Heading for spring Ⅴ『ARCANE RAIN FELL』
1
一人で来てしまったことを香奈は深く後悔していた。手鏡で前髪の位置をああでもない、こうでもない、と整えるうちに時間だけが無為に過ぎていく。他人の家の玄関先でこんなことをしていてはただの不審者だ。
元々は公康と一緒に来るはずだったのだ。しかし放課後になって急に何か用事か出来たらしく、杏と一緒にどこかへ行ってしまったのだ。親友が風邪でダウンしたというのにカノジョを優先するなんて薄情な、などと思ったが、しかし彼の性格を考えれば本当に優先しなければならない別の用事があったのだろう。
いつだったか。
「もし公康が女なら俺はこいつと付き合っている」などと宗平が真顔で言ったことがあった。公康はそれを聞いて照れながら「なにいってんだよ」と宗平の肩を軽く殴ったがその様子はまんざらでもなさそうだった。
それだけではない。宗平が入院していた頃、お見舞いに行くと必ず公康が居たのだ。大体、怜と公康の二人がセットで、宗平のベッドの傍らに佇んでいた。それに退院後も何かと宗平に構いたがった。
そんな彼が宗平のことを後回しにするのだからよっぽど大事な用事なのだろう。
一体なにをしているのか。あとで杏に問いただしてやろう、などと香奈は考えながら目の前の状況から逃げていた。
さっさとチャイムのボタンを押せばいいのだ。そうすればきっと、扉の向こうでチャイムが鳴った音が聞こえて、それから怜のどんくさそうな足音が続いて、扉が開くなり、嫌そうな顔をした彼女と対面するのだ。きっと自分も心底嫌そうな顔をしているはずである。
そう、怜とあんまり会いたくなかったのだ。もっと言うと二人きりになりたくなかった。幼い頃に食らった嫌がらせの数々を思い出すとそう思うのも致し方ない。宗平が健在であれば、緩衝材になってくれるのだが、風邪でダウンしている人間にそれを期待するのはあまりにも酷である。それ故にここまで来ておいて香奈は躊躇していた。いっそこのまま無駄に時間をつぶし続けて公康が来るのを待とうか。そんなことを考えていた矢先であった。
背後で人の気配がした。もしかして、と期待を込めて振り返った瞬間、香奈は固まってしまった。
「あら、久しぶり」
三島奈雪がそこに居たからだ。両手にスーパーの袋を提げている。
「あ、ああ、あの」
予想外の人物の登場に、香奈は完全にパニクっていた。
「そんなに怯えなくても」と奈雪は困ったように笑って、こちらに近づいてくる。香奈は後ずさったが、すぐに背中が何かにぶつかった。玄関を背に立っているのだがら、後退する余地などないのである。そのことに思い至った彼女は愕然としながら、奈雪の顔を見上げた。
「流石にそんな風に怯えられると傷つくなあ」と奈雪は言って、香奈の頭に手を置いた。「そうくんのお見舞いだよね?」
香奈は無言でひたすら頷いた。
「そう。じゃあ、とりあえず中に入りましょうか」
再び頷く。
「でね。えっと、香奈ちゃん、だっけ? あのね。そこ、玄関の前だから」
「あ、す、すみません。はい。開けます。あれ、鍵って、えっと」
「……ごめんね」と奈雪は申し訳なさそうに言った。
「いえ、その。以前のことは、私が悪かったですから。はい」
「もういいの。すぎたことだし。そうくんも許してくれてるんでしょ?」
「はい」
「そう言うわけだから、私はあなたを怒る理由がありません」
「そう、なんですか? だって、ほら、私と奈々子が。あ、奈々子っていうのは私の友達で」
「知ってる」と呆れた風に奈雪はため息を吐いた。「そんなにシメてほしいなら、やるけど?」
「いえ、遠慮しておきます」
「そう。じゃ、扉をあけてちょうだい。この通り、両手がふさがってて。鍵は開いてるらね」
あはは、と香奈は愛想笑いを浮かべて、玄関扉を開けた。
リビングに案内された。
「そうくんはいま寝てると思うから、そこでくつろいでて」
暖房の電源を入れながら奈雪が言った。彼女は着て居たコートを脱ぐと丁寧に畳んでハンガーにかけた。
その姿をみて香奈は一瞬目を疑った。多少控えめではあるが、それでも一般的な基準からすればかなり派手なゴスロリを着ていたからだ。
こちらの視線に気がついた奈雪は「ああ、これ」とスカートの端を持ち上げて、上品にお辞儀をした。「私の趣味」
「そう言うの着るんですね」
「意外だった?」
「以前会った時はふつうでしたし」
「妹たちにはナイショだから」と奈雪は悪戯っぽく笑った。
「私の友達が。その、喧嘩してる相手なんですけど。たまにそう言うの着るんですよね」
「へえ。えっと、なんだっけ」
「奈々子。井上奈々子です」
「そう、奈々子ちゃん。ああそうだ。そう言えばそうくんからも聞いたな、それ」
「そうなんですか」
そう言えば、あの日、奈々子もこういう格好をしていたな、と思い出してなんとも言えない気持ちになる。あの日、奈々子は泣きながら香奈の家にやってきた。最初は、どうせ正面から振られたのだろう、と思った。それでざまあみろ、と笑い飛ばそうとしたけれど、どうしてもできなかった。気がついたら奈々子を慰めていた。悪役になりきれないというか、あのときの自分は奈々子の味方であり、悪役は宗平だった。彼が奈々子の心を傷つけた。断片的に話す内容からそのような結論に至った。正直信じられなかった。彼がそんなことをするだろうか。だが現実に奈々子は泣いていた。彼女のお気に入りのロリータに皺ができるのもお構いなしに、人ん家のベッドでうずくまって泣いていたのだ。
「ちょっと様子見てくる」と言って奈雪がリビングから出ていった。
一人になったところでようやく張りつめていたものがゆるんで、長いため息を吐いた。あ、そうだと、呟いてスクールバッグの中のモノを確かめた。すっかり遅くなったが、一応バレンタインのチョコレートは用意してある。本当は奈々子と一緒に渡す約束だったのだが、またしても抜け駆けを許してしまった。そのことを考えると少し腹が立つ。そうだ。クリスマス前の時だって、結局彼女は自分を裏切って彼に告白するつもりだったのだ。応援するとか言っておきながら。で、今回もまた裏切った。信用ならない女だ、と憤然とした表情を作ってみるが、いまいちなりきれない。まあ今回はこうなることは折り込み済みだったので、怒りよりは、やっぱりか、というある種の落胆の方が大きかった。結局まだ、奈々子は喧嘩を続けるつもりなのだ。
「そんなに恨まれてるのかな、私」
ぽつりと呟く。
心当たりはある。
