Heading for spring Ⅵ 『Cage 』
体温計をぐぬぬと睨んでから「熱は、ないアルね」と怜がくだらないことを言った。
奈雪姉さんが横から体温計を奪い取り、じっと見つめたあと、「ないある」と同じ事を言ったので俺はため息を吐いて身支度を始めた。
「ちょっと待って」と怜が止めようとする。「まだ大丈夫って言ってない」
「微熱かどうか微妙なラインなんだろ。俺はいま元気だからもう大丈夫だ」
怜は助けを求めるように奈雪姉さんの方へ視線を送った。
「怜ちゃん。諦めよう」と彼女は心底残念そうに首を横に振った。
そんなぁ、怜が膝から崩れ落ちた。
「なんで元気になったのに落胆されなきゃならんのだ」俺は腕組みをして、二人を睥睨した。
「だってぇ。もう一日看病しながらいちゃいちゃしたかったんだもん」と怜が身も蓋もないことを言った。「大丈夫だって。もう進路も決まったんだし一日くらい」
そんな風にだだをこねる怜を見て、奈雪姉さんが動いた。怜のそばへ行くと、耳元で何事か囁いた。その様子を見て俺はいやな予感がしたのでさっさと学ランを小脇に抱え、スクールバッグを左肩にかけて部屋を出た。あれはどう考えても諫めている顔ではなかった。
一階に下りると味噌汁のいい香りが辺りに漂っていた。どうやら奈雪姉さんが朝食を作ってくれていたらしい。リビングへ入るとよく暖房が効いていた。キッチンの方へ目をやると、鈴衛さんがテーブルに着いて朝刊を読んでいた。
「おはようございます」と挨拶をすると、彼は「おはようございます」と会釈を返した。そして新聞に目を戻した。何かおもしろいニュースでも載っているのだろうか。とても熱心なまなざしを紙面に落としている。
ソファに腰を下ろしてテレビを点けたところで、怜と奈雪姉さんがやってきた。
「朝ご飯作ってくれてたんだ」と俺は奈雪姉さんに言った。
「お姉ちゃんだからね」と彼女は胸を張る。果たして朝食を作ることとお姉ちゃんであることの間に相関関係はあるのだろうか、と疑問に思いつつ「そっか。ありがとう」と無難な返事をする。
「あ、そうちゃん。今日は私も手伝ったんだよ」と怜が自慢げにアピールをしてくる。
「マジで?」
「なにその顔」
無意識によっぽど嫌そうな顔をしていたらしく怜に突っ込まれてしまった。
「私だってねえ。やり方を教われば出来るんだからね。チョコのことをもう忘れたの?」
「そういえばそうだったな。で、何やったの」
「お米を研いだ」
「なるほど」
まあ立派なお手伝いではある。小学生レベルだけど。あとでとりあえずごはんの味を誉めなければ。拗ねると面倒くさいから。
「まあそう言うわけだから」と奈雪姉さん。「そうくんはゆっくりしてていいよ。まだ時間はあるんでしょ?」
現在早朝五時半である。別に朝食を作るにしたってもう少し遅くてもいいのだが、部活の朝練があった頃はこれくらいの時間でないと間に合わなかったので、自然と五時には目が覚める習慣が身についてしまった。なので部活を引退して、怜の弁当を用意しなくてよくなったいまでも早起きをしてしまうのだ。
「あ、そうだ。なんだったら、二度寝する?」と怜が隣に座って、ふとももをぽんぽんと叩いた。「膝枕してあげる」
「じゃあお言葉に甘えて」
眠いかと言えばそうでもない。昨日はほぼ一日眠っていたのだから。でもそれとこれとは別である。
「ついでに、耳掻きもしてあげる」と怜が声を弾ませながら言う。そして言うが早いか、袖の中から耳掻き棒を取り出した。
俺は仰向けの状態から寝返りを打って、右耳が上になるようにした。頬が彼女のふとももに沈む。着物越しではあるけれど、柔らかい。それに良いにおいもする。
「あのー。私がいること忘れてない?」と奈雪姉さんが疲れた顔をしながら言った。
「あ、ごめん」と怜が笑った。
