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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第五章
45/55

Heading for spring Ⅷ『赫』

   5



 切ない余韻が胸を刺し貫いて、私は一人肩をふるわせていた。寒い。そう思って掛け布団に蓑虫みたいにくるまっても何も暖かくない。むしろ匂い立つ彼の残り香と、そこに混じる怜の気配が余計に私を惨めにさせた。

 いっそあのまま強引に押し切れたら。あるいはここに居たのはひとりぼっちの私ではなく、ようやく掴んだぬくもりと、束の間の幸せを噛みしめている私だったかもしれない。もしそうなっていたら、彼はどんな顔をしていたのだろうか。すべてを忘れて私の虜になっていたのか、あるいは隠しきれない罪悪感をちらつかせていたのか。

 考えるだけ無駄だ。すべては絵に描いた餅。思えば思うほど欲しくなって虚しくなる。そう判っていても私はバカだから、そんなことを考えてしまう。

 ずん、ずん、ずん。と足音が迫ってくるのが聞こえた。何か慌てているような歩調。覚えがある。これはきっと怜だ。私は思わず笑ってしまう。状況とかではなく、足音で判ってしまったのだ。怜のことは憎い。学校ではあるいは勉学における好敵手のように振る舞うこともあった。それでも親友で、だから大好きだった。

 私はじっとドアノブを見つめていた。

 がちゃ、と音を立てて一度揺れてから、ドアノブが回された。

 扉が開く。

 髪を振り乱して怜が飛び込んできた。

 彼女の目は一点、私の居る彼のベッドを見ていた。そこで彼女が何を求めて、慌ててここまでやってきたのか察した。

 彼女と目が合う。表情を凍り付かせ、こちらにやってくると、私がくるまっている掛け布団の端を掴んだ。

「ちょっと待ちなさい!」

 私はこれから起こるであろうことを察して叫んだ。

「なんで、あんたが、そこにいるのよ!」

 ぐるりと世界が回った。

 どしん、と床に響いた振動は、果たして落下した私の物だったのか、あるいは尻餅をついた彼女のものだったのか。いずれにせよ、私は蓑を剥がれて床に転がり、怜は尻餅をついて悶絶していた。

「いったー。もう、あんたのせいだから」お尻をさすりながら怜は立ち上がり、こちらを見た。そして眉をひそめて言った。

「待つように言ったはずよ」

 私も立ち上がる。肩から落ちたので右肩が痛い。ゆっくりと肩を回すととても痛い。

「そこは私とそうちゃんの聖域なの。さくらなんかが入って良い場所じゃないんだけど」

「あら。でも、彼が認めてくれたわよ?」

 嘘は言っていない。けど多分認めたというより、面倒だからほったらかしにしただけだ。

「で、そこで何してたの?」

「いいでしょう? 私の勝手じゃない」

「言えないようなこと、してたんだ」

 見下すように彼女は笑った。そしてこちらにやってくると、私をベッドに向かって突き飛ばした。突然のことだったので、私は無抵抗なままベッドの上に転がされてしまった。

「匂いでわかるよ。さくら、あなた一人でしてたのね」

 ベッドの上に仰向けに転がった私を嘲笑うように彼女は言う。

 私は急に恥ずかしくなってきて、思わず膝頭をくっつけて、スカートの裾を整えようとした。怜の手が、スカートを抑える私の、右の手首を掴んだ。

「ねえ、そうちゃんのベッドで、そうちゃんの匂いを嗅ぎながらするのは、どうだった?」

「あなたの匂いが邪魔で集中出来なかったわよ」

 睨み付けながら私は言った。

 怜は、あはは、と笑った。

「でも、良かったんでしょ?」

「なにが」

 私は彼女の手を振りほどこうとした。けれど、上手くいかない。そういえば彼女、基本的に非力なくせに握力だけは強いんだった。抵抗を続けているうちにもう片方の手首を掴まれた。怜はまるで氷のような目をしながら、ベッドの上に倒れ込むようにして、私の両腕をベッドの上に押しつけた。怜の顔が目の前に迫る。

「ねえさくら。別に怒ってるわけじゃないの。ただ、一つ、ちゃんと教え込んでおかなくちゃ駄目なことがある。それだけなの」

「彼はあなたのもの。そうでしょ? それは判ってるわよ」

「ふふ」と彼女は唇を歪め、野性的な笑みを浮かべた。「残念。そっちじゃないの」

 私は今更ながらに身の危険を感じ始めて、両腕を振りほどこうとしたり、お腹の上に乗っかった彼女を振り落とそうと暴れてみたが効果がなかった。

「さくらも、私のもの」

「あなた、もしかして」

 彼女のこの態度に思い当たる節があった。というのも日中、奈雪を交えて三人でランチをしていたとき、私はずっと奈雪とばかり話していたのだ。その間、妙に怜は静かだった。奈雪と別れた後も口数は少なく、最低限のことしか口を利いてくれなかった。思えばあれは、怜なりの怒っていますというアピールだったのかもしれない。もっと気を配るべきだた。