奈々子も宗平のことが好きだということを知っていて、その上で自分のことを応援させていたのだ。それに、正直に白状すれば、自分は奈々子を利用していた。目立つための踏み台にしていた。少なくとも奈々子が髪を切ってバスケを始める前までは。
あの時の、奈々子の生まれ変わったような生き生きとした姿を思い出すと、胸の奥になんとも言えない感情が渦巻いてしまう。良かった、という気持ちと、奈々子のくせに、という蔑みから転じた嫉妬がせめぎ合うのだ。そして気付くのだ。いまだに胸中には彼女を見下す気持ちが残っていることに。
逆に見下されていると感じることもあった。なにかにつけて、奈々子は「香奈のためだから」などと言って影に徹していたのだ。本当に何様のつもりだ、と言いたくなるくらいの上から目線だ。例えそのきっかけが善意だったとしても、腹に据えかねるモノがずっとあった。
多分この喧嘩はそういうお互いに感じていた不満というか、潜在的なマウンティング合戦が遂に表面化してしまった結果なのだろう。そしてその勝利條件に、宗平を選んだ。彼がどちらかを選んだ時、勝敗は決するのだ。
けど、本当にそれでいいのだろうか。そんなことで二人の友情に泥を塗ってしまって、本当に自分は後悔しないのだろうか。少なくとも香奈は、しない、と断言することは出来なかった。きっと後悔する。だから、あのデートの後休戦状態になって安堵したのだ。このまま時間がたてばまた前のように戻れると、淡い期待を胸にして。
だが現実はそうならなかった。奈々子の抜け駆けによって再開してしまったのだ。
不満はある。恨んでいる。けど、香奈は奈々子が好きだった。いろいろあって親が離婚して、見知らぬ町へ引っ越して。どうしようもないくらいに落ち込んでいた時に、奈々子は必死に元気づけようとしてくれた。いまの自分があるのは奈々子のおかげだ。だから奈々子は大切な親友だし恩人で、絶対死ぬまで失いたくない存在だった。もし彼女と本当に絶交なんてしてしまったら、きっと立ち直れないだろう。一生引きずって、何があっても心から笑えない闇に包まれた人生を送ることになる。そんな確信があった。
奈々子も今日は風邪を引いて学校を休んでいた。一瞬様子を見に行こうかと思ったが、昨夜電話で、抜け駆けしたことをヌケヌケと自慢してきたのを思い出して、腹が立ってきて、宗平のお見舞いを優先したのだ。でも、もしかしたら彼女のお見舞いにこそ行くべきだったのかもしれない。不安が心をぎゅっとつかむ。
「心配事が山積みって顔」
急に話しかけられて心臓が飛び出しそうになった。目を剥いて顔を上げると、奈雪が苦笑を浮かべて立っていた。
「そうくんの事ではなさそうね」そう言って奈雪は香奈の隣に腰を下ろした。「よく知ってるわよ。その顔」
「どういう意味です?」
「怜ちゃんがね、一時期よくそんな顔で、悩んでたから」奈雪は遠い目でそう言った。
「そうなんですか」
「いっそ相談してみたら?」まるで名案だ、とでも言いたげに目を輝かせて奈雪は香奈を見た。
「冗談、ですよね」香奈は苦笑をひきつらせながら言った。
「本気だよ。だって怜ちゃんって、親友の彼氏寝取って、そのくせその親友と関係再構築するっていう結構訳の分かんないことやったバカだし」
「なんだかトゲのある言い方ですね」
「そりゃあね。怜ちゃんはさ、そうくんと両思いなの判ってる癖に変な事に拘って、そうくんを苦しめてたし。さくらちゃんは勝手にビビってお見舞いにこなくてそうくんを苦しめたし。ぶっちゃけどっちもそうくんの嫁、つまり私の義理の妹として見るにはちょっと足りないところがあるかなあ、とか思ってたりするから」
「義理の妹?」香奈は首を傾げた。
「ああ、えっと、言葉の綾? 私はそうくんのお姉ちゃんみたいなものだから」
「はあ。ていうかその、婚約ってマジなんですか?」
「いまさら?」奈雪は笑った。
「現実味があんまりなくて。だって中学生ですよ? 漫画やアニメじゃあるまいし」
「まあうちもそうなんだけど、ちょっと古風なところあるから」
「奈雪さん的にはどうなんです?」
「私は応援してるよ。なんだかんだ、二人には幸せになってもらいたいからね。怜ちゃんは特に。普段は見せないけど、結構いろいろ抱えてるから」
「事故、でしたっけ」
「知ってるの?」
「気になって調べたんです。そしたら当時のニュースの記事がネットに残ってて。悲惨な事故だったんですね」
「ええ」奈雪は頷いた。
「私、お姉さんの事が苦手なんです。小さい頃に色々あったのもあるんですけど。それに向こうも私の事目の敵にしてますし。でも、なんとなくですけど、一度くらいは宗平のことは抜きにしておしゃべりしてみたい、とも思うんです」
三島怜のことは嫌いだし苦手だ。でも裏を返せばそれだけの関心を抱けるほど惹かれている部分もあるのだ。
「へえ」と言って奈雪はにやっと笑った。「私もね、昔は怜ちゃんのこと大ッキライだった」
「え?」と香奈は驚いて奈雪の顔を見た。嘘や冗談を言っている顔には見えない。その真意を問いたかったが、奈雪は「そろそろ行きましょう」と言って立ち上がった。座ったまま、ぽかんとしている香奈に彼女は「そうくん起きてたよ?」と言って手を差し出した。香奈はその手に掴まり立ち上がった。
そしてそのままリビングを出る。
「あの、手」
「いいじゃない。減るものじゃないし」と奈雪は笑う。
手をつないだまま階段を上る。
「そういえば、花音ちゃんと連絡取り合ってるんでしょ?」
「どうして?」
「花音ちゃんと時々嬉しそうにあなたとのやりとりを聞かせてくれるから」
「マジですか」
「マジ」と奈雪は笑う。「けど不思議だよね。出会い頭に大喧嘩してたくせに」
「一周回って気が合っちゃったんです」
「私と怜ちゃんも多分そんな感じ」と奈雪はほほえんだ。「一度暇な時に、怜ちゃんとサシで話してみたら? ご飯おごるって言ったら多分嫌そうな顔をしながら喜んで来てくれると思うよ。あ、でもご飯のことになるとプライドとか何にもなくなって、年下相手でも遠慮なく食べるから注意しないと駄目かも」
「お小遣いに余裕があったら考えてみます」香奈は苦笑した。
宗平の部屋の前までやってきた。幼かったあのころに何度か来たことがあったけれど、何の変哲もない扉は昔のまま変わっていなかった。そのことに少しだけ安堵しながらドアノブに手をかけようとした。そのときだった。部屋のなかから何かどたんどすんと物音が響いてきて、そのまま音が近づいてくる。香奈は何となく厭な予感がして一歩下がった。その瞬間、勢いよく扉が開いた。扉の端が鼻先をかすめるように通り過ぎる。冷や汗が背筋を伝う。
