Heading for spring Ⅸ『the heart from your hate 』
普段と少々毛色が違うかも知れないので。一応前書きに記しておきます。
1
校門を抜けた辺りから妙な胸騒ぎを感じていた。空気のざわめきがいつもと違ったというか。登校してくる生徒が集中するので賑やかなのは当然なのだが、その雰囲気がいつもと違うような感じがしていたのだ。駐輪場に自転車を止め、下足場へ向かう。その間にどんどん胸騒ぎは大きくなっていって、急かされるように早足で歩いた。
下足場に人だかりができていた。登校してきた生徒が殺到している訳ではない。みんな立ち止まって同じ方向を見ていた。いよいよ以てこれこそが胸騒ぎの原因ではないかと直感した。すると今度は何であるか知りたくなる。当然である。
一体何があったのか。
野次馬根性を湧き上がらせながら、人だかりの中に見知った顔はいないかと見回してみたが、仲の良い奴はいなかった。この時間なら公康くらい居そうなものだが、とっくに教室へ行ったのかそれとも彼女とイチャイチャし過ぎていつもより遅くなっているのか。
とりあえず同じクラスの生徒を幾人か見つけたのでそのうちの一人に声をかけることにした。
「おはよう。西山さん」
人だかりの一番外側で不安そうにしていた女子に声をかけた。古風な三つ編みのおさげを肩に垂らし、気弱そうな顔つきを隠すように大きな眼鏡を掛けていた。実際気が弱くて、夏井の取り巻き連中の中に一人たちが悪いのがいるのだが、そいつに絡まれている場面を何度か目にしたことがあった。
「あ、三島くん」彼女はびっくりした顔でこちらを見て、「お、おはよう」とひきつった笑顔でそう応えた。どうも怖がらせてしまったらしく、その顔にはどうして私が? という疑問が浮かんでいた。何故彼女だったかといえば単に一番近くにいたから、というだけである。貧乏くじを引かせてしまってすまないな、と思いつつ俺は「何があったの?」と訊ねた。
「夏井さんが」
「夏井?」
俺がそう訊ねると彼女は怯えたように肩を竦め、それから人だかりの中心を指さした。
「上履きが泥まみれで、画鋲も入ってたんだって」
「マジか」
夏井の背が低いせいか、関係ない後頭部ばっかりが見えて肝心の夏井がよく見えない。俺は人だかりをかき分けて夏井のところへと向かった。皆何かしら、俺と夏井の関係を知っているからか、こちらの姿を見るなりぎょっとした顔になって道を空けてくれた。ありがたいが、そのリアクションはあんまり嬉しくない。
「宗平」
俺の顔を見て彼女は唇をぎゅっと噛んだ。
彼女の足下には泥まみれになった上履きが転がっていた。といっても泥をつけられてから時間がたっているらしく、白く乾ききっていた。彼女の下駄箱のなかも同様に泥で汚れていることから、下駄箱に押し込まれた時にはまだ泥は乾いていなかったのだろう。そう思ってみれば足元の簀の子にも泥が付着している。
夏井が黙ったままなので、俺は何も言わず彼女の頭にぽん、と手をおいてやった。すると彼女は俺の胸に飛び込んできた。流石に精神的に堪えているのだろう。
そんな風に考えていると、
「宗平」
と小声で夏井がささやいた。
「犯人、探すよ」
その声はぞっとするほど冷たかった。
「先生にチクらないのか?」
俺がそう問うと、彼女はくすくす笑った。そして周りに聞こえるような声で、「そんなの、面白くないじゃん」と豪語した。
辺りがシーンとした。
しかし当の本人はそんなこと気にする素振りもなく、飄々とした様子で、スクールバッグの中から上履きを取り出した。
「えらく準備がいいな」
「あ、別に自作自演じゃないから。そのうちこういうことやる奴が出てくるんじゃないかって思ってたからね」にこっと彼女は笑い、そして観衆をぐるりと見回した。「それじゃ、お騒がせしましたー」
そしてそのまま階段の方へ歩いていく。
俺は慌てて靴を履き替えて、夏井の後を追いかけた。
「これ、どこの泥だろ」
追いついた俺に、彼女はそう訊ねて来た。
「さあ。まあこの辺のどっかだろ」
