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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第五章
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Heading for spring interlude 03『ある朝の三人』



 体が何となくだるい。そんな感覚で目が覚めた朝は大抵天気が悪い。たまに体調がとてもいい時などは天気が悪くても不調はないのだが、今日は駄目らしい。寝起きから頭が痛かった。窓辺に立つと雨音が聞こえた。外はまだ暗い。街灯の明かりの中を雨粒がノイズのように舞っているのが見えた。一瞬、その中に人影が見えたような気がして、俺は思わず窓から離れた。そして再び、恐る恐る外の風景をのぞき見た。何の変哲もない街灯がみすぼらしい灯りで地面を照らしている。濡れた地面が黒くてらてらと光っている。それだけだ。

 昨日のあのメールのせいだろう。

 考えすぎだと自分に言い聞かせる。流石に井上だってそこまではしないはずだ。

 服を着替え、部屋を出た。まだ早いのでもうしばらく眠っていても良かったのだが、目がさえてしまった。洗面所で顔を洗って寝癖を直す。それから俺はリビングへ向かった。

 真っ暗な室内に何故か人の気配を感じて、息を潜めながら様子を窺った。

 そして何気なくソファの方へ目をやった俺は思わず悲鳴を上げそうになった。

 人影が見えた。薄闇のなかでその人影はソファに座り、俯いていた。

 俺はつばをごくりと飲み込み、できるだけ物音を立てないようにして壁に手を這わせた。そして照明のスイッチを入れた。

 そして恐る恐るソファの方を見た。

「……さくらさん?」

 そこにいたのはさくらさんだった。どう言うわけか知らないけれど、彼女はソファに座ったまま眠っていた。近づいてみると、ソファの前のテーブルにノートパソコンが置いてあった。ここで原稿でもやっていたのだろうか。と考えているうちに暖房がつけっぱなしになっていることに気が付いた。

 原稿中に寝てしまって、その後夜中に怜か母さんがトイレか何かで降りてきて、電気が点けっぱなしになっていることに気が付き、さくらさんに気付かずに電気だけ消した、ということだろう。

「さくらさん」俺は彼女の肩を軽く揺さぶった。「こんなところで寝てると風邪引きますよ」

 びくっと、彼女の肩が震えて、それからゆっくりと頭が持ち上がった。

「んー」と呻いて彼女はこちらを見た。そしてあんまり見たことがないようなとろけた表情で、「宗平くんだぁ」と俺に抱きついて来た。どうも寝ぼけているらしい。俺の胸に頬ずりをしながら、「宗平くんだ」と繰り返した。

「そうですよ。俺です。さくらさん、おはようございます」

「うん。だいすき」

 にへら、と無邪気に彼女は笑ってそう言った。

 思わずくらっと来た。決して頭痛のせいでそうなったのではない。寝ぼけた彼女は普段よりも可愛らしくて、理性をがんがん削ってくる。これはこのまま続けられるとやばい。そう思ったので「起きてください」と耳元で、少しだけ大きな声を出した。

 彼女は目を白黒させて、それから俺の顔を見て、うつむいて、もう一度俺の顔を見てから目をつむってソファの上に倒れた。

「これは夢」彼女は言った。

「現実です。おはようございます」俺はにっこり微笑んだ。

「嘘よ。嘘なの」彼女は顔を両手で押さえ、体を丸くして震えている。「違うの。あれは、その、」

「いいじゃないですか。子供っぽいさくらさんもかわいかったですよ」

「そう言うこと言わないで。よけい恥ずかしい」

 しばらくそっとしておいて、と彼女が言うのでそれ以上からかうことはせずに、俺はキッチンで弁当の用意を始めた。といっても昨日、お弁当の為に多めに作っておいた具を詰めるだけだ。ご飯はまだ炊けていない。朝食も余り物をメインにする予定だったので、これといってやることがない。

