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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第五章
41/55

Heading for spring interlude 02『かぜ』

   1


 頭が重たい。のどが痛い。息苦しい。鼻が詰まっている。体を動かすのが億劫だ。だからじっと息を潜めてベッドの中で、自分の状態を冷静に分析していた。これらの諸症状を勘案するに、風邪であることは明白だった。昨日の段階で多少調子は悪かったのだ。井上が帰った後、ベッドで寝てしまっていた。帰ってきた怜に起こされて、そのときにはもうのどが痛かった。それに目眩もしていた。怜は「休んだ方がいい」と言ったけれど、なんとなく落ち着かなくて、廊下を掃除したあといつもより遅い夕食を作った。しかし食欲がなくて結局ほとんど食べられなかった。洗い物を片づけて風呂に入ろうか、という頃には熱っぽさを自覚していた。だが、市販の風邪薬を飲んで寝れば明日の朝には全快しているだろうと楽観視していた。その結果がこのざまである。

 こん、こん、とドアをノックする音が聞こえた。俺は寝たまま「起きてる」と返事をしたが、声が鼻腔に籠もって頭の中でぐるぐる響いた。

「大丈夫、そうじゃないね」部屋に入ってきた怜は俺を見て悲しそうに言った。「学校は休もうか」

 俺は黙って頷いた。

「電話してくるね」そう言って彼女はこちらに背を向ける。

「公康にも伝えといて」と俺はその背中に向けて言った。

「うん」と頷いて彼女は部屋を出ていった。

 ゆっくりと深呼吸をしてから、体を起こした。節々が痛い。そのせいで肩と腰の痛みが普段よりも酷い。ふらふらと立ち上がり、壁づたいに歩く。勉強机の上のペン立てに放り込んでいた体温計をつまみ上げて腋に挟んだ。ベッドに座る。体の内側からこみ上げてくるダルさに耐えていると電子音が鳴った。体温計を見ると三十八度一分と表示されていた。ちょっと体調を崩しただけかと思っていたが、結構本格的な奴だった。そこで気持ちが切れて、ため息を吐き出すのと同時に仰向けに倒れた。熱っぽい頬に、掛け布団の外側の冷えた感触がちょっとだけ気持ちよかった。

 ごほごほと咳をすると熱っぽい息と一緒に変なにおいのする痰が喉から飛び出して来た。起きあがってティッシュをとって、そこに吐いた。実に禍々しい色をしている。見ていて気持ちの良い物ではないのでさっさとティッシュを丸めてゴミ箱に捨てた。

 しばらくすると怜が戻ってきた。彼女が部屋に入ってきたとき、俺はベッドに腰掛けた状態でぼーっとしていた。

「ダメだよ。寝てなきゃ」と彼女は窘めるように言った。

「ああ」と答えたが正直上の空だった。座っているのは確かにしんどい。しかしこの状態から体を動かすのもまた同様で、億劫だった。

「熱何度あった?」と怜は言った。

「八度一分」俺は答えた。

 怜の顔色から血の気が引いていく。

「どうしよう。お母さん、明日まで帰ってこないし。でもそうちゃん熱があるし」怜は落ち着かないようすでぶつぶつ呟いている。「そうだ。病院。救急車。えっと、何番だっけ」

「なあ怜」俺は言った。喉が痛い。「風邪薬。取ってきて」

「ダメだよ。それなら何か食べないと。あ、そうだ。私が作る。お粥くらいなら作れるはずだから。だって袋麺が作れるんだもの。待ってて。お冷やご飯はあったから」

 待て、それはやめておけ、と言おうとしたが、それより早く怜が部屋から出て行ってしまった。

 追いかけようかと迷ったが、しかし冷やご飯からおかゆを作るのであれば、それこそ鍋で煮るだけである。確かに袋麺を作るのとそう手順は変わらない。いやむしろ多少煮すぎたところでラーメンと違って伸びて不味くなるということもない分失敗はない、はずだ。味なんて食べるときに塩なり味噌なり醤油で整えてやればいいだけの話だし。

 しばらくするとなにやら香ばしい香りが階下から漂ってきた。

 ああ、なんか美味しそうな匂いだなあ、とか思ったがお粥を作っているにおいではない。餅を焼いたり、飯ごうで火加減をミスった時とか、そういう類の、つまり焦げているにおいだ。

 俺は慌てて布団をはねのけて、ふらつく体に鞭を打って一階へ向かった。ちょうど階段を下りたところで、キッチンの方から火災報知器のアラームが鳴り響いた。リビングへ入ると煙が天井付近に滞留していて、キッチンを見ると朦々と煙を上げる鍋が見えた。火は見えない。幸い煙がでているだけらしい。すぐに鍋をヒーターからはずして流しに置いて水を流し込んだ。窓を全部あけて煙を外に出す。報知器のアラームを切ってほっと一息ついたところで、怜の姿が見あたらないことに気がついた。キッチンをぐるりと見回し、それからふと足もとを見ると彼女の長い髪が視界の端に映った。見ると彼女はテーブルの下で頭を抱えるようにして震えていた。病人の俺よりも青い顔でぶるぶる震えている。

「怜」声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。そして焦点の合わない目で俺を見た。「大丈夫。大丈夫だから」

 彼女はぽろぽろと涙をこぼしながら俺を黙って見ているだけで、何も反応しない。

 こんな風になるのはいつぶりだろうか。

 彼女が両親を失った事故の際、車両火災も発生していたのだ。トラックに突っ込まれたことにより車両は大破し、漏れたガソリンに引火して、トラックもろとも炎上した。幸いだったのは、彼女の両親はどちらも煙を一切吸い込んでいなかったことだ。本当に文字通りの即死だったらしい

 彼女によれば、そのときのことは、気を失っていたので見ていないそうなのだが、当時現場にいた目撃者によると投げ出された畑の中で、一時的に意識を取り戻し、呆然と炎上する車両を見つめたあとまた気を失ったのだという。

 そのときの光景が彼女の記憶を封じ込め、しかし心に大きな疵を残した。それが時々、それを連想させる光景を目にすることで蘇り、苛むのだ。今回は鍋から沸き上がる煙を見て、スイッチが入ったのだろう。

 ずいぶん前、まだ彼女がうちに来て間もない頃のことだ。焼き芋を作ろうと庭でたき火をしていて、そのときに予想以上に炎が燃え上がった。おまけに生木を突っ込んだせいでもの凄い量の煙が立ち上った。それを見た怜は悲鳴を上げてうずくまった。そのとき初めてそのトラウマの存在を知ったのだ。とはいえ、その時々の精神状態による部分が大きいらしく、例えば焚き火をしていた時などは、まだ親戚連中から受けた仕置きの傷が癒えきらないころの事だし、今回はまあ、俺が風邪を引いたことが原因で、焦ってパニック状態に近かったからこうなったのだろう。