Heading for spring Ⅺ『before spring 前編』
1
目覚めはいつもより遅かった。今日は母さんが朝食を作ることになっていたので、早く起きる必要がなかったからだ。
午前中に病院に行くことにはなっていたが、それでも十分ゆっくりするだけの余裕はあるはずだ。ベッドサイドの目覚まし時計で時間を確認しようとした。しかしなにかに体が戒められているようで、寝返りが上手く打てない。どうしたことだろう、と不思議に思っていると、肩の辺りからすやすやと穏やかな寝息らしき息づかいが聞こえて来る。それも両方からだ。見ると左側に怜が、右側にさくらさんが。それぞれ俺の腕を抱き枕みたいにして眠っていた。
昨日は確か一人で寝たはずだ。そもそも俺のベッドは大きくない。怜と二人で寝るときですら手狭だ。三人一緒となればもはや寝るどころではない。少なくとも俺は狭苦しくて眠れないだろう。
二人とも俺が寝た後に勝手にベッドに入ってきて、そのまま眠ってしまったのだろう。
「心配かけたからかな」と独り言を天井に向かって呟く。
昨夜は大変だった。
帰って来た俺を見てさくらさんが取り乱して、なぜか怜につかみかかった。それに対して怜も、冷静に見えて結構溜まっていたみたいでブチギレた。二人でよく判らない口論を繰り広げているところに父さんと母さんが一緒に帰って来て、状況を説明しようにも出来ず困った。とりあえず二人とも深く突っ込むこともなく、「青春ね」「まあ、がんばれ」などと何か勘違いしたコメントと生暖かい笑顔を残して夫婦の部屋へと消えていった。
その間に怜とさくらさんは組んず解れつ、着衣の乱れも気にせず取っ組み合って床を転げ回っていた。最終的にさくらさんが怜を組み伏せて、ようやくらんちき騒ぎに決着がついた。さくらさんに、腹の上に乗られ、両手を床に押さえ付けられた怜の、悔しそうな割に満足そうにも見える不思議な表情が少々気になったが、ともかくとばっちりを避けるために筒井某が如く見守っていた俺はそこでようやく二人に声を掛けることが出来た。
結局なぜここまでの大喧嘩になったのか、当の本人にも判らない、完全にノリでそうなっただけ、ということらしく、落ち着いた後には二人でお互いの惨状を指で差し合い笑い転げるという平和的な結末となった。
その後はいつも通り、かというとそう言うわけでもなく二人とも急に過保護になって、手を怪我している訳でもないのに夕飯を食べさせてくれようとしたり、風呂に入るのを手伝うとか言い出したり、とにかく大変だったのだ。その時点で何か問題があるとすると殴られた顔の腫れと、突進した時に右肩から行ったせいで、普段より肩の調子が悪い程度だった。助けが必要なレベルではまったくなかった。
まあ吐き気がくる程度には脳を揺さぶられていたので、それが二人にとって大きな心配の種になっていたのだろう。だからそれを解消するために色々世話を焼こうとしたに違いない。つまりはこの両手に花な状況もそういうことなのだろう。
それにしても二人ともよく眠っている。まったく起きる気配が居ない。カーテンの外はすっかり明るくなっているので、いまが早朝ということはあり得ないだろう。
あまりにも気持ちよさそうに寝息を立てているので、起こしてしまうのは少々気が引ける。しかしそうしなければ動けない。正直トイレに行きたい。
「おーい、朝だぞ」ととりあえず怜に向かって呼びかけた。しかし彼女は、むにゃむにゃと何かを言って、むしろ強く抱きついて来てしまった。まだ眠り続けるという強い意志を感じる。
「さくらさん。起きてください」次いでさくらさんに声を掛ける。すると彼女はうっすらと目を開け、んふふ、と笑って二の腕辺りに頬ずりをした。しかしその拍子に抱きつく力が弱まった。その隙に右腕をさっと引き抜いた。右手が空いたのでようやく自由が半分帰って来た。
起こさないようにゆっくりと怜の手を引き離してようやくベッドから出ることが出来た。
目覚まし時計は七時半を指していた。
トイレに行って、台所で水を飲んだ。それから洗面所で顔を洗って歯を磨いた。
部屋に戻った俺は、スマホから充電ケーブルを引き抜いて画面を見た。
夏井からメールが届いていた。SNSではなくわざわざメールを送ってきたところに何となく不穏な物を感じながら、開いた。
「ごめんなさい」
一言そう書かれていた。
意味深なんて話ではない。不穏な物を感じてすぐに夏井に電話を掛けた。しかし出ない。まだ寝ているのだろうか。居留守を決め込んでいるのか。
諦めて、スマホを握った手を下ろした。
「誰?」
うなじに冷たい声が突き刺さった。
振り返る前に白い指が首元をかすめて、胸の方まで滑り落ちてきた。背中にずっしりとなじみのある重みが寄りかかってくる。
「おはよう。怜」
「おはよ。で、誰?」
そう訊いたくせに、俺が答える前に彼女は首筋に噛みついてきた。
「充電完了」
首筋から唇を離して彼女は満足そうに呟いた。
「おはよう」改めて俺は言った。
「それで?」彼女は改めて言った。
俺は彼女にスマホを手渡した。首に手を回したまま彼女は俺の顔の前でスマホを操作する。迷いのない指捌きでパスコードを入力して、ロックを解除する。先日変更したばっかりなのに。
「あの子からメールが来て、電話をかけた」
一通り確認してから彼女はスマホをベッドに投げた。さくらさんの顔のすぐそばに着弾して、思わずひやっとさせられた。
「まあ確かに気になる内容といえば、そうかも」
「電話に出なかったのが余計に心配というか」
「まだ寝てるんでしょ。だってそもそもそのメールが送られてきたの、四時くらいじゃない。それから寝たんなら昼前まで起きないでしょ」
「へえ」
「へえ、って見てなかったの?」
「字面のインパクトが強くて」
「んー。そうだ。そうちゃん。一つ訊いていい?」耳元にまとわりつくような声で怜は言った。
「なに?」
「あの子が、かっちゃんが引っ越したとき、どうだった?」
「そりゃまあ、悲しかったけど」
「そうちゃんがさ、八方美人というか、寄せ付けて離さないのって、そういうのが影響してるんじゃないかなって」俺の左肩に顎を乗せながら、彼女は言った。
「突然どうしたの」
彼女のその言葉には、哀れむようなニュアンスが混じっていて、だから俺は少し困惑してしまった。
「なんとなく、ね」と彼女は耳の裏に息を吹きかけるように言った。
「なるほどなあ。けど俺は」と相変わらず気持ちよさそうに眠っているさくらさんに視線を向けた。