 まるで獲物を品定めするみたいに、彼女は唇を舐めた。

「ねえ、やめて。お願い」

「やーだ」

「あなたのことをのけ者みたいにしたことは謝るから!」

「のけもの」と彼女が目をすっと細めた。「そんな風に思ってたんだ」

 ずい、と彼女の顔が近づく。ふわりと香るのは場違いなほど穏やかな花の香り。彼女がいつも使っているシャンプーの香りだ。いつもは心を和ませてくれるそれも、今日は真綿で締め付けるような不安で私を包み込む。

「おしおきしないと、だね」

 くす、と微笑んで、彼女の唇が近づく。

 私はぎゅっと目を瞑った。

 せめてもの抵抗だと唇を口の中に吸い込んだ。

 私のおでこを、垂れた彼女の前髪がくすぐる。

 そして頬に、柔らかいものがふれた。

 思わず、え、と声を漏らしかけた。別に期待していた訳ではないが、あの流れであれば唇にキスをするのではないだろうか。もしかして、からかわれていたのだろうか。などと考えながら私は目を開けた。そして目を疑った。

 怜は真っ赤になって目を泳がせ、目尻には涙が浮かんでいた。恥ずかしくて死にそうだ、という顔である。

「……あなたねぇ」

「ちょっと冷静になっちゃったのよ。女の子同士でそれって。ずっとそうじゃないって、言い続けてて奴だし」

 なんだろう。いまなら同じような手段で仕返しが出来そうな気がする。

 そう思った時には手が動いていた。何せビビった彼女は私の手首を戒めるその力を弱めていたので、簡単に振り払えたのだ。私は腹筋にぐっと力を入れて上半身を少し起こして、それから彼女の頭の後ろに手を回して、顔をぐっと近づけた。

「いまのあなた、とても可愛いわ」

 ひえ、と彼女が情けない声を漏らした。

 これはいける。そう思った時だった。

「夕飯の用意出来たぞ」

 と彼が部屋に入ってきたのである。

 彼はこちらを見て、首をかしげた。状況を理解出来ていない様子だった。私はとっさに怜を突き飛ばすと、彼の元へと駆け寄り、その胸に飛び込んだ。

「怜が、怜が」と私は声を震わせて、彼にすがりついた。無論、演技である。とはいえ怖い思いをしたことに違いはなかったので半分は本気であったともいえる。そして私の様子に彼は何かを察したように、「なるほど」と呟くと、「怜」としかるつけるように言った。

 私はこっそり振り向いて、ベッドの上で呆然としている彼女にくす、と微笑みかけた。

 彼女は目をむいて、「だって!」と大声で言って立ち上がった。

「なにがだって、なんだ?」

「だって。さくらがのけものにするんだもん」とまるで子供みたいに拗ねながら、「酷いんだよ? 私もいるのにずっと雪ちゃんとばっか話してて。せっかく久しぶりにちゃんと会ったのに。今日のこと楽しみにしてたのに。人の気も知らないで。だから」

「だから、さくらさんを焚き付けたのか?」

 彼は詰問口調でそう言った。

 焚き付けた? どういうことだろう。

 そう思っていると「だって」と彼女は言った。しかし今度は駄々っ子のそれではない。まるで小悪魔のように微笑みながら、「さくらを懲らしめてやろうと思って」

 彼が溜息をついた。そして私をぎゅっと抱きしめてくれた。おまけに、ぽんぽん、と頭も撫でてくれている。でもこれは、さっき私が求めた物ではない。単に慰めてくれているだけだ。けどまあ目的は達成出来たのでヨシとしよう。

「そうちゃんに振られてダメージ受けたところに、さらに追い打ちをかけて、思い知らせてやりたかったの」

 けろっとした顔で彼女はとんでもない計画を白状した。

「踊ってくれてありがと」と彼女はこちらに微笑みかける。さっきの仕返しだろうか。

 私は「怖い」と言って彼により一層強くすがりついた。

「え?」と声を漏らしたのは怜だった。何が意外なのだろうか、と思って彼女の方を見ると何故かショックを受けている様子だった。

「ほら、とりあえずメシだ。せっかく作ったのに冷めるだろ」彼は言った。「ご飯食べてお腹膨らましてそれから話し合えばいいよ」

 怜は何も言わず頷いた。

「さくらさん。歩けます?」彼はそう言って私を気遣った。別に怪我をしている訳でもないのに。もしかしたら彼もテンパってるのかな、なんて思いながら、私は弱々しく彼にもたれかかった。彼は片方の腕を私の肩に回して、もう片方をお腹の辺りに添えて、まるで病人を介抱するみたいに側についてくれた。

 うしろを振り返ると怜が死んだ目でこちらを見ていたが構う物か。さっきの仕返しだ。

 そして私たちはキッチンへと向かった。

 テーブルに並んだ料理を見て私は、思わず笑みがこぼれてしまった。白米に、味噌汁。メインは鯖の味噌煮で、付け合わせに蛸の酢の物と小鉢に盛られた白菜のごま和え。それに茶碗蒸しまである。

