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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第五章
48/55

Heading for spring Ⅹ『Tyrant』

前話に引き続き、少し毛色の違う作風でお送りしております。


         1


 倦怠感と眠気。それに頭痛と腰痛。昼休みが終わった辺りからそれらがまるで潮が満ちるように押し寄せてきて、気がつけば灰色の曇天から、霧のような雨が降り注ぎ、窓の外を白く霞ませていた。

 昼休みの一件から急に夏井は大人しくなり、結局放課後まで新たな行動は起こさなかった。彼女はずっと物思いに耽っている様子で、話しかけても返事は上の空だった。ひどく自己嫌悪に苛まれていて、そのことでとても気落ちしている。彼女の横顔からはそのようなことが見て取れた。このまま犯人探しは立ち消えになるのだろうか。それならそれで俺はかまわないと思っていた。これ以上の追求が彼女の自己嫌悪を呼び起こすのであれば、いっそやめてしまった方が精神衛生上良いのではなかろうか。長田や大石たちは夏井の変化を察してか、放課後に至るまで話しかけてこなかった。彼女たちが夏井の葛藤を知っているとは思えないので、単純に、下手に刺激を与えて、せっかく沈静化しかかっているところを蒸し返すなんてことになったら面倒だから避けているのだろう。障らぬ神に祟りなし、だ。

 俺としても天候の悪化に引きずられて体調が崩れてきているので、面倒ごとに付き合わされないのであれば、それはとても助かることだった。だから小林のところへ行くのか? なんて口にするつもりは毛頭なかった。

「ねえ宗平」しばらくぶりに彼女が口を開いた。「奈々子のお見舞いに行ってくる」

「そっか」俺は言った。「俺も一緒に、」

「ごめん。奈々子と、二人で話したいことがあるから」夏井の横顔は真剣だった。覚悟を秘めたまなざしを、机の上で組んだ手の上に落としている。その手にぎゅっと力を入れて、「もしかしたら、いままで通りの友達同士でいられなくなるかもしれない。けど、ちゃんと言いたいことは言うべきなんだと思う」

 俺は黙って頷いた。そして彼女の頭に手を乗せた。「結果がどうあっても、俺は俺だからな」

 夏井は困ったようにはにかんで、「またそう言うこと言う」

「でもなんで急に?」

「いろいろ嫌になったから」

「なるほど」

 俺は彼女の頭をわしわし撫でた。

「やー、もう。なんでそういうことするの」ぐしゃぐしゃになった髪を手で直しながら彼女は、「真剣に話してるのに」

「判ってるよ」俺は言った。「まあその、頑張れ」

「そりゃがんばるけど」と夏井は不満そうに言った。「ていうか宗平のせいなんだからね」

「言っとくけど、俺はおまえらのこと、間違いなく一回フってるからな」

「う、それはそうだけど」

「まあお前が腹括るっていうなら、俺もちょっと考えてみる」

「というと?」

「結局俺のジャッジが必要なんだろ? いまの状況だと」

「そうだけど」と夏井は眉を下げ不安を露わにして、「でもできれば、そうならないようにしたいから」

「駄目だった場合だよ」俺は言った。「そのときはきっちり引導渡してやる」

「なんでちょっと上から目線なわけ?」

「決定権は俺にあるんだろ?」

 夏井の不服そうな視線を、俺はあえて尊大な態度で迎え撃った。やがて夏井はため息をついて「まあ、私らの喧嘩に巻き込んだのは事実だもんね」と言ってから俺の手を握って、「でも前にも言ったけど宗平一人が悪者になって終わるような方法だけは絶対やっちゃ駄目だからね。もしそんなことしたら一生恨むよ。恨んで、死ぬまで付き纏うから」

「判ってるよ」

「じゃ、やくそく」

 そう言って彼女は右手の小指をこちらに向けた。

「それは?」俺は照れてしまって、そんなことを言って茶化してしまった。

「ゆびきり」むすっとした顔で彼女は言った。

 ここは素直でなくてはいけない場面だ。そう思い直して、俺は彼女の小指に自分の小指を絡めた。

 そして、ゆーびきーりげんまん、と声を合わせて歌い、小指を離した。

 夏井はゆびきりをしたあとの小指をじっと見つめながら、「そういえば、これ小学校に上がる前以来かも」そう言うと大事そうにその小指を左手で包み込んだ。「気づいて欲しいって思うだけじゃなくて、もっと早く、自分から言ってたら、違ってたのかな」

「すぎたことを考えてもしかたないよ」俺は言った。「あのときこうしてたら、なんていちいち考えてたらキリがないじゃないかな」

「宗平もやっぱりそういうのあるの?」

「まあいろいろと」

「相川先生のこととか?」夏井は首を傾げた。

「お前のこともな」俺は彼女の方を見ずに言った。

「え?」

「ほら、周り見てみろ、もう俺たちだけしか残ってないぞ」

「ねえ、さっきのどういう意味?」彼女はそう食い下がった。

「もっとうまくやれたんじゃないかって意味だよ」俺は席を立ち、鞄を肩に掛けた。「ほら行くぞ」

「ほんとは私のこと最初に好きにならなかったの後悔してたり?」

「それはない」

「即答しないでよ。傷つくじゃん」

「さっさと彼氏作ればいいんじゃねえの。お前ならすぐに出来るだろ」

「うーん。まあそうなんだけど」と言って夏井は立ち上がり、スクールバッグをリュックみたいに背負った。「でもやっぱり未練ってなかなか断ち切れないっていうか。ぶっちゃけ多少脈がある状態で諦めるのってなんか嫌だし。だから私は私が満足するまで宗平に好きって言い続けるよ。もしかしたら、ってこともあり得ないわけでもないし」

「堂々と言いやがったな」

「隙をちらつかせてる宗平が悪い」夏井はそう言っていたずらっぽく笑った。「そうだなあ。私も愛人になろうかなあ」

「さくらさんだけで十分です」

「相川先生マジっぽいよね。花音ちゃんのグループでやりとりしてるときに知ったけど」

「本気だと思う」俺は苦笑した。「なんていうかあの人は、俺だけじゃなくて、怜のことも大好きだから」

「なるほどぉ。それで愛人になって宗平たちの側にずっと居たい、と」

「あるいは」俺はそう言い掛けて、ふと思い直して「いや、なんだろうな」と曖昧に笑って誤魔化した。

 あるいは、さくらさんは、俺たちのこと呪い続けたいのかもしれない。そんなことを考えてしまった。彼女が自らの手首に刻んだ呪詛、そこから放たれる怨念で、俺たちを縛り付けて、友好的に復讐を果たす。彼女が俺たちの裏切りを許していないことは判っているのだ。その可能性だってないわけではない。ただ不意に、そんなことを考えてしまった自分が少し怖かった。まるでそうであることを望んでいるような気がしたからだ。

「宗平?」と夏井が学ランの袖を引っ張った。

「どうした?」俺は言った。

「それはこっちのセリフ。考え事してたみたいだけど?」

「気にするな」

「そう言う言い方されると気になるじゃん」

「いまは俺のことはどうでもいいだろ」俺はそう言って肩をすくめた。「あんまり遅くなるとまた臍曲げて何かやらかすんじゃないか?」

「ああ、そっか。そうだね。奈々子どうしてるだろ」心配だなあ、と言って彼女は不安そうに眉尻を下げた。

 教室から出ると廊下はしんと静まり返っていた。用もないのに残っていたのは俺たちだけだったらしい。

 下足場へ向かう階段を下りていると、遠くから金管楽器の音色が響いて来た。

「まーたバカなことやってる」懐かしそうに微笑んで、彼女は呟いた。

「判るんだ」

「トロンボーンであんなめちゃくちゃな吹き方する奴なんて内村くらいしかいないもん」

「内村」俺はそう繰り返した。「男子?」

「うん」と夏井は頷いてから、「あれ? もしかして妬いてる?」と俺の顔をのぞき込んで言った。

「別に。気になっただけ」

「そういうことが気になるってことは、つまりそういうことじゃない?」

「抽象的すぎて判らないな」

「そういやこの前花音ちゃんたちのグループで出た話題なんだけど、宗平って結構嫉妬するらしいね」

「奈雪姉さんがなんか言ったのか」俺はため息をついた。

「お姉さんも似たようなこと書いてたよ。同級生の男子の話すると目つきが変わるって」くすくすと夏井は笑う。「多分いまのがそれだね」

「お前さ、意外と怜と気が合うだろ」

「そうかなあ。嫌いなのは嫌いだよ。でも、」唇に人差し指を当て、立ち止まった彼女は考え込むそぶりを見せてから、「多分宗平のことがなかったら、友達になってたかも」

「つまり?」

「宗平のことが絡まないと意外と良い人かもって話」そう言って彼女は足音を弾ませ、階段を一段飛ばしで駆け下りた。

「危ないぞ」俺は言った。

「下まで着いたからセーフ」くるりと振り返った彼女は、両手を横に広げるジェスチャをして無邪気に笑った。

「ばーか」

 その姿の可憐さに、俺は思わず照れてしまって目をそらした。彼女は油断しているとこういう一面を見せるから始末が悪い。だから後になって惹かれてしまったのだ。

 しかし下駄箱の前に立った途端、彼女がまとっていた無垢できらびやかなヴェールは一瞬ではぎ取られ、まだ少し汚れが残るそれを見つめる目には感傷的で繊細な光が宿り、揺れていた。