「それも含めて」と言って彼女は俺の両頬を摘んで横に引っ張った。
「ひふぁい」
「モラル的に大丈夫なら監禁したいくらいなんだから」
恐ろしいことを言って、彼女は指を離した。
そしてベッドの方へ向き直って、「起きろー」と言ってさくらさんの上に飛び乗った。
ぐえぇ、とカエルをつぶしたみたいな悲鳴が上がった。
流石に目が覚めたさくらさんは、目を白黒させながら「なにするの!」と怒鳴った。
「おはよ」怜が地域の猫を殲滅せんばかりの皮をかぶりに被って微笑んだ。
さくらさんはぎろりと怜を睨んだ。「おはよう」そう言い返すのと同時に枕を掴んで怜をめがけて振り抜いた。
今度は怜がぎゃー、と悲鳴を上げてベッドの上に転がった。
そのまま組んず解れつの大乱闘を始めたその様相は、さながらじゃれる猫の様であった。昨日も結局勝手になんとかなったし放っておこう。
朝食をどうしようかと考えながら台所へ向かう。ふと、テーブルの上に書き置きがあることに気がついた。
母さんが朝食を作ってくれていたらしい。昨日も夕飯は母さんが作っていた。
二食も自分が作らないなんて久しぶりだな、なんて思いながら味噌汁の鍋を見て、それから冷蔵庫の中のおかずを確認する。
そう言えば怪我のことを訊いてこなかったな。転んで顔を打ったという説明をそのまま鵜呑みにしている風でもなかったけれど、何か事情があるのだろう、と汲み取って敢えて訊いてこない感じだった。
正直なところ、女の子にぼっこぼこにされたことに対するある種のプライドの傷みたいなのもない訳ではない。それと同時に、話さないことで中里に恩を着せてやるという打算もある。あと同じ地区なのでご近所トラブル的なものに発展する火種になりかねない、という危惧もあった。というのも、中里の母親と、怜の母親はものすごく仲が悪かったのだ。そしてその不仲を怜は望まぬうちに引き継いでしまっていた。理由も判然としないまま、ほぼ一方的に向こうに嫌われているだけなのだが、そんなこともあって怜も向こうのことをあまりよく思っていない。当の中里のことは近所の妹分みたいな感じでかわいがっていた節もあったが、今回のことでそれもおしまいだろう。
それにしても、中里はこれで引き下がるのだろうか。敬愛し、惚れていた井上にシメられて、密かにねらっていた怜にも嫌われたのは確実の状況で、むしろ失う物がなくなったからと早まった行動にでないとも限らない。夏井を餌に俺をおびき出すようなことをやった人間だ。警戒しておいて損はないだろう。
母さんの作った朝食を温めなおしていると怜とさくらさんがやってきた。二人とも髪はぼさぼさ、着衣も乱れて下着が見えていた。。まるで情事の最中に地震が起こって逃げ出してきたみたいな有様だ。
「おなかへった」と怜は言った。
「私も」とさくらさんはお腹の辺りに手を添えて言った。
「二人ともこっちに」俺は二人の姿見の前に誘導した。
「うわあ」と怜が他人事みたいに言った。
さくらさんは真っ赤になりながら胸元を隠して、「見た?」と言った。
「そりゃ見えますよ。ほら、洗面所はあっちです」
「ねえ、宗平くん。その反応は、どうかと思うんだけれど」
「ガン見していいなら見ますよ」
「そういう開き直り方も違うような」
「なら、そうですね。可愛いブラですね、とか?」
「……あなたに見られても良いように選んだもの」
恥じらいながら視線を逸らして、彼女は拗ねた口調で言う。
そんな姿を見せられるとこっちもなんだか恥ずかしくなってくるし、谷間とかさくら色の可愛らしいナイトブラの模様が鮮烈に視覚に訴えかけてくる。思春期の劣情というものは、かくも容易く燃え上がるものなのか。などと考えながら落ち着け、と頭の中で念じる。なんだかいつもより血の集まり方が強い感じがする。
「ねえ!」と横っ面をぶん殴るような怒声が飛んできた。振り向くと怜が怒っていた。対抗するように胸元を開いてこちらを睨んでいた。
ふっと、さくらさんが嘲るように笑った。
「あのね、さくら。お妾さんなら、それらしく、正妻を立てなさいよ」
「あら、ごめんなさい。私はてっきり。いえ、あなたのこと、買いかぶりすぎてたのかしら」
「二回戦」ぼそっと怜が呟いた。
「ふふ」とさくらさんは微笑んだ。
今度は猫のじゃれあい程度じゃ済みそうにない気配がしたので俺は間に入って「いいからさっさと顔洗って着替えてこい」と強い口調で言った。
「なによ。そうちゃんが悪いんじゃない」
じとっとした目でこちらを睨んでくるので、俺は彼女を抱き寄せて、「俺は怜が一番好きだし愛してるから」と耳元で囁いてからほっぺたにキスをした。
「そう言うので誤魔化すのはよくないと思うんだけど」と言った彼女の表情から棘棘しいものが抜け落ちていた。
「ちょろいわね」とさくらさんが言った。
しかし怜はその挑発には乗らなかった。上機嫌なままさくらさんの手を取って、「ほら、行くよ」と歩き出した。さくらさんは仕様がないという顔で引きずられるようにリビングから出ていった。
2
「さくらさんは今日、どうするんですか?」
「奈雪の引っ越しの手伝い。今日荷物が届くのよ」
やれやれと言った風に肩をすくめてから紅茶を啜る。
朝食を終え、俺たち三人はテーブルを囲んでのんびりとした時間を過ごしていた。
「あなたたちは?」
「とりあえず病院に行って、それから」
「デートなんだー」と怜が喰い気味に話に突っ込んできた。
「へえ。そうなの」とさくらさんは落ち着いた様子だったが眉がぴくぴくと痙攣していた。
「いろいろあったから埋め合わせ。まあお昼過ぎくらいまでだけど」と怜はスコーンに手を伸ばす。これでもかというくらいに、生クリームで作ったクロテッドクリーム擬きとブルーベリージャムを塗りたくって口の中に放り込む。
「夏井さんの勉強を見るんだっけ?」とさくらさんもスコーンを手に取る。
「ファミレスでね」
「で、その夏井さんは夕方くらいにここに来て、宗平くんとお話をする、と。大変そうね」
「自分のことじゃないからしーらないっ」
「あなたはその間どうするわけ?」
「お義母様と焼き肉食べ放題ですわ」おほほほ、と口元を手で隠して笑う。元が美人だからか、両親の出自が出自だからか、妙に様になっている。
「あら、お父様は?」とさくらさんが首を傾げる。
「夕方から、町内会の役員の歓送迎会があるんですよ。うちの父親、来年度になんかの役が当たってるらしいんで」
「へえ、大変ね」
「ただでさえ仕事が忙しいのに、町内会の仕事なんて出来ないって愚痴ってました」
スコーンの皿に手を伸ばして、空ぶった。