 リビングに戻るとさくらさんはまだ丸まったままだった。俺は彼女がいるソファの端っこに腰掛けた。

「さくらさんって、素だとあんな感じなんですか?」

 俺が訊ねると彼女は「判らない」と応えた。

「無邪気で子供らしかった時期なんて一度もないもの」寂しげに彼女はそう言った。

 彼女がどんな幼少期を送ってきたのか俺は知らない。でもきっと、愛に満ちたそれでないということは判る。

「いいですよ」俺は言った。「甘えても」

「どういう風の吹き回しかしら」

 いつのまにか彼女は手で顔を覆うのをやめていた。困惑した表情でこちらを見ている。

「なんとなく」俺は言った。井上のことがあったし、体調もよくないので、俺の方も人恋しかったのかもしれない。だからこんな提案をしたのだ。

「いいの?」おずおずと、彼女は上目遣いで訊ねてきた。まるでほしいけど遠慮して言い出せなかった玩具を買ってもらえることになった子供の様だ。

「まあ、浮気にならない範囲でなら」

「なにそれ」と彼女は笑った。「それなら、お言葉に甘えて」彼女は起きあがらずに、ソファの上を這うように移動して、俺の膝の上に頭を乗せた。

 えへへ、とさくらさんが照れたように笑う。

 なんだか最近膝枕と縁があるなあ、などと思いつつ俺は仰向けになった彼女のおでこに手をおいた。

「なに?」と彼女はちょっとだけ不安そうに瞬きをした。

「さあ?」俺は言った。なんとなくそこに手を置くべきだと思ったのでそうしただけだった。深い意味などありはしない。まああれだ。膝の上に乗ってきた小型犬の頭とか背中とかを適当に撫でるのと同じ、ある種の反射行動といえるかもしれない。

「あなたの手、やっぱり大きいわね」

「どっちかというと小さい方ですよ」俺は言った。

「怜より大きいでしょ?」

「一応は。まあ僅差ですけどね」

「けど、私よりずっと大きい」

 そう言って彼女は俺の手に自分の手を重ねた。

「なんだか安心するわ。怜の手もそうなの。不思議ね」

「もしかしたら」と言い掛けて俺は言葉を飲み込んだ。父性とか母性とか、そう言う物に飢えているんじゃないか、ということを言い掛けたのだ。でもそこまで踏み込んでいいのか迷いがあったので、言い切る前に腹の底に押し込めた。

 だが彼女はなんとなく察したようで、いとおしげに俺の手に触れながら、「優しくて、安心できる」と目を細めた。「もし私が死んだら、あなたたちの子供に生まれ変わりたい。なんて、何考えてるのかしら、私」

 俺は彼女の言葉に少なからず戦慄を覚えていた。一度自殺を図っている彼女であるから、冗談だろうと判っていても、思わずぎょっとしてしまうのだ。

「ごめんなさい。驚かせたかしら」彼女は少し申し訳なさそうに言った。

「いえ、そんなことは。ああ、いえ、そうですね。内容が突拍子なさすぎてびっくりしました」

「そうね。ふふ、どうしてこんなこと言っちゃたのかしら」

 可笑しい、そう言って彼女はくすくす笑った。いつもより子供っぽいのはやっぱり甘えているからか。

 思えば付き合っていたとはいえ、その期間はとても短くて、だから俺はあまり彼女の素の顔を知らない。嫉妬深くて、どこか歪んでいる。そんな一面ばかりと遭遇していて、こんな風に穏やかな時にこそ見せる安らいだ彼女をあまりにも知らなさすぎた。

 だから思ったのだ。こんな彼女をもっとみたいと。

「さっきの、結構本気かも知れない」彼女はぽつりと呟いた。「もちろん、もう死のうだなんて思ってないけれど」

「どんな顔したらいいんでしょう」

「困るでしょ?」

「はい」

 俺が応えると彼女は嬉しそうに「でしょ」と笑った。

「いま思ったのだけれど。私がもし、あなたよりも年下だったら、良い妹になれたからしら」

「また答えにくいことを」

「いいでしょ? 甘えて良いっていったのはあなただし」

「そうですね」やれやれとため息をつく俺の脳裏には花音の姿がちらついていた。俺が知っている年下の女の子なんてあいつくらいだ。生まれてこの方年上と同級生には縁があっても、後輩から好意を寄せられたことも、特に友人として仲良くなったこともなかった。