「さくらさんって鯖が好きなのかな、って思って」

「そうね。好きよ。鯖」

 あのときの事を覚えていてくれたんだな、といううれしさで思わず頬が緩んでしまう。あれ以来私のなかで鯖は特別なお魚になっていた。きっといまの私はだらしなく目尻を下げているに違いない。先に席に着いた怜は死んだ魚をさらに腐らせたような目で茶碗蒸しをじーっと見つめていた。流石にちょっとやりすぎただろうか。なんて考えながら私も席に着いた。彼女の横でも正面でもなく、斜向かい。実の所、正面から顔を見られるほど、気持ちの整理が出来ていなかったのだ。別に特別な感情はない。そのつもりだけれども、間近に迫った彼女の唇を思い出すと、得体の知れない突風が胸の中でざわざわと吹き荒れるのだ。そんなことを考えながら私も茶碗蒸しに視線を落とした。ほくほくの百合根を想像しながら邪念を押し込めた。


   ※※※

 

 

 二人が席に着いたところで、リビングの奥で戸の開く音が聞こえた。

 ゆらゆらと歩きながら夏井が和室の方から出てきた。

「どういう状況?」あくびをしながらこちらまでやってきた夏井そう言って困惑した表情を浮かべた。

「見ての通りだ」

「いや、判んないって。なんで二人とも茶碗蒸しを凝視してるの? なに? 新手の修羅場?」

「かもしれない」

「はっきりしなよ」

「とりあえず食えよ。できたてだぞ」

「この状況で食えって言われても」と夏井はため息を吐いた。「まあいいや。お腹減ってるし。それに、これサバの味噌煮でしょ? 私好きなんだ。サバの味噌煮」

「そりゃ良かった。適当なとこ座ってくれればいいよ」

「うん。りょーかい」といって夏井は意外なことに怜の隣に腰を下ろした。

ならば空いているのはさくらさんの隣だけ、となる。

 なんで二人して茶碗蒸しを見つめてるんだろう、とか気になることはあったが、とりあえず俺も席に着いた。

 そしていただきます、と手を合わせると箸を持った。

「んー、美味しい! ねえ、宗平。あとでレシピ教えてよ。私が作るのより美味しいよ、これ」

 早速鯖の味噌煮に箸を伸ばした夏井が目を輝かせながら言った。

「そうなのか?」

「うん。悔しいけど宗平の方が美味しい。これお父さんに作って上げたいんだ。ね、? いいでしょ?」

「まあ別に減るもんじゃないからいいけど。というかおまえ順応早すぎるだろ」

「だってお腹減ってるんだもん。ていうかさ、お姉さん、食べないなら私がもらうよ?」

 そう言って冗談めかして夏井が、怜の皿へと箸を伸ばした。瞬間、怜の手が稲妻のようにひらめいた。

「駄目」

 怜の手が、がっしりと夏井の腕を掴んでいた。

「あ、はい」

 夏井が目をぱちくりさせながら頷いた。

 よし、と呟いて怜は夏井の腕をはなした。

 夏井は大きなため息を吐き出して、「び、びっくりしたぁ」と言った。

「冗談でも今のは絶対駄目だから」と真剣な顔で怜は言って、箸を持った。「いただきます」

「さくらさん。二人とも食べ始めてますよ。俺たちも食べましょう」

「うん」

 夕餉の時間は黙々と進行した。怜とさくらさんから漏れ出す気まずい空気に飲まれてしまっていた、という訳でもなく単にみんながみんな食べるのに集中していたからそうなっただけであった。怜は相変わらずの食べっぷりだし、夏井も時々なにか考え込む素振り――きっと味の研究をしているのだろう――をしながら黙々と箸を進めている。対照的にさくらさんの箸があまり進んでいない様だった。訊くと、どうもお昼を食べ過ぎてしまったので、少し胃もたれしているらしい。それでも彼女は夕飯を平らげてしまった。