「当たり前でしょ」夏井はため息をついた。「それにしても、まさか私がこういうことされるなんてなあ」
「一年生の時以来か」
「あー、あったなあ」
彼女はいわゆる余所者であったために、いろいろと揉めた過去があるのだ。具体的に言うと、小学生の頃からスクールカーストの上位に居た連中が、余所者の癖にやってきてすぐに人気者になった夏井を妬んで、いろいろと嫌がらせをしたのだ。今回の様に上履きを汚したり隠したり、あるいは机を教室から放り出したりと。酷い時には机の上に花が置かれていたこともあった。
当然夏井は黙っていなかった。その花を見るにつけ、とうとうキレた彼女は復讐を始めた。どういう手段を使ったのか判らないが、クラスどころか学年中の女子を懐柔し、逆に自分をいじめていたグループを孤立させた。そしてトドメとばかりに、誰それがあんたの悪口を言っていた、といった類の噂話を流し、さらにはその噂話を実現するかのように、不仲を囁かれている生徒の持ち物を、それぞれが盗んだように見せかけるなど、あらゆる手を尽くして疑心暗鬼に陥れ、仲間割れを誘発して自壊させたのである。ちなみにそいつらは現在夏井の取り巻きとして元気に学園生活を謳歌している。
「お、噂をすれば、だね」廊下の先を見て夏井が嬉しそうに言った。「おーい。響子ぉー」と手を振る。
教室の入り口付近の壁にもたれていたのは、髪をうっすらブラウンに染めて、制服を着崩しているギャルっぽい女子、長田響子である。
「香奈、おはよ」彼女はそう言うと、「その、話は聞いた」と神妙な面もちになった。
「あ、なに? もしかして自分が疑われてるとか思ってるでしょ」
夏井は遠慮なくそう言った。
長田は、うっと言葉に詰まった。
「やだなー。っていうか、もしかして響子は私の事恨んでるの?」
にっこりと微笑む夏井。その笑みに圧を感じるのは気のせいではあるまい。
「や、そう言うわけじゃ」
長田は怯んだ犬のように肩をすぼめた。つけ睫毛でゴテゴテになった目を伏せて、しどろもどろになっている。
「夏井」俺は言った。「苛ついてるのはわかるけど、だからって長田に当たるなよ」
「むー」と夏井は不服そうにこちらを見て、「ま、そりゃそうだよね」とため息をついた。「ごめん、響子」
「いい。別に。それより、心配だったけど、いつも通りみたいだね」
長田はほっとしたように表情をゆるめた。
「まあ、最高に腹立ってる意外はいつも通りだよ。犯人見つけ出して目の前で土下座させてやるんだ。それから靴をなめさす。このドロドロの奴を。汚れが落ちるまでね」
「あたしも協力するよ。犯人探し」
「うん。ありがと」
夏井は嬉しそうに言って、長田の手を取った。
「やっぱり持つべき物は友達だね」
そうだね、と頷いた長田の頬は引き攣っていた。
2
「おはよー!」
夏井が上機嫌そうに言いながら教室へ入ったとたん、空気が凍り付いた。クラスのみんなは経験で学んでいるのである。こういう時の夏井は腹が減った猛獣と同じかそれ以上に機嫌が悪いと。普段はブレーキ役として井上が側にいるのだが、どうも今日も学校には来ていないらしい。もっともいまの二人の関係を考えると、居たところで期待されるとおりの役割を果たしてくれるかは微妙だが。そんな訳でクラスの期待が俺に集中するのは無理からぬことであった。祈るような視線を背中に感じながら俺は夏井と一緒に席に向かった。
「うわ」椅子に座って、上履きを机の上に置いた夏井は、何かに気がついたらしく、そう声を上げて俺の学ランを引っ張った。
「みて、画鋲も入ってる。うわー、殺意高いなあ。ヤバいなあ」
ほんっと、ヤバい。そう言って彼女は舌打ちをした。本格的にキレている。
「ねえ、私そこまで恨まれることしたかな?」
「思い当たる節は?」
「んー。まあ私って可愛いしモテるから、仕方ないのかな。って、あはは。んなわけあるか」どすん、と拳を机に叩き付ける。周囲に居たクラスメイトがびくっと震えた。
「わかったから落ち着け。どうどう」
夏井を宥めながら、俺は彼女の机の上に転がった画鋲を見ていた。