「ああでも、あなたどちらかというと年上好きよね?」

「そういうつもりはないんですけどね」

「けど、私が最初の恋人で、怜のこともずっと好きだったんでしょ?」

「そりゃまあ、そうですけど」

「そう言えば奈雪はどうなの?」

 まるで大切なことを聞き忘れていた、とでも言わんばかりに目を輝かせて彼女は俺を見た。

「特に」俺は答えた。

「照れ隠し、じゃないわね」がっかりした様に彼女は言った。

「なんとなく、本能的にですね、奈雪姉さんのことは特にそう言う目で見たことがないんですよ」

 異母姉弟だと知る以前から、奈雪姉さんは俺の中ではお姉ちゃんだった。まあ本人に対してそう呼んでやったことなんて両手で数えられるくらいしかないけれど。

「あなたって節操なしだから、てっきり奈雪のことも意識しているのかと」

「ひどい言い草ですね」そう言って俺は肩を竦めた。

「でも、事実でしょう?」さくらさんは冷ややかな目でそう言った。「怜と私、それに夏井さんだったかしら」

「いや、夏井は」

「違うの?」

「ただの同級生ですよ」

「あら、でもあなた、彼女が私の制服を着たとき、すごく見惚れた顔をしていたけれど」

「そうでしたか?」

 俺がそうとぼけると、彼女はむっとした顔になって、それから手の甲をつねった。

「さくらさん、痛いです」

「そうよ? 痛いでしょ」

「あの」

 彼女は俺の言葉を遮るようににっこりと微笑んでそれからまた手の甲を、今度は爪を立てて抓った。

「節操なしよね?」

「……はい」

 俺が認めると彼女は体を揺らして笑った。しかし声は押し殺していて、まるで何かの発作のようだ。

「ねえ、宗平くん。これじゃあまるで、私があなたの恋人みたい。そう思わない?」

「どうでしょうね」

 彼女の問いに、そう曖昧に答えると、今度はわき腹を抓られた。

「痛いですって」

「知ってる」

「さくらさんって結構我が儘なんですね」

「あなたが悪いのよ」

 俺はため息を吐いた。「質問に質問で返すのは恐縮ですけど、さくらさんはどう思ってるんです?」

「愛人」彼女はまじめな顔でそう答えた。「だってどうやったって怜には勝てないもの」

「こう、新しい恋人を見つけようとかは」

「ぜんぜん、思わない」きっぱり彼女は断言した。

 俺はそんな彼女の様子を見て、情けないことに少し安心してしまった。そして彼女は俺のそんな心の内を見透かしたように、「嬉しい?」と訊ねてくるのである。

「あ、そろそろ時間ですね」俺は壁の時計を見て、わざとらしくそう言った。

「ずるいわよ」と彼女は言った。「あなたの答えをまだ聞いてないわ」

「そろそろ怜も起きてきますよ」俺はそう言ってまた時計を見た。実の所怜が起きてくるまでにはもう少々時間がありそうだったので、完全にはったりであった。

「この現場をあの子が見たらどう思うかしら」

 さくらさんがいたずらっぽく笑う。こちらの意図を見透かしたというよりは、上等だという表情である。

 そりゃあ、浮気現場だと思うだろう、と思っていると「浮気現場、かなあ」と背後で声がしたのでびっくりして振り返ると呆れ顔の母さんがそこに居た。

「おはよう」と母さん。

「おはよう」俺は応えた。

 さくらさんは俺に膝枕をされた状態のまま固まっていた。

「宗平、朝ご飯は?」

「昨日の残り物。もうすぐご飯炊けるとはずだから、レンジで温めて食べて」

「ほんと、できる息子だわ」そう言って母さんはキッチンへ向かった。が、途中で立ち止まり、「けど宗孝さんに似なくて良いところが似ちゃったわね」としようがないと言いたげに眉を下げて、「あなたたちを見ていると若い頃を思い出すわ。あーもうやだやだ。年はとりたくないな」