「実はね」と夏井は沈痛な表情で、「これ見つけた時、本当は泣きそうだったんだ」

 俺は隣に立って、彼女の頭にぽん、と手をおいた。

「宗平が来てくれなかったらヤバかった」

 彼女は俺の手の下をすり抜け、横から抱きついて来た。力が込められすぎていて少し苦しい。けど多分夏井はいまもっと苦しいのだと思う。

「昔の事思い出しちゃったんだ」

「昔の事?」

「うん。小学生の頃のこと」そう言って夏井は一度俺から離れて、「ね、後ろ向いてくれない?」

「後ろ?」

「そう。いいからほら、はやく」

 彼女に急かされて俺は言うとおりに彼女の背中を向けた。

 えへへ、と笑う声が聞こえてから、今度は後ろから抱きついて来た。

「私ね、小学校に入ってからしばらく、周りに馴染めなかったんだ。全然知らない場所だし、知り合いもいない。それにお母さんのこともあったから、気持ちがトゲトゲしてて。みんな大嫌いって思ってた。だからみんなから嫌われてて。腫れ物扱いされてたけど、時々上履きを隠されたりとか、いま思えばいじめられてたんだなあ、って思うことばっかりで。それで、えっと」

 背中にぎゅっと何かが押しつけられる圧迫感を覚えた。きっと彼女が顔を埋めたのだろう。俺は腰の辺りにしがみつく彼女の小さな手に、自分の手を重ねた。

「今朝、下駄箱を見た時に、あのころのこと思い出して、心臓がきゅってなって、息が苦しくなって、でも泣いちゃダメだって思ってだから我慢、したんだ」

 背中に響いてくる彼女の声は無理矢理明るく振る舞おうとして震えていた。

「がんばったんだね」俺は言った。

「うん」と彼女は言った。

 それからしばらく沈黙が続いた。雨音の合間に、子犬の鼻声みたいな、喉の奥で押し殺した声が響く。泣いているのか、なんて野暮なことは訊ねない。俺は黙って手を重ねたまま、そこから伝わる彼女の体温を感じながら、背中越しの呼吸を聞きながら、彼女の心の痛みが去るのを待った。

「奈々子がさ」と何事もなかったのように夏井は話を再会した。けれど鼻声になっていて、それた痛々しくて、俺は唇を噛んだ。「助けてくれたんだ」

「そうだったんだ」

「昔はね、奈々子ってすごく明るい子だったんだ」

「それは意外」

「でしょ」と夏井は得意げに言った。「みんなの話題の中心に居て、可愛くて、綺麗で、頼もしくて。私もあんな風になりたいって憧れてた。でも、いつ頃からだろ。私と奈々子が入れ替わったみたいになっちゃったのって」

「何かきっかけがあったりとかは?」

「ううん。本当に、いつの間にか。気がついたら奈々子は私の影で、私の為にっていろんなことをしてくれるようになってた。いつの間にか私はそれを当たり前だと思うようになっていて、気がついた時には奈々子のことを引き立て役みたいにしちゃってて。そりゃ怒るよね。不満もあるよね。なんで私、自分のことばっかで、そういうことまで気が回らなかったんだろ。私の為とか言って上から目線なのが気にくわなかったのは確かだけど、でもきっと、それって私が頼りないから、危なっかしいから、奈々子はそうやって見守ってくれてたんだよね。お昼に宗平に言われてようやく気がついたの。私は奈々子に甘えっぱなしだったって。奈々子のおかげで私は普通に学校生活を送れてたんだって。やっと気付いた」

「そのことを伝えれば、きっと良い方に転がるよ」俺は彼女の手を撫でながら言った。「もしかして、二人でちゃんと喧嘩したことがなかったんじゃない?」

「そうかも。うん。そうだ」

「良い機会だから、思ってることお互いに全部ぶちまけるべきだと思う」

「怖いけど、がんばる」

「頑張れ」

「えへへ」と夏井は笑った。「迷ったんだけど、宗平に甘えて正解だった。勇気が湧いてきたよ」

「そっか」

「うん。それにね、宗平って時々優しい口調になるでしょ?」

「ん? ああ、まあそうかも」

「いまそれが聞けたから満足だなって」うれしそうに彼女は言う。「普段ってちょっとキャラ作ってるの?」

「意識はしてないな。まあ気分の問題じゃないかな?」

「そっか。じゃあさっきの私は特別な気分で、お話がしたい相手だったんだね」

「かもな」

「一番でもなく二番目でもないけど、でも私も宗平の特別なんだね。うん。最悪の結果になっても、でもそれがあるなら私は頑張れるよ」

「まあ、どうあっても俺は俺だから安心しろって言ったのは、俺だからな」

「結果に関係無く、終わったらぎゅっとして欲しいな」

「調子に乗るな」

「約束してくれないと離れないから」

「ああもう、判ったよ。ただし怜と勉強した後な」

「よーし。がんばろう。張り切って、がんばろう」

 夏井はそう言いながら手を離した。

 ちょうどそのとき、俺のスマホがポケットの中で振動し始めた。

 夏井がきょろきょろと周りを見て、「先生いないから大丈夫。誰から?」

「大石だ」

「ななか?」と夏井は目つきを鋭くして、「なんで番号入ってるの?」

「嫉妬だな?」

「違うし。ていうか早くでなよ」と彼女は言う。

 体の前で握り合わせた手をぶらぶらさせながら、つま先で床をぐりぐりと痛めつけていた。

 自分でも周囲の様子を窺ってから電話に出た。

「もしもし」

「ああ、やっと出た。遅い」

「ちょっと夏井と話し込んでてな」

「げ、香奈いるの? やなタイミングで電話しちゃったなあ」

「それで?」

「さっき小林から聞き出したんだけど、黒幕はバスケ部の中里らしいのよ。で、そう言うわけだから。体育館の前で待ってる」

「何で俺が行く前提なんだよ」

「来ないの?」

 そう訊ねられて俺は夏井の顔を見た。何もなければそれでいいと思っていたが、彼女の目元、その涙の跡を見た後では、すっかり胸の内の様相は変わっていた。

「判った。ちょっと待ってろ」

「言われなくても。じゃあ、なるべく早くお願いねー」

 通話を終えると同時に夏井が学ランの袖を軽く引っ張ってきた。

「行くの?」

「お前を泣かせた奴を放っておけないだろ」

「まーたそんな風に彼氏面して」と夏井はため息をついて、「けど、まあ、うれしいけど」

「にしても中里かあ」

「面倒な子だね」と夏井は眉根を寄せて、「いろいろ悪い噂もあるし、私あの子からすっごい嫌われてたから、小林? だっけ、体育館の部活組の名前が出た時からもしかして、って思ってたんだよね」

「だから嫌そうにしてたんだな」

「そう」

「まあ、俺もあいつはちょっと苦手だなあ」

「知ってるの?」

「一応地区が一緒だから、小さい頃から知ってるのは知ってるんだけどさ。昔から怜には懐いてたんだけど、俺のことは避けてたというか、嫌われてたのかなあ、だからあんまり話した事ないんだよな。それより悪い噂って?」

「うん。中里って女の子が好きらしいんだよね」

「それが悪い噂?」

「それだけなら違う。けど、どうも気に入った子を体育倉庫に連れ込んで手込めにしてるとかって話もあるし。気に入った相手が彼氏持ちだと、まずその彼氏を寝取って別れさせてから、彼氏を捨てて、で、女の子を慰める体で近づいて、自分の物にしてるとか。あと暴力事件起こしかけたって話も」