「ちょっとこれいいか?」
「いいけど? 記念に飾る?」
「だから落ちつけってば」
画鋲を手に持って見てみる。
「汚れてないな」
「……そうだね」
「お前恨まれてるなあ」俺は言った。「多分泥つけた奴と、画鋲は別の人間だぞ、これ」
夏井がまた舌打ちをした。
この教室にガソリンが充満していて、そこでカチカチと火打ち石で火花を起こそうとしている。そんな風情の舌打ちである。
「おはよう」
ぴりぴりした空気を暴力的なまでに振りまく夏井に、しかし動じずに話しかけてくる命知らずが居た。
切れ長の目をした性格がきつそうな美人。大石ななかである。セミロングの髪を耳の上にかきあげながら彼女は、「大変だったみたいね」
「まあね。ななかさあ、なんか心当たりない?」
「香奈のこと恨んでる女子なんていっぱいいるから分かんないよ」
「ななかは?」
「自分がしたこと思い出してみたら?」そう言って彼女は肩を竦めた。「まあいまは香奈のことは好きだから、私はしないよ。それに仮に何か思うところがあったとして、でもあんなことするくらいなら、直接ぶん殴るし」
「うえー、ななかは怖いなあ」
「よく言う」そう言って大石は苦笑した。「まあ私もいろいろ当たってみる。根気よく探せば一人くらい見た子もいるでしょ」
「ありがとね」
「まあいつまでもあんたに不機嫌オーラ振りまかれると学校中の空気が悪くなって仕方ないから」
「いちいち言い方にトゲがあるなあ。慰めてよ。私被害者だよ?」
「それは、そいつの仕事」そう言って大石は俺に笑いかけた。「がんばって」
「……おう」
ひらひらと手を振りながら大石は教室から出ていった。彼女は隣のクラスである。向こうで女王様とか裏で呼ばれているらしい。
「宗平、慰めて」まじめな顔で夏井が言った。
「宥める、の間違いじゃないか?」
「むー。なんでさ、ななかも宗平も、そうトゲがあるわけ?」
夏井の声のトーンが低くなる。と同時にクラスの空気も冷たくなる。
やれやれと思いながら俺は彼女の手を握った。そして彼女の目を見つめる。まっすぐに、その心の奥に語りかけるように。
「まあ原因がなんであれ、ああいう卑怯なことは許せないよな」
「うん」
「いやなことや不満があったら俺に言え。愚痴もだ。他に当たるな。俺が全部受け止めてやるから」
「うん」
「そういうことだ」
「わかった」と彼女は手のひらをぽん、と打って「宗平は私を口説いてるんだ」
「なんでそうなる」
「弱ってるからって口説いてるんだ。ずるいなー」ゆるんだ顔で彼女は、「そんなの好きになるじゃん。元からだけど。えへへー。でもそっか。特別なんだね。私」
えらく都合の良い解釈をしているみたいだけど、おかげで機嫌はいくらかマシになったみたいなので、野暮なことは言わないでおいた。
クラスの雰囲気が多少和んだところで予鈴が鳴った。
3
二限目の休み時間。俺たちのところへ岡本愛が太めの体を揺すりながらやってきた。長田と大石、そして彼女の三人が夏井の取り巻きの中核を成しているのであるが、岡本は他の二人と比べると若干立場が低い感がある。元々は俺がいた小学校で一番権力を持っていた女子だったのだが、夏井の復讐の際に天狗の鼻どころか心も一緒に折られて、それ以来夏井に対してもの凄く弱腰になってしまったのだ。今日も機嫌が悪そうな夏井に話しかけあぐねていたのだろう。機嫌が戻ってきていることを確認してからやってきたのだ。
「あのさ。夏井。私、ちょっと心当たりあるかも」夏井の顔色を窺うような素振りを見せながら岡本は言った。
「心当たりって?」
ちらりとこちらの顔を見てから岡本は、「ほら、二年の時」と言った。
「あー、森か」夏井は面白くないことを思い出したと言わんばかりに声のトーンを低くして、「そんなのいたね」
夏井のそんな様子に岡本はご機嫌とりの様に愛想笑いを浮かべて、「もしかしたらあいつかなって」
「そっかあ。忘れてたなあ。存在感なくなってたし。次の休み時間、ちょっと行ってみるか。ね、宗平?」
「なんで」