「あ、あの」とさくらさんがようやく再起動した。彼女はゆっくりと起き上がり、「お母様もまだまだ若くてお美しいですよ」と何故かおべっかを使った。

「そう? ありがと」

 母さんはにっこりと微笑んでそう言った。

「さっちゃんも、元々綺麗だったけど、テレビに出るようになってからもっと綺麗になったわね」

「いえ、そんな」

「あか抜けたっていうの? ねえ」と母さんはこちらに水を向けてくる。

 ちら、と横目でさくらさんをみる。彼女は緊張しすぎて涙目になっていた。

「まあ、一応」俺は言った。「髪もちょっと伸びたし」

 俺がそう言うと彼女は相変わらず緊張でガチガチになりながらも、毛先を指でくるくる弄び始めた。多分嬉しいのだろう。

「まあ正直あんたらの関係は爛れてる。でも結局三人でどうしたいかって話だし、じっくり話し合って決めなさい。お母さんからは何も言いません。宗平、男として責任とりなさい。さっちゃんも、あなたの方が年上なんだから、節度はしっかり。あと怜のことお願いね。あの子寂しがり屋さんだから」

「え、あ、はい」

 うなずいたさくらさんの頬は上気して真っ赤だった。

「あ、そうだ。宗平」と母さんは心なしか気だるそうに、「頭痛薬ってどこだっけ」

「二日酔いかよ」俺は言った。「食器棚の引き出しの中」

「あそこか」

 母さんが食器棚の方へ歩いてく。

 その背中に向かって俺は、「いい加減、飲む量減らせよ。そこまで若くないんだから」

「平気平気。肝臓の数値はいつも正常だから」

 うちは酒飲みの家系だから大丈夫よ、と母さんは言う。いつもそう言ってぐびぐび呑むのである。実際母さんの実家は酒豪ばかりだったので、妙な説得力があるのは否めない。だが心配なのは心配なのである。やれやれと思っていると、炊飯器のアラームが鳴り響いた。

 手早く朝食を食べてしまうと母さんはあわただしく家を出た。別に急ぐ時間でもないだろうに。そう思って時計をみる。

 そろそろ本当に怜が起きてくるころだな。

 なんて思っていると怜がリビングに入ってきた。一応制服に着替えているが、髪は方々に跳ねまくっていて、目もちゃんと開いてない。目の下にクマがうっすら見える。夜更かししていたらしい。

「おはよう」と俺が言うと彼女は瞬きを繰り返しながらもごもごと何か言った。多分おはよう、と返事をしたのだろう。

「もっとちゃんとしてから来なさいよ」とさくらさんが呆れた様に言った。

「さくらさんもパジャマのままですけどね」

「そういえば」と彼女は自分の服装をいまさらのように確認して、「私も支度しないといけないわね。ほら、怜、行くわよ」

 さくらさんの呼びかけに、相変わらずもごもごと謎の言語を発する怜。お構いなしにさくらさんは怜の手を取って強引に引っ張ってリビングから出ていった。

 その間に俺は朝食の用意を済ませておく。

 戻ってきた二人を見て俺は少し感動した。というのも近頃はみる機会のなかった北高の制服姿が、おかげでとても新鮮に見えたからだ。とくに身なりをしっかり整えた怜の制服姿というのは、滅多に見れない彼女の洋服姿であるので、その感動は一入。

「なんだかもの凄く熱い視線を感じる」と怜が恥ずかしそうに顔を俯けた。

「もう見納めも近いんだな、と思うとつい」

「その、そうちゃんが着て欲しいっていうなら、卒業してからも、着るよ?」上目遣いでもじもじしながら彼女はそう言った。そのいじらしい仕草に寝起きからの不調も吹き飛ぶ勢いで、俺の中で何かがこみ上げてきた。が、怜の隣に立つさくらさんの冷ややかな目が冷静さを取り戻させてくれた。もし居なかったらヤバかった。