「とんでもない奴だな。中二だぞ」

「宗平も大概だと思うけどなぁ」と夏井は目を細めて言った。

「暴力はしないぞ」

「そっちはね」夏井はため息をついた。「まあおかげで私は時々彼女っぽいこと出来るんだけど」

「それは、まあ」

「とにかくそう言うわけだから」

「ちょっと待て。もしかして中里って井上のことを?」

「好きなんだと思うよ」と夏井はしかめっ面で「ラブの方で。や、もっとえぐい感じで。だからさ、気をつけてね。奈々子とはちょっと違った感じでなにやるか分かんない子だから」

「やっぱそう言うタイプなんだな、あいつ」

「私のために宗平が酷い目にあったら嫌だからね。絶対に、ヤバそうならすぐ逃げてよ」

「ああ、そうする」

「絶対だよ」

 そう言って彼女は立てた小指をこちらに向けた。

 もう一度指切りをして、それから俺は夏井と別れ体育館の方へと向かった。







       2




 そう言えば、と体育館へ続く渡り廊下を歩きながら、窓の外に見える校舎の影を見上げた。今日は公康と話さなかったな。いままで、同じ教室にいてあいつと話さないことなんて滅多になかった。珍しく喧嘩をした時だって挨拶くらいはしたけれど、今日は本当に一言も言葉を交わしていない。公康は、長田や大石が苦手という訳でもないし、なんだったらちょくちょくあいつらと談笑していることもあるくらいだ。それに、夏井があんな目に遭って黙っているというのも不自然じゃなかろうか。

 そこまで考えてから、ふいに背後に気配を感じて俺は立ち止まり、振り返った。

 公康が居た。

「おはよう」俺は言った。

「おはよう」公康は応えた。

「どうした?」

「僕も着いていくよ」声を堅くして、彼は言った。

「やめとけ。泥は俺が被るから」

「気が収まらないんだ」公康はぐっと拳を握りしめた。「いくらなんでもあれは酷いよ」

「ああ、そうだな」俺は言った。「でもだからって何もお前が出てこなくてもいいだろ」

「僕だって!」と公康は叫ぶように言った。放課後の廊下にその声はよく響いた。

「落ち着けって」俺は言って、公康の肩を叩いた。「俺だって頭に来てるよ。だから犯人探しの手伝いをしたんだ。お前は何をしてた?」

「それは……」

「加賀に止められてたんだろ?」

 図星だったようで、公康は「それは」と言葉を詰まらせた。

「その加賀はいまどうしてるんだ?」

「用事があるから先に帰ってて、って」

「お前が何考えてたか、気づいてないと思うか?」

 公康は首を横に振った。

「加賀はたぶん、お前にこういうことして欲しくないんじゃないか? でも止めなかった。止められなかった。夏井のことだからな」

「どういう意味?」と公康は言った。睨むような目で俺を見ている。

「直接聞いたことはないから、これは想像だけど、加賀は、お前が、夏井のことが好きだったことを知ってるんじゃないか?」

 俺がそういうと、公康ははっとした表情になり、握りしめていた拳を開いた。

「お前は加賀の彼氏なんだ。だから夏井のことは俺に任せろ。まあ、頼りないかもしれないけどさ」

「そうだね」と言って公康は、表情を和らげた。「頼りないよ。宗平は。お姉さんが居るのに、相川さんや、香奈ちゃん、それに井上さんに振り回されて」

「ちょっとはフォローしろよ」

「嫌だね」公康はそう言うと、思いっきり力んで短く息を吐き、「よし。僕を殴って」

「は?」

「いいから」

 いきなりのことで戸惑っている間に、公康歯をぐっと食いしばった。

 俺は拳を作って、「本気か?」

 公康は歯を食いしばったまま頷いた。

 この状況。どうあがいても殴るしかなさそうである。こうなれば腹を決める他はない。拳に一層力を込めて決心すると、俺は多少手加減をしつつ公康の頬に拳をたたき込んだ。

 公康は、ぐっと呻いて、二三歩よろめいて後ずさった。

 慣れないことをするものではない。殴った拳がじんじん痛んだ。

 公康は左の頬を真っ赤に腫らしながら「次は宗平の番」と言った。

「いや、ちょっと待て」

「前からずっと言おうと思ってたんだ」

「なにを?」

「香奈ちゃんを苦しめたなこの野郎! って」

 あ、まずい、と思った瞬間に俺は咄嗟に歯を食いしばった。

 顔面を衝撃が襲った。視界がぐわん、と大きく揺れて、左の頬が焼けるように暑い。口の中に血の味が広がって鉄臭さが鼻から抜けていく。それでもかなり手加減してくれたのだろう。公康が本気で殴っていたら、今頃俺は気を失って昏倒していたはずだ。

「前から聞こうと思ってたんだけどさ」と公康は殴った拳を反対の手で撫でながら、「宗平は、何のためにそこまでするの?」

「何のため、か」

 俺は壁に背中を預けて廊下に座り込んだ。

 公康も、隣にやってきて、片膝を立てて座った。

「今日のことだってそうだけど。別に宗平がそこまですることないよね?」

「まあ、そうなんだろうな」

「それに、いまの状況だって。結局二人には、ちゃんと一度はつき合えないって言ったんでしょ?」

 俺は頷いた。

「迷惑だ、とか思わないの?」

「面倒だとは思う」

「宗平はさ、もっと怒ってもいいと思うんだよね」

「怒る?」

「前から思ってたけど、なんていうか、八方美人すぎると言うか。押しに弱すぎるというか。ああもう、なんだろう。とにかく見てると、なんでそうなっちゃうんだ、って言いたくなるわけ」

「それは自分でもちょっと思う」

 痛いところを突かれたせいだろうか。頬が一層じんじんと熱を持ったように感じる。

「結局、それで誰も幸せになれないじゃないか。宗平も、香奈ちゃんたちも」

「お前だから言うけどさ」俺は公康の方へ振り向いた。「怖いんだよ。誰かが離れていくのが」

 窓の外で降る雨の滴る水音が、しんと静まり返った放課後の渡り廊下に、染み入るように響いていた。一人の病室で、会いたい人を待ち続けて聞いた雨音もこんな感じだった。

「相川さんのこと?」と公康は言った。

 俺は頷いた。「多分あれがあったからだと思う。怖いんだよ。嫌われるのが」

 嫌われていた訳ではないけれど、でもあのとき俺はさくらさんが会いに来ない原因はきっと自分にあるんだとそう思って、果てのない呵責に苛まれていた。彼女に会えなかった二ヶ月ほどの時間と、そして再会した時に、彼女を責めて追い詰めてしまったその結末が、俺の心を縛り付けてしまったのだと思う。

「いっそ二人に嫌われた方が、きっとその方が丸く収まるはずだ、とか考えたりするんだけど、結局怖くて行動できないんだよ」

「それはどうかと思うな」と公康は苦笑した。

「井上に対しては、判らないけれど、夏井のことは好きなんだ。だから余計に怖いし、なんだかんだあいつの我が儘を聞いてしまう」

「度し難いね」公康は言った。「もう一発殴ろうか?」

「勘弁してくれ」俺は言った。「気持ちだけで十分だ」

「よし判った」と公康は立ち上がろうとする。

「ちょっと待った」俺は慌てて公康の肩を押さえて静止する。

「冗談だよ」と公康は浮かせかけた腰を下ろして言った。「まあ本当は殴りたいけど。でも、悪いのは宗平だけじゃないしね。香奈ちゃんも宗平の浮気相手でいることに抵抗感じてないみたいだし」

「浮気って。まあ、浮気か。そうか……」

「それに多分、香奈ちゃんも、理由は違えど宗平と同じ様な闇を抱えてるんだと思うよ。ほら、お母さんのことがあるでしょ」

「よく考えたらネグレクトだもんな。あれ」

 公康は頷く。「だからなんていうか飢えてるんだと思う。宗平はその飢餓感を一人で満たしてるんだよ。多分そうじゃなかったら、きっと香奈ちゃんは変な男に引っかかってもっと酷いことになってたと思う」

