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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第五章
44/55

Heading for spring Ⅶ『The Hypocrisy』

 

 今朝方の奇妙な夢は、頭の片隅にどっかりと居座っていた。小さな棘が刺さった指先のように、ふとした瞬間にその存在を思い出させられて、あれは何だったのだろう、という答えの見えない煩悶が襲いかかってくる。

「今日はずっと浮かない顔してる」

 隣の席で頬杖を付きながらこっちを見ていた夏井がつまらなさそうにそう言った。

 まさしく言うとおりである。家を出た時の、怜に送り出されたあの瞬間を最後に、気分は右肩下がりですこぶる低調であった。窓の外のどんよりと曇った空模様がそのまま心の内に張り付けられている気分だ。

「あれから何かあったの?」

「そう言うわけでもないんだけどさ」

 夏井の顔をじっと見つめた。

「なに?」と彼女は首をかしげる。

 その目は本気でこちらのことを心配している様に見えた。

 だから、変な夢を見たんだ。と俺は打ち明けることにした。

 変な夢? と夏井は眉をひそめる。

「おかしいと思っても、変な顔するなよ」

「聞いてみないと判んないよ」

 それもそうだ。何となく自分でおかしいと思っていたから、ついくだらない予防線を張ってしまった。

「怜に首を絞められる夢だったんだけど」

「それ本当にあったことなんじゃないの?」

 聞いて損をした、という顔で夏井がため息と一緒にそんな言葉を吐き出した。

「もうちょっとまじめに考えろよ」俺は言った。

「やだ。だってどうせ楽しい話じゃないし」

「まあ経緯を説明するとだな」

 強引に俺は話を続ける。とりあえず理解を求めるため、夢を見る直前の状況を説明した。しかしこれが完全に裏目に出た。話を聞き終えた頃にはすっかり彼女は興味を失っていて、頬杖を付いたままぼーっと窓の外に視線を漂わせていた。そして一言「バカップル」とだけ言って机に顔を伏せた。

「それは否定しないけどさ」

「ていうか、キスマークつけて学校に来るとかマジでキモイんですけど」

「う、やっぱり判るか」一応カッターシャツの襟に隠れていて、首元をのぞき込まれでもしない限りは見えないと思う。

「せめて隠しなよ」と言ってから夏井は苦虫をかみ潰したような表情になって、「隠すな、とか言われてるんだ。……宗平ってSっぽいけど、Mっぽいところもあるよね」

「そうか?」

「うん。キモい」

「最近お前やけに俺に厳しくないか?」

「気のせいだよー」とやる気の無い返事をして彼女は、「でもさ、ほんと、やめた方が良いよ。いままでもちょくちょくあったでしょ」顔だけこっちに向けて彼女は、「最初見た時に嘘でしょ、って思ったんだけど、なんかそこから気になって、毎朝チェックする癖がついちゃったの。ほんと最悪」

「井上にもバレてたけど、案外判るもんなんだな」

「あーあ。奈々子が居たらおもしろかったのに」

「縁起でもないこと言うなよ」

 俺は井上の席の方へちら、と目をやった。彼女は今日も休んでいる。風邪が治っていないらしい。

「で? のろけ話を私に聞かせて、どうして欲しいわけ?」

 俺は夏井にどうしてもらいたかったのだろう。改めて考えて見るとよく分からない。

「まああれだ。話を聞いて貰えればそれで十分というか」

「はあ? なにそれ」と夏井は俺を睨んだ。「暇じゃないんだけどなあ。私も」

「暇そうにしか見えないけど」

「こう見えても色々考え事してるんですぅ」そう言って彼女は顔を反対側に向けてしまった。

「例えば?」

 彼女の後頭部に向けて俺は言った。

「奈々子に参りましたって言わせるための秘策を考えてたの」

「嘘だな」

「嘘じゃないし」そう言ってから彼女は体を起こして、こちらを見た。「そういえばさ、一つお願いがあるんだけど」

「急になんだよ」

「今日も、宗平の家に行って良い?」

「別に構わないけど、どうして?」

「勉強。いまいち自信がつかないから。お姉さんに見てもらおうと思って」

「それは、なんというか」

 良いとも悪いとも言い難いアイディアだ。少なくとも怜にしごかれて耐えられれば自信は付くだろうが、逆に途中で心をへし折られる可能性もある。

「でも怜はやるかな」

「さっきメールしたら、かかってこい、だってさ」

 そう言って彼女は机の中からスマホを取り出し、慣れた手つきで画面に指を滑らせ、画面をこちらに向けた。確かに怜からの返信が表示されていた。

「お前らアドレス交換してたんだな」

「一応、ね」そう言って夏井はすぐにスマホを机の中に隠した。校則で禁止されているので見つかったら没収だ。特に夏井はいままで何回も見つかっているので次やったら親を呼ぶと脅されているらしい。まあ全く懲りてないみたいだが。