見るとすでに食べ尽くされていた。主に怜に。
「ねえそうちゃん。もうないの?」
「これで最後。また買ってこないとな」
「これ、どこのお店なのかしら」手元に残った最後のスコーンを名残惜しそうに眺めながらさくらさんは言った。
「いつも行ってる病院の近くのパン屋さんで売ってるんですよ。ちょうど良かった。デートに行く前に寄るか」
「やった」と怜が子供みたいに座ったままぴょんと跳ねた。「あそこのパン屋さん好きなんだ、私」
「怜がそんなに嬉しそうにするなんて、よっぽど美味しいのね。まあこのスコーンも美味しかったし。私も今度買いに行こうかしら」
「えー、ダメ」
「どうしてよ」
「ただでさえ競争率高いのに」
「なら、なおさら行かなくちゃね」
そう言ってけらけらと笑い合う二人を見ていると、なんとなくその間に漂う雰囲気が以前のものと違うような感じがして、気がつくと俺はじぃっと二人を見つめていた。
「なんか、変わった?」
俺がそう訊ねると、二人は一斉にこちらを見てそれから「そう?」「そうかしら?」と声を揃えて首を傾げた。
「いや、こう、なんていうか。以前よりも仲良しになったというか。イチャツいてる感じがするというか」
「あら、何? それは嫉妬?」とさくらさんはにやりと微笑む。
「別にさくらとはそういうんじゃないから」と怜が焦った風に言うので、おや? と思ってさくらさんを見ると、微笑む口元が少しひきつっていた。
「なるほど」と全てを悟った風に呟いてみた。
「違うから!」と怜が身を乗り出してきた。
それを見たさくらさんは何か納得行かないことでもあるのか、しらけた視線を怜に向けていた。
「というか、なんで急に?」と怜が訊ねてくる。
「さくらさんのこと、いつの間にか認めるようになったし」
おめかけさんがどうのこうのとか。俺を無視して二人だけでなにか話が進んでいる気がする。
「それは、ほら、あれよ」
「あれ?」
「そう、あれ」
うんうんと頷く怜。
全く判らない。
「強欲なのよ」ぽつりとさくらさんが呟いて、カップの紅茶を飲み干した。ソーサーの上にゆっくりとカップを戻し、立ち上がった。
「そろそろ帰り支度をしないと」
「え、もう帰るの?」と怜がきょとんとした顔でさくらさんの方へ振り向いた。
「言ったでしょ。奈雪の引っ越しがあるからって」
「言ってたけど」と怜は残り少なくなった紅茶をティースプーンでぐるぐるかき回した。
「あなたは宗平くんとデートするんでしょ?」
「うん」
「私がずっと一緒にいたら二人っきりになれないわよ?」
「そりゃそうだけど」
「別に私はどこにも行かないわよ。私があなたの親友なのは変わらないんだから」
さくらさんは子供をあやすみたいに、怜を諭す。
「うん」と怜はしおらしく頷く。
やっぱり変わったなあ、と二人のやりとりを見ながら俺は関心していた。怜がさくらさんに対してこんなに素直になるなんていままでだったらあんまり考えられないことだった。さくらさんは相変わらずツンデレっぽいけれど、デレの比率が高まっている様に見える。やっぱり高校を卒業したら離ればなれになるという現実を前に、色々心境の変化があったのだろうか。
気になる。しかしそれを訊ねるのは野暮だ。
あの事故をきっかけに揺らいだ関係も、一年ちょっとの時間を経てようやく落ち着くべき場所に落ち着き始めた、そういうことなのかもしれない。
荷造りを終えるとさくらさんは慌てて飛び出していった。なんでも奈雪姉さんが予定の時間より、かなり早く到着してしまったらしい。ちなみに引っ越しの業者が到着するのもお昼過ぎらしいので、「なんでこんなに早く来るのよ」と、奈雪姉さんからの電話を終えたさくらさんは毒づいていた。
「気をつけてね」とさくらさんを送り出す怜の横顔はまるで恋人の出立を見送るように切なげで、俺は少々嫉妬してしまった。とはいえ本当に寂しそうにしている彼女の姿を見ていると自分の中にある種の使命感がこみ上げてきて、それに押し流されるまま彼女を後ろから抱きしめた。
「どうしたの?」と彼女は柔らかい声で言った。
「やきもち」俺は答えた。
「さくらに?」怜は微笑みの混じった驚きを、風にそよぐヴェールのような声に乗せて、囁いた。
俺は無言で彼女の首筋に吸い着いた。
彼女は肩をきゅっと上げてくすぐったそうに、「もう」と言った。
俺が唇を離したのを見計らったように彼女は、「そうちゃん。正面に来て?」と甘えた声を出した。その声は魔法だ。俺は言われるままに彼女の正面に回る。「えい」と可愛らしいかけ声とともに彼女は前から抱きついて来て、そのまま俺の首元に吸い着いて歯を立てた。吸い上げられる皮膚が突っ張る感覚と、鋭い痛み。そしてその痛みを擽る柔らかいけれどちょっと固い感触。むふむふと荒い鼻息が愛おしくて、彼女の細いからだを目一杯抱きしめた。そして着物の襟に手をかけそうになったところで、怜が唇を離した。
「だーめ」と窘めるように彼女は人差し指で鼻っ柱に軽く触れた。
「いてっ」
「これから病院でしょ?」
にっこりと微笑む彼女を見て、俺は我に返った。
「危なかった」
危うく劣情に流されるところだった。やっぱり今日は何か変だ。悶々とした物が腹の底でぐるぐる暴れ回っている。深呼吸をくりかえして気持ちを落ち着ける。
「なにも用事がないなら、別に良かったんだけどね」そう言って怜は目を細め、唇を薄くのばすように微笑んだ。艶やかな女の微笑。おあずけを強いられた身には少々堪える。判ってやっているんだろうなあ、怜のことだし。なんて考えながら彼女をもう一度強く抱きしめた。
「抱きしめるだけなら問題ないだろ」俺は言った。
「遅くなるよ?」
「……ダメかな」
「ダメでしょ」
「ダメ?」
「じゃあ、ちょっと腕の力弱めて」と怜が言うのでその通りにする。彼女は俺の腕の中でくるりと体を半回転させた。再び後ろから抱きつく格好になった。
「このまま移動するしかないね」彼女は楽しそうに言った。「あ、腕はおなかの辺りにしてくれると助かるな」
「うん」と俺は頷いて、手を滑らせておなかの位置に移動させる。
「いまどさくさ紛れに胸さわったでしょ」
「触って、ますん」
「どっちよ」と怜はくすくす笑う。「そういうのは、明日ね。今日は忙しいから」
「明日」
「どうしたの。今日は。いつもは私から誘わないとあんまり乗り気になってくれないくせに」
「なんというか、あれかな。生存本能的な」
「昨日のあれ、そんなに怖かったの?」