「さくらさんと似てるところはあるかもなあ」

「やっぱり宗平は何かそう言う子を引きつけるフェロモンみたいなのがあるのかもね」

「井上は、あいつはどうなんだろ」

「多分何かあるんだと思う」

「そうなのかな」

 家庭に問題があったという話も聞かないし、部活では主将でエースで何だかんだ男子にも女子にも人気があって、おまけに美人だ。

「井上さんは自己評価が低いのと、多分宗平以外からの評価は全部ノイズだと思ってるんじゃないかな。憶測だけど」公康はやれやれ、と言う風にため息をついた。

「夏井が言うには、引っ越した先で出会った頃は明るくて、クラスの中心にいるような女の子だったらしいんだよな」

「らしいね」と公康は頷く。「僕も前にその話聞いたことあるよ」

「どう思う?」

「愛と憎は表裏一体。井上さんは香奈ちゃんに惹かれて、香奈ちゃんの為にって思いながら拗らせたんだね、多分。そしてそこに見いだした救いが宗平。まあ憶測だけど」

「憶測かあ」

「でも、宗平と二人で本の話をしてるときの井上さんって、普段とは違う感じだったから」

「そうなんだ」思い出そうとしてもやっぱり思い出せない。けれどそう言えばと思い当たることはある。「そういやあいつ、俺と一緒に居るときに普段みないような笑顔浮かべたりしてたもんなあ」

「罪な男だ」そう言って公康は肘で脇を小突いてきた。

「うるせぇ」俺は小突き返した。

「悔しいけど」と公康は急に遠い目をして、「宗平と香奈ちゃんはお似合いだと思うんだ。もしお姉さんよりも先に付き合ってたら、きっとほどよく依存し合うカップルになってんじゃないかなって」

「それ喜んでいいのか?」

「どうだろ」と公康は肩をすくめた。「井上さんは、どうだろうね。彼女はなんていうか、恋愛感情と同時に信仰心みたいなのも混じってたから。でもきっと、宗平が相川さんと出会う前に告白してたら、宗平は井上さんと付き合ってたと思うよ。あのころの宗平ってお姉さんのこと諦めようとして必死だったし。そうなってたらきっと、宗平は井上さんにお姉さんの影を重ねて、井上さんは宗平に幻滅されたくなくてその幻影を自分に投影しようとして、そして宗平はそんな彼女の姿をみて安心する。って感じの依存しあう関係になってたんじゃないかなあ」

「なるほどなあ」俺は天井を仰いだ。「面倒くさいなあ」

「宗平も大概だよ」

「割れ鍋に綴じ蓋っていうけど、蓋の数が足りてねえんだよ。ちくしょう」

「そもそもお姉さんと相川さんで手一杯だしね」

「なんでこうなったんだろ」

「何が悪いかで言うと、きっとあの事故だよ」公康は言って、立ち上がった。「あれがなければきっと宗平は相川さんといまも恋人同士で、まあお姉さんとの間に多少何かはあるかもしれないけど、でもいまみたいにややこしい関係に巻き込まれたりはしてなかったと思うな」

 それに、一緒に野球も出来た。と公康は悔しそうに付け加えた。

 確かにそうだけれど、もしかしたら俺がグラウンドに立たなかったからこそ、あそこまで勝ち上がれた可能性もある。足手まといになるつもりなんてないし、多分ならなかったと思う。けれど勝負はそういうものじゃない。何か一つ、歯車が違っただけで、その展開は変化してしまうこともある。

「そういや、お前なんで江島と一緒に誘われてたのに断ったんだよ」

「僕はただ、宗平と野球がしたかっただけなんだよ」

 公康がこちらに手を差し出した。俺はそれに掴まって立ち上がった。

「それでいいのか?」俺は言った。

「まあね」と公康は寂しそうに笑った。「ただ僕は、本当にそれだけだったから。だから強豪校に進学して、甲子園に、ってことはあんまり考えてなかったんだ。宗平が一緒なら別だけど。そうもいかないでしょ?」

「そりゃあな」

「まあでも北高でも野球は続けるよ。宗平はどうするつもりなんだよ」

「なんも考えてない。ただ、野球部には入らないよ。入ったってプレイ出来る訳でもないし。マネージャーも楽しいけど、でも別のことがやりたいから」

「そっか」と公康は長いまつげを伏せた。

「じゃあ、そろそろ行ってくる。結構話し込んじゃったから、きっとあいつら待ちくたびれて腹空かせたライオンみたいになってるだろうし」

「ほどほどにね」

「ああ」俺は頷いて、それからどん、と公康の胸を拳で軽く叩いた。「ちゃんと加賀に謝っておけよ」

「宗平も」と公康は俺の拳を受け止めながら、「香奈ちゃんがちゃんと笑えるように、始末をつけなよ」

「任された」

 両手をぐっと握って公康の方へ向けた。

「頼んだよ」

 公康はそう言ってわずかに口角をあげて、同じように拳を握る。

 そして俺たちは互いの目を見つめながら拳をぶつけ合った。

 

 





     3



 体育館前のピロティに大石達三人が待ち構えていた。

「遅い」入り口前のポーチの段差に腰掛けていた長田が吐き捨てるように言った。入り口前の階段に腰掛けていた長田が吐き捨てるように言った。「あんたじゃなかったらシメてるよ」

「すまん。ちょっと野暮用があってな」

「その腫れた頬が関係してるのかな?」と柱に凭れて立っていた大石がにやにやしながら言った。

「その通り」俺はそう言って肩をすくめた。「で、これはいまどういう状況なんだ?」

「見ての通り。三島を待ってたの」と大石は岡本に視線を送った。岡本は長田の隣に太った体を小さくしてちょこんと座っていた。

「ななかから聞いたと思うけど、一応小林から聞いたこと、説明するね」と岡本が話を引き継いだ。その表情はとても暗い。「やっぱりバスケ部だって。二年の、キャプテンの中里が唆したって」

「バスケ部といえば、岡本もそうだったよな?」

 大体の運動部の女子、特に女バスの連中は基本的に井上についていたが、岡本は過去のことがあるからか、一貫して夏井の側についていた。

「うん。まあ私は補欠だったけど」と岡本はどこか卑屈な苦笑を浮かべた。「中里は井上さんが好きなんだ」

「へえ」

 夏井が言っていたことと同じだ。別々の出所から同じ情報が出るということは、知ってる奴は知ってる事実なのだろう。

「いつも井上さんのこと見てるし、口を開けば井上先輩は、って言うし。尊敬してるというか惚れ込んでいるというか、」

「崇拝してる?」と大石が言った。

「それ」と岡本が指を指して言った。「そして性的な目でも見てる」

「きもい」と長田が顔をしかめた。「あたしにはよくわかんない世界だなあ」

「そういえば、小林はどうしてる?」

「別に?」と大石。「三島が心配してるようなことにはなってないから大丈夫。一応私ら、香奈のメンツの為にやってるからね。やりすぎてメンツを潰したらそれこそこっちがなにされるか判らないから」

「本人の前じゃ言えないけど、おっそろしいからなあ」と長田がまじめな顔をして言う。

「でも、井上さんほどじゃないよ」と岡本が控えめに主張する。

「まあそりゃあ、ね」と大石が同情するような目を岡本に向けていった。

 どういうことだろう、と思っていると長田が「そういや知らないんだっけか」と長田が足を胡座に組み替えて、「ほら、岡本って小学校の頃はもっとこう、キラキラしてたろ?」

「ああ」

 そう言えば長田も同じ小学校だったな。

「あたしらは香奈にシメられて、まあこうなった訳だけど、岡本はちょっと違うんだよ」

「そうだっけ?」と俺は首を傾げる。「おまえら全員夏井にちょっかいかけて返り討ちにされたんだよな?」

「あたしとこいつはね」と長田は大石をアゴで指して言った。「でも岡本はそこで折れなかった」

「不幸なことに」と大石が付け加えた。

 しかしこいつら、その岡本が目の前にいるのに遠慮のない連中だ。

「でさ、二学期から急に井上が覚醒したじゃん」と長田が言った。「野暮ったい髪を切って、んでバスケを始めてさ」

「元々運動神経が良かったし、髪型が悪かっただけで顔も美人だったから、あっという間にバスケ部のスターになって、それで岡本は嫉妬して、同じく井上をよく思ってなかった先輩と結託して懲らしめようとした訳」と言って大石が嘆くように天を仰いだ。「私はやめとけって言ったんだけどね」