「あなたの料理が美味しいから」と恥ずかしそうに彼女ははにかんだ。

「浮気」と怜がテーブルに頬杖をつきながら言った。

「有罪」と夏井も続く。

「おまえら仲良いな」

 俺がそう言うと二人は顔を見合わせた。それからべーっと舌を出して「そんなわけない」と声を揃えて言った。

「こんなのと一緒にしないで」と怜はしかめっ面で言った。

「それはこっちの台詞なんですけど」夏井はふん、と鼻をならして腕組みをした。

「仲、良いわね」とさくらさんが言って、笑いをこらえるように口元に手をやった。

「そういや、小さい頃も似た様な感じだったかも」

「へえ、そうなの?」とさくらさんがこちらの顔をのぞき込み、訊ねてくる。

「昔の記憶なんであやふやですけど」と俺は肩をすくめた。

「あら、そんなに古い知り合いなの?」

「小学校に上がる前の頃なんですけど、一年ほど一緒に遊んだりしてたんですよね」

「へえ」とさくらさんは夏井に対して何かを探るような眼差しを向けた。「そうなのね」

「あ、はい」と夏井は緊張して固まりながら、「一応、そうです」

「なんだか、あなたからは怜と似た様な雰囲気が漂っている感じがするわ」

「ちょっと、さくら、それどういうこと?」と怜が言う。不本意だと顔が主張しいている。

「あなたたちのそれは、きっと同族嫌悪ね」くすくすとさくらさんは笑った。

 さくらさんの言葉に、怜と夏井は顔を見合わせ、それからまたべーっと舌を出した。



 食事を終え、食器を流しに運んでいる時だった。

「ねえ、さくら。ちょっといい?」怜が言った。おずおずと言った様子で、「お願いが、あるんだけど」

「なにかしら」さっきの事があるからか、さくらさんはどこか警戒した様子で応えた。

「あなたの制服、彼女に着させて上げたいなって」

 食器を運ぶの手伝ってくれていた夏井が「うぇっ!?」と豪快に驚いて危うくお皿を落としそうになった。

「な、。あの、そんなの恐れ多いですよぉ」と言いながらも夏井の目には期待の色が浮かんでいた。

 怜は溜息をついて、「この子北高受けるつもりなんだけど、いまいち自信がつかないらしくてね。だから今日私が見てたんだけど。まあ正直行けるとは思うんだけど、ほら、ムチだけだと可哀想だし?」

 さくらさんは夏井の方を見て、それから「まあ、いいわよ」

「本当ですか!?」

「こっちへいらっしゃい」

 さくらさんは夏井を連れて客間の方へと歩いて行った。

「どういう風の吹き回しだ?」俺は言った。

「別に」と怜はそっぽを向いて、「ただ、そうちゃんあの子のことも割と好きでしょ」

「ノーコメントで」

「だから」と彼女はじとーっとした目つきでこちらを見ながら、「あの子が落ちたらそうちゃんが残念がると思って。だから、それだけ」

 いじけた風に髪を弄る仕草に俺は思わず笑みが漏れた。

「実は夏井と仲良くしたいんじゃないか?」

「……変なこと言ってたらぶつよ?」

 そりゃあ怖い。あははと笑って俺は残っていた食器を全部流しに移動させた。

 廊下をばたばたと走る音が近づいてきて、勢いよく扉が開いた。

「どう!?」

 北高のセーラー服に身を包んだ夏井が俺の前に躍り出て、腰に手をやり足をクロスさせ、モデルみたいなポーズを取った。夏井は可愛いし、手足も長い方だから結構様になっている。

「馬子にも衣装」

 素直じゃないのは俺もだなあ、なんて思いながら俺はいつもの憎まれ口を叩く。

「それ勉強したから意味判るんですけど」

「そういうことだ」

「うぅ。意地悪。絶対似合ってるもん」

「そうね、似合ってるわ」

 苦笑しながらさくらさんがやってきた。

「ですよね!」と夏井は目映いばかりの笑顔でさくらさんに迫った。

「え、ええ」とさくらさんは若干引き気味に「もしあなたが良ければ、だけど。それ、あげても良いわよ。来年制服が替わるなんて話はないから、同じもののはずだし」

「いいんですか!? やったー! 絶対合格します。いえ、してみます!」

 夏井のはしゃぎっぷりに、さくらさんの苦笑もいつしか笑顔に変わっていた。

 怜は仏頂面をしているが、顔がゆーらゆらとリズムを取るように左右に揺れている。いくつかある彼女の、上機嫌を示す仕草の一つだ。俺に見られているのに気がついた彼女は、ばつが悪そうにお茶を飲んで、噎せた。

 それからしばらく夏井によるセーラー服の着こなしファッションショーが繰り広げられることになった。

「すっごいやる気出たよ」

 元の制服に着替えた彼女は、未だ興奮冷めやらぬと言う様子で頬を上気させていた。

「そりゃ良かった。で、風呂はどうする?」

「え? もうそんな時間?」と驚いた様子で彼女はスマホを取り出した。「うわ、マジだ。もう8時過ぎてるじゃん」

「入ってくなら別にそれでいいけど」

「ううん。ダメダメ。そろそろ帰らないと。いっつも九時過ぎくらいにお父さんが心配して家のほうの電話にかけてくるんだ。だからそれまでに帰らないと」

「そうちゃん。送ってあげたら?」と怜が言った。意外な人物が意外なことを言ったものだ、と思っていると「別に。ただ、こんなので、帰りに何かあったら寝覚めが悪いから」などと訊いてもないのに言い訳めいたことを口にするので、思わずにやにやしながら、「素直じゃないな」

「いいから。ほら、私はちょっとさくらと二人で話したいだけ」と怜は顔を赤くしながら言い訳を重ねる。

「ねえ、私もついて行ったら、駄目かしら?」不安そうにさくらさんが俺の服の袖を引いた。いじらしい、と思ったのも束の間さっきと違い、口元が笑いをこらえるように震えていることに気が付いた。よく見ると彼女の意識はこちらへは向いていなかった。