「あの女のことだから、嫌がらせみたいに難しい問題集用意しているに違いないって思うんだけど。どう?」

「多分そうだろうな」俺は肩を竦めた。「まあほどほどにするように言っておくよ」

「大丈夫。真っ向からあの女の鼻へし折ってやるから」

 鼻息荒く彼女はそう宣言した。なんだかよく判らないがものすごくやる気になっているらしい。ならもう好きなようにさせてやるか。

「ちなみに今日、うちにさくらさんが泊まるらしいから」

「ん? どういうこと?」夏井は目を丸くして言った。

「明日登校日らしいんだけど、さくらさんってもうこっちに住んでなくてな。それで通学に不便だろうからって」

「いや、そうじゃなくて。さくらさんって、その相川さくら先生? 宗平の元カノの」

「そうだけど。あ、そうだ。さくらさんってすっごい人見知りする人だから、ガンガン話しかけて困らせたりするなよ」

「……勉強がんばろう。頑張れたら自分へのご褒美に、サインもらおう」

 ぐっと拳を握りしめて、その目には燃えたぎる闘志を宿して、彼女はそう誓ったのであった。俺はその様子に苦笑しつつ、「頑張れよ」とエールを送った。

 


 そんなことがあったので、今日は夏井と一緒に帰ることになった。公康は例の如く加賀とどこかへ行ってしまったので、俺たちは二人きりで駐輪場へ向かっていた。

「あの二人、なんだかんだでラブラブだね」

 にしし、と笑いながら夏井は言った。自分が応援した恋がうまく行ってるのが嬉しいのだろう。あるいは身近な友人同士の恋愛を楽しんでいるのか。

「そういえば、前に聞いたことがあったんだよね」下足場で靴をはきかえながら夏井が言った。「公康くんに、好きな子はいるのって。そしたらはにかみながら、一応、って答えてて。あれってもしかした杏のことだったのかな?」

 彼女のその言葉には、そうであって欲しいという願望が込められているように思えた。密かに両思いだった物同士がついに心を通わせた。そんな風に甘酸っぱい恋愛を思い描いているのかもしれない。まさか自分が公康から思いを寄せられていて、なのに全く気づかずに、その上で自分の友達とくっつけてしまったというかなり複雑でほろ苦い経緯であるとは思いもよらないのだろう

 きらきらと目を輝かせる彼女に、俺はどう答えて良いものか迷ってから、「だったらいいな」と彼女が求めていたであろう言葉を返した。

「だよねー」と夏井は嬉しそうに笑って俺の腕に抱きついた。

「ナチュラルにそういうことするなよ」

「なに? 勘違いしちゃう?」

「勘違いで済まして良いならそうするけど?」

「宗平のそういう意地悪なところ嫌い」

 ぷくっとふくれっ面になりながら、しかし駐輪場に着くまで彼女は抱きついたままだった。



 彼女と帰るのはいつぶりだろうか。

 彼女とはなんやかんやで仲は良いが、帰る方向がそもそも違うので実は一緒に帰ることはあまりなかった。たいてい彼女の隣には井上がいて、俺のそばには公康が居る。いつも校門まで四人一緒だった。

 なんだか懐かしい気持ちがこみ上げてくる。ここ数ヶ月で一気に状況が変わってしまったが、この三年俺たち四人は大体いつも一緒だった。

 ただ夏井は顔が広いので他のグループにもよく混じっていて、そこで話題の中心になっていることも多かった。しかしそう言うときでも気が付くとその中に俺たちは引きずり込まれて、そのおかげで普通だったらつながりを持たなかったであろう連中ともそれなりに仲良くなれたのでそれはとてもありがたかった。