「うん。あたしも」

「どうして?」と俺は訊いた。

「ヤバイ奴のオーラが出てたから」といって長田は胡座を解いて、両足を投げ出してぱたぱた上下させた。「あれは手を出しちゃいけない奴だなあって本能的に感じてたから、だから香奈にちょっかいかけたときもさ、井上には手を出さなかったんだよ。一応ほら、あいつも男子の間で話題にはなってたから、生意気だって言ってる子も居たんだけど。あたしら全力で止めてたんよ」

「井上さんはすごく陰湿だった」と岡本がぽつりと呟いた。「私が悪いのは判ってるけど、でもあの子、無言で写真を送りつけてくるの。最初は私の家を外から撮影した写真だった。その次はどこかで撮った両親の写真。それから今度は飼ってる犬。それに最後は私の妹とお喋りしてる動画を送ってきた。それ見た時にようやく、響子ちゃんやななかの警告の意味を理解した」

「ああ、写真か」

 先日意味深な一枚が送られてきたばっかりだ。それにそれ以前から俺は盗撮されていたらしいし。

「それは最後のとどめで、他にもいろいろあった。けど、やっぱりそれが一番怖くて、そのきになれば井上さんは私の大切な物を壊してしまえるんだって、そう思った瞬間からもう、表立って敵対する気なんて失せて、子分みたいになった方がいいって理解したの。先輩たちも、私と同じ目に遭ったのか、それとももっと恐ろしいことをされたのか、いつの間にか井上さんの顔色を窺うようになってた」

「で、なんでそんな話をするかというと」と長田がげんなりした顔で、「中里が同じ様なタイプっぽいんだよなあ」

「ああ、それになんか色々悪い噂もあるらしいな」俺は言った。

「噂じゃないよ」と岡本が言った。「私見たことあるから。練習に使った道具を片付けた後に、体育倉庫に忘れ物したことに気がついて、それで取りに戻ったら、中里が泣きじゃくる後輩を押し倒して、その……」

「うえ、マジかよ」と長田が顔をしかめた。

「しばらくしたらその子、中里の彼女になってた。もう何人目か判らない、ね」

「それ井上は知ってたのか?」俺は訊いた。

 岡本はふるふると首を横に振った。「知られたら警戒されるからって、口止めしてたから多分知らないはず」

「ということは井上のこともいずれは、って考えてたんだな」

 夏井が言ってたえぐい感じのラブってそういうことか。

「そうだと思う」岡本は頷いた。「あと、なんか、ななかちゃんのことも狙ってたらしいよ」

 岡本の言葉にぎょっとした顔になって大石は、「私は女には興味ないからノーサンキューよ」と吐き捨てた。

「気の強そうな子を屈服させるのが良いって言ってたよ」

「げ、それあたしもヤバいんじゃね?」と長田が胸元を隠すように、自分の身体を両腕で抱きしめた。

「や、ギャルっぽい子はダメだって言ってた」

 それを聞いた長田は長い溜め息を吐いて、「ギャルで良かった」と脱力して呟いた。「ていうかやけに詳しいな」

「あんまり好きじゃない子だったから、機会があったら井上さんに報告して潰して貰おうと思って情報だけは集めてたの」

「強かね」と大石が言った。呆れているのか感心しているのか、興味深そうに岡本のことを見ていた。

「で、つまり貞操の危険を感じて待っていた、と?」

「んー、そっちじゃないんだよね」と岡本はのんびりした口調で言う。「悪い噂知ってるなら、もう一個の方も聞いたんじゃない?」

「暴力沙汰?」

「そうそれ」と岡本は頷いた。「そっちの方は井上さんも知ってるんだけど。試合中とか練習中にヒートアップするとすぐに手が出そうになるんだよ、あの子。弱い者虐めとかそう言うのじゃなくて、本当に衝動的にって感じで。井上さんが止めに入った回数なんて両手両足の指を足しても足りないくらい、本当にしょっちゅうあったから」

「その割にはバスケ部の連中って結構和気藹々としてないか?」体育館の中を覗き込みながら俺は言った。

「中里は自分の彼女には手を上げないんだって言ってたよ」

「あいつ、小学校の頃から変な奴だとは思ってたけど、変どころかマジでヤバい奴じゃないか」怜に懐いてたのもそういうことだったんだろうか。そう思うといままで大丈夫だったんだろか、と心配になってくる。俺の知らないところで何かちょっかいを出されてた、なんてことになってたら、俺は多分中里を殴ると思う。

「三島は同じ地区なんだっけ」

 岡本ののんびりした声で我に返る。危うく皮算用な怒りで意味も無くヒートアップするところだった。

「小さい頃から知ってる割に、話したことはあんまりないけどな」俺は苦笑して答えた。「まあとにかく待ってた理由は判ったよ」

「まあそういうわけだから、面倒なことは三島に任せて、か弱い私たちは後ろで見守っておきましょうか」と大石が急にかわいこぶりながら言った。顔は可愛いので様になっているのが非常に癪である。

「うちらか弱い乙女だから」がはは、と笑いながら長田は言う。短いスカートで足をばたばたして、派手な柄のパンツを見せながら言う台詞ではないぞ。

「今日は顧問は来てなくて、ついでにもう少ししたら休憩時間になるから、そこが狙い目だね」と岡本が他人事みたいにわくわくした顔で言った。

「ていうかさ、なんで三島ってそこまですんの?」と長田が言った。「香奈の彼氏って訳でもないじゃんか」

「さっきも似た様な話してたんだけどな」俺は苦笑した。

「さてはそのほっぺたの原因は栗原ね」と大石が楽しそうに声を弾ませる。「三島とそんな青春する相手なんてあいつしかいないし」

「大石は栗原のことになると目の色変わるよな」と長田がからかう口調で言う。

「中性的なイケメンは私の好物だから。でもまさか加賀ちゃんに持って行かれるなんてなあ。つまみぐいしたかった」

 大石は見た目は清楚な美少女だが、中身は有り体に言えばビッチである。どちらかと言えば遊んでいるように見える長田の方がよっぽど純情である。

「なあ長田。さっきからお前パンツ見えてるぞ」と俺が指摘すると彼女は「はあ!?」と慌ててスカートを押さえ、膝頭をぴったりと合わせて足を閉じた。

「見せてると思ってた」と大石がにやにやしながら言った。

「んなわけあるか」と長田は顔を赤くしながら反論する。「てか先に言え。さっきからなんかちらちらこっちみながら通り過ぎる奴がいるな、と思ったけど。くそう」

「や、響子ちゃん。それはちょっと自意識過剰だと思う」と岡本がくすくす笑いながら言った。「私らが集まってたらみんな見るよ」

「な、この長田響子のパンツは彼氏だけしかみれない貴重なものなんだぞ」

「いまの彼氏とはまだヤってないんでしょ? どの口が言うの」大石が呆れ口調で言った。

「ヤるとかヤらないとか、大石、お前はもうちょっと慎みをだなあ」赤くなりながら長田が言う。

「あんたに言われたくないわよ」

「それよりほら、休憩時間に入ったみたい」と岡本が立ち上がった。

「よく判ったわね」と大石が言った。

「今のかけ声は休憩入る時に奴だから」そう言って岡本は、体育館の中へ入っていった。






 

      4


 中里優衣は井上の後を継いでバスケ部の部長になった。井上がでている試合を何度か見たことがあって、そこに彼女も出場していたので、彼女が選手として優秀であることは知っていた。井上ほどではないが背が高く、170センチはありそうだった。髪型はショートボブ。くせっ毛らしく湿気で爆発気味だ。ちょくちょく近所で見かけることはあるのだが、こんなに近くで彼女の姿を見るのは久しぶりだ。