「どうだろう」意識すると鼻っ柱の熱が強くなってくる。「けど、危機感はあったかな。逃げ場のない状態だったし」
「中里さん家の優衣ちゃんだよね。親の方はともかく、あの子があんなことする子だったなんて」
「俺もびっくりだよ」
「うん。よし。まずは病院。向こうに文句付けるにしても診断書があった方が早いし」
怜はとても悪い顔をしていた。ほどほどに頼むぞ、とその横顔に俺は心の中で願った。
3
昨日の今日で予約が取れなかったのでのんびりと順番待ちをすることになった。土曜日の午前中だからか病院の待合いの椅子はほとんど埋まっていた。親子連れが多いのは季節のせいだろうか。泣き声や甲高い話し声が方々から上がっていて賑やかだ。なんとか二人分、座れる場所を確保出来たので俺たちはそこに並んで腰を下ろした。
「何番?」
俺は受付で発行してもらった番号札を見た。
「535」
俺がそう答えると、怜はじぃっと正面の壁の、天井付近に取り付けられたモニターを睨んだ。順番待ちの番号が表示されているのだが、そのなかに俺の番号はまだ表示すらされていなかった。
「お昼くらいになっちゃうかもね」怜が幾分がっかりしたように溜息を吐いた。
「だな」俺も少々がっかりしていた。「今日はどういうプラン考えてたの?」
「適当にぶらぶらしてからお昼食べて、お墓参り」
「お墓参りか。そういえば最近行ってなかったもんな」
「もうすぐ高校卒業だから、その報告もしたいし」
「俺も春から高校生だし。まあその、なんだ。ちゃんと義理の両親に決意を改めて、向き合わないとな」
「早く結婚の報告をしてあげたいよ」
「三年後、にな」
俺はそう言って怜の手を握った。ひんやりとしていて、すべすべで。けれどペンタコの所だけが固い。
「うん」と頷いて握り返してくる。そしてこちらにもたれ掛かってくる。頭を肩の上に載せて、「ふふ」とうれしそうに微笑んだ。
「どうしたの」俺は言った。
「こうしてると私たち、どんな風に見えるのかなって思って」
「ちなみに理想は?」
「産婦人科の順番待ちをしてる新婚夫婦」
怜の方はともかく、俺がまだまだガキすぎるのでそれはないだろうな。
「そうなるといいな」俺は溜息混じりに応えた。「実際には、弟に付きそう姉、くらいにしか見えないだろうけどね」
「そうちゃんってさ。私のこと、お姉ちゃんって思ったことあるの?」
「あんまりない」
「はっきり言い切らないでよ」と怜は苦笑を浮かべた。
「怜もさ、ぶっちゃけ俺のこと弟だって思ってたことなんてあるの?」
「ありま、すん」
「どっちだよ」
「だって、そうちゃんは私の弟的な存在で、でも小さい頃から好きだったんだもん」
わたわたと両手を忙しそうに動かしながら彼女は言い訳がましいことを言う。何をそんなに焦っているんだか。見ていると面白いのでついついからかいたくなる。
「俺は結構本気で弟になろうとしてたんだけどな」
う、と怜が言葉に詰まる。彼女はブーツのつま先で床をもじもじと突っつきながら、「まあ私もなるべくお姉ちゃんらしく、とは思ってたよ。一応」
「まあ、そうだな……」
お互いなんとなく気まずくなって俯いてしまう。
あの不毛なやせ我慢の期間を思い出してしまったからだ。
「でもさ、結構きわどいこと、やってたよな」
「まあほら、思春期の欲望が限界に達するのを待ってたって言うか」
「さっきも言ったけど俺結構本気だったんだぞ」
「私もさっき言ったけど、なるべく、そうしようと思ってたから。一応」
「つまり、あんまりその気がなかった?」
目をそらし、彼女は頷いた。
「つまりは俺の一人相撲だったんだなあ。あの頃の切なさってなんだったんだ」
「切なかったのは私だって一緒だもん。まさかそうちゃんがあんなに我慢強いなんて思わなかったんだもん」
まるで俺が悪いみたいな言い草である。
「一応三島の名前を名乗ってお姉ちゃん、ってことになってたけど、養子にも入ってなかったたし、問題なかったでしょ?」
「それがさ。俺からしたら家族になりきれてないから、みたいな感じに見えてたんだよ。だから頑張って弟やってたんだよ」
過ぎ去ったやるせなさが、満ち潮のように足元から這い上がってきて、それを振り払うように足を二回ほどばたばたさせた。
「知っての通り、養子縁組みはちょっと待ってほしいって私から頼んでたの」不意に彼女が言った。
俺は黙って頷いた。
「そうちゃんのことが好きだから。だからほら、恋人同士になって将来結婚って時に養子になってると色々面倒でしょ?」そう言ってから彼女は大きな溜息を吐いた。「いまさらだけど、ごめんね」
「いいよ。いまさら」
自分の努力が否定されたようなものやっぱりそれは納得できないし、憤りのようなものはある。薄々感付いていたけれど、実際に口に出されると堪える。でも、そういうこともちゃんと話せるようになったことはある一面ではとても喜ばしいことだから。とにかく割り切れない感情が胸の中で鉄くずを磁石で引き寄せたみたいになっていた。
「なんていうか、弟とそういう感情を抱きあっているっていうシチュエーションに背徳感を覚えて、それで一人で盛り上がってる部分もあったから。そうよ。そしたら急にさくらがやってきて横からかっさらって行くんだもん。二人が付き合いだしたって知った時、ほんと、魂抜けるかと思ったんだから」
「でも応援はしてくれてたよな」
「そりゃあね。そうちゃんのことも、さくらさのことも大事だから。間怠っこしいことやって、すぐに行動に移さなかった罰だ、って割り切ってたし。まあでも、なんやかんやあって、いまはこうなったんだけど。やっぱり、ここが私にとっての一番の居場所なんだなって、一度失って、永遠に失いそうになって、ようやく気がついたんだ」
「そんなに良い場所か?」俺は肩をすくめた。鉄くずの塊も見ようによっては宝の山。色々ため込んだ割り切れない気持ちがあるからこそ、いまの俺たちがあるのだ。
「どうしてか俺は、流されやすいというか。怜のことが一番好きだし、愛してる。でも他の子に目移りすることもある。きっと、これからも苦労をかけたり泣かせたりするかもしれない」
「それでも、だよ」と怜は優しい声で言った。「ここが私の場所。最高の場所。だって、どんなに寄り道したって、最後はちゃんと帰って来てくれるんだもん」
「プレッシャーかけてくるなぁ」俺は苦笑した。
「浮気性なのが悪い。けど、そうちゃんが幸せなら、私はそれでもいいよ。まあ時々嫉妬でおかしくなることはあるけれど」
「時々?」俺は首筋の傷跡に貼った絆創膏に触れた。
「ん?」