部屋から飛び出して来たのは怜だった。彼女はなにか慌てているらしく、着物も髪も乱れたままだった。ちら、と部屋の中を覗くと宗平がベッドの上で苦笑を浮かべていた。
「怜ちゃん、危ない」と奈雪が語気を強めていった。
「ごめん」と怜は短く言って、それから香奈を指して「なんで?」
「お見舞い」奈雪が言った。「そうじゃなくて。ちゃんと謝って」
「でも」
「いいから」
「ごめんなさい」
「私じゃなくて、香奈ちゃんに。危なかったんだから」
奈雪にそう言われて、怜は渋々と言った様子でこちらに向き直り「ごめんなさい」と謝った。
「で、どうしたの?」と奈雪は訊ねた。
「今日中に仕上げなきゃ駄目な案件があったの忘れてた」と怜は顔いっぱいに絶望を浮かべながら言った。「ちょっと実家で仕事してくるから、ごはんの時間になったら声かけてくれる?」
「なんなら持って行くけど?」
「ありがとう。でもごはんはこっちで食べる」
「うん。じゃああとで呼びに行くね」そう言いながら奈雪は、怜の乱れた着物の襟をきゅっと直して、髪も手ぐしで整えた。とても手慣れた動作であった。怜はきょとんとしたまま、なすがままだった。
「急ぐのはいいけど、レディとして最低限の身だしなみと慎みは必要よ」と奈雪は微笑んだ。
「うぅ」と怜は何か悔しそうに唸ってから、「ありがとう」と言った。
どういたしまして、とほほえみを浮かべたまま奈雪は答え、それに見送られて怜は階段を下りていった。
「残念だけど、話す機会はなさそうね」と奈雪が言った。
「まあ、いつでも会えますから」
もしかしたら強引に怜と話をさせられるんじゃないか、と不安に思っていたので正直なところ、彼女が仕事で実家に行ってくれて安心していた。
「ところでさ」と部屋の中から嗄れ声が飛んできた。「寒いから早く閉めて欲しいんだけど」
「ごめんね。そうくん」と言って奈雪は香奈の背中をどん、と押して部屋の中に押し込んだ。「私はそろそろお風呂掃除とか夕飯の準備をしなきゃだから、あとはお二人で」
「いいんですか?」振り返って香奈は訊ねた。
「良いも悪いも、あなたはそうくんのお見舞いに来ただけでしょ? それとも何か別に目的が?」
ああ、これはつまり変な事をしたら承知しないぞ、という脅しだな、と香奈は理解して、「まさか、そんな」と愛想笑いを作って答えた。
「そう。ならいいの」奈雪はにっこりと笑んだ。
扉が閉まって、階段を下りる足音が聞こえなくなるまで待ってから、大きなため息を吐いた。
「怖いだろ、奈雪姉さんは」と宗平が何故か自慢げに言うので、香奈はちょっとカチンと来て「別に」と唇を尖らせた。
「お見舞い、来てくれたんだな」
彼はベッドの上で横を向いて、枕の上に腕を乗せ、そしてその上に頭を置いて横になっていた。
「まあその、心配だったし、渡すものもあったから」
「その辺に適当に座っていいぞ」
彼がそう言うので、恐らく普段彼が使っているのであろう、勉強机の椅子をベッドの前まで引っ張り出してそこに腰を下ろした。一瞬、普段家に居るときの癖であぐらをかきそうになったが、下にスパッツも何も履いてなかったことを寸前で思い出して何とか思いとどまった。ついでに、彼が横になっていると目線の高さ的に中が見えそうなのでスクールバッグを膝の上に置いてごまかした。
「部屋、昔見た時と全然違うね」と香奈は言った。
「何年経ったと思ってるんだよ」おかしそうに宗平は笑った。
「あ、でもそこの壁の傷、あれ昔からあるよね」部屋の隅を指して香奈は声を弾ませる。
「ああ、あれな」と宗平は苦笑を浮かべる。「なんであんな傷があるんだろ」
「覚えてないの?」
「いつの間にかあったからなあ」
そんなやりとりをしながら香奈は改めて彼の部屋の中を見回した。ほとんど記憶の中にあるそれとは違うけれど、でもさっきの壁の傷みたいに、覚えている風景と一致するものも幾つかあって、それが妙に嬉しくて、いつの間にか口元に笑みが浮かんでいた。
「人の部屋なんか見て楽しいか?」
「うん」と香奈は即答した。「だって、ここにも思い出があるから」
「そっか」
「えへへ。私も一応宗平の幼なじみなんだな、って実感出来るっていうか」
「一年くらい一緒だっただけだけどな」
「既成事実としては十分だよ。私は宗平の幼なじみ。うん。間違いない」
「そりゃどうも」
「でも、良かった。思ったより元気そうで」
「さっき熱計ったら七度五分くらいだったよ。まあ大体微熱だな。明日は学校行けると思う。まあちょっと腰が痛いんだけどさ」
だから起き上がるのが億劫なんだと彼は苦笑した。
「無理は駄目だよ?」
「無理なんてしないよ」
「嘘だぁ。宗平って無理するタイプじゃん」
「そうか?」
「うん。普段からよく公康君に心配かけてるでしょ?」
「あれはあいつが過保護なだけだよ」と宗平は笑う。
それはそうかもしれない、と思いつつ香奈は「心配なんだよ」と身を乗り出した。少しだけ彼と顔が近くなる。その距離で目をまっすぐに見つめる。「宗平は何ともないように振る舞ってるけど、でもやっぱり死にかけたんだもん。すごく怖かったんだから。もし目を覚まさなかったら、もしいなくなっちゃったら、って思ったら。夜も眠れないくらいに」
「そっか」と宗平はうつむいた。
「あ、別に責めてる訳じゃなくって。その、なんていうか。こっちはこっちで引きずってるものがあるっていうか。それにその、多分、ほら、この前私のせいで入院したでしょ? だからそう言うのもあるのかなって」
「夏井ってさ。結構優しいよな」
「何よいきなり」
「いや、そう言うところは結構好きだぞ」
「ばっか、何言ってんの。バカ」
急に好きと言われて真っ赤になった顔を隠すようにそっぽを向く。
「私は宗平のそう言うところ嫌いだよ。そんな風に気安く好きとか言わないでよ。勘違いしちゃうじゃん」
「気安くというか、お前だから言ったんだけどなあ」
「だからそう言うの。ああもう。ほんと、悪気がないって最悪」
「すまん」
「謝らないで!」
「おう」
「心配して損した」
やれやれとため息を吐いて、香奈はスクールバッグのファスナーを開けた。
「はい。今年のチョコ。手作りの本命だから有り難く食べなさいよ」
「お前なあ、そう言うときはもうちょっと可愛げのある渡し方をだなあ」
「そのつもりだったけど、宗平がバカだから気が変わったの。ほら。いらないなら自分で食べちゃうよ?」