 岡本に連れられてやってきた彼女は見下すような目で大石たちを睥睨し、ふん、と鼻で笑った。

「雁首そろえてなんの用ですか? 先輩方」

 挑発的な物言いに、長田の表情が変わった。彼女は立ち上がり、中里に詰め寄った。

「おい。お前。バスケ部のエースか何か知らないけど、調子に乗ってると酷い目にあうぞ?」

「へえ? なんです?」わざとらしく目を丸くして中里は言った。「上履きを泥まみれにするんですか?」

 中里はにやりと笑ってさらに挑発を重ねた。

「てめえ!」

 怒号と共に長田は左手を伸ばし、中里の胸ぐらをつかんだ。

「あたしらはな! お前をそこに這い蹲らせるために来たんだよ。くだらない挑発はいいからさっさと膝ついて頭を地面こすりつけて土下座しろ。それで許してやるよ!」

「そういえば、夏井先輩はいらっしゃらないんですね」長田の激高などどこ吹く風、顔色も変えずに彼女は、「ビビって子分だけに来させたんですかね」

 長田が、右手の拳をぐっと握りしめた。

「響子」と冷たい声が響いた。大石だ。「落ち着け」

「殴るのはさすがに拙いよ」と岡本がおどおどしながら言った。「先に手を出したら言い訳が出来なくなるじゃない」

「けどさあ」と長田が納得しかねる様子で、「こいつ香奈のこと侮辱したんだぞ?」

「長田」俺は言った。「いいから。あとは俺がやる。そもそもお前俺に任すって言ってたろ」

「だけどさあ」

「岡本。長田押さえてて」

「うん」

 岡本は長田の後ろに回り込むと、わきの下に腕を滑り込ませて、がっちり羽交い締めにした。

「さ、響子ちゃん、下がるよ」

「くっそ。離せ。って全然動かないじゃん」

「響子ちゃん細いから、パワーないんだよ」

「お前はちょっと痩せろ!」

「いいの。いまの彼氏は太った私が好きだって言ってくれてるから。それじゃ、三島、頼んだよ」

 そう言って岡本は、じたばたと暴れる長田を引きずりながらピロティの端のほうまで下がっていった。大石は柱に凭れたままこちらを窺っている。傍観者に徹すると言った構えである。

 俺は中里の前に歩み出た。目線の高さは同じくらいだ。俺より少しでかい。目鼻立ちははっきりしていて、美人に類する顔立ちだろう。大きくて黒目がちな目が、つん、と高い鼻梁が、そして少し広めのおでこの曲線が、彼女の負けん気の強さを表していた。

「やっぱり来ましたね」中里は憎しみのこもった表情で俺を睨んだ。

「やっぱり? どういうことだ」

「ああすればきっと、先輩は私のところへ来る。そう考えて夏井先輩に嫌がらせをしたんですよ」そんなことも理解出来ないのか、とでも言いたげに彼女は鼻を鳴らし、「先輩と二人で話がしたいです。ついてきてください」そう言って彼女はきびすを返した。

「判ったよ」

 中里はこちらの返事を待とうともせずに、既に体育館の中へ向かって歩き出していた。俺はその後ろ姿を追った。

「三島」と大石が俺の背後で、「やばそうなら、スマホに連絡ちょうだい」と言った。

「りょーかい」俺はちら、と振り返って応えた。

 体育館の壁際をしばらく歩き、両開きの引き戸の前で立ち止まった。体育倉庫だ。中里はその戸を、人が一人通れるだけ開いて、「ここで話しましょう」と中へ入っていった。俺はその後についていく。

 中は記憶の中にあるそれよりも、幾分物が少なくがらんとしていた。部活に使う物を出しているせいだろう。バスケットボールやバレーボールを詰め込んだキャスタ付きの籠やネット類がないだけでずいぶんと広く感じる。

 突然、背後で物音がした。慌てて振り返ると、開いたままだったはずの戸が閉まっていた。

「どういうことだ?」俺は中里を見た。

「誰かに邪魔をされたくありませんから」そう言って中里は腕組みをした。「外から鍵をかけさせました。私が合図するまでは絶対に開きません」

 嘘だと思うなら確認して下さってもかまわないですよ、と中里は挑発的に笑った。確認させたいのだろう。ひとまず彼女の企みに乗ってやることにした。取っ手に手をかけて、引いてみてもガタガタと揺れるだけで横に滑らない。

「どうです?」と彼女はどこか得意げだ。

 俺はどんな表情を作るべきか少し迷ってから、困惑した振りをして、彼女の方へ振り返った。

「どういうつもりだよ」

 これは本音である。意図が見えない。サシで話したいならわざわざ鍵をかけさせる必要なんてないはずだ。じぃっと中里の目を見つめる。彼女の目は覚悟を決めたように据わっていて、研ぎ澄まされた敵意を純粋な瞳の中に宿していた。これはやばいな、と背筋に冷たい物が伝った。なんとなくカッコつけて着いてきてしまったが、あいつらにどうするか相談すべきだったか。まあ一応スマホはあるので、いざとなったら大石たちを呼べばいい。

「単刀直入に窺います」

 明かり取りの窓の下に立った中里は、そこから漏れるほのかな明かりの中で、目をぎらつかせながら、まるで獲物を前にした肉食獣の様に気をたぎらせていた。

「井上先輩と付き合うつもりはあるんですか?」

「ない」俺は応えた。

 中里は唇を歪ませた。一歩、二歩、とこちらに近づいてくる。

「責任をとるつもりはない、ということですか?」

「そもそもなんの責任だ?」

 俺がそう肩を竦めた瞬間、中里がかっと目を見開いた。そして左足を一歩踏み込むと同時に、右の拳を振り上げた。突然のことだったので、俺はそれに反応できなかった。一瞬目の前が暗くなり、気がつくと尻餅をついていた。鼻の奥がツーンとしたかと思うと、ぼたぼたと赤い滴が床に落ちた。

「私は見たんですよ」肩を怒らせながら彼女は吠えた。「先輩の家から、井上先輩が泣きながら出てくるところを!」

 殴られた衝撃のせいだろうか。酷いめまいに襲われていて、彼女の言葉の意味を理解するまでに三十秒ほどかかってしまった。すぐに答えない俺の姿に、中里はさらに苛立ちを積み重ねて、「このクズが!」と怒鳴った。

「合格はっぴょうの日の、ことか?」声を出してみると呂律が怪しい。「あの日は、急に雨が降ってきて、服が濡れてしまったから、あいつをうちに呼んで、シャワーを貸してやっただけだ」

 それにあいつは笑って出て行った。本当に泣いてたんだろうか。あの笑顔は強がりには見えなかったが、もしかしたらすぐにまた後悔して、自分がやったことを思い返して、それでまた自分の心を傷つけて泣いたのかも知れない。

「見え透いた嘘を」と中里は目に侮蔑の色を浮かべて、「シャワーを貸すなんて言って、襲ったんでしょ」

 なるほど、こいつそういう勘違いをしていたのか。何かしたといえば耳掻きだけだし、どちらかというと俺の方が襲われかけていた。少なくとも俺はあいつが嫌がるようなことはしていないし、ましてや中里が考えているようなことなど断じてあり得ない。

 そう言葉に出来れば良かったのだが、めまいが酷くて吐き気もしてきて、何も言うことが出来なかった。

 その沈黙を、彼女は、図星を突かれて答えに窮したと解したらしく、「死ね!」などと物騒なことを叫んで、右足で俺の鳩尾を見事に蹴り抜いた。

 肺の中の空気が一瞬すべて押し出された。吐き気と息苦しさから逃れる為に俺は浅い呼吸をなんども繰り返した。

「鍵を閉めさせた理由を教えてあげましょうか?」とサディスティックな笑みを浮かべて中里は言った。

「いまさら、だろ」浅い呼吸の合間に俺はそう言って、笑った。が、鼻血がのどに引っかかって思いっきり噎せた。血の混じった痰が口の中に広がって、血の味と臭いが口腔に充満した。室内でなければ吐き出すのに。俺は無理矢理それを飲み込んで、壁に手をつきながらよろよろと立ち上がった。「一つ聞くけど、お前はあの日俺の家で、俺と井上が何をしていたのか、知っているのか?」

「そんなの、知らないですけど。でも判ります。だって、井上先輩は泣いてたから」

「確認しようとは思わなかったのか?」腹のそこからふつふつと怒りがわき上がってきて、俺は声にドスを利かせながら彼女を睨んだ。

「そんなの、聞ける訳ないでしょう。バカなんですか?」自分の優位を信じて疑わず、俺をあざけるように彼女は唇を歪ませた。

「もう一つ、いいか? 俺が目的なら、なんでわざわざ夏井にあんなことをした」

「裏切り者だからですよ」

「裏切り者だって?」

「見てたんです。夏井先輩が、三島先輩の家に行ったことも、三島先輩が彼女をわざわざ送ってやったことも。井上先輩にはそんなことしなかったくせに。結局、井上先輩のことは遊びだったんですね。だからやるだけやって、捨てたんですね」