「ちょっと前に失恋したばっかりだから、こういうの見せられるとお姉ちゃん傷つくっていうか、寂しくなるなー」
あはは、と笑う彼女の目は死んでいた。
「ちょっと鈴衛に愚痴ってくる」そう言って彼女はキッチンへと消えていった。
むふふふ、と含みのある笑みを浮かべてから、怜は耳掻き棒を構えた。
「久しぶりだね」
「そうだな」
「ちゃんと耳掻き我慢してた? 自分でしてないよね? ましてや誰かにしてもらったりとか、ないよね?」
「ないよ」と俺は答えながら内心冷や汗をかいていた。別に疚しいことはないけれど、先日井上に耳掻きをしてやったことを思い出したからだ。あの状況で、じゃあお返しに、となっていたら、果たして断れたか。かなり危うい状況だった。なにせ怜は、勝手に俺が耳掻きをしようものなら機嫌を損ねてしばらく実家から出てこなくなる面倒くさい一面があるのだ。それ故、俺に耳掻きの自由はなかった。多少かゆくても耐えなければならない。まあ実際は耳掻きはしてないけど、風呂に入った時にシャワーで洗ったりはしてごまかしたりはしている。耳に水が入ったからどうにかしようとした、と言えば彼女は案外すんなり引き下がるのだ。
「動いちゃだめだからね」怜は言った。
ごそごそ、と耳掻きが産毛に触れる音がした。そして耳の穴の入り口に、耳掻き棒のヘラの感触が伝わってくる。彼女は、とても柔らかく、丁寧な手さばきで耳掻き棒を操っている。正直自分でやるよりも圧倒的に気持ちが良い。
「耳の入り口付近だと、この辺りが好きなんだよね」と言って怜は穴の下側の壁をくすぐるように匙の先端で撫でる。
ぞわぞわっとした感触が全身を駆けめぐって間抜けな声が出そうになる。
耳垢は順調に除去されているらしく、彼女は、匙をティッシュで拭う度に「ほほー」だの「うへへー」だのよく分からない感嘆に浸っていた。そして時々耳垢を別に用意したティッシュで大事そうにくるむのである。果たしてそれをどうするのか、気にはなるが、恐ろしくて訊いたことはない。多分知らない方が幸せな部類のことだろう。
怜もにおいに拘る部分がかなりある。井上がにおいフェチだったことには驚いたが、そもそもの話、怜は堂々と人の枕のにおいを嗅いだり汗くさい脱ぎたてのユニフォームに顔を埋めたりゴミ箱漁ろうとしていたこともあるやべー奴なのだ。井上は頑として認めなかったが、たぶん耳垢をコレクションしてるっぽい怜と比べればまだおしとやかな部類だと思う。
なんてことを考えていると耳掻きが奥へと入ってきた。ごそごそ、ごそごそ、と鼓膜の間近に存在を感じさせる低い音が、断続的に響く。そしてこの奥の方というのはある種の魔性であった。とても気持ちいいのである。気づけば口が半開きになっていた。
「可愛い」怜はくすくす笑いながら耳掻き棒を操る。
思考にもやがかかったみたいになって、ぼーっとしていると耳掻き棒の感触がなくなった。
「こんな感じでいいかな」
「もっと」
「だーめ。炎症起こしちゃうよ?」
「それは困る」
「でしょ? だから続きは1ヶ月後。あ、でもその前に」と彼女は耳掻き棒をひっくり返して梵天を突っ込んだ。ふわふわとした羽毛の感触がこそばくて気持ちいい。ごわごわ、ごわごわと耳の中で音が響いて、また口が半開きになる。でもそれもわずかな時間である。
「はい。こっちはおしまい」
「もっと」
「時間は、たっぷりあるけど、でもこっちばっかりしても仕方ないでしょ?」
「もう一押し」
俺がそう言うと彼女はちら、とキッチンの方を見てから、「しょうがないなあ」と言った。「じゃあちょっと、ソファの上に寝てくれる?」
言われるままに彼女の膝から頭をどかせた。
そして怜が寄り添う様に俺の隣に寝ころんだ。ソファの上はそんなに広くないので、ほとんど体が密着している。
「あの、朝ですよ。怜さん」
「そうちゃんが悪いんだからね」