「さくらさん。その辺で手打ちにしてください」俺は言った。怜が泣きそうな顔をしていたからだ。

「あらそう?」けろっとした顔で彼女は言った。「あなたに免じて、許してあげましょう」

「ありがとうございます」俺は苦笑した。

「けど、本当に怖かったんだから」とさくらさんは怜に向かって人差し指を突きだした。「次同じような事したら絶交よ」

「はい。あの、調子に乗りすぎました」そう言って怜はぺこりと頭を下げた。水のなくなった花瓶に置き去りにされた花のような萎れっぷりである。が、おそらく半分くらいは演技だ。ぎゅっと握った拳が震えているのがその証左である。打ちひしがれて震えているのではなく、してやられたことが悔しくて震えているのだ。

 やれやれと思いながら俺は言った。「じゃあ後かたづけ頼んでもいい?」

「うん。片づけは得意だから」右の袖をまくって、力こぶを作りながら怜は言った。

「私も手伝うわ」とさくらさんも怜にならって力こぶを作ってみせた。

 二人とも、ぐっと腕に力を入れて張り合っているようだった。どちらも正直五十歩百歩だが。

「じゃあ怜、お願い。さくらさんも、お願いしますね」

 



    ※※※


 胸を刺す緊張感に息が詰まりそうになりながら、私は台所に立っていた。隣では怜が無言で食器を洗っている。さっきはあんな風に振る舞ったけれど、やっぱりまだ少し怖かった。色々考えていたけれど、別に、されたことが嫌だった訳ではない。驚いたけれど、相手が怜なら別に悪くはないと思う。私が怖いのは、彼女がまとっていた雰囲気だった。それはまさしく嫉妬から来る執着心で、普段は宗平くんに向けられていたものだった。そのあまりにも濃密な欲望に私はおそれを抱いてしまった。だから隣に立つ彼女の、横顔さえ見れず、視界の端に写る、彼女の綺麗で細くて長い指ばかりを見ていた。そうすると彼女のその手に触れた時のことを思い浮かべてしまう。ひんやりとしていて柔らかいけれど、ペンだこのある私よりも大きな手。私が大好きな彼女の手。それが、私の体に触れていた。手首を力強く、握って、押さえつけていた。私という存在を求めて、彼女が私を取り込もうとしていた。そう考えるとなぜだか体の奥に熾火のようにくすぶる熱を感じてしまう。

 これまでの人生で、私を必要としてくれた人なんて、宗平くんと彼女くらいしかいない。奈雪は、まだ判らない。けれど、とにかく私はこの三島家の人間に囚われている。

「さくら」怜が改まった口調で言った。「さっきは、ごめん」

「いいのよ、別に」私はまだ、彼女の顔を見ることができないでいた。手元の作業に集中しながら、「気にしてない」

 熾火からゆるゆると立ち上る煙はおぼろげで、上手く言葉にならない感情が胸の中に立ちこめていく。

「私たち、よくそういう噂、されてたよね」と怜が言った。笑って居るのだろうか。自嘲するような雰囲気が伝わって来た。「ずっと否定してたけど、でも、どうなんだろう。判らない。私って昔から友達らしい友達がいなくて、さくらが初めてなのよ」

「嘘」

「本当。取り巻きはいたけど、友達は居なかった。だから判らないの。友達としての好意と、そうでない好意の違いが、いまいち」

「私だって判らないわよ」私は言った。なぜだか苛立っていた。「あなたと出会うまで私はずっとひとりぼっちで、いじめられてて、生きててもぜんぜん楽しくなくて。でも死にたくなくて、でもやりたいことはあったから、だからなんとか生きてこられた」気が付くと、スポンジをぎゅっと握りつぶしていた。あふれ出した泡がシンクに落ちる。その泡を見つめていると、不意に滴が落ちて、泡の中に飲み込まれていった。私の涙だ。「私はあなたに憧れてた。堂々としていて、自信に満ちあふれていて、周りにはいつも沢山の人がいた。初めてあなたを見た時思ったわ、ああきっとこの人は私とは違う世界に住んでいるんだろうなって」

 大勢の友人に囲まれて、話題の中心になっている。高校に入学したばかりの頃、私は彼女のことをそんな風に思っていた。当時の私からすればそういう人間とは敵であり、私のアイデンティティの為に、何かしらの要素で圧倒しなければならない相手でもあった。これまでは、容姿であったり成績で、勝つことができた。けれど怜は私よりも美人で、私より頭が良かった。最初の中間テストの成績が出た時の事をいまでもよく覚えている。私は自分が学年一位であることに疑いを抱いていなかった。それだけ自信があったのだ。けれど私は二位で、怜が一位だった。どん底に突き落とされた気分だった。私が嫌いな人種相手に何一つ勝てない。それは私を絶望させるには十分だった。

 もしテストの結果が出た直後の放課後、駅前の本屋さんで、山と積み上げたラノベと漫画の新刊を両手で抱えてよろよろとレジへ向かおうとしている彼女と出会わなければどうなっていたか。