「時間に余裕があるからってあんまりのんびりしてたら後で泣きを見るわよ」

 もっともな意見である。

 さくらさんに促されるまま俺たちは食卓に着いた。

 そして黙々と食べる。俺と怜は隣り合って、その向かい側にさくらさんが一人で座っていた。

「そういえば」

 ふと何か思い立ったようにさくらさんは、俺と怜の顔を交互に見て、「あなたたち、どれくらいの頻度でしてるの?」

 うぐ、と怜が呻いた。味噌汁の椀を手に持ったまま、真っ赤な顔でぷるぷる震えている。羞恥ではない。喉に詰まったのだ。俺は慌てて彼女の後ろに回って、背中をとんとんたたいてやった。

 ごくりと嚥下して、「なんてこと訊くのよ」と怜はさくらさんを睨んだ。

「ちょっと気になっただけよ」しれっとした表情でさくらさんは言う。「今書いてる作品の参考にしようと思って。それに、さっきもし私が居なかったら、あなたたち朝っぱらからしてたんじゃないの?」

 怜が俺の服の裾を摘まんだ。顔が真っ赤になっている。今度こそ羞恥の赤面である。

「前から気になってたのよ。だって、結構な頻度よ? 怜が腰がだるいだのなんだの言ってへろへろになってたの。全身筋肉痛だ、って感じの動きしてることも結構あったし」

「べ、別に朝からやってる訳じゃないから」ムキになって怜はそう反論した。「翌朝きてるだけだから!」

「多いと週四くらい、ね」

 吐き捨てるようにさくらさんは言った。

 怜は意外とシャイである。見事に墓穴を掘った彼女は、いっそ棺桶に詰めてそのままそこへ埋めてくれと言わんばかりの表情で俺の手を握った。

「さくらさん、これ以上はちょっと」

 俺がそう言うとさくらさんはむっとした様に唇をとがらせ、「そうやって彼氏ですって顔されると、なんだかもやもやするわね」

「まあ彼氏ですし」

「判ってるわよ」さくらさんは溜息をついた。「感情ってね、御しきれないものなのよ」

 やるせなく呟いた彼女の言葉には実感が伴っていて、だからこそ見ているこちらもやるせなくなってくる。

 怜は何か言いたげな目をしながら朝食をもそもそ食べている。そんな彼女の姿に、さくらさんはふっと頬を緩めた。

「なによ」怜は言った。

「あなたはマイペースね」さくらさんは言った。「一応褒めてるから」

 あっそ、と気のない返事をして、怜は食事を再開した。



 食後の後片付けは怜とさくらさんの二人がやると言い出したので、「それじゃあお願い」と俺は素直に任せることにして、リビングでのんびりしていた。普段怜が片付けをしてくれることはあんまりない。多分、さくらさんが先にやると言い出したので対抗意識を燃やしたのだろう。明日から、と言わず今日の夜からでもずっと洗い物をやってくれると助かるのだが。

 手持ち無沙汰でスマホを弄っているとSNSの通知が表示された。公康からだ。今日は彼女と一緒に登校するらしい。それからすぐにまた通知が出た。今度は夏井だ。

「今日どうする?」と送られて来たので、「なにが?」と返す。すぐに既読になって「奈々子のこと」と返ってくる。

 そう言えば、夏井のところにもあの脅迫染みた画像は送られてきたのだろうか。確認しようと文字を入力しかけて、しかし仮に俺だけに送られて来ていたとしたら、余計な心配をさせてしまうんじゃないか、と指が止まってしまう。結局そのことには触れずに、「今日も休んでたら放課後様子を見に行く」と返信した。

「誰と楽しくお話しているのかしら?」

 背後でさくらさんの声がした。

「夏井ですよ」俺は答えた。

「あなたって、本当にこう、弄り甲斐がないわね」がっかりしたようにさくらさんは言った。

「別に見られて困る様なやりとりしてないですし」

「でももうちょっと慌ててもいいんじゃないかしら」

 ねえ、と怜に同意を求める。

「そうなんだけど。私が小さい頃から弄りすぎたせいで耐性ついちゃったから」と怜は苦笑する。「普通さ、こういうのっていつまで経っても慣れないよね、みたいな感じになると思うんだけど。どうしてこうなったんだろ」