言うなり彼女は俺の耳にかぶりついた。そして舌を耳朶に這わせ、舌先で耳穴をくすぐり、時々耳たぶを甘噛みした。ぴちゃぴちゃと耳元で響く水音が淫靡なものに聞こえてくる。これはやばい。
「耳、真っ赤だよ」と耳元で彼女が囁く。自分が主導権を握ったことがよっぽど嬉しいのか艶やかな声を弾ませて、それから彼女はころころ笑う。「可愛いなあ。そうちゃんって」そう言って彼女は一度体を離した。
「さ、反対側やるよ。ほら、そうちゃん左耳の方が好きでしょ? これ以上わがままいうならしてあげないからね」
そこまで言われたら従うほかない。ただし、である。
「左も同じコースでお願いします」
「うーん。いいけど、高いよ?」
「なんなりと」
「男に二言は」
「ない」
「じゃあサービスしちゃうからね。えへへ、楽しみだなあ」
左を上にした状態になると、顔は怜の体の方を向く形になった。俺は耳掻きでなすがままされるがままの状態で、しかし目だけ動かして怜の顔を下からじっと見つめていた。真剣そうな目つきも、なにやら良い感じの耳垢を掘り当てたっぽい時の華やいだ笑顔も、やっぱりきれいで可愛い。このまま一生見ていられる。そんなことを考えていたら怜の手が止まった。「あの、そうちゃん」
「なに?」
「ちょっと恥ずかしいかなって」
「怜」
「ん?」
「可愛いなあ」
もうバカ、と彼女は言って照れ隠しの様に、無造作に耳掻き棒を耳の穴にぶっさした。一瞬ぎょっとしたが、ちょうど良い深さで止まって、奥をヘラがくすぐって、例の如く口を半開きにして駄目人間になりながら、彼女がもたらす快楽に身を任せた。
眠気と心地よさで意識が曖昧になってくる。怜だけだと最悪一緒に寝てしまう可能性があるので迂闊に眠ったりできないが、奈雪姉さんがいるので大丈夫だろう。なんて思いながら目を閉じたら耳掻き棒の感触がなくなった。
「寝ちゃった?」と怜が耳元で囁いた。
「起きてる」辛うじてそう答えた。
そしてまた添い寝の状態から怜が耳にかぶりついた。うとうとしていると、「そういえば」と怜が囁いた。「ちょっと聞いたんだけど」
なんの話だろう。俺は急に嫌な予感がしてきた。しかし首に腕を巻き付けるような格好で怜に密着されているので逃げ場はない。そうこうしているうちに首もとに彼女の手が移動してきた。
「井上さんに、耳掻きしてあげたんだって?」
一体どうしてそんなことを知っているのだろう。背筋に走る怖気を堪えながら俺は考えた。まさかとは思うが、何らかの方法で怜の連絡先を知った井上が自分で怜にバラしたんじゃないだろうか。
「そうちゃんが誰のモノかって、理解してない残念な子が多くて困っちゃうね」そう言って怜は耳たぶにかじり付いた。痛い。「ちゃんと印をつけるから、隠したら、駄目だよ?」そう言って今度は首筋に舌を這わせた。「この辺りだったっけ。まだちょっとだけかさぶたが残ってる」嬉しそうに彼女は言う。そして殆ど治りかけていた傷口に歯を立てた。鋭い痛みが走る。「いまびくっとした。ふふ、可愛い」彼女は笑う。そして傷口を唇で覆って、吸い上げた。
荒い鼻息を立てながら、彼女は俺の血を吸う。どんな顔をしているのか、近すぎてよく見えない。でもきっと、とろけるような法悦を味わいながら、目尻にほんのわずかな涙を浮かべ、真っ白な肌を真っ赤に上気させ、艶笑を浮かべているに違いない。背筋がぞくぞくする。
彼女の唇が離れた。傷口がずきずきと痛む。その傷口へ彼女は指を這わせ、軽く爪を立てた。思わず痛みで顔が歪む。彼女は愉悦を歪んだ口もとに浮かべたまま、もう片方の手を俺の首に添えて、その親指で喉仏をこりこりと弄んだ。
「時々考えちゃうんだ。身動きのとれなくなったそうちゃんを、私が一生懸命お世話するっていうシチュエーション」両方の親指が、喉仏を軽く押さえつける。「それから私以外の誰かを見れないように、最後に私の姿を目に焼き付けてから、すべてを奪いたい」