「判った判った。有り難く頂戴仕ります」
そう言って宗平は、ひれ伏し、手を差し出した。
その大げさな態度に「なにそれ」と笑いながら彼の手にチョコを渡した。
「ああ、至上の喜びであります。おお、なんというきれいな包装。これは破くのがもったいないので家宝として神棚に祭らせて頂きます」
「いや、食べなよ。あとその演技キモイ」
「うるせえ。お前のパンツの色当てるぞ」
「見たんでしょ」
「見えた、というのが正しい」
そう言って彼は布団の中に戻ってまた横向きに寝転んだ。
「ああもう。なんで私こんなのが好きなんだろ」
けれど好きなモノは好きだからしょうがない。それになんだかんだ、こういうバカなやりとりが香奈は好きだった。
「なんだかんだお前とこうして話してると安心するわ」
まるでこちらの心の内を読んだかのようなタイミングで彼がそう言ったので、思わず胸がどくんと高鳴ってしまった。致し方ないことだ。
「ずっと話しかけてこなかっただろ? なんか避けられてたし。今日夏井と話して判ったんだけど、結構あれ堪えてたみたいだわ」
「ああ、あれね」
「てっきり嫌われたのかと」
「そう言うわけじゃないんだけどさ。ただ、宗平が奈々子を泣かせたっていうのが信じられなくて」
かといって奈々子が嘘を吐いている訳でもなさそうだった。現に彼女はあの日、泣きじゃくりながら香奈の元へとやってきたのだ。彼女の涙を見た途端、頭に血が上って宗平に電話をしたのだが、冷静になってみると、どうにも話がおかしい感じがしたのだ。彼が果たしてわざと奈々子の嫌がることをするだろうか。それが例え自分をあきらめさせる為だったとしてもだ。それなり以上には彼のことを知っているつもりだ。だからこそ香奈は信じられなかったのだ。けれど、奈々子の味方をする、と行動で示してしまった以上、疑問を口にするのもはばかられた。
「それで、奈々子が居る手前、なんか話しかけづらかったというか」
「俺はさ。てっきり、俺を悪者にして仲直り出来たのかな、ってちょっと期待してたんだけどな」
「なにそれ」
「いや、怖い顔するなよ」
「するよ。するに決まってるでしょ。なにその後味の悪い終わらせ方。今回はたまたまそういう風になりかけたけど、もしかして、自分からそうなるように、とか考えたりとかしてたんじゃないでしょうね」
「いや、それは」と彼は目をそらした。
「あのさ。そういうの絶対やめてよね。そうだよよく考えたらそうなんだ。宗平って私たちがどうにかなるくらいなら、自分を犠牲にしても良いって考えちゃうタイプなんだ。大島先輩の時だってそうだったよね? 自分は何言われてもいいけど、相川先生たちの事は悪く言うなってすっごい怒ってたもん。けどね、こっちからしたら宗平が悪者になるのもすごく気分が悪いんだから」
「はい、それはその」
「なに?」
「ごめんなさい」
「うん。奈々子とのことは、ちゃんと自分で解決するから。だからそう言うことは絶対しないでね」
「心に刻んで、紙に書き付けて額に入れて飾ります」
「それキモイって」
あはは、と宗平は苦笑してから、「でもやっぱり夏井は優しいな」と呟いた。
「あのさ。それで、さっきの話なんだけど」と香奈は宗平の目を見つめて言った。「奈々子のことね」
「ああ」
「もしかして、と思ってお父さんに相談してみたの」
「相談って?」
「宗平、事故で頭打って死にかけたんだよね? だから、そう言うので記憶がおかしくなることがあるのかって。そしたら、脳外科とかそっちの方は専門外だからはっきりとはいえないけど、あり得るんじゃないかって」
言いながら、香奈は宗平の表情の変化を観察していた。あり得るんじゃないか、そう言った時彼は少し目を逸らしていた。
「正直に話して」
彼は考え込むようにうつむき、それから「判った」と答えた。
「俺はどうも、井上のことを忘れていたらしい」
「奈々子のことを? それだけ?」
「いまのところ、それだけみたいだ。もしかしたらほかもあるのかもしれないけど、気づいてないってことは多分大したことじゃないんだろうと思う」
彼の瞳は不安に揺れていた。悪いことを聞いてしまったな、と香奈は思った。問いつめてしまったけれど、よく考えてみれば自分の記憶が定かではない、なんてとても恐ろしい話だ。
「奈々子は、知ってるの?」
「あいつは自分で気づいたよ」
「そっか」
「なあ、夏井。俺ってあいつと仲良かったのか?」
「まあ、それなりに。正直結構嫉妬してたよ。私の知らない本の話で盛り上がってたし。脅してなかったらあっさり告白して、あっさり付き合ってたんじゃない?」
「付き合うって、そこまでだったのか?」
「だってさ。相川先生とつきあい始めるまではさ、すっごい思い詰めてたじゃん。お姉さんのことを本当のお姉さんって思おうとしてたんでしょ? だからそのために、案外告白されたらコロって行ってたんじゃないかと思うんだけど」
「……そう思ってたんならなんでお前は黙ってたんだ?」
「私は勇気がなかっただけ。だって、そんなある意味有利な状況で告って振られたら最悪だし」
「というかお前、俺に告白させようとしてたんじゃないか?」
図星であった。本当のところは、調子に乗っていたのだ。周りからちやほやされて、自分はちょっと高嶺の花だから、自分から告白するのは何か違う。こっちの気持ちを汲み取って、向こうから告白してくる。それで初めて成立するのだ、と。そんな驕りがあったのは間違いない。
「あのさ、ぶっちゃけた話なんだけど。仮に、だよ。お姉さんと付き合ってなくて、その状態で私が告白してたら、宗平は、応えてくれた?」
そんなこと訊いてどうする、とすぐに後悔した。でも気になったのだ。
彼は少し考えるそぶりをして「まあ付き合ってただろうな」と答えた。
「そっか」
どっちかと言うと嬉しい。けれどそれ以上に胸が苦しい。このまま切なさで息が出来なくなりそうだ。それなのに、「どうして?」なんて余計なことを口走ってしまう。そして彼は鈍感だからそれに応えてしまう。
「やっぱ話してて楽しいし。それに、まあ、かわいいし、おっぱい大きいし」
「だから面と向かってそう言うこといわないで。あと最後のはなに?」
「冗談だ」彼は笑う。
「最低。セクハラなんですけど」香奈はじとっと睨み付ける。
彼はごめんごめん、と笑って、それから噎せたように咳をした。