にっこりと微笑む怜。目尻を下げて細めたまぶたの奥に鋭い光を見いだして、俺は「なんでもありません」と目をそらした。
「春休み中だけでも家から出られないようにしちゃおうかな」
「あの、怜さん?」
「実は鍵とか色々買ってあるんだよね」
冗談めかして言っているが、以前それっぽい物を彼女の部屋でみかけたことがあったので、急に鳩尾の辺りが苦しくなってきた。
「目が怖いんですけど」
「うふふ」と笑って彼女は、首筋の絆創膏を剥がした。「そういえば、また、だね」
「ははは」
早鐘を打つ心臓と、鳩尾の奥からこみ上げてくる痛みのリズムがユニゾンして、脂汗が浮かんでくる。あとで胃も見てもらった方が良いかもしれない。そんなことを考えつつ、自分の順番が回ってくるまでの1地時間ちょっとを、臍を曲げた彼女のご機嫌取りに費やしたのであった。
4
脳に異常はなく、打撲と口の中に切り傷だけ。とりあえず鼻の骨は大丈夫だったので一安心。とはいえ、脳震盪等の影響は後々になってから出てくることもある。俺の場合事故で負ったダメージの事もあるので、とにかく気をつけて生活するようにと説教を喰らってしまった。
結果を怜に伝えると、彼女は心底ほっとしたという表情で溜息を吐いた。
それから俺に抱きついて、「良かった。何もなくて」と零した。
病院の、それも診察室を出てすぐの所である。衆人の目を引くのは必定。しかし照れても仕方ないので俺は怜を抱きしめた。それから「ごめん」と呟いた。
会計を済ませて、病院の外に出た。
「さっき待ってる間に薬局の方を覗いてきたんだけど、結構混んでたよ」と怜が言った。
「あっちでも順番待ちか」想像しただけで疲れてくる。
「パン屋さん、私が一人で行ってこようか?」
「いいの?」
「いつものスコーンだよね?」
「二袋お願い」
「うん」
病院を出たところで俺たちは反対方向に歩き出した。
処方箋を出してくれる薬局までは徒歩五分。病院の前の道路を渡った先だ。
歩道橋の階段をゆっくり上がっていく。
空は晴れ渡っていた。日差しに暖かさを感じる。もうすぐ三月だ。日差しの中を舞うわずかな羽虫の群れが冬の終わりが近いことを知らせている。きっともう、雪は積もらないだろう。例年の晩冬より寂寥感は大きい。それはきっと、卒業が近いからだろう。進路も決まったし、あとは本当に、残された日々を過ごすだけなのだ。最後の積雪がいつだったかいまいち思い出せないように、こうして過ごした日々もそのうち記憶のフォーカスから外れてぼやけていくのだろうか。
いや、しかし。そう漫然と過ごせそうもないので、きっと忘れられない冬の終わりになりそうな気配はしている。というか既にそうなりつつある。怜と俺の間にあった蟠りとその解消。夏井と井上とのある種の三角関係。さくらさんのこと。去年の秋くらいからずっと、沢山の出来事がドミノ倒しのように押し寄せて、否応なしに対峙している。次は一体何が待つのか。全く以て短い前途には不安の種がたくさん転がっていた。
そんなことを考えていると、無意識に鼻をなでていた。
中里は、果たしてこのまま大人しくしているだろうか。一応井上にシメられたみたいだけど、そのことを逆恨みしてまたなにか騒動を起こさないとも限らない。なにより家が近所なので色々気が気でない。
不安はもう一つ。今日の午後、正確には夕方頃だが、夏井と井上から何か話があるらしい。昨年末から続いている喧嘩に、ようやく終止符がつく、ということになればいいのだが。不安というか嫌な予感というか。そこに何かしら俺の意志が介在して、初めてことが成りそうなそんな予感がするのだ。まあ任せろと夏井に言った手前、そうなったら逃げることなど出来ないだろうし、まあ面倒でも、逃げるつもりはない。結果はどうなるかは判らないが、そこに待つのは中学生活の、青春の、畢竟であり、つまりそれは罪の審判なのである。
それに今朝、新たな不安が生まれた。あの短すぎて何を伝えたいのか不明瞭なメールだ。歩道橋を登り切ったところで電話をかけてみたが、相変わらず呼び出し音が続くだけで電話に出なかった。メールと、SNSでも呼びかけてみたが返信はない。あいつが俺に返信をよこさないなんていままで殆どなかっただけに、州に積もる砂のように胸中の不安は止めどなくその存在感を増大し続けている。
俯いてぎゅっと目を閉じる。足元を行き交う車の騒音が、何故だか心地良い。勢いよく顔を上げて、目を見開く。そうして気持ちを切り替える。
いま考えてもどうしようもない。その時になればすべて判るのだ。
歩道橋を下りて、薬局へ向かう。
怜が言う通り中は薬局は混んでいた。
待合にあるモニタを見上げる。
受け取った整理番号は、随分と気の長い位置に表示されていた。
やれやれと思いながら無料の自販機でホットココアを選んで、その紙コップを手に、空いた椅子に座った。そしてのんびりと順番を待った。
5
薬局を出たすぐの所にあるベンチで怜は待っていた。彼女の膝の上にはパン屋さんの紙袋(それも一番大きなサイズ)が乗っかっていて、それを大事そうに両手で抱え込んでいた。
彼女はこちらに気がつくと立ち上がって、紙袋を抱えたまま危なっかしい足取りで駆け寄ってきた。
「またたくさん買ったな」俺は苦笑しながら彼女から紙袋を取り上げた。
「あ、私が持つよ」そう言って取り返そうと手を伸ばしてきたので体を捻ってそれをかわす。
「どんくさい奴にこんなの持たせられるか」俺は言った。「絶対転ぶぞ」
「失礼な。ここに来るまでに二回くらいつまずいたけどまだ転んでないから」と怜はぷんぷんほっぺたを膨らませる。
「転ぶ前提で開き直るなよ」
「階段を下りきったところで、もう一段あると思って踏み出したときは心臓止まるかと思った」地面が平らなんだもん、と神妙に彼女は語った。
「ていうか持ち手があるんだからそれ使えよ」
俺は袋の端で所在なさげに傾いていた持ち手に指を通した。
「そうやって持ってると、片手が空くでしょ?」
「ああ」
「つまりもう片手で袋の中からパンを取り出せます」
困ったことに、と言って彼女は腕組みをして、うーんと唸った。それからお腹がくるるるー、と鳴って、照れ隠しのようにニコッと笑った。
「で、お昼はどうする?」
気がつけばもうお昼前だ。
「この界隈に来たんだし、やっぱりあれ」と怜は目を輝かせる。
「ああ、中華」俺は言った。
怜は童心を漲らせたつぶらな瞳で頷いた。「大盛りチャーハン!」
「それはお店で店員さんに言おうな」
俺は怜の頭を撫でた。