 裏を返せばそれだけ夏井が影響力を持っていたということでもある。

 校則違反の化粧をしてルーズな制服の着こなしをしている女子のグループとも仲が良かった夏井は、そんな連中を引き連れて俺のところにやってくることもあった。別にそう言う連中に対する偏見はないのだが、時々言葉が通じないことが互いにあって、それには少々困らされた。二年の春頃だったか、一度そのグループの中の一人に放課後呼び出されたことがあった。これはいよいよ辞世の句でも考えておくべきか、などと戦々恐々としていたところ、蓋を開けてみればただの告白だったということもあった。結局俺はその子のことは振った。可愛い子ではあったが、正直何故告られたのか判らないくらい話が合わない相手だったので、お試しでも付き合おうという気分になれなかったのだ。

 ここで話が終わればただの青春の1ページ、甘酸っぱい思い出のひとかけらとして片付けられるのであるが、そうならなかった。

 翌日からその子が、夏井が絡んでいたグループから排除されていたのだ。俺に振られたのが気まずくて距離を置いていたのかな、と当時考えていたのだが、今にして思えば夏井が彼女を遠ざけたのだろう。恐らく夏井ならそれくらい簡単にできたはずだ。

 自転車を押しながら歩く彼女の横顔は、客観的に見ればとても可愛い。けれどその裏にどれだけの闇を抱えているのか。思えば彼女も、小説に影響されていたとはいえ、雪の中でその純粋すぎる恋とともに心中しようとしたことがあったのだ。あまり普通とは言い難い神経の持ち主であることは確かだ。

 まあ俺自身も普通ではないのだろうけれども。と、朝のことを思い出しながらそう心の内で苦笑する。ある意味では俺たちはお似合いなのかもしれない。昨日夏井に言ったことだが、さくらさんや怜が恋人になる前に、夏井から告白されていたら、俺はたぶん彼女と付き合っていただろう。彼女の横顔を見る俺の胸中にわずかにこみ上げた苦い思いがその予想を肯定している様だった。

 ほう、と息をはいて、それから彼女に話しかけた。

「そういえば井上はいいのか?」

「なに? 急にそんなこときいてきて」夏井は怪訝そうに俺を見た。

「なんとなく気になったから」

 本当は、話題はなんでも良かった。ただ、彼女と会話をしたかっただけだ。

「帰りに寄っていくつもり」言って夏井は、やれやれという風にため息を吐いた。「さすがに二日もほったらかしにするのはちょっと罪悪感あるし」

 それから俺たちは他愛もない話で盛り上がった。自転車を押しながら、彼女の話し声や笑い声を聞きながら、穏やかな時間に身を任せた。


   3


「あら、お帰りなさい」

 玄関に入ってすぐ、出迎えてくれたのはさくらさんだった。

 心の準備が全くできていなかったので、俺は固まってしまって「ああ」とか「ええ」とかよく判らない返事をしていた。

「どうしたの?」さくらさんは口に手を当ててくすくすと笑う。

「不意打ちって奴ですかね」俺はそう答えて肩をすくめた。

「あら、そうなの?」と彼女は嬉しそうに目を細めた。「あなたにはいつもやられているから、こっちの悪戯が成功すると気分が良いわ」

「偶然こうなっただけですよ」

 俺がそう言うと、彼女はムキになって、「悪戯よ。あなたを待って、驚かせようとしてたの」と言った。

「ところで、です。さくらさん。実は友達が一緒なんですよ」

 俺がそう言うと「そうなの」と素っ気なく応じたが、途端に表情が不安に染まって目が泳ぎ始めた。

 人見知りは相変わらずなんだな、と彼女が変わっていないことに苦笑しつつ安堵した。テレビの向こうにいる彼女はまるで遠い世界の住人だけど、目の前にいる彼女は俺の知っている相川さくらだ。

 にこっと彼女に笑いかけてから、俺は玄関の外でまごついている夏井を呼びに行った。

「ほら、入れよ」

「待って、まだ準備ができてない」

「いくら前髪整えたって無駄だ。ほらいくぞ」

 俺は夏井の腕を掴んで強引に引っ張った。「ちょっと待ってって」と喚くのもお構いなしだ。

 さくらさんと対面した夏井は、まるで置物みたいに固まってしまった。緊張しているらしく耳まで真っ赤になっている。このまま放って置いたらオーバーヒートして頭から湯気でも吹き出しそうだ。対するさくらさんは平然とした態度をとっているが、その実指先がせわしなく動いていたり、目でこちらに助けを求めてきたりでまったく落ち着きがない。