 別に私はそっち方面はそこまで詳しくはないけれど、でも彼女もなんとなくこっち側に近い人間であると、その時になって判った。そして友達になれた。折しも虐めが苛烈さを極めていた頃で、私の心が折れなかったのは、単に三島怜という存在がより所になったからだ。つらいことがあったなら彼女に甘えればいい。皆が知らない彼女の本当の素顔を私は知っている。その優越感が私を私でいさせてくれた。それだけではない。彼女は私を本当の意味で救ってくれたのだ。その手を差し出して、私の人生を覆い続けていた暗雲を払い、空の青さを教えてくれた。

 私を助けると宣言してくれた日のことを思い出す。ずぶ濡れで、トイレの床にへたり込んでいた私に手を差し伸べ、自分が濡れることもいとわず抱きしめてくれたあの日のことを。あるいは、彼女の心を奪われたとするなら、それはきっとあのときだったのかもしれない。あの日私は彼女に恋をして、そしてその後、私は彼女の最愛の人を愛してしまった。仮にそう言う関係があり得るなら、という話ではあるけれど。

 怜が私にとっての青空なら、宗平くんは太陽だ。ああそうだ。二人は私にとって欠かせない存在なのだ。けれど私はバカだから、その太陽に近づこうとしてしまった。だから私は落ちたのだ。再び絶望の闇へ。羽根を焼かれ落ちていったイカロスの様に。でも私は籠から放たれた小鳥だ。幾度だって飛び立ってみせる。

「いまはそっちの方が別世界の人間でしょ」ふてくされたように怜は言った。食器の泡を流して乾燥機のまだ空いているスペースにそれを並べる。食器と食器がぶつかり合う音がかちゃかちゃと響く。「いまのさくらはすごく眩しくて、輝いてる。きっと自覚してないんだろうけど、でもね、もうあんたはあの頃のあんたじゃない」彼女の横顔は寂しげに微笑んでいた。「きっと私がいなくてもやっていけるわ」

 彼女のその様子を見て、私はなぜだか急に怒りがこみ上げてきて、頭がかーっと熱くなって、「勝手なこと言わないで!」と怒鳴っていた。「進学しないって決めたのはあなたでしょう。一緒に、同じ大学に進学しようねって、約束してたのに。直前になって急にやめるとか言い出して! だいたい、あなただって望めば私なんかよりももっと煌びやかな世界に立てたでしょうに。なんで、そうやって、自分で選んだくせに、私を一人放り出したくせに、被害者面しないでよ!」

 私は肩で息をしながら、怜を睨んだ。

 彼女は呆気にとられたようにしばらく固まっていたが、やがて何かを堪えるように俯いてから、「ごめん」と言った。「そうよね。私が全部選んだ」

「ねえ、どうして進学を諦めたの?」

 この際だからずっと訊きたかった疑問をぶつけてやった。ささくれだった心がひどく攻撃的な気持ちにさせている自覚はあったが、しばらく収まりそうもない。

「これ以上、負担をかけたくなかったから」消え入りそうな声で彼女は言った。「私は、居候だから」

 返ってきた答えが、思ったより現実的で、切実なものだったので、冷や水をぶっかけられたみたいになって、はっと我に返った。

「そんなに、苦しいの?」

 私の問いかけに、彼女は首を横に振って答えた。「気持ちの問題。うちはお金持ちってほどじゃないけど、中の中でそれなりに恵まれてはいるから、多分私が大学に通うお金くらいは出してもらえると思う。それに、」

「自分でも十分稼いでるでしょう?」

「うん」と怜は頷いた。「けど、四年分の学費をどうにかするにはまだ貯金が足りないから」

 だから、それが用意できたら受験に挑戦するつもりだったの、と彼女はぎこちなく微笑みながら答えた。

 私はすっかり毒気を抜かれてしまって、「なんだ、そうだったの」と言ってほう、とため息を吐くのと同時に気が抜けて、近くの椅子を引き寄せてそこにどかっと腰を下ろした。そして私は天井をぼんやり見つめながら、「あなたの同人作家として結構有名よね。それに商業でやってる方も人気あるんでしょ?」

「うん。けど、まだまだ。それにほら、税金が結構取られるでしょ」

「ああ」私は呻いた。他人事ではない。「確定申告、した?」

「まだ」彼女はふるふると首を横に振った。「資料まとめてるところ。さくらは?」

「私も」

 別に示し合わせた訳でもないし合図をしたわけでもないけれど、重たいため息が二つ重なった。話が思いがけず、世知辛いところに着地してしまった。

 洗い物が終わった後、怜が映画を見ようと言いだした。最近テレビに接続できるスティック型の端末を買ってセッティングしたとかで、そのついでにいくつかのVODサービスにも加入したらしい。