彼女は「うへへー」と笑って、頭を撫でる俺の手を握って、ぐいーっと引っ張り降ろして腕に抱きついてきた。
食べ物のことを考えているときの怜はとても純粋で、幸せそうなので、見ているこちらも笑顔になってしまう。この瞬間にだけ、幼い頃のお転婆だった彼女の気質が蘇っているような気がして、だから少しだけ切なくもなる。
怜の行きつけの中華料理店に着くまでの間中、彼女は何を食べたいかとかこの前食べたあれは良かったとか、はしゃぎながら話してくれた。上品な薄紅で彩った唇が既に油で汚れているような錯覚を覚えるほど、食べ物の話題が次から次へと飛び出していた。
「よっぽどお腹すいたんだな」と俺が言うと、彼女は「そりゃそうだよ」と言ってパン屋さんの紙袋に視線を向けた。「今日はつまみ食いしてないんだもん」
「へえ、それはすごい」
まあスコーン意外は全部怜が自分のお金で買ったものなので、どうしようと彼女の勝手なので、すごいも何もないのだが。しかしとにかく自慢げなのでここは誉めておく。
「今日は中華って朝から決めてたから、余計な物をお腹に入れておきたくなかったんだ」
「なるほど」
多少食ったところで大盛りチャーハンが入らなくなるようなチャチな胃袋ではないのだから、そんなこと気にしなくても。などと思ったがきっとこれは胃袋の容量の話ではなく、心構えのことを言っているのだろう。食べることにとても真摯に向き合う彼女のこだわりである。
昼営業が始まったばかりの店内に人影ははまばらで、案内にやってきた店員さんが「お好きな席へどうぞ」と言うので、俺たちはぐるりと店内を見回してから窓際のテーブル席に向かい合って陣取った。
「ちょうど良いタイミングだったね」と怜はにこにこしながら言った。
「だな」俺は頷いた。
ここらでは結構な人気店なので、恐らくあと一〇分くらい遅かったら順番待ちになっていただろう。なんてことを考えている間に次々と来客を知らせるベルと店員の「いらっしゃいませ」という元気な声が響く。まさしく間一髪。してやったり、という気分でそれを聞きながらメニューの冊子に目を通す。
「怜はどうするの?」
「大食いチャレンジやってから、大盛りチャーハンかな」彼女はこちらを見ず、真剣な眼差しでメニュー表を睨んでいた。
「この前殿堂入りしたんじゃなかったっけ?」
俺は壁に掛けてある歴代のチャレンジ成功者の写真に視線を巡らせた。複数回成功した者の写真にはその回数も一緒に記載されていて、その中でひときわ輝くのが着物姿の美少女が空になった皿を笑顔で見せつけている写真である。立派な額縁で飾られたそれには殿堂入りの文字が刻まれていた。
「うん。だから賞金はなし。でも無料にはなるって大将が言ってたから」
冊子の中の大食いチャレンジのページには成功すると金一封と書かれれている。実際成功すると最大で三千円が贈呈される。なので怜は小遣い稼ぎと空腹を満たす為に、よくここに来ていた。流石に店の方もこれ以上やられたらたまったものじゃない、と思ったのか殿堂入りという名で怜を除外したのである。だが、チャレンジ分が無料になるという特典だけは残ったらしい。怜がわがままを言ったのかもしれない。もしそうなら少し申し訳ない。
テーブルに置かれているボタンを押して、店員さんを呼ぶ。さっき案内してくれたのとは別の女性店員が厨房からやってきて、怜の顔を見るなり、営業スマイルをひきつらせた。
「大食いチャレンジ。チャーハン、ラーメン、水餃子の三点セットで。その後に大盛りチャーハンを」とんでもない内容の注文をすらすらと告げる怜。店員さんは目を白黒させながら注文を伝票に書き付けていく。
「あの、」怜の後では少々気が引けてしまって、俺は思わず小声になっていた。「天津飯セットを」
「天津飯セットですね」
俺の注文を聞いた店員はなぜかほっとした表情を浮かべていた。
「腑に落ちない」
厨房に引き上げていく店員さんの後ろ姿に向かって、怜がぼそっと呟いた。
「無意識になにかやらかしたんじゃないのか?」
「なんで私が悪い前提なの?」
怜がむすっとした表情になる。
「向こうがなんかしたんならああいうリアクションにはならないだろ」
「そっかー。あれかな。殿堂入りが云々って時に文句言ったのが原因かな」そう言って怜はお冷やを一口飲む。「もう大食いメニューは出せませんなんていうんだもん。私は正規の値段払うからって言ったんだけど。なんか向こうが早合点して色々言ってくるから頭に来て、つい」
「なるほど。多少向こうも悪い」
「でしょ?」
「それで最終的に成功したら無料ってことになった訳だ」
「そゆこと」そう言って怜は肩をすくめた。
件の大食いメニューであるが、流石に量が量だけに準備に時間がかかるらしく、俺の天津飯セットの方が先に出てきた。中華は熱いうちが華である。怜を待たずに先に食べ始める。セットの内容は、スープに唐揚げ、サラダ、そして天津飯と言うシンプルな構成だ。溶き卵を泳がせて固めたとろみのついた鶏ガラスープはあっさりとしていて、それでいて絶妙な塩気とゴマ油が、香辛料の香りと相まって、食欲を刺激する。すぐにでもメインの天津飯を、と行きたいところだが、あえて遠回りをする。手のひらほどのレタスの上に千切りキャベツが盛られ、くし切りのトマトが二切れ添えられたサラダに箸を伸ばす。甘酸っぱくてゴマの風味が濃厚な自家製ドレッシングがかかっていて、これが美味い。付け合わせと侮るなかれ。ドレッシングの単品販売を行っているくらいにここのサラダのドレッシングは美味いのだ。そして合間に唐揚げをかじる。一口大というには少々大きい唐揚げが三つごろごろと転がっていて、それを皿の隅に盛られた塩胡椒に、ちょんちょん、とつけながら食べる。下味は、塩か、あるいは中華スープの素でも使っているのか、醤油やニンニクで下味をつけた物と比べるとずいぶんとあっさりした味付けだが、その分、かみしめる度に胸肉のうまみが感じられてこれはこれで良い。
サラダを片づけ、唐揚げを少し残した状態で、箸をレンゲに持ち替える。底の深いお皿に、ふっくらとした卵に包まれた丘陵が聳え、その上から琥珀色のあんがたっぷりと、皿の縁から溢れんばかりにかけられている。
「うぅ」
怜が恨めしそうにこちらを見つめていた。
「あげないからな」
「ケチ」
そう言うと怜はふてくされたように突っ伏してしまった。
やれやれと思いながら、レンゲを丘陵に突き立て、掻き崩す。卵の一片と、あんと混ざり合ったご飯をレンゲですくい上げて、そのままレンゲをくわえ込む。