 しばらく二人の様子を楽しんでいたが、あまりに事態が膠着したままなので助け船を出すことにした。

「さくらさん。こいつは夏井香奈って言って、俺の友達です」

「あ、はい。ただいまご紹介に預かりました」

 夏井香奈です。彼女はぺこりと頭を下げた。

 これはどうも、とさくらさんもお辞儀を返した。

「あの、ファンです」

 夏井がそう言った瞬間、さくらさんの目つきが変わった。泳いでいた目が急に定まって、ほうと息を吐き、「そうなのね。ありがとう」と言って手を差し出した。

 夏井はその意図を理解しかねるのか、その手と自分の手を交互に見てそれから俺の方を見て首を傾げた。

「握手だ。握手」

「はっ、そういうこと」慌てて夏井は手をコートで拭ってからさくらさんの手を握った。「こ、光栄です」

「そんなに緊張しなくてもいいわよ」ふふふ、と瀟洒に微笑むさくらさん。あまり知らない顔だ。これが作家としての顔なのだろ。新鮮なのでマジマジと見つめていたら「どうしたの?」とまた不安そうな顔に戻ってしまったので「なんにもないですよ」と笑顔で答えた。

 騒がしさに気が付いたのか、二階から怜が降りてきた。そして夏井の姿を見るなり「やっと来た」と声に少々の怒気をはらませて、睥睨した。

 夏井は急に現実に引き戻されたような、呆けた顔になってから、「来てやったわよ」と睨み返した。間に挟まれる形になったさくらさんはまたおろおろし始めた。彼女は俺のそばにやってくると、「どういうこと?」と不安そうに小声で訊ねてきた。

「いえ、この二人仲が悪いんです」

「それは見てれば判るけど」

「怜に勉強を見てもらう為に来たんですよ」

「仲が悪いのに?」

「まあ色々あるんです」

 ふうん、と興味深そうに二人をみつめるさくらさん。「ということはしばらく、私たち、二人きりになるということかしら」

「見ようによっては」

「つまりそう言うわけね」そうつぶやいた彼女は、表情こそは平静であったが、声色から隠しきれない喜びがあふれ出していた。

「そういや、あの約束、どうなったんでしょう」俺は言った。

「忘れたわ」彼女はそう答えた。「あなたも忘れればいいんじゃないかしら」

「そうですね。今更ですけど」

 一度自室に戻って着替えようと思ったらさくらさんが着いてきた。

「あの、さくらさん?」

「あなたの部屋がどんなのか気になるのよ」しれっとした顔でさくらさんは言う。

「着替えたら下に降りるんでリビングで待っててください」

「不公平。そう思わない?」

 なにを言い出すのだろうか。彼女はまるで本当に何か不公平で腹に据えかねる事態が発生してしまっていると言わんばかりに口をへの字にしていた。

「あなたは私の部屋を知っている。一緒の布団で寝たこともある。けれど私はあなたの部屋を知らない。レディの秘密を知っておきながら、自分の聖域をさらけ出さないなんて、不公平だと思わない?」

 どうやらまた変なテンションになっていらっしゃるらしい。ドヤ顔で鼻息荒く語った彼女は、だから早く、と俺の手を取った。そして上目遣いでじっと見つめてくる。潤んだ瞳はさながら小型犬の様に円らで、その揺らめきに共鳴するように俺の心も揺れ始める。

 しばらくじっと見つめ合った。我慢比べである。だがそう長くは続かなかった。彼女がうちに来ているという状況に、俺自身も少し舞い上がっていたというか、なんだかんだ嬉しかったのだ。だからすぐに根負けしてしまった。「判りましたよ」と渋々という建前だけは保つために、俺はため息混じりにそう答えた。

 扉を開けて部屋に入る。さくらさんも一緒に入ってきた。着替えると言ったのだが、聞いてなかったんだろうか。

「いいでしょう? 減るものでもないし。それに廊下で一人待たせるつもり?」

 彼女は興味深そうに部屋を見回しながらそう言った。

「いや、着替えにくいですよ」

「平気よ。以前は恋人同士だったんだもの」

 そう言ってにっこり彼女は微笑んだ。どうぞ、という合図らしい。

 まあ彼女がいいというのであれば、しかたない。着替えのジャージを用意してから制服を脱いだ。

 俺が着替えている間、彼女はこちらは見ずに本棚を眺めたりしていたが、時々視線がこちらに向けられている気配がした。それを証明するように彼女の顔は少しずつ赤みを帯びていった。