行かなきゃならんのだ、と言い掛けて、俺は岡本の縋るような目に気づいて言葉を飲み込んだ。ブレーキ役としてついて行ってくれ、ということなのだろう。しかしその森は、何を隠そう俺に告ったのが原因で夏井の逆鱗に触れたらしく、それではぶられたという経緯があるので、果たして俺が居てどうにかなるのかは判らないのだが。
三限の後の休み時間、俺と夏井、それから別に頼んでいないのに長田と大石と岡本も加わって四組の教室へと向かった。
教室の入り口から森の席を確認するなりぞろぞろと中に入っていって四人で彼女の周りを囲んでしまった。流石にちょっと近づきづらかったので俺は少し離れたところで様子を見守る事にした。
夏井たちの追求に彼女は、
「わ、私じゃない!」
涙目でそう叫んだ。
「確かに、わたしは、夏井にハブられたけど、でもいまの方が性に合ってるから、別に恨んでないんだ。本当だよ」
俺の記憶では、森は長田と一緒に髪を染めて化粧をして制服を着崩していた所謂不良グループの一人だったはずだが、いまの彼女は真っ黒な髪で、化粧もせずすっぴん。制服も模範的に着こなしている。授業をふけてどこかで長田たちと屯していた頃とは別人のようだ。
「どうおもう?」と長田が大石へ訊ねた。
大石は森を一瞥して、「まあ、森はいまの方が楽しそうってのは本当みたいだから」
「ち、違うの?」と岡本がおろおろしながら言った。
「そうだね」と夏井は腕組みをして、「森が言うとおりやってないと思う」
その言葉に森はほっとしたように息を吐いた。
「でさ、森。なんか知らない?」
油断したところに声をかけられたからか、森はびくっと怯えたように肩をふるわせて、それから「判らない」と首を横に振った。
「そ。ありがと。なんか判ったら教えてね。もしかばったりしたら、判るよね?」
夏井が冷徹な目を森に向ける。
「あ、ああ。判ってる」
判ってると森は繰り返す。その手は震えていた。
「ほら、戻るよ。そろそろ休み時間もおしまいだし」
冷淡に言って夏井はほかの三人を引き連れ教室から出ていく。
「その、すまんな」俺は森に言った。
「ううん」と森はかぶりを振って、「それより早く行って」とこちらの目を見ずに言った。「疑われたら、嫌だし」
「ああ」俺はうなずいた。「そうする」
「あのさ。別に嫌いになった訳じゃないから。ただ、わたしまだ引きずってるんだよね。あんたに振られたの。だから顔あんまり見たくないってのもあるから」
森はそう言って机に突っ伏してしまった。そして、手をひらひら振って早く行けとジェスチャをした。
廊下に出ると夏井たちが待ってくれていた。
四人で連れだってぞろぞろと廊下を歩く。
「アフターケアご苦労様」大石が言った。「香奈まだ根に持ってたみたいだから」
「べつにぃ。ただまだちょっと未練ありそうな顔してたから」と夏井は悪びれた風もなく言った。
「それよりさ。アテがはずれたけど、どうする?」と長田が岡本の方へ視線を送りつつ訊ねた。
「わ、私は井上さんが、その」と岡本が夏井の顔色を窺いながら、「やれって言ったとか」
「ないね」夏井が断言する。岡本はぎょっとした顔になった。が、夏井は気にする素振りもなく、「噂流したりとかはやってるけど、こういうのはやんないよ」
「私と同類だからね。彼女」と大石は肩をすくめた。
「ほんとにね。名前も似てるし」夏井は苦笑する。
「そうそう。たまに私の名前呼び間違えるもんね」
「あー、うちもたまにどっちの話してんだろ、ってなるときあるなあ」と長田が言う。「あれ? 井上だっけ? 大石のこと? って」
「三島は?」と大石が訊ねてきた。「あんたでも聞き間違えたりする?」
「いや、こいつ俺と居るときはおまえらの話全然しないからな」
「え、なにそれショック」と長田が大げさに胸を押さえるジェスチャをした。
「私以外の女に興味を抱かせないために、みたいな感じ?」と大石が切れ長の目を細めて笑う。
「まあ、はずれではないかな」と夏井は言う。「それにさ。奈々子って結構嫉妬深いから。私がほかの友達の話してると機嫌悪くなるんだよね。大体私ら一緒にいるから、それでななか達のことあんまり話せないんだよ」