「現実と漫画は違うんだよ」俺は肩を竦めた。それからスマホをスクールバッグに突っ込んで、「そろそろ時間だぞ」



 いつの間にか雨は上がっていた。地面も所々乾いているところがあるので、止んでからそれなりに時間が経っているらしい。道理で調子が戻ったわけだ。なんて考えながら家の鍵をポケットから取り出す。

 玄関の鍵がちゃんと閉まったのを確認してから振り返った。申し訳程度に設置してある門の前で怜とさくらさんが待っていた。二人とも心なしかうきうきした表情なのは気のせいではないだろう。

「あなたとこうして通学出来るなんて、夢みたい」

 大げさなことを言ってさくらさんは俺の左側に回り込んだ。

「あ、ちょっとずるい」と怜がその行動に抗議する。

 俺は自転車を押して歩いていて、その自転車が右側にあったからだ。

「早い者勝ちよ」なんて言いながらさくらさんは身を寄せてくる。「いいじゃない。あなたはいつでも宗平くんといちゃいちゃ出来るんだから。いまくらい、愛人の私に花を持たせてくれてもいいんじゃない?」

「愛人なら、正妻の前ではもう少し慎ましやかにしておいてほしんだけど」怜はそう言うとさくらさんに寄り添い、彼女のの左腕に自分の右腕を軽く巻き付けた。

「ほんと、さくらって小さいわね。腕が組みにくいったらありゃしない」

「誰もそうしてくれなんて頼んでないわよ」

「私がそうしたいからするのよ」

「じゃあ私も」と言ってさくらさんは俺の自転車の前カゴにスクールバッグを放り込むと、空いた右腕で俺に抱きついてきた。

「ちょっと。それはダメでしょ。反則!」

「いや、二人とも、歩きづらいし、周りからすごい見られてるから」

 バス停が近いこともあって、周囲には北高の生徒が何人か歩いていた。みんな一度こちらを見て、それから見てはいけない物を見てしまったかのような、ぎょっとした表情を浮かべてから慌ててスマホに目を落とす。あるいは音楽を聴きながら、何も見ていない風を装う。だが、みんな興味津々といった様子で、横目でちらちら見てくるのである。

「ていうかさくらさん。一応芸能人なんですから、スキャンダルとか気にした方がいいんじゃないですか?」

「いまさらでしょ?」彼女はそう言ってにっこり笑った。

「まあそれは、大丈夫だと思う」と怜が言った。

「なんでさ」

「言いたくない。でも多分平気。少なくとも、相手がそうちゃんなら」

 そう言って怜はさくらさんにぎゅっと寄り添った。その目が一瞬どこか虚に見えたのは気のせいではないだろう。彼女が両親の実家について考えている時にする目だ。何故そうなのか、訊ねたい気持ちはあったけれど、深入りしない方がよさそうだったのでひとまず納得しておく。いずれ、ちゃんと聞かなければならない時は来るだろうが、しかしそれはいまではない。

 バス停に到着した。

「さくらさん、着きましたよ」

 うん、と頷いた彼女は、俺の胸に顔を埋めて大きく深呼吸をしてから離れた。

「ずるい。私も」

 そう言って今度は怜が抱きついてきた。たっぷり深呼吸を三回してから、「充電完了」と言って離れた。

 相変わらず周囲からは好奇の目が向けられているのであるが、二人とも全く気にしていない。しかしこれ、よく考えたら来年俺が大変なのでは? この群衆(というほど人がいるわけではないが)が全員三年生ということなんて絶対ないだろうし。

 俺の心配を他所に、怜とさくらさんはやってきたバスに乗り込むときも、こちらに手を振りながら笑顔を浮かべていた。

 走り出したバスを見送ってから、俺は逃げるように自転車に跨がって全力で漕いだ。

 

 

 

      つづく

最近ダクソ買ってしまいました。

そんな訳で繋ぎのラブコメ回です。

次回は月末か、来月の頭頃です。

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