「ねえ、いまって私たち、二人きりよね」

 着替え終わったし下に降りようか、と思っているとさくらさんが意味深な微笑みとともにそう呟いた。

「怜も夏井も居ますよ」俺は言った。

「けど、二人は勉強中でしょう?」一歩こちらに踏み出して彼女は、「久しぶりにこうして二人きりでゆっくり出来る時間があるのだから、それ不意にするなんて、もったいないと思わない?」

 確かにそうだな、と一瞬考えてしまったことに後悔しつつ「駄目ですよ」と俺は言った。

「どうして?」と彼女は詰め寄ってくる。「あなたが怜と付き合っているから?」

「判ってるじゃないですか。どうしたんですか。いつになく、なんていうか、強引ですよ」

 俺がそう言うと彼女はむっとした顔になって、それからぎゅっと抱きついて来た。

「そう言う気分なの」

「離れてください」

「いやよ。あなたが抱きしめてくれるまで、絶対に離れないわ。何があっても絶対にね」

「なにか、あったんですか?」

 彼女は俺の胸に額を押しつけながら、首を横に振った。少し乱れた彼女の癖毛が鼻先で揺れた。

「別に? ただ、我慢が出来ないだけよ。自分でもどうしようもないの。あなたに鎮めてもらわないと、きっと私は、」そう言って彼女は肩をふるわせ始めた。「この間顔を合わせたばかりなのに、変な事を、って思うかもしれないけれど。あなたに会いたくて会いたくて、寂しさで押しつぶされそうだった。私はあなたが居なくては生きていけない。そう実感したわ。ねえ、だから抱きしめて。そうすればきっとこれからも頑張れるから」

 ここで彼女を抱きしめてしまえば、きっと俺も歯止めが利かなくなる。そんな予感がしていた。流されてしまうことは容易い。だからこそ耐えなければならないのだ。相手が彼女だからこそなおさらだ。

 心のどこかにこんな思いがあった。彼女とはちゃんと別れていないのだから、何かあったとしても、それは間違いではない、という詭弁である。

 葛藤が胸を焦がす。鼻腔をくすぐる彼女のにおいが脳に甘いしびれをもたらして、思考を曖昧にしていく。俺は怜のことを考えた。ようやく、一つの難問が解決したばかりなのだ。水を差すようなマネはバカのすることだ。それに、これまでずっと一線を越えないように保ち続けてきた。その努力を水泡に帰していいはずがない。

「ねえ、お願い」

 甘い声で彼女が囁く。俺を見上げる彼女の目に浮かぶのは、痛いくらいにひたむきな懇願と、淡い期待。押しつけられる胸の柔らかさが理性を少しずつ焼いていく。

「覚えてる? 一緒に寝たときのこと」

「ええ、まあ」

「期待してたのよ。あなたが私に触れてくれることを。どんな気持ちでお風呂に入っていたか判る? あなたに見られて恥ずかしくないように、鏡の前でどれだけ悩んだか。ねえ、私ははしたない女なのかしら」

「そんなことは、ないですよ」

「でもいまの私は、そんなことしか考えていないの。合格おめでとう、とか遅くなったけどチョコレートがあるの、とか、色々考えていたけれど、あなたの顔をみた途端に全部飛んで行ってしまった。あなたに私のすべてを捧げて、あなたのすべてを奪いたい。それしか考えられないの」