元気になってきているらしいとはいえ、あまり長居をするのは良くないかも知れない。けれど、そう思っていてもここから離れたくなくて、気がつけば頭の中で次は何を話そうかと考えている。二人きりで居る時間が長ければ長いほど、切なさで苦しくなるだけなのに。それでも香奈は彼との時間を求めてしまう。きっと、ここしばらくまともに会話をしていなかったから、その反動なのだろう。
「そういえば、井上はどうしてた?」
「どうって、何が?」
なんとなく訊きたいことは判っていた。様子はどうだったか、とか風邪を引いてなかったか、とかそういうことを彼は知りたいのだ。だがそれを素直に教えるのも癪に障ったので、香奈はそうやってとぼけて見せた。それから先ほどのように睨みながら、「チョコ貰ったんでしょ?」
「なんだ知ってたのか」彼はばつが悪そうに天井に視線を漂わせる。
「そりゃあもう、渡したって自慢してきましたから」
しかも風邪を引いたことまで自慢してきたのだ。曰く、宗平と同じ空間に居て、それで風邪を引いたと言うことはつまり、同じウイルスを共有してるということであり、かけがえのないものである、という旨の長文のメッセージを送りつけてきたのである。親友とは言え正直ドン引きだった。
「そっか。あいつも風邪引いたのか」
メッセージのことは伏せて置いて風邪を引いたことだけ伝えると、彼はどこか申し訳なさそうに目を伏せた。
「別に宗平のせいじゃないよ。お風呂とか貸したんでしょ? ついでにジャージも」
「ああ。そんなことまで知ってるのか」
「うん。だから宗平が奈々子に膝枕で耳かきしてあげたこととかもぜーんぶ知ってるよ?」
だんだん胸の中にトゲトゲしたものが湧き上がってきた。そうだ。よく考えれば膝枕に耳かきはやりすぎではないだろうか。恐らく奈々子のほうから要求したのであろうが、それにしたって断らない宗平は一体何を考えているのか。
じーっと睨んでいると彼が気まずそうに目をそらす。その仕草が神経を逆なでして、香奈は気付けばベッドの上に乗り込んで、彼を仰向けにさせてその上に馬乗りになっていた。一瞬、理性を失いかけていたのである。だから、馬乗りになって、彼の驚いた顔を見おろした香奈は、そこからまったく動けなくなった。
「重い」宗平は言った。
「しね」思わずそう言って、彼の胸の辺りを掛け布団の上からどん、と叩いた。
ぐへ、と彼は呻いて、「すまん」
「次言ったら喉行くから」
「かんべんしてくれ」
「でさ、なんで耳かきを?」
香奈がそう訊ねると宗平はまた目をそらした。何か言いたくない事情でもあるのだろうか。あるいは言えない事情でも。
「あ、なるほど」と香奈はとっさにひらめいたことを、そのまま口にする。「記憶のこと、お姉さんに話してないでしょ」
今度は彼は目をそらさなかった。しかし叩いたまま胸の上に置いた手に、布団越しに拍動が伝わってきた。少し乱れたそれが、心の内を如実に現わしていた。
「なるほど。で、脅された訳だ」
「変なところで鋭いな、お前」
「そりゃあ宗平のことだもん」
自慢げに胸を張る。
「でもそっか。私にそれ言うと、私もおんなじようにするって思ったんだ」
「いや、それは」
「信用されてないんだ。結構ショックだなあ」
しょぼんとした表情を作ってみせる。一応演技ではあるが、その実多少心にダメージを受けていた。自分は奈々子みたいに卑劣なことはしない、と心がけていたが、宗平からすれば同列なのだ、という事実がグサッときたのだ。尤も、いつぞやの階段でのことを思えばまったく以て弁解の余地もないのであるが。それはそれだ。
彼は「そう言う訳でもないんだけどさ」と困った様に言って、それっきり黙ってしまった。どうフォローしようか考えているのだろう。そんな姿を見て香奈は胸がすく気持ちがした。そして彼が自分のために困っている。その状況が嬉しかった。次はどんなことを言って困らせてやろうか。そんな悪巧みを考え始めた時だった。部屋の外から足音が聞こえてきた。だが香奈は、悪巧みに夢中になっていて、それを気にも掛けなかった。ドアが開く音が聞こえた時にはもう、ベッドの上から飛び降りるには余りにも遅かった。
「なにしてるのかな?」
声色は柔和なのに、ぬくもりを感じさせない冷徹な声。
恐る恐る振り向くと、公康が居て、その隣に声の主である奈雪がニコニコしながらこちらを睨んでいた。
「ねえ、宗平」
「知らん」
緊張と恐怖でガッチガチに固まった関節をぎこちなく動かして、ベッドの上から下りて、そのままよろよろと奈雪の前まで歩いて行って、両膝から崩れ落ちた。そして床に額をこすりつけ、「申し訳ありません」と謝った。
「そんなに、土下座しなきゃ駄目なこと、したの?」と香奈の思い切りの良さに困惑した様子で奈雪が訊ねた。
「ちょっとテンションが上がって、馬乗りになっちゃっただけです」
「それだけ?」
「はい」
香奈は応えた。
沈黙がしばらくあった。
「苦しゅうない。表を上げぇ」と芝居がかった口調で奈雪が言った。
香奈は顔を上げ、奈雪を見た。その瞬間、ふと彼女の面差しに宗平の影を見いだして、はっとした。
「どうしたの?」
「従姉妹なんですよね?」
「はとこね」
「その割にはそっくりですね。宗平と」
香奈の言葉に奈雪は一瞬動揺したように見えた。けれどすぐに、あはは、と笑って「そりゃそうでしょ」と言う。「親戚なんだもの。似るわよ。なんだったら血筋的にはちょっと離れてるのに宗平そっくりな子とか居るわよ」
そう言われるとそりゃそうか、と納得せざるを得ない。
奈雪の隣にいる公康に意見を聞いてみた。
「まあ奈雪さんの言う通りじゃないかな」
彼は困った顔をしながらも答えてくれた。
最後に振り返って宗平を見た。彼は無関心な様子で天井を見ていた。が、どこかわざとらしい。何か面白いネタがあるのかもしれない。などと好奇心に駆り立てられつつも、知ったところでどうするのか、という自問が眼前に立ち塞がり、はっとした。弱みを握れるかも、などと多少でも考えてしまった自分が嫌になりそうだった。そう。奈々子とは違う。心を入れ替えてそういうことはしないと決めたのだ。ついさっき。だからそういうことを考えるのは駄目だ。
「どうしたの? 香奈ちゃん。なんか深刻そうだけど」と公康が心配そうに訊ねてくる。美男子然とした彼が眉根を寄せて身を案じてくれている。普通の女子であればときめきすぎてそのまま茹で蛸みたいになるところ、香奈はすっかり彼の美貌になれてしまっている上、正直異性としてもあんまり意識していないこともあって、「ちょっと考え事してただけ」などと平気な顔で答えてしまう。香奈のそんな態度に少なからずがっかりした様子を見せた公康だが、やはりそれにも気がつかない。そもそも彼には加賀杏という恋人がいるので、なおさら自分が彼にとっての恋愛対象になっていて、まだそれなりに未練も残っている状態である、ということに思い至る余地もないのである。