「へえ、あの井上がねえ」と大石は感心したように言う。しかし、恐らくは周知のことなのだろう。驚いた様子はなかった。そもそも彼女たちは、夏井が俺や井上と一緒に居るときはあまり近寄ってこないのだ。やっぱり色々察して機嫌を損ねないようにしているのだろう。岡本ほど露骨ではないが、大石も長田も内心では夏井が怖いのだ。
「そういや、どうなってるのよ。喧嘩は」大石が言った。
「まだ終わってない」
夏井がそう答えるのと同時にチャイムが鳴った。
「じゃ、また次の休み時間」そう言って大石が自分の教室に入っていった。俺たちも急いで教室に戻った。
4
昼休み。給食を食べ終えた後俺はトイレに行くと言って夏井たちから離れ、一人で廊下を歩いていた。目的地は、どこだろうか。少し前を歩く小さい背中次第だ。そのうちに昼休みの喧噪が遠ざかっていって、校舎の一番端の使われていない教室の前まで来たところでようやく、彼女は立ち止まった。
「どうしてついてくるの?」振り返った西山は困ったように訊ねてきた。
「どうしてだろうね?」俺は肩をすくめた。
「夏井さんに、なにか言われた?」そう言った時の彼女が一瞬おびえているように見えたのは気のせいではあるまい。
「別に。ただちょっと気になることがあって」
俺がそう言うと西山は一瞬目をそらした。それから「気になることって?」と薄ら笑いを浮かべた。阿るような卑屈な笑みだ。
「あの画鋲、西山が入れたんだろ?」俺は言った。
彼女は「まさか」と言って、右手でメガネを触ってから、「言いがかりだよ」と悲しそうに目を伏せた。
「じゃあなんで、下駄箱で俺と話してた時に、画鋲のこと知ってたんだ?」
「それは、見てたから」そう言って西山はまたメガネを触った。そして苛立ったように肩を揺すって「もう行くから」と言って早足でこちらの脇を抜けようとするので、俺はそれを腕で遮った。
「しつこいよ。私だって怒ることはあるんだから」
そう言って西山は俺を睨んだ。その表情から早くこの場から立ち去りたいという気持ちがにじみ出ていた。
「夏井が画鋲のことに気づいたのは、教室に入ってからだぞ」
西山は震える手でメガネの位置を直す仕草をした。それからゆっくりとこちらに向き直り、「なんでもするから」と絞り出すように言った。
「黙っててくれ、と」
「なんでもする。なんだったら、私の事、好きにしていいから」
「変な本の読み過ぎじゃないか?」俺は言った。「それにもう手遅れだ」
俺の言葉に西山の顔が真っ青になる。
「そゆこと」
ふふん、と不敵な笑みを浮かべながら夏井が姿を現した。
いつからそこにいたのかは判らないが、柱の陰に隠れてこちらの様子を窺っていたらしい。
「関心しないなあ」にこにこしながら声に怒気を孕ませ、夏井は西山に迫る。まるでヤクザだ。「あんなことした上に、宗平のこと誘惑するなんて」
西山はじりじりと後退していくが、ついに壁際に追いつめられ、絶望した表情でこちらに助けを求めてきた。しかしそれが悪かった。彼女は壁際に追い詰めた獲物の、その顔の両側にどん、と手を突き、額がぶつかり合うほどの距離まで迫り、「誠意、見せてよ」と凄んだ。
西山はついに恐怖に目も開けていられなくなり、堅く目をつむり、両手で頭を押さえながら、「ごめんなさい」と繰り返した。
「夏井」俺は言った。「その辺でいいだろ」
「宗平、黙ってて。洗いざらい吐かすから。響子に言って、何人か人連れてくるように頼んでよ」
長田の名前が出た途端、西山の様子が一変した。「ごめんなさい」から「嫌だ」に言葉が変わって、とうとう崩れ落ちてその場にうずくまってしまった。
「夏井」俺はさっきよりも強く言った。「やりすぎだ」
「だってこいつ、響子の子分に虐められてるんだよ? そいつにやらせればすぐに吐くでしょ」
「それがやりすぎだって言ってんだ。それ以上やるっていうんなら勝手にしろ。ただし、金輪際俺に話しかけるな。いいな?」
俺はそうまくし立てると、二人の側へ歩いていった。そして呆然とする夏井を押し退けて、西山に手をさしのべた。