「さくらさん、とりあえずちょっと落ち着きましょう」

「怜がね。時々私に話してくれるの。あなたとのことを」

 憎しみと嫉妬を込めてそう言った彼女は、ぎゅっと俺の背中に爪を立てた。

「こんな風にしたらあなたが喜んだとか、あなたがこんな風にしてくれた、とか。あの子、それで私が諦めるとでも思ったのかしら」

 逆効果にしかならないのに、と彼女は笑った。

「けどね、面白いのよ。私が睨むとすぐにその話をやめるの。それから私の手首の方をちらちら見ながら、ごめんなさい、って泣きそうな顔をするのよ」

「だから落ち着いてくださいって」

「いやなら突き飛ばせばいいでしょう?」彼女はそう言って顔を上げ、俺を見つめた。「女の腕をふりほどけないほど、あなたは貧弱じゃないはずよ」

「聞き分けの悪いことは言わないでください」

「そうやって、良い人ぶるところ、嫌いよ」彼女はそう言うとまた胸に顔を埋めた。「優しいところも大嫌い。でも、だから好き。愛してる」

 俺は彼女の肩に手を置いた。そうだ。そのまま肩を掴んで、ぐっと前に押し返せば、きっと彼女は離れてくれる。背中に食い込んだ爪の痛みも、そうするだけで消え去るのだ。小柄な彼女を突き放すなんてことは容易いことなのだ。判っている。いままでもそうしてきた。なのに今日は上手く行かない。肩を掴んだ手をそのまま背中の方へ滑らせたい衝動に駆られた。だから手を離そうとした。でも、まるで磁石でくっついたみたいに離れない。ぎゅっと掴んだ彼女の肩が細かったからかもしれない。あるいは服の下に感じたブラジャーの肩紐の感触のせいかもしれない。

 彼女の細くて小さい体を抱きしめてしまったら、どうなってしまうのだろう。パンドラの匣、あるいは禁断の果実。神話に出てくる見るなの禁忌。それらはきっとこういう欲望との葛藤であったのかもしれない。ぎりぎりと背中に爪が食い込む。このまま俺が何もしなければ、彼女の爪は剥がれてしまうのではないか。そう思わせるくらいの執念が彼女の指先に込められていた。彼女の部屋で迫られた時の比ではないくらいの狂気が俺をとらえて離さない。

 彼女が顔を上げた。「ねえ、キスをして。怜にしたみたいに、激しくて乱暴なキスを」

 ああ、そんなことまで話したんだな、とどこか他人事のように考えていた。怜の性格が悪いのは今に始まったことではないが、睨まれてビビるくらいなら最初からさくらさんを挑発しなければいいのだ。今日だってきっと、奈雪姉さんが帰って二人きりになったあとに、そういうやりとりがあったのだろう。だからこそさくらさんはこんなに意地になっているのだ。一体何を考えているのか。もしかして俺を試しているのだろうか。じゃあもし俺がさくらさんに手を出したら、怜は一体どうするつもりなんだろう。そう考えるとちょっと苛々してきた。いっそ怜が予想していない行動をとってやろうか、と自暴自棄な気持ちがわき上がってくる。

「判りました」

 意を決して俺はさくらさんを見つめた。

 彼女は一瞬おびえた目をした。自分から誘っておいてなんて態度だ。

 肩を掴んで、顔を近づける。

 唇が触れ合いそうになったところで、彼女が目を閉じた。堅く瞼を閉ざしている。背中から痛みが消えた。彼女の両腕は脱力したように、だらんと垂れ下がっている。

 柔らかい唇。その感触を思い出しながら、それをしばらくじっと見つめてから俺は、そこに人差し指を押し当てた。

 驚いた様に彼女が目を見開いた。

「あなたね……っ!」

「駄目ですよ、やっぱり」

「したら我慢できなくなるから?」

「まあ、そういうことです」

 ため息をついて彼女は俺から離れた。そしてベッドの上に倒れ込んだ。

「ねえ、少し一人にして欲しいんだけど」

「ここでですか?」

「ええ、理性を取り戻す為のある種の儀式というのかしら、それをしなくちゃならなくなったから」

「ここで、ですか?」俺はもう一度訊ねた。ここは俺の部屋だし、そこは俺のベッドだ。

「あなたが手伝ってくれたって、いいのよ?」

 そう言って彼女は足をぱたぱたさせる。スカートが翻ってめくれあがり、白い太股が露わになる。

「じゃあ下で待ってます。その、ほどほどに」

 彼女はむっとした表情を浮かべて、「善処するわ。さあ、さっさと出て行って!」そう言うとベッドの上にうつ伏せになった。

 泣いているのだろうか。

 気になったがこのままここに居てもろくなことにはならないだろう。

 とにかくそのようにして俺は自分の部屋を追い出されたのであった。



     4


 正直悶々としていた。香りや感触。それらは理性を狂わせるには十分すぎた。よく耐えたと思う。

 リビングの隣の和室で夏井が怜に勉強を見てもらっている。戸は閉まっているが、なるべく二人の邪魔をしないように気をつけよう。

 無心になって家事をすれば邪念も一応振り払える。今日は父さんは帰ってこないが、母さんは帰ってくる。さすがに、さくらさんもこれ以上なにか仕掛けてこないだろう。だからいまさえ乗り切れば安泰だ。