「大変ね」奈雪が気の毒そうに公康の肩に手を置いた。
「慣れましたから」と公康は力のない苦笑を浮かべた。
そんな二人のやりとりに、香奈は首をかしげて、「じゃあ私は帰ります」と言った。それから振り返って、「宗平、またあしたね」
部屋を出て階段に向かって歩き出した。
「あ、傘とかカッパとか、持ってる?」と奈雪の声がして、香奈は立ち止まった。そこで気がついた。外から結構派手な雨音が聞こえてくる。
「ないです」
「このまま帰ったら次はあなたが風邪引いちゃうわよ?」
「どうしよう。今日うち、お父さんいないんですよ」
香奈は途方に暮れていた。もし帰ってくるなら、多少遅くなっても、それまでの間、ここで待たせて貰えばいいだけだ。だが、今日は学会がどうのと言って、朝早くに出て行ってしまった。帰宅するのは二日後だ。
「奈雪姉さん」と部屋の中からしゃがれた声が飛んできた。
「なに? そうくん」
「姉さんは、何できたの?」
「ああ、鈴衞に頼んで送って貰ったの」
「その鈴衞さんは?」
「あ、近くに居ると思うから、呼んでみるね」
鈴衞って誰? と訊く前に奈雪がスマフォを操作して、その鈴衞とやらに電話をかけた。その口調が妙に上から目線というか。まるで主人が召使いに命令するかの如くだったので香奈は目を丸くしてその様子を見ていた。すると公康が隣にやってきて、「奈雪さんはお嬢さまだから」
「そうなの?」
「うん。宗平のとこの本家は、なんか、凄いよ。おっきい」
「家が?」
「まあ、そうだね」
「公康くんは行ったことあるの?」
「昔ね。宗平が向こうに遊びに行くのについて行ったことがあるんだけど、池とかあったよ」
「ガチじゃん」
「ガチだよ」
公康とそんなやりとりをしている間に奈雪は電話を終えていた。
「三〇分くらいで来るって」
「あの、その、いいんですか?」
「いいのいいの。気にしないで。鈴衞ったら暇だからってファミレスで読書して時間潰してたのよ。あんな強面が居座ってたら営業妨害じゃない、っていったら、すみませんって言ってさ」
「顔、怖い人なんですか?」
「ヤクザみたいってよく言われる」
香奈は公康を見た。
彼は奈雪に同意するように頷いた。
家がおっきくてお嬢様で、ヤクザみたいな強面。それはもはやヤクザのような何かなのでは? と香奈の中で勝手におっかない妄想が大きく膨らんでいく。両手を伸ばし、右手で公康の服の裾を、左手で奈雪の腕を掴んだ。
「あの、私その人と二人きりで?」
「いや、あの。確かに鈴衞は強面だけど、とっても優しいから平気だよ? ね? そうくん」
部屋の中に向かって奈雪が同意を求めるように言う。
「鈴衞さんはいい人だよ」と宗平が言った。「あと入るならはいる、入らないなら入らないで扉しめろ。寒いんだよ」
二回目だからか、彼はちょっと怒っていた。
結局その後三人揃って彼の部屋に入り、迎えが来るまでわいわいと雑談をして盛り上がった。
2
「迎えが来たわよ」
席を外していた奈雪が戻ってきて、香奈を見てそう言った。
「じゃあ、今度こそ。また明日な」とベッドの上で宗平がひらひらと手を振る。
「うん。絶対明日来てよ。あ、治ってなかったら無理しないで休んでね」
「大丈夫」と奈雪が言った。「ちょっとでも熱があったら休ませるから」
「過保護だよなあ」と呆れ顔で宗平が言った。
なあ? と同意を求められた公康は「そうかもね」と曖昧に返事をした。
「あ、そうだ。ねえヤスくん」と奈雪が公康を見て言った。「時間ってまだ大丈夫?」
「ええ」
「良かった。それじゃちょっとの間、そうくんのこと、お願い出来る?」
「わかりました」公康は頷いた。
「なんだ。奈雪姉さんもついていくんだ」と宗平。
香奈は驚いて奈雪の顔を見た。
「そんな顔しないでよ」と奈雪は苦笑を浮かべる。「それじゃ、行きましょう」
階段を下りて廊下に出る。そして玄関の方へ顔を向けた瞬間、「ひょ」だか「ふぇ」だか、情けない声が喉から漏れた。
黒いスーツに身を包んだサングラスの大男がそこにいたからである。
「あ、鈴衞。ごめんね」と奈雪はお淑やかに微笑みながら大男の居る玄関へ歩いて行く。
「いえ、お嬢の呼び出しでしたので」大男の口から低くて渋い声が響いた。
やっぱり雨が上がるまで待つ。そう言い出したかったが、流石に迎えに来て貰った手前、そんな我が儘を言うのは気が引けた。しかもその理由が、運転手の顔と出で立ちが怖いから、だなんて口が裂けても言えない。ぐっと唇を引き結んで、お腹に力を入れてから一歩足を踏み出した。
大男がこちらを見た。
「お嬢。こちらが?」
「うん。ていうか鈴衞、そのお嬢って言うの、やめようか。香奈ちゃんが怖がってるから」
「しかしお嬢。奈雪お嬢様と呼ばれるのが嫌だからこう呼べと言ったのはお嬢では?」
「そうなんだけど。ほら、鈴衞って見た目怖いでしょ? それでさ。私のことをお嬢とか言ってたらまるで組長の娘のボディーガードみたいじゃない。それでさっきから彼女怖がってるのよ」
「これは失礼しました」とこちらに向かって頭を下げる。
「あ、いえ。別に。私がただの怖がりなだけですから。あははは」
顔を引き攣らせながら香奈は頭を上げてくれと懇願した。
鈴衞は申し訳ありませんと言って頭を上げた。
「そうね。鈴衞、今日は私のことは名前で呼びなさい。そうね。奈雪さん、で。はい復唱」
奈雪がぱんと手を叩く。
鈴衞が元々しゃきっとしていた姿勢をさらに正して、「奈雪さん」と繰り返した。
明らかに年上であろう鈴衞が、奈雪の一言一句思いのままになっている姿は、香奈の目にはかなり異質に映った。まるで住む世界が違う。公康はお嬢様だと言っていたが、果たしてそれがどれくらいのものなのだろうか。想像も付かない。今度花音にそれとなく訊ねてみよう。
ともかく。
二人の面妖なやりとりを見ているうちに恐怖感も和らいで来たので、香奈は鈴衞の側まで行くと「よろしくお願いします」と一礼した。
外に出ると雨音が激しく耳朶を打った。一瞬視界が真っ白になったかと思うと、雷鳴がびりびりと空気を震わせた。
「いやー、最悪のタイミングだね」と何故か楽しそうに奈雪が言う。
「もしかして、台風の時に外に出ちゃうタイプの人なんですか?」
