくれたようなことを夏井にも話すんだよ。腹の底までひっくり返して洗いざらい吐き出す。そうすりゃ、すっきりするよ」
「すっきりしても、香奈に絶交されたら、私、死ぬ」
「いや、遠回しに縁を切ろうとしてた奴が何言ってんだ」
「実際考えたら、無理」
「まあでも話さなきゃ先には進めないと思うぞ」
「じゃあ、三島も一緒に」
「ヒートアップした時の仲裁程度なら」
「いいの?」と井上は目を大きく見開いて、それから「三島が居てくれるなら。……ちょっと勇気が湧いてきた」
「そりゃどうも」
「早速明日とか」
「いや、明日はちょっと無理かも」
怜が頑張って良いと言ったのは今日だけだ。多分明日の約束を反故にすると一週間くらいは実家にこもるだろうし、その後もさらに一週間は口を利いてくれなくなると思う。
「月曜日まで待ってたら決心が鈍るかも」
そう井上は表情を曇らせた。
そのときだった。
俺たちのすぐそばでタクシーが止まって、小柄な人影が勢いよく路上に飛び出した。
夏井だ。
渡りに船とは言わばこのことであろうか。などと暢気に考えている間に、彼女は歩道と車道を隔てる柵に手を掛けひらりと舞い上がった。そしてこちら側へ着地すると井上を見て言った。
「奈々子、話があるの」
その目に決意を漲らせた夏井を見て、
まさに渡りに船。
そう思った。
つづく
お久しぶりです。PCを新調したついでにニーアをsteamで購入したところドはまりしてしまいました。
だから遅れたというわけでもなく普通に難航してこんな時期になってしまいました。
次はちゃんと更新ペース守りたいです。あと今回は遅れた8月分の更新なので、なるべく今月中に今月分の更新もしたいです。出来ればですが。
次話で長ったらしく続いてきた現行エピソードを締めたいと思います。気がついたら一年以上やってたんですね。びっくりです