「バカ言うな。俺は、あの日あいつにシャワーを貸して、それからバレンタインのチョコを貰った。その後耳かきをしてやった。ああそう、乾いた服にアイロンもかけてやった。それだけだ」

「バレンタインのチョコ?」

 中里は目を剥いて鬼の形相を浮かべ、ぎりぎりと歯噛みした。

 弁解したつもりだったが何かヤバい地雷を踏み抜いたっぽい。

 俺はポケットのスマホに手を伸ばした。そして操作しようと画面に目を向けた刹那、横っ腹の少し後ろを突き抜けるような衝撃が襲った。内臓を抉るような痛みに俺はうめき声もあげられずに、その場にうずくまった。まだ止まらない鼻血が、鼻先に集まって、ぽたぽた床に落ちていく。

「無様ですね。こんな男が井上先輩からチョコを貰うなんて」

 吐き気も酷い。油断していると昼飯を全部ぶちまけてしまいそうになる。だからゆっくり慎重に呼吸を繰り返した。手の中にスマホがない。さっきボディブローを喰らった拍子に落としてしまったらしい。

「二度と、二度と井上先輩に近づけないようにしてあげます」

 物騒なことを言って中里は俺の前にしゃがみ込んだ。

 俺は顔を上げて、無理矢理笑った。

「ハーフパンツの隙間から、パンツ見えてるぞ」

「え?」

 と一瞬中里の注意が逸れた。その瞬間俺は吐き気と痛みを堪えて、思いっきり床を蹴って遮二無二、体当たりを敢行した。

 きゃあ、と悲鳴を上げて中里は仰向けに転がった。かなり勢いがついていたが、転んだ先が体操マットの上なので大丈夫だろう。俺はぶつかった流れのまま中里の上に覆い被さっていた。目と鼻の先に彼女の顔があった。気の毒なことにまだ止まってくれない鼻血が彼女の顔に落ちた。

 彼女は混乱しているのか、それとも頭を打って朦朧としているのか、焦点の合わない目で、「やめて」と呟いた。

「自分から仕掛けるのは慣れてても、自分がやられるのは慣れてないらしいな」

 俺がそう言うと中里は怯えた目で、「こうやって井上先輩も……」

「違うって言ってるだろ」

「三島先輩はいつもそうだ。浅井先輩も、私が狙ってたのに」

「怜に何かしてないだろうな?」こみ上げてくる吐き気を堪えながら俺は言った。「さっきからさ。殴られて頭が揺さぶられたのと、レバーに一発食らったのとで、吐きそうなんだ。答え次第では、お前の顔面に俺が食った昼飯ぶちまけるから、心して答えろよ」

「すでに鼻血で汚されてるんですけど」そう言って彼女は顔についた血を手で拭った。

「お前のせいだよ。折れてたらどうする。暴力沙汰になったらどうする。部活の最中に体育倉庫で起こったことだぞ。部の責任になるかもしれない。そうなったら井上も悲しむだろうなあ」

「……それは」

「で、答えろ。さもなくば吐く」

 中里は唇を噛んでしばらく沈黙してから、「ハグする振りして胸を触ったことなら」と目をそらして告白した。

 俺は自分の口の中に人差し指を突っ込もうとした。

 が、不意に鍵が掛かっていたはずの扉が開いて未遂で終わった。

 振り返るとそこに居たのは井上だった。後ろに大石達の姿も見える。

「どういうこと?」と井上が中里を睨んだ。

 中里は答えなかった。いや、答えられなかったのだろう。思わぬ事態に気が動転して、声にならない呻きみたいなのを漏らしながら首を何度も横に振っていた。

 俺はそそくさと中里の上から体を退けて、ふらふらと立ち上がり、出口へと歩いた。

 崩れ落ちそうになったところを井上が抱き留めてくれた。

「服、汚れるぞ」

「三島の血なら平気」真顔で彼女はそんなことを言う。

「元気そうだな」

「風邪は昨日治ってたから」

「夏井とは?」

「ちゃんと話した。短い時間だったけど。後から二人で一緒に報告するから」

「そっか」

「うん。じゃあちょっと私は後輩叱ってくる。岡本さん。三島をお願い」

 はーい、と応えて岡本は俺の右の脇の下に頭をくぐらせて、担ぎ上げるようにして肩を貸してくれた。

「保健室行く?」岡本が言った。

「トイレ。ちょっと吐きそう」

「うわ、大変だ」

 岡本に支えられながら俺は体育館を後にした。



 トイレで一頻り吐いて、それから顔を洗うといくらか気分がすっきりした。めまいもかなりマシになってきた。が、鼻血はまだちょっとだけ出ている。

「これ使いなよ」大石が男子トイレの中まで入ってきてポケットティッシュを差し出した。

「悪い」俺はそれを受け取ってティッシュを鼻に詰めた。

「変な顔」と大石は笑った。

「うるせえ」

「それとこれ」と俺のスクールバッグを持ってきてくれていた。

「お前がモテる理由なんとなく判る気がするわ」

「それはどうも」大石はにっこりと微笑んだ。

 トイレから出ると他の二人も待ってくれていた。

「しかし酷い顔だなあ」と長田が言った。「そこそこいい顔してるのに、台無し」

「そういえば響子ちゃん小学校の頃、三島のことちょっと好きだった時期あったよね。三年生ぐらいの頃だっけ」と岡本がにやにやしながら言った。

「昔の話だよ。ていうかそれ香奈の前で絶対言っちゃダメな奴だからな。絶対に」

「判ってるって」

 あははと岡本は笑う。

「良いわよね。三人とも小学校から一緒で」と大石が切れ長の目に憂いを纏わせて、恨めしそうに呟いた。

「みんな高校でバラバラになるけどね」と岡本が言った。ふんわりとした笑みを浮かべているがどこか寂しそうに見える。

「じゃあそろそろ行きましょうか」

 空気がしんみりとしてきた所で、大石がそう言って手をぱんぱん叩いた。

「私と岡本はそれぞれ推薦受かったからいいけど、」

「あたしは一般だからなあ。勉強マジだるい」と長田がげんなりと肩を落として溜め息をついた。「昔は名前書いただけで受かったらしんだけどなあ」

「言ってくれたら勉強見るよ?」と岡本。

「頼む。前大石に見て貰ったら、こいつ判らない奴の気持ちが解らないからマジで教え方下手なんだよ」

「そっちが教えてくれって言うからしてやったのに」

 三人でわいわいと盛り上がり始めたところで俺は「じゃあちょっと保健室行ってくる」と輪から外れて歩き出した。そのままふらふらと保健室を目指した。





 

     5


 養護教諭の立花先生には転んで顔面を壁にぶつけたという苦しい説明を押し通して、応急処置だけしてもらってベッドを借りることになった。

 しばらくすると立花先生は用事があるとかで保健室から出て行った。

 雨音と、ストープのかすかなうなり。乾いた空気に漂う消毒液の匂い。少し硬いベッドシーツ。なんだかそわそわして落ち着かない気持ちにさせられる。少し残っためまいが世界をゆっくりとかき混ぜるせいで、余計に胸の内がざわざわとする。

 引き戸を開ける音が聞こえた。立花先生が戻ってきたのだろうか。立花先生は初老の女性で、もう何十年も養護教諭をしているベテランだ。小太りで人の良い笑顔が柔和な印象を与える人で、実際の性格も穏やかで、だからよく悩みを抱えた生徒が相談に来ることもあると聞いている。

 しかし。

 こちらに向かってくる足取りは、初老の女性にしてはしっかりしすぎているし、小柄な立花先生にしては足音の間隔が広すぎる。と思っていたら仕切りのカーテンが揺れて、隙間から井上が顔を見せた。彼女は「良かった、ここにいた」と安堵の表情を浮かべ、中に入ってきた。