玄関先で傘をくるくる回しながらはしゃいでいる奈雪の姿を見て、思わずそんなことを訊ねていた。
「昔はそうでした」と鈴衞は簡潔に答えた。
「いまもあんなのですけど?」
「それは、ここだから、ですね」しみじみと鈴衞は言う。サングラスの奥の瞳が、何かを懐かしんでいるように見えた。
そんなにしんみりする要素があるんだろうか、と香奈は首をかしげた。
「あ、そうだ。そういえば、自転車があるんですけれど」
「それならもう積んでます」
「そうなんですか。って、え? あの車に?」
庭の向こうに黒塗りの車が止まっている。車に関する知識がまるでない香奈にでも、それが高級車に類するものであるということは雰囲気から察していたので思わず聞き返してしまったのだ。
「一番後ろのシートを倒して載せてます」
「あの、でも。汚れてますよ?」
「平気平気」と奈雪が笑った。「いっつも私の自転車載せたりしてたから」
「おじょ、ではなく、奈雪さん。もういいですか?」
「あ、ごめん。もしかして私待ち?」
鈴衞がこくりと頷いた。しかしその横顔がどことなく名残惜しそうに見えたのは気のせいだろうか。もしかしたら、香奈を送り届けるという用事がなければ、奈雪の気が済むまで好きなようにさせていたのかもしれない。
「これを」
低い声がして、目の前に傘が差し出された。
「濡れるといけないので」
「ありがとうございます」
鈴衞から傘を受け取った香奈はなんだか申し訳ない気持ちになっていた。
こうして間近で接してみると意外と怖くない。それどころか、奈雪を見守る彼の姿はなんとなく愛嬌があった。見た目だけで判断してはいけない。そんなことを思いながら傘を開いた。偶然だろうが、男物の大きな傘だったので、ぐっと鈴衞の印象が良くなった。
車内は広々としていた。座席も座り心地がとてもいい。内装もなんだか高級感があった。が、あまりきょろきょろと見回すのもみっともないので、好奇心を押さえつけて、清楚に佇んだ。そうだ。自分だって医者の娘。見ようによってはお嬢様の部類なのだから。などと思って隣を見ると奈雪が行儀良く、膝の上で手を重ねて座っていて、その見るからに伝わってくるお上品なオーラに完全に気圧されてしまった。やっぱり住む世界が違う人だ。
香奈が住所を伝えると、鈴衞は慣れた手つきでカーナビを操作して、目的地を設定する。
車がなめらかに走り出した。
「で、香奈ちゃん。あなたはそうくんの、どこが好きなの?」
先ほどのお上品さはどこへ行ったのか。と言いたくなるほど下世話な感じのにやけ面を浮かべていた。
「えっと、話さないと駄目ですか?」
「その為に付いてきたんだもの」
あなたのこと、気に入ったから、と奈雪は楽しそうに声を弾ませた。
「年下のお友達って素敵じゃない?」
「はあ」
「あなたから見たら年上か」
「そうですね」
「それでそれで?」
「判りました。答えます。けど、こっちからも訊いていいですか?」
「それはもちろん」
ごほん、と咳払いをして香奈は居住まいを正した。
「まあその。よく考えたらよく判らないんですよね」
「わからない?」
「小さい頃、ひとりぼっちだったときに声を掛けて貰えて、その恩はあります。でもなんていうか、それはきっかけであって好きになった理由って訳でもないんですよねえ。ただ一緒に遊んだりしているうちに好きになってて。それからはもうずっと、そうです。私はずっと一途に宗平のことが好きなんです」
「よく判らないけど香奈ちゃんがそうくんのことが好きだっていうのはよく判った、かな」
ははは、と奈雪は愛想笑いを浮かべていた。
「と言う訳で判らないんです。まあその、一緒に居て楽しいですし、見た目も悪くないですからねえ」
「まあそう言う物だよね」と奈雪は肩を竦めた。「それで、訊きたいことって?」
「奈雪さんは、宗平のこと好きなんですか?」
「お姉ちゃんとしてね」
「いえ、そうじゃなくて」
「なら、好きだった、ね」
「諦めたんですか?」
「色々あってね」寂しそうに奈雪は目を伏せた。「それに、そもそもそうくんは私のことを全くそういう風に見てくれてなかったから」
昔から怜ちゃんの事しか見てなかったから、と奈雪は苦笑した。それから重たい溜息を吐き出した。
なんとなくそれ以上訊ねづらい雰囲気になったので「そうなんですね」と相づちを打ったきりになった。
「そう言えば」と奈雪が思い出したように顔を上げてこちらを見た。「一つ訊きたいことがあったのよね」と奈雪は黒目がちな目で問いかけてくる。「そうくんが入院している時、それなりの頻度でお見舞いに行ってたけど、香奈ちゃんを見たことがないの。でもそうくんの話だとしょっちゅう来てたって」
「奈雪さんが来てたのは、多分土日とかですよね」
「じゃないとここまでこれないからね。流石に、何時も何時でも、鈴衛を酷使する訳にもいかないし」
あまり答えたい質問ではない。だからと言って別に秘密にするようなことでもなかった。ただなんとなく後悔というかあの時、もっとこうすれば良かったのにどうして出来なかったのか、という自分に対する苛立ちみたいなものが蟠っていた。それを口にしたら宗平のことを想う資格などないのではないか、と言う不安もあった。だが深い海の底よりも真っ黒な瞳は逃がしてくれそうにない。
「怖かったんです」力なく香奈は言った。裏腹に、膝の上で拳を握りしめていた。無意識のことだったが、気がついても思ったように力が抜けない。そのうちに膝頭も小さく震え始めた。「私、宗平の為に何が出来るか判らなくて。いくら考えても思いつかなくて、だから時間があるときに宗平と二人きりになって、それでどんなことを話したらいいのか判らなくて」
「それで、平日にだけ顔を出していた、と」
こちらの懊悩など知らぬとばかりに奈雪は簡潔に話をまとめた。香奈は頷く。
「まああのころのそうくんは、なんていうか難しい感じだったし、仕方ないのかな」
てっきり軽蔑されると思っていたので、奈雪のその言葉は予想外だった。香奈は思わず「仕方、ない?」と訊ねていた。
「うーん。正直私もどうしていいか判らなかったから。だって、怜ちゃんですら手を焼いてたんだよ?」
「そうでしたっけ」
「あの子、ずっとそうくんのそばにいたでしょ?」
「はい」
「でも居ただけだったの。あの子だって香奈ちゃんと同じようにどうして良いか判らなかったって言ってたし。けど、あの子の場合は判らないけどとにかくそばに居たの。きっとそれが良かったんだと思う」