「いっぱいあって困るんだよね」リモコンで画面を操作しながら彼女は言った。

 いろんな映画やドラマ、それにアニメのタイトルがずらりと表示されていて、なるほど、これは確かに困る。

「どんな気分?」画面を見つめたまま彼女が言った。

「ドキュメンタリー」私は答えた。

 そう来たか、と彼女は呟いた。

「じゃあもうこれでいいや」

 彼女が選んだのは麻薬に関するドキュメンタリー映画だった。

「またすごいの選んだわね」

「いいじゃない。絶対かかわり合いのない世界だし」

 こういうのがドキュメンタリーの醍醐味でしょ? と彼女は笑う。その横顔はとても楽しそうだ。好奇心で彼女の円らな瞳が綺羅星のような煌めいている。そんな様子を見せられては言い掛けた文句も雲散霧消してしまう。

 なんだかんだで私は彼女が好きで、二人で居るのが心地よいんだな、とそんなことを今更ながらに実感していた。宗平くんの隣も素敵だけれど、怜の隣もまたかけがえのない私の居場所なのだ。絶対にそんなこと口には出してなんてやらないけれど。



    ※※※


「こんな時間に二人きりってなんかどきどきするね」

 楽しそうに彼女は笑っていた。

「静かに」俺は言った。「声がでかいぞ」

 俺たちは自転車を押しながら夜の住宅街を歩いていた。途中で彼女が歩こう、と言い出したからだ。もうすぐそこまでのところまで来ているから、らしい。尤も、俺は彼女の家に行ったことがないので、それが果たして本当なのか判らない。

「もう、そこはもっとどぎまぎするところでしょ」

「俺にそう言う初々しいのは期待すんな」

 せっかく二人きりなのに、と彼女は不満そうに呟いた。

「そういえばさっきの」と俺は言った。

「なに?」

「北高の制服。似合ってたぞ」

 俺がそう言うと彼女はこちらを見て「え?」と固まってしまった。暗がりでも判るくらい顔が真っ赤になっていて、にやけそうになるのを堪えているのか、口元がひくひくと痙攣したみたいになっていた。

「初々しいリアクションいただきました」

 そう言って早足になる。

「ちょっと!」と彼女がすぐに追いかけてくる。「そういうのずるいんですけど」隣に並んだ彼女は俺を睨みながらそう言った。

「自分のちょろさを省みろ」彼女の視線を受け流しながら俺は言った。

 夏井はむっとした顔になって何か言い掛けたが、ぐっと奥歯をかみしめるように唇を閉ざすと、立ち止まって俯いた。そして肩を大きく上下させて深呼吸をすると「バカ」と言った。その目にはうっすら涙が浮かんでいて、伏せた睫の先に揺らめく感傷的な情動に俺ははっとして、思わず「いや、言葉の綾って奴でな」と言い訳を始めてしまった。だがしかし、すぐに俺はその情けない言葉の羅列を飲み込んだ。

 くすくすと彼女は笑っていた。場所が場所なので大声で笑うことはしてないが、自転車のハンドルにもたれ掛かるようにして、ひーひーと、かみ殺した笑い声の死に損ないがこぼれでている様はまさに抱腹絶倒そのものであった。

「宗平もちょろいね」目尻の涙を拭いながら彼女は勝ち誇ったように言った。

「一対一。同点だな。次で決着をつけよう」

「えー、いつから三番勝負になったの。ていうか、私の勝ちでしょ?」

「なんで」

「女の涙はポイントが大きいの。だから一対一じゃなくて、五対一くらい。多分」

 ころころと笑う彼女を見ていると、もうこれでいいか、という気持ちがわき上がってくる。この三年間きっと何度も繰り返されてきた青春の応酬なのだ。一体何度繰り返してきたんだろうか。果たしてこんなやりとりを意識したことなんてなかったので、どれくらいやったかなんて覚えているはずもない。何となく気になったのは、きっと卒業が近いからに違いない。

「ね、ちょっと訊いて良い?」

「質問は事前にマネージャーを通しておいてくれないと困るな」

「どこのアイドルだ」彼女はあきれたように言った。しかしすぐに「でね」と話を再会した。「将来何になりたい?」

 俺は夜空を見上げた。無数の星々が煌めいていて、あるいはそれが若い俺たちの前に広がっている無限の希望や可能性なのではなかろうか、などと益体のないことを考えてから、「判らん」と答えた。

「えー」と彼女は不満げだ。

「正直目先のことも判らないからなあ」

「というと?」

「部活とか」

 あー、と彼女は呻いて「なるほど」

「中学ではさ、とりあえず流れでマネージャーやったけど、でも高校でやるつもりはないんだ」

「そっか」

「昔からずっと野球しかやってなかったから、良い機会だし違うことに挑戦してみたいとは思ってるけどな。夏井はやっぱり吹奏楽続けるつもり?」

「うん」と彼女は頷いた。「北高の吹奏楽部ってこの辺りだと結構強いんだよね。って、宗平は知ってるか」

「まあ怜が吹奏楽やってたからな」

「でさ。私、同じフルートの先輩としては、お姉さんのことすっごい尊敬してるの」

 絶対に言わないでよ、と彼女は俺の方をじっと見てから、「だからまあ、あの人が抜けた穴を埋められるようになりたいっていうか。私はあの人みたいに天才肌じゃないけど、それなりに努力してそれなりに成長しているつもりだから。なんていうんだろ、同じ景色って奴に憧れてる、のかな」