「待って!」
横から夏井が俺の腕をつかんだ。
「ごめんなさい。謝るから。だから見捨てないで」
打ちひしがれた様子の彼女はいつもよりも小さく見えた。思った以上に効いたらしい。
「謝る相手は俺じゃないだろ」
声を低くして言うと、夏井は叱られた子犬みたいに背中を丸くして、「うん」と頷いた。
「西山、ごめん。やりすぎた」
夏井は、うずくまる西山のそばにしゃがみ込んで、震える西山の背中を撫でた。
「もしかして、響子の子分のことで、私を恨んでたの?」
うずくまったままの背中がびくっと震えた。
それを見た夏井は悲しそうに「あぁ」と嘆息した。それからうっすらと目に涙を浮かべて、「ごめんね」と言った。
「知ってて、無視してたのか?」俺は言った。
「響子がそのうちなんとかするだろうって思ってた」そう言って夏井は俯いた。「私のこと、嫌いになった?」
「いまさらだろ」俺はため息をついた。それに俺だって西山が面倒なのに絡まれているのは知っていたのだ。ただ、自分とは関係の浅い人物だから見て見ぬ振りをしていた。夏井のそれが罪なら俺の行動も罪になる。
「そう言うわけだから、西山。俺たちに協力してくれないか。もし何か知ってたら教えてほしい。もう卒業間近の時期だけど、でも長田にかけあってみるから。夏井が」
西山が顔をあげた。涙でぐしゃぐしゃになった顔で「ほんとう?」と言った。
俺は夏井に目配せをした。
「う、うん」と夏井はうなずいた。「響子に言ってなんとかさせる。確か狩野だったよね。あんた虐めてたの」
西山はこくこくと頷いた。
「あいつ響子の、なんだっけ、金魚の……」
「金魚のフン」俺は言った。
「ああそれ」と夏井は頷く。「そのフンの癖に生意気だし。あいつのせいで私の心が傷つくことになったんだし。ちゃん落とし前つけてもらわないと」
「物騒だぞ」
俺が今更のようにそう注意すると夏井は、しまったという顔をしてそれから溜息をついた。そして憂えた表情のまま西山に事情を話すように促した。
5
西山の話すところによると、まず画鋲を入れた動機というのは夏井が言い当てた通りで、夏井の指示で自分が虐められていると思っていたためであったらしい。そう思った理由というところまでは語らなかったが、ともかく彼女は夏井を恨んでいた。それでも卒業まで我慢すればどうにかなるからと我慢していたらしい。しかし昨日の放課後、彼女は下足場で不審な行動をとる後輩を見つけた。その手には泥に汚れた上履きを持って居て、物陰に隠れて見ていると、なんとその上履きは夏井のものだった。
「それを見て、ざまあ見ろって思った」
西山は膝を抱えて座りながら、卑屈な笑みでそう言った。
昨日はそこで一旦溜飲が下った思いで帰ったのだが、帰宅後、狩野から呼び出されていろいろ付き合わされて鬱憤がたまっていたらしい。そこで上履きのことを思い出し、いつもより早い時間に登校し、夏井の上履きに画鋲を仕込んだらしい。
「なんで狩野のにしなかったんだ?」
俺が訊ねると西山は卑屈な笑みを浮かべて「だってばれるでしょ」と言った。「それに夏井さんがやらせてると思ってたから」
「あとは、その泥まみれにした犯人のせいにできるから、ってわけね」夏井が納得したようにうなずいた。「それで? その後輩は知ってる子?」
西山はこくこくとうなずき、それからメガネを直した。「小林なずなっていう一年生の子。バレー部で一年の女子にしては背が高くて――三島くんよりちょっと低いくらいかな――、左目の下に泣きぼくろがある子」
「なるほど」と夏井は何か心当たりがありそうな思案顔で、「結局そっちか」
「そっちって?」
「バスケ部。多分そこまでたどれる。あーもう、やだなー。私あそこの連中苦手なんだよね」
ぐしぐしと頭をかきながら夏井はそう言った。
「で、その。夏井さん」西山は不安そうに夏井の顔をのぞき込む。
「ああ、うん。狩野のことは任せて」面倒くさそうに夏井は言った。「知りたいことは知れたし。戻ろうか」