耳まで裂けてしまいそうなほど凄絶な笑みを浮かべながら彼女は、首に添えた手に力を込めた。喉仏がぐっと押しつぶされ、視界が暗転した。
「……なんだこれ」
目を開けると見慣れた天井だった。体の自由が利かない上に妙に暑苦しい、と思ったら怜が俺に抱きついたまますやすやと眠っていた。回転しない頭を無理矢理動かしながら状況を考える。ソファの上で眠ってしまっていた。ということは怜に耳を舐められながら眠ってしまって、そのうち怜も一緒に寝てしまったということか。点けっぱなしのテレビ画面の隅っこに表示された時刻は六時10分。それほど長い時間眠っていた訳ではないらしい。
まとわりついた怜の腕をそっと引き剥がして、ソファから降りた。
首筋に痛みが走った。服の襟がこすれる度に痛みが出ている。洗面所へ行き、ぐい、と襟を引っ張ってみると、治りかけていた瘡蓋が剥がれていて、その傷口から血が滲んでいた。
俺は無意識に首元を撫でていた。
果たしてどこまでが夢だったんだろうか。寝汗が冷えてぞくぞくっと寒気が全身を走り抜けた。 まだ時間は十分ある。俺は部屋に戻って着替えを用意して、それからシャワーを浴びて汗を流した。
リビングに戻ったころには六時半になっていた。
「そろそろ食べる?」とエプロン姿で奈雪姉さんは首を傾げた。
「うん」俺は頷いた。それからソファの方を見た。怜はまだ眠っていた。
「朝から胸焼けするようないちゃつきっぷりだったね」奈雪姉さんはそう言って苦笑した。
「見てたの?」と俺は訊いた。
「見えるわよー。すぐそこだもん。ね、鈴衛」
「ええ、お嬢」と鈴衛さんは言った。彼は今朝最初に挨拶をしたときとほぼ同じ体勢で、何かの文庫本を読んでいた。
さすがに、俺が首を絞められていて、それでこの二人が黙ってみている訳もないから、きっとあれは夢だったのだろう。
となるとあの怜の言葉もすべて俺が無意識に生み出したものということになる。あるいは、ある程度までは彼女自身が実際に口にしていたのか。
なんともはっきりしない。
あまりにも夢のことが気になりすぎて、せっかく奈雪姉さんが作ってくれた朝食もあんまり味が分からなかった。気が付いたら食べ終えてしまっていて、「おいしかった?」と目をキラキラさせながら訊ねてくる彼女に「うん。美味しかった」と実感の伴わない賛辞を送って誤魔化した。
家を出る直前になってようやく怜が目を覚ました。
「え、もうそんな時間?」と彼女は目をぱちぱちさせて、「じゃあお見送り」と言って寝ぼけたままのよろよろと危なっかしい足取りで玄関まで付いてきた。
「私は一応、お昼過ぎくらいまでは居るつもりだから」と奈雪姉さん。
「そうそう。雪ちゃんと、さくらと三人でランチ食べる約束してるの」と怜は言った。
「さくらさんも?」
「そう。でね、明日登校日じゃない。それで向こうの家からだと遠いから、今日さくらが泊まることになってるから。お母さんには話しててオッケーもらってるから」
「いや、初耳なんだけど」
「そうだっけ?」
「夕飯の用意とかいろいろあるんだから」
「ごめんごめん」
「判った。じゃあまあ、なんか考えとく」
「うん。お願い」
そう言って怜は上がり框まで降りてくると、俺の横に立って唇をつきだした。やれやれと思いながら俺は彼女の唇にキスをした。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
奈雪姉さんが呆れた様な顔をしていたがお構いなしだ。しっかり十秒くらい見つめ合ってから、家を出た。
続く
めりーくりすます。毎年M3とかコミケの時期にダウンロード販売で耳かき系のボイスドラマみたいなのよく買ってます。
ちょっと短くなってしまったので年内にもう一回更新したいです。はい。
タイトルはDIR EN GREYの曲からです。書いてる時に聴いてただけで特に意味は無いです