あんのとろみを一身に纏ったご飯ののどごし。鼻に抜けるほのかな八角の香りと、出汁を構成する魚介の風味。卵に混じったキクラゲのコリコリした食感。それらをまとめて噛みしめている。まさに至福の時である。なんて大げさなことを考えつつ本能に身を任せるままレンゲを止めない。
怜の料理も運ばれてきた。巨大な器が三つ、それだけでほとんどテーブルの残りのスペースを占拠してしまう。料理はとにかく豪快である。巨大な丼鉢に、拳大の水餃子が五つごろごろと浮かんでいる。ラーメン鉢も巨大で、豚の餌、などと揶揄されることがあるような類のラーメンの如く、野菜や肉が盛りに盛られて聳えている。そしてチャーハンも、底の深い大皿を均して、その上に底の深さと同等の高さの丘を盛り上げた冗談みたいな量が詰め込まれていた。見ているだけでお腹一杯になりそうだ。
殺人的なメガ盛り。それを前にして怜は童心に返った目をしていた。そしてまず、ラーメンに箸をつけた。野菜と肉を一緒に掴んで口の中に放り込み、その合間に、器用に麺を掘り出してずるずる啜る。一切の所作に無駄はなく、そして丁寧だ。汁が全くテーブルに跳ねていない。俺が天津飯を食べ終える頃にはすっかりラーメンはスープだけになってしまっていた。
「それ、飲むの?」俺は訊いた。
「飲まなくてもオッケーなんだけど」
「じゃあ、ダメ」
「えー」
「流石に健康に悪い」
「健康も何もないって」あはは、と笑いながら、こちらの心配を余所にどんぶりを持ち上げる。まるで水でも飲むみたいにごくごくスープを飲み干してしまった。
「しまった。ちょっと残してチャーハンの味を変えるのに使えば良かった」
飲み干したどんぶりを置いて、そんなよく判らない後悔を口にした。
「またやっちゃった」
遠巻きにこちらを見ているギャラリーの大半が、またか、みたいな顔をしている辺り、いつものことらしい。学習しろよ。
しかし彼女はすぐに気を取り直して、水餃子と対峙した。流石に一口では食えないので、箸で丁寧に切り分け、器用にレンゲも駆使してするすると食べて行く。餃子のタレにつけてみたり、黒酢をかけたり、ラー油を足したり。ちょっとずつ味を変化させながら巨大餃子を堪能していく。
美女が冗談みたいな大食いメニューを食べている。そのギャップがやはり人目を引くのか、気がつくと俺たちの席の周囲にギャラリーが集まっていた。先ほど遠巻きに見ていた連中はやれやれ、という顔をしながら自分の食事を楽しんでいる。集まっているのは常連ではないか、あるいは怜を見るのが初めての人たちなのだろう。俺はなんとなく居心地が悪くて、レンゲで皿の底に残ったあんをかき集めたりしながらやりすごした。
チャーハンの最後の一口を食べきったと同時に歓声が上がった。遠巻きの常連客たちは、流石だな、とでも言いたげなどこか達観した目をしていた。
「新記録ですね」と大盛りチャーハンを運んできた背の高い、少し太った男が言った。彼はここの店主である。「流石大食い女王ですね」
彼の讃える言葉に対して、「今日は朝から、朝ご飯しか食べて来ませんでしたので」と怜は上品に普通のことを言って店主を困惑させていた。
「しっかし、そんだけ食べて一体どこに行ってるんだろうな」
後から来た大盛りチャーハンを幸せそうに味わって食べる怜を見ていると、そんな疑問がふと口をついてでた。
「ほんとにね」と怜は溜息をついた。「もうちょっと胸についてくれて良いと思うんだけど」
「最近ちょっとお尻大きくなったような気はするけどね」
「ねえ、そうちゃん」と怜はにっこりと微笑んだ。「明日の話、やっぱりなし」
「えー。でも俺は好きだけどな」
「お尻はおっぱいじゃないよ?」
「それはそれ、これはこれ」
「なるほど。じゃあつまりそうちゃんは私の尻に敷かれたいってことなんだね」
「まあ悪くはないかな」
「……ちなみにどっちの意味で?」
「どっちも」
俺は怜に首を絞められる夢を思い出していた。なんだかんだそういう願望はあるんだと思う。
「やっぱり今日のそうちゃんちょっと変だよ」心配そうに怜は言った。
「理性がちょっと壊れてるかもな」と俺は冗談めかして言う。「今日は本能が強い日みたいだ」
「そうちゃんの病院さえなければ、お昼までおうちでデートでも良かったんだけどね」ちょっと赤くなりながら怜は言う。
「明日は一日ずっと一緒にいような」
「うん」
さっきの言葉はどこへ行ったのやら。怜はうれしそうに口元を緩めて頷いた。
6
中華料理店を後にした俺たちは花屋に行って、適当な花を見繕って貰い、それからタクシーで町のはずれにあるお寺に向かった。そこに隣接している霊園に、彼女の両親の墓がある。
途中まで昼食の感想やら明日はどうやって過ごそうかなんてことを賑やかに話していた怜だったが、目的地に近づくにつれて口数が減っていき、タクシーから降りる頃にはすっかり無口になっていた。何か思うところがあるのか、お墓参りで彼女がこんな風になるなんて久しぶりだ。そう思うと途中までの賑やかさも、胸の内にある何かを誤魔化すためだったのかもしれない、とそんな考えが浮かんでくるほど、彼女の横顔は暗く沈んでいた。
入り口のところでバケツと柄杓と箒を借りて、霊園の砂利道を歩く。
今日は俺たち以外に人の姿はない。しんと静まりかえった霊園にはひんやりとした空気が澄み渡っていて、どこかで小鳥が鳴いていて、俺たちが砂利を踏む音が響いて、日常から切り離された空間独特の、余所余所しくも気が抜けない雰囲気が満ち満ちていた。
彼女の両親の墓は霊園の北の端の区画にあった。周囲の古い墓と比べればまだ輝きを失わない墓石の隣に、ほんのりと色褪せ始めた卒塔婆が立っている。
怜は黙ったまま、花立てから枯れた茎を引き抜いた。
まず俺たちはお墓の掃除をした。バケツに汲んだ水を柄杓で墓石にかけて、持参したスポンジで丁寧に汚れを落としていく。それから周囲を掃き清めて、雑草を抜いた。ゴミ袋にゴミを纏め、それからお線香を取り替え、新しい花を挿した。それから怜はパン屋さんの紙袋の中からメロンパンを取りだして、それをお供え物とした。彼女の両親は二人とも、メロンパンが好きだったのだ。
「もうすぐ卒業式だよ」墓石に語りかける彼女の目はとても穏やかだった。「私ね、お母さんが学生時代に着たっていう袴で出るつもりなんだ。衣装箪笥に大事にしまってたでしょ? ずっと前から高校の卒業式で着るんだって思って、ちゃんとお手入れとかしてたんだから。この前試しに着てみたらぴったりで、それから、なんだろう。ちょっとお母さんに似てきたかなって、自分で思っちゃった」