遠い目をしながら語る奈雪の横顔にはどこか後悔ともとれる暗い感情が見え隠れしていた。
「私はね。どうしていいか判らないから、とにかく話しかけてた」と奈雪は苦笑した。「私の振った話に合わせてくれてね、すごく気持ちよくお話が出来て楽しかった。でも途中で気づくの、そうくんは全然楽しそうじゃないって。それどころか時々辛そうな顔をするの。傷ついたなあ。これでも結構いいお姉ちゃんだと思ってたから。もうプライドも何もあったもんじゃない。正直私もそうくんのお見舞いに行くのは怖かった。でも気になるから毎週顔を見に行ってた。退院して、少しずつ笑顔が戻ってきたって聞いた時は、正直ほっとした。そうくんが良くなったことに対しての安心以外に、もうあんな思いをしなくていいって言う安心が混じっていたことに気づいた時には、もう自分が情けなくて情けなくて。お姉ちゃん失格だなあ、ってその時思ったよ」
憂いを帯びた目は、あの頃を回想しているのだろう。それっきり、何も話さなくなった。車体を打つ雨音と、わずかなエンジン音。対向車が路面の雨水を巻き上げながら走り去る音。どこかで鳴ったクラクション。後部座席から見るフロントガラスは雨粒をはじきながら、帳が降りて明かりの灯った町の残像と対向車のヘッドライトの光を受けて煌めいていた。ワイパーが往復するたびにそれらが引き延ばされ散り散りになって、また引き延ばされて、ばらばらになる。そのうちに見飽きるほどに見慣れた町並みが浮かび上がってくる。カーナビが目的地周辺に到着したことを知らせるアナウンスを流した。目の前の交差点は赤信号。
「どの辺りです? 家の前まで行きますよ」鈴衛がバックミラー越しに香奈を見た。
「あ、えっと」ここらで降ろして貰って構わないと思って、その準備を始めていた香奈は握っていた傘を足下に降ろして助手席の方へ身を乗り出した。そしてナビの地図を指して言った。「この道をまっすぐ行って、次の信号を右に曲がってください。右側にマンションが見えてくるので、その前で降ろして貰えれば、その、助かります」
「判りました」
にこっと笑って鈴衛は答えた。
その顔に香奈は思わず見入ってしまった。別に見とれた訳ではない。ただ思っていたよりも愛嬌のある笑顔だな、と意外だっただけだ。
座席に座り直した香奈に、奈雪がにやにやしながら「かわいいでしょ」と言った。
「おじょ、奈雪さん。やめてくださいよ」
サングラスをしているので鈴衛の表情は判りづらいが、よく見れば眉が下がって困っているのが判る。耳が赤くなっているので照れてもいるのだろう。なるほど、確かに、見かけに寄らず可愛げのある人だ。香奈は自然と口元がほころぶのを感じていた。
「鈴衛ったらね。私がからかうといつもあんな風になるの」と奈雪は言った。とても楽しそうな笑顔を浮かべている。そして頬を紅潮させながら、「でもこんなのだけど、すごく強いんだから。空手と柔道と剣道の段持ちで、高校の頃には野球の強豪校にいたのよ。それに料理も出来て、朴念仁に見えて意外と気も利くし、私の自慢なの」
「なんだか、鈴衛さんに恋してるみたいですね」熱の入った自慢を聞いて、なんとなく思ったことを口にした。
奈雪はぽかんとした表情を浮かべて、それからあはは、と大声で笑った。
「ないない。ないってそれは」奈雪は腹を抱えて笑っている。
「うーん。そうですか? 割といいと思いますけど」
「そうくんも似た様なこと言ってたけど。ないって。だって鈴衛だよ?」
そう言われても今日会ったばかりの人なので、なんとも頷きがたい。香奈は「そうなんですか」とちょっとがっかりしながら応えた。お嬢様と使用人。とても絵になるしロマンチックなカップルだなのに、と内心思いながら。
香奈の住むマンションの前で車が止まった。
「今日はありがとうございました」香奈は言った。
「いいえ。楽しいお話が出来て、こっちがお礼を言いたいくらい。じゃ、受験頑張ってね」
「あはは。せっかく忘れてたのに」
「あなたが北高に落ちたら、そうくんが悲しむから、絶対頑張らなきゃ駄目だからね」
「結局宗平基準なんですね」
「もちろん。私はお姉ちゃんだから」
「まあ私も落ちるつもりはないですから」
「うん。その意気。何か勉強してて判らない事があったら聞いてくれていいからね。怜ちゃんほどじゃないけど、私も結構勉強出来るから。あとで花音ちゃんに私たちのグループの招待送っとくように言っておくから」
「あ、はい」
「そうくんも居るよ」
「マジですか」
「まあ怜ちゃんも居るけど」
「うえぇ」
あはは、と奈雪が笑う。
「ちょうど良い機会だし、これをきっかけに仲良くなってみたら? なんとなくだけど、あなたたちは意外と気が合うと思うんだ」
「うーん。考えておきます」
それじゃあ失礼します、と二人に会釈をして、香奈は車を降りた。傘は今度会った時に返してくれればいい、と鈴衛が言ったので借りた傘をそのまま使っている。
香奈の住むマンションは築十年も経っていない、この辺りでは一番新しいと聞いている。香奈の父親がつとめる病院が規模を拡張するに際して、病院関係者の職員寮として使用できるように建てたものらしい。
暗証番号でオートロックを解除して中に入る。まっすぐエレベーターホールへ向かった。ちょうど一階でエレベーターが止まっていたのでそれに乗り込む。五階のボタンを押して、壁にもたれてほう、と息を吐いた。
「あ、そうだ」一人呟いて香奈は鞄を床に降ろすと鍵を取りだそうとファスナーを開けた。鞄に手を突っ込んで鍵を探す。冷たい感触が指先に触れた。鍵を掴んでスカートのポケットに入れた。
エレベータを出て廊下を歩く。雷鳴が響いた。びくっと肩をふるわせる。
鍵を開けて部屋に入った。
がらんとした室内。
ひとりぼっちでは広すぎる。
「あーあ。なんか適当な理由をつけて宗平のとこに泊まれば良かったなあ」
スマホに通知が来た。
花音からだった。
さっそく招待が来ていた。
香奈は苦笑しつつ、スマホを操作する。
手のひらに収まる世界の中は既にとても賑やかで、それが孤独を紛らわせてくれた。
今日は夜更かししてしまうかもしれない。そんなことを思いながら香奈は指先を滑らせた。
続く
一ヶ月ぶりです。タイトルはDraconianのアルバムから取りましたけど、別に意味はないですね。フィーリングです。
次はまた別のヒロインにスポットを当ててみたいです
そういえばちょっと思うところがあったのでR-15に変更しました
次回は、再来週の三連休くらいに