「ありがとな。助けてくれて」

「岡本さんが知らせてくれたから。礼なら彼女に。私はただ、不始末を始末しただけだから」

「何にせよ、井上じゃなきゃ止められなかったろうから。助かったのにはかわりないよ」

「うん」と井上は照れたように俯いた。「それより、調子はどう?」

「鼻血はようやく止まってくれた。鼻も折れてなさそうだ。ただちょっと、めまいが」

「大丈夫?」

「下校時間まで横になってれば大丈夫だと思う」

「そう」

 井上がベッドの端に腰掛けた。彼女は学校指定のジャージを着ていた。青い色のジャージなのだが、その色が少し暗く見えた。

「服濡れてないか?」

「慌てて走ってきたから」と井上はばつが悪そうに目をそらした。「すぐ帰るから平気」

「バカ。また風邪ひいたらどうするんだよ」

「じゃ、脱いで乾かす」そう言うなり彼女はジャージと下に着ていた体操服を脱いで下着だけの姿になった。そして仕切りの中から出て行って、しばらくしてから戻ってきた。

「ストーブの前に干してきた」

「いや、急なこと過ぎて突っ込めなかったけど、どうするんだ?」

「こうする」そう言って井上はベッドの中に潜り込んできた。

「もう一個空いてるだろ」俺は彼女に背を向けてそう言った。

「三島と一緒じゃないと安心できない。それに好きにしろって言った」

「ああ。まあ、そうだな」

「あと、この前のお礼がしたい」

「お礼?」

「耳かき。すごく気持ちよかったから」と首筋に彼女の吐息が降りかかる。

「お見舞いに行かなかった不義理と相殺ってことで」

「お礼の方が大きくて余ってる」むっとした声は頑なで、どうあがいてもそのお礼を受けるしかなさそうだった。諦めろと言外の圧を背中に感じて、俺は「で? どんなお礼なの」

 と訊ねた。

「こうする」

 その瞬間、耳にぞわぞわっとした感触が生起して、それが電流のように全身を駆け巡った。

「三島は耳のことをよく判ってた。だからきっと好きだろうな、と思って」

「しゃぶらないでください」

「嫌。散々私の耳を弄んだ罰」

「さっきお礼とか言って、うへぇ」

 怜とは違った乱暴な舐め方、しゃぶり方で彼女は俺の耳を蹂躙していく。

 吐息と舌が耳朶をくすぐり、耳穴までまさぐられて、訳が判らなくなってくる。まさに耳から理性を吸い取られているといっても過言がないほど、彼女は情熱的に責め立てた。吐息の艶めかしさは段階的に強まっていき、吸い取った理性の代わりに、その空いたスペースに官能を埋め込もうとする。

 正直体調が悪くなければヤバかったと思う。全身の倦怠感とか肩や腰の痛みが絶対不変のブレーキとなって、流されそうになる薄弱な意思を強引に引き留めてくれた。

「満足」両耳をしゃぶり尽くした彼女は肌をつやつやさせながらそう呟いた。

「そりゃどうも」もしいま鏡を見たら俺の顔はげっそりとやつれているだろう。中里にボコボコにされている時よりもある意味大変だった。

 井上は鼻歌交じりにカーテンの外へと出て行き、ジャージを着て戻ってきた。

「ちょっと湿ってるけど、大丈夫」

 そう言ってから彼女はジャージの胸の辺りをつまんで匂いを嗅いだ。そして微かに笑みを浮かべた。そこに俺の鼻血が染み込んだ跡のようなものが見えたが、きっと気のせいだ。そう、気のせい。

「そういや夏井は?」俺は訊ねた。

「香奈なら三島のお姉さん呼んでくるって言ってた」

 だからいないのか、と納得しているとポケットの中のスマホが振動し始めた。怜からだった。

「そうちゃん、大丈夫?」

「なんとか」

「どこ?」

「保健室」

「りょーかい」

 通話が切れた。

「お姉さんから?」

 俺は頷いた。「迎えに来てくれたっぽい。多分タクシーで」

「じゃあ私はそろそろ帰る」

「ちなみにどうやって来たんだ?」

「走って」

「走って?」

「学校の近くで香奈と会ってたから」

「ああなるほど。俺はてっきり」

「だったらもっと濡れてる」

「それもそうか」

「そこまで行けばカッパも自転車もあるんだけど」

「だったら俺のカバンの中に折りたたみ傘があるから、それ使えよ」

「いいの?」

「お礼だ」

「うん。ありがと」

 傘を井上に渡すと、彼女はそれを大事そうに抱きしめ、だらしなくにやけながら「また明日」と言って保健室から出て行った。

 ベッドに横になり、ほっと一息吐く間もなく、外からばたばたと鈍臭そうな足音が響いてきた。

 やれやれ、どんな言い訳をしようか。なんて考えているうちに勢いよく戸が開く音が聞こえてきて、ばたばたと足音が迫り、乱暴にカーテンが避けられて、怜がそこに現れた。

 怜は無言で抱きついてきた。苦しいくらいに抱きしめられて、俺は気がつくと泣いていた。

「怖かったね」何があったか知っている訳でもないだろうに。しかし彼女は見透かしたようにそう言って俺を包み込んだ。怜と一緒にいて、怜のことだけ考える時が一番心が安らかになれる。他の何事も些事に転じて、怜さえいれば俺はどうにでもなる。そんな風に思えてくる。その時ふと、俺はあの夢のことを思い出した。きっとあれは、うちなる願望を映したものだったのかもしれない。すべてを怜に奪われて、すべての煩わしさから解放されたいと、そういう願いの顕れだったのだろう。

「おやおや、誰かと思えば」いつの間にか戻ってきていた立花先生が呆れたように言った。

「あ、ご無沙汰してます」俺に抱きついたまま怜が会釈をした。

「元気?」

「まあそこそこに」

「なら良かった。じゃあ元気ついでにその子連れて帰ってあげてね。もうすぐ閉めるから」

「はーい」

 それから俺は帰り支度をして、立花先生に見送られて保健室を出た。

 怜と一緒に下足場へ向かう。

「あ、宗平」

 下足場で夏井が待っていた。

 彼女はこちらを見るなり涙目になって、「バカ」と言って、それから下を向いてしまった。

 怜は何も言わなかった。ただ黙って頷くだけだった。

「ごめん」

 俯いた彼女の側まで言って俺は謝った。

 夏井は何も言わず俺の胸に顔を埋めた。

「私の為にそんな風になられたら、もう、どうしようもないじゃん」嘆くように彼女は言った。「そこまでしてくれるのに、彼女になれないとか、どうすればいいの?」

 俺は何も答えられなかった。

 困って怜の方を見ると、仕様がないとでも言いたげに、口角を片方だけ下げていた。

「ごめん。宗平」

 しばらくして落ち着いた彼女は、そう言って俺から体を離した。

「いいよ。俺が悪い。不用心だった」

「奈々子が、こってり絞ってやったんだって」

「そっか」

「でさ、明日、奈々子と三人で話がしたいの。お姉さんとの約束が終わったあとに」

「いいよ」

「うん。それだけ。じゃあ、私、先に帰るね」

「気をつけて」

「宗平も」

 夏井を見送ってから、俺たちも校舎を出た。

 怜が用意した傘に二人で入りながら校門を目指して歩く。

「久しぶりだな、ここ歩くの」怜が懐かしそうに言った。

「俺もそのうち懐かしいって思う様になるんだろうなあ」

「年を取るってそういうことだよ」

 校門の前にタクシーが待っていた。

 怜が先に乗って、俺は後に続いた。

 タクシーの脇を、夏井がカッパの裾をなびかせながら、自転車を漕いで走り抜けていった。その後ろ姿を目で追っていると、手の甲をぎゅうっと抓られた。

「浮気者」怜はつーんとした表情でそう言った。それから運転手の行き先を告げた。

 タクシーが走り出す。

 俺は溜め息をついた。

「どうしたの?」

「いや、今日一日長かったなあ、って思って」

「お疲れ様」そう言って怜は体を寄せて、しなだれかかってきた。

「うん」俺は彼女の手のひらに、自分の手のひらを合わせて、そして指を絡めるようにして握り合った。

 彼女が小さく顎をあげた。俺は彼女の唇に食らいつかんばかりに自分の唇を重ねた。運転手がルームミラー越しに見ているが知ったことか。

「そういえば、何か進展があったみたいね」

 キスの後、彼女はそう言って、二つの大きな目に好奇心を煌めかせた。

「明日話があるって言ってたな」

「どう転ぶのかな」

「楽しんでない?」

「まあ、なにがどうなっても、私がそうちゃんの正妻であることに変わりはないからね」

 ふふん、と自慢げに鼻を鳴らす彼女。

 そんな彼女を見ていると胸の中にあった不安が少しずつとかされていくような感じがした。

 なるようになれ。

 俺はそう開き直った。

 

 

    続く

遅くなりました。遅くなった分長くなりました。

来月からは月3万字くらいは更新出来るようにしたいです。


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