 照れたように彼女は笑った。

「まあまずは合格しなきゃ話にならんけどな」

 俺がそう言うと彼女は、がくっとうなだれて「いまの空気で言うことじゃないでしょ」

 俺は苦笑して、「けどそれだけはっきりした目的があるなら大丈夫だろ。怜にも勉強見てもらったし」

「まあ、しんどかったけど、自分で思ってるよりできるな、とは思ったから。多分いける」

 どうやら怜は嫌がらせみたいなことはせずに、ちゃんと勉強を見てやったらしい。まあなんだかんだお人好しだから。性格は悪いが人間として悪くはないのが怜なのだ。

「明後日にまた見てもらう約束もしちゃったし」

「そうなんだ」

「今度はファミレスで、だって。やだなー。絶対後輩にご飯たかるつもりでしょ」

 うげ、と苦そうな顔で彼女は言う。

 流石に怜もそこまでしないだろう、と思いたい。せいぜい、夏井の奢りと言い含めておいてから、豪遊して、真っ青になった彼女を見て一頻り笑ってから自分で支払い、それから慌てていた様子を蒸し返していじり倒す。怜なら多分そうする気がする。

「ねえ。宗平なんか良くないこと考えてない?」

 不安そうに夏井が訊いてくるので俺は「いや、ぜんぜん」と肩をすくめた。

 まあいいか、と夏井は腹をくくったように鼻から、ふんすと息をはいた。

「ところで話は変わるんだけど」

「怜は胸焼けしそうな料理が好きだから、食うとこずっと見てたらつられて胸焼けするから注意な」

「いや、そう言う話はいいから」と夏井は眉をひそめた。「じゃなくて、奈々子から、何か連絡とかあった?」

「井上? どうして?」

「その感じだとないっぽいね」

 実は、私にも来てないんだ、と彼女は呟いて、不意に足を止めた。

「不気味じゃない?」

「体調が悪くてそれどころじゃないんだろ」俺は言った。「そういやお見舞いに行くとか言ってなかったか?」

「え? うん。まあ今日はもういいかなって」井上から連絡がないことがよっぽど気になるらしく、彼女は俺があまり気にしていないことに不満そうな様子だった。

「気になるならこっちから連絡すればいいじゃんか」

「したんだけど返事がないの。宗平もあとでしてみなよ」

「いや、時間が時間だしやめとくわ」

 それに俺だって先日体調を崩した時にはそんなにスマホをいじる元気もなかったし、ましてや二日も寝込んでいる状態なのだ。いちいち連絡を寄越したり返信する余裕がなくたって不思議ではない。

「明日も奈々子が休んでたらさ。二人で一緒にお見舞いに行かない?」

「いいけど。でも流石に明日には出てくるんじゃないか?」

「明日。奈々子は来ないよ。治ってたとしても」

 妙に確信めいた様子で彼女は言い切った。まっすぐな視線が一瞬どこかにそれてから、こちらを射すくめた。

 俺はどう反応して良いか判らずにじっと彼女を見ていた。

 彼女はふっと、表情を和らげると「まあそういうことだから」と言った。「見送りありがとね」

「もういいのか?」

「うん。だって」と彼女は側に建つマンションを仰ぎ見た。「ここだし」

「はえー。結構良いところだな」

「うん。間取りも広いけど、お父さんと二人だけだとちょっと持て余し気味なんだよね。一人だとなおさら」

「やっぱり、寂しい?」

「まあね」と彼女はうつむき加減で微笑んだ。「でも仕方ないから。じゃ、本当に今日はありがとう。宗平、おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 無事彼女を家まで送り届けて俺は帰路についた。途中だべりながら歩いたせいか結構時間を食ってしまっていた。三〇分くらいで着くかと思っていたが、もう九時前だ。まあ洗い物は二人がやってくれているから、帰ったら後は風呂に入って寝るだけだし問題は無い。

 それでも俺は少し急いでいた。あんまり遅くなると補導されるかもしれない。最近よく巡回していると国彦が言っていた。別にやましいことはないけれど、捕まるとやっかいだ。

 ポケットの中でスマホが振動している。俺はブレーキをかけた。

 足を地面について、それからスマホを取り出した。メールの着信だった。送り主は、井上。さっきのやりとりがあったからだろうか。俺は妙な胸騒ぎを覚えながら、そのメールを開いた。

「どうして?」

 とだけ書かれたメールを見た瞬間、背筋に冷たい物が伝った。

 一緒に添付されていた画像のせいだ。

 夜道を歩く、俺と夏井の後ろ姿。それを少し離れたところから撮影した写真だった。

 俺は思わず後ろを振り返った。

 人の気配はまったくない。

 俺はなんだか気味が悪くなってきて、逃げるようにペダルを漕いだ。

 


             つづく

あけましておめでとうございます

今回のサブタイトルはDIR EN GREYの曲から拝借しました。

次回は来月。出来れば頭頃に更新したいのですが、多分中頃になると思います。

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