 そして気が付けばキッチンは塩素の香りとともにまばゆいばかりの光を放っていた。ものすごく掃除がはかどってしまった。シンクはまるで新品のように白銀にきらめいている。時計をみると良い時間になっていたので、綺麗にしたばかりのキッチンで夕食を作り始めた。とても清々しい気分だ。機嫌良く味噌汁に入れる根菜類を切っていると電話が鳴った。一旦包丁を置き、鍋の火加減を保温に設定してリビングへ向かった。

 電話は母さんからだった。

「今日飲みに誘われちゃって。だから夕飯はいらないから」

「あいあい」

「ん、そういうことで」

 通話が終了した。受話器を戻しながらやれやれとため息をつく。すでに人数分用意しかけていたのだ。

 そこで俺はふと思いついて和室の方をのぞき込んだ。

「ちょっと、いい?」

「いまちょうど終わったとこ」と怜が答えた。

 夏井はこたつの上に突っ伏して魂が抜けたみたいになっていた。

「どうしたの?」

「いや、母さんがさ。飲みに誘われたから夕飯はいらないって」

「へえ。大変だね」

「そう。でさ、」と俺は夏井の方を見た。「おーい。生きてるか」

「……一応」がさがさの声で夏井は答えた。彼女は突っ伏したまま、油の切れた機械みたいにぎこちない動きで頭を動かしてこちらを見た。

「晩飯食っていくか?」

 怜が冷たい目線を送ってくる。彼女の頭の中にあることは二つだ。まず、夏井と一緒に食うなんてごめんだ。そしてもう一つは、夏井がいなければ二人分食えるのに、という食欲の権化とも言うべき我が儘である。むろん、無視する。

「いいの?」と若干生気の戻った顔で夏井が言った。

「ああ。そっちの都合次第だけど」

「うん。平気だよ。うち今日もお父さん帰ってこないから。一人で食べたって退屈なんだよね」

「そっか。なら適当に時間つぶしててくれ。いま作ってるから」

「りょーかい。えへへ、楽しみだなあ」

 すっかり元気になった夏井はノートをぎゅっと胸に抱きしめながらにやにやし始めた。

「ねえ、そうちゃん」

 対照的に、不機嫌になった怜は俺のわき腹をつねり上げながら、「なんで?」と訊いてきた。

「なんとなく」

「余っても私が二人分食べるのに」

「そもそも怜は一人分が多いんだから、ちょっとは節制しろ」

「そっか。やっぱりそうちゃんはおっぱいの大きい子の方がいいんだ」

「なんでそうなるんだよ」

「知らない」

 そう言って彼女は、ぷい、と顔を背ける。

「また何か埋め合わせするから」

「何かって?」

「なんでも」

「いま、なんでも、って言った?」

「おう」

「じゃあ、そうだなー。うん。考えておくから覚悟しておくように。朝の分の取り立ても合わせてだから、ぐへへ、楽しみだなあ」

 それで機嫌を直してくれたようで、彼女はなにやら不穏な野望を口ずさみつつ和室を後にした。一旦自室に戻るのだろう。

「じゃあ私はコタツで寝るねー」そう言うなり夏井はうつ伏せになって、肩までコタツに入った。

「ちょっとは遠慮しろよ」俺は苦笑する。

「遠慮して静かにしとくよー。じゃ、おやすみー」そう言って彼女は目を閉じた。 

 どんがらがっしゃーん、というとんでもない物音が二階から響いてきた。音が聞こえてきた方向的に俺の部屋っぽい感じがする。何をしていたか知らないが、怜とさくらさんが鉢合わせたらしい。後の事を考えると憂鬱になってくるので、ひとまず忘れて夕飯の準備に戻った。



 続く

今年一年で5万件のPVがありました。ありがとうございます。

そんな訳で15万PVに到達したので、また来月くらいにでも記念の番外編を更新します。更新、出来たらいいなぁ……

ちなみに今回のサブタイトルもまた曲名です。Fleshgod ApocalypseのAgonyに収録されてた奴ですね。例の如く書くときに聞いてただけです

それではよいお年を

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