えへへ、と彼女は照れくさそうに笑って、それから一度俯いた。きゅっと目をつむった横顔は何かを堪えているようにも、祈りを捧げているようにも見えた。
「それからね」と俯いたまま彼女は続けた。「お父さんのメガネを掛けていこうかなって思うの。最初は、大事にしてた懐中時計でいいかな、って思ったんだけど。でも、お父さんっていっつも控えめっていうか、後ろの方で、遠くから見守ってくれてたでしょ? 別にそれが悪いって訳じゃないんだけど。でも、せっかくの晴れ舞台なんだからもっと目立つ所にいて欲しくて。だからメガネ。それにね、最近ちょっと無理しすぎたせいかな。お父さんのメガネ掛けてみたらぜんぜん違和感なかったの。昔は視界がぐにゃーってなって変な感じだったのに。ふざけてお父さんのメガネを掛けた私に、まだ早いって言って、お母さんに怒られてたよね。ぴったり合うようになっちゃったよ。ねえ、お父さん、お母さん。私、もう高校卒業しちゃうんだよ。早いね。……早いよ。早すぎるよ。そのうちきっと、お父さんとお母さんよりも歳を取っちゃうだって考えたら、怖い? ううん。違う。なんだろう。でも胸がきゅって、なって、ああ、もう居ないんだなって。実感しちゃって」
言葉を詰まらせた彼女は、祈るような格好のまま、さめざめと涙を流した。俺はそばに寄り添い、その涙が降り止むのを待った。
昼下がり、日差しは穏やかで、凪いだ空気は寒冷な中に春を予感させる陽気を一抹、孕んでいた。そんななかに響く彼女のすすり泣きは、日陰のひんやりとした空気のように、春の真なる遠さに思いを馳せさせた。
彼女の悲しみは、けれど彼女だけのものじゃない。
昔日の思い出が引き起こす胸の痛みは俺だけのものではない。
二人で分かち合うべき、財産だ。
だから俺たちは肩を寄せ合って、二人で気が済むまで泣いた。
悲しみは果たして有限なのだろうか。無限なのだろうか。もし限りがあるとしたらそれはいったいどこで、あるいはいつ訪れるのだろう。俺のなかにある悲しみなんて高が知れている。彼女の両親のことは悲しい。でも俺の両親は健在で、おまけに怜もいる。
彼女はどうだろう。これから人生の節目節目で、祝ってくれるはずだった両親がいないことを思い知らされて、そのたびに打ちひしがれなければならないのだろうか。そんなことがあってたまるものか。俺は怜を抱きしめた。
「心配にさせてばっかりで、不安にさせてばっかりで、ごめん」
気がつくと俺はそんな風に謝っていた。言ってから、俄に自己嫌悪が襲ってきた。もっと彼女を大事に、もっと包み込んでやらなきゃならないはずなのに。けれど、いつも俺は彼女に甘えている。判っているのだ。さくらさんとの関係も、夏井や井上のことも。このままではダメだということは。なのに、抜け出せない。この沼は、なんだか程良くほの暖かいのだ。
「そうちゃんは悪くないよ」
怜は微笑んでいた。
「私がもっとしっかりしなくちゃいけないことだから」そう言って彼女は俺の鼻を、上から下に人差し指で撫でた。そして鼻先から、すっと指を離した。その指を顔の前で立てたまま、「これを見て」と彼女は言った。「指の先の、爪の先っぽをじぃっと見てみて」
真剣な顔で言うものだから、どうしてそんなことを? と思っても口に出せずに、俺は彼女が言うとおりにした。
一体何を考えているのだろうか。そう思っていると不意に指が視界から消えた。目の焦点が、一瞬目標を失って、ぼやけた。同時に何かが迫ってくるのが見えて、気がつくと怜に唇をふさがれていた。
軽くふれあった唇を離すと彼女は「隙あり」と人差し指で俺の顔を指した。
「なんだよいきなり」
「私に申し訳ないっていう気持ちがあるなら、そういう無防備なところはもうちょっと見直した方がいいと思うよ」と言って怜は立ち上がった。「そうちゃんは隙だらけだから、いっぱいつけ込まれるんだよ」
「その点に関しては、まあ反論するつもりはないけどさ。けど別に怜と一緒に居るときは油断しててもいいじゃんか」
しゃがんだまま、怜の顔を見上げる。
彼女はつんと澄ました表情で、黙っていた。
「どうしたの」俺は立ち上がって言った。
「ここって、お墓だったね」
「判っててやったんじゃないのかよ」
「半分理性とんでました。むしろ舌を入れなかったことを誉めて欲しいなっ」
開き直ったドヤ顔に俺は呆れつつ、「バカなこと言ってないで片づけるぞ」
はーいと彼女は返事をして、空になったバケツを手に取った。
先を歩くその背中には、強がりから来る堅さが感じられた。彼女はいまどんな顔をして前見ているのだろうか。確かめに行けば良いのに、後ろから抱きしめてやればいいのに、それがいまは出来なかった。きっとゴミ袋とパン屋さんの紙袋を両手に持っているから。だから出来なかったんだと思う。
つまらない言い訳を頭の中で堂々巡りさせているうちに、いつの間にか外に出ていた。
帰りは少し歩いた。
霊園は高台にあるので、しばらく下り坂が続いた。右手には鬱蒼と木々の繁茂した斜面が迫り、左手のガードレールの向こうには住宅街の町並みが一望できた。坂道はゆったりとした傾斜を保ちながら二度折り返して、平らな地面に続いていた。
坂を下りてすぐの所にバス停がある。俺たちはそこでバスを待った。
そういえば夏井から何か返信はあっただろうか。ポケットからスマホを取り出して確認してみたが相変わらずである。既読にはなっていたが返信はない。
「心配?」とこちらの顔を覗き込みながら怜が言った。
「まあな。昨日の今日だし」
「ちゃんと来るかなあ。私もちょっと心配だ」そう言って怜は背もたれにどっかりともたれて足をぱたぱたと上下に動かしてから、不意にぴたりと止めて、「もし来なかったら探さなきゃね」
「探す?」
怜は頷いた。妙に確信めいた表情で、「その時はちゃんと見つけてあげてね。私の時みたいに」
「縁起でもない。それにどういう風の吹き回し?」
「何だかんだ言って」と怜は立ち上がり、こちらに背を向けた。長い髪が風に吹かれて、さらさらと流れた。「あの子の事は嫌いじゃないから」
好きでもないけどね、と言って彼女は振り返った。
彼女は困った様に眉を下げて、笑みを浮かべていた。
俺は何か言おうと思って立ち上がった。けれど何と言うべきか、思いつかないうちに彼女の肩越しに、バスが近づいてくるのが見えた。
続く
お久しぶりです。先月はなんか色々リアルがバタバタしていて更新できませんでした。申し訳ありません。なので今月は最低でももう一回更新します。