夏井は西山に手を差し伸べた。西山は怪訝そうな表情を浮かべたあと、はっとしてその手を取った。そして夏井は立ち上がらせた西山の耳元で何か囁いた。
「おい」俺は夏井に呼びかけた。西山がまたおびえた表情を見せたからだ。
「運が良かったね、って言っただけだよ」
ね? と同意を求められた西山は何度もこくこくと頷いていた。
「行っていい?」と西山はこちらを見て言った。
夏井が何か言う前に、「ああ。ありがとう」と俺は言って西山を逃がしてやった。
それに対して夏井は特に何も言わなかった。用が済んだからどうでもいい、という風でもなくなにか物思いに耽っている様子だった。腕組みをして壁にもたれて、視線を反対側の壁の根元辺りに漂わせている。なにか深刻そうな表情だ。いまさらになって自分が周囲から向けられている感情を自覚して、落ち込んでいるのであろうか。あるいは自分の行いを悔いているのか。
「どうしたんだよ」俺は言った。
「どんどんなりたくない、嫌な自分になってるな、って思って」
「なんだそりゃ」
夏井はスカートのポケットからスマホを取り出して、時間を見た。「まだ10分くらいある」
「今度バレたら親呼ばれるんじゃなかったっけ?」
「自分も隠れて持ってきてるくせに」
「で? 多分もう残り9分くらいだと思うけど」
「聞いてくれる?」
「聞くだけなら」俺は肩を竦めた。「でも神父じゃないぞ?」
夏井は「なにそれ」と力なく笑った。そしてその笑みを貼り付けたまま、「あのさ、私の親って離婚してるんだよね。知ってると思うけど」
「小学校に上がる前のことだろ?」
夏井は頷く。「でさ、私のお母さんって、本当にクズだったの」彼女の目に、俄に憎悪が燃え上がった。「お父さんが仕事で忙しいからって、不倫相手家に上げて、私の世話もしないで、機嫌が悪いと殴られることもあった」
俺は何も言わず彼女の隣に移動して、同じように壁にもたれかかった。
「お母さんって弱い物虐めが大好きだったらしいんだ。結婚する前は看護師だったんだけど、よく後輩とか気の弱い先輩を虐めてたって。結婚してからも、お父さんの経歴でママ友にマウンティングするのが生きがいだったって聞いて、そんな人間には絶対なりたくないって思ってたのに、気がついたら似たようなことしちゃってる。西山にも、あんな風に脅すつもりなんてなかったのに。怖がっているのを見たら、急に止まれなくなっちゃった」
「正直さ」俺は言った。「ちょっとびっくりしてる。あんまり俺の前でそういうとこ見せたことなかっただろ?」
「見せたくなかったから。そんなことしたら嫌われるって確信があったから。だから、本当のこと言うと、ぼろが出ないように響子達のことをあんまり話さなかったし、一緒に居るときになるべく近づいてこないように、はっきりと口にした事は無かったけど、でも態度とかで牽制してた。せめて宗平のなかだけでも、可愛い私で、理想の私でいたかったから。けど、なんでだろ、今日に限って」
「井上だな」俺は言った。「あいつが上手いことお前の手綱握ってたんだよ。多分」
夏井は何も言わずに嘆息して、それから俺の手を握った。
「最低だなあ、私」
俺は黙ってもう片方の手で彼女の頭を撫でた。
「これでなんか罪を償った気になっちゃってる」
最低だな、とまた呟いた。
予鈴が鳴る。
俺は夏井の手を引いて歩き出した。
夏井は黙って、俯いて、着いてくる。
叱ってやることも、フォローしてやることも出来なかった。
なにより、吐露されるまで夏井の葛藤を俺は知らなかった。
やるせないと言うか、情けないと言うか。今日これまで見てきたものが罪悪感とか無力感とか、そう言う手の施しようのない感情を呼び起こして、俺はそれが漏れ出ないように、唇を噛んだ。
重い沈黙が、静まり行く昼下がりの廊下を包み込んでいた。
続く
遅くなりました。お久しぶりです。
一応そろそろ第一部の締めが近いので、いままで出そうと思って出せなかったキャラと設定を出そうと思った。そんな感じの前振り回です。番外編でもうちょっとこの辺掘り下げていきたいです。そのうち。
次回は3月20日頃です(週末までずれ込む可能性有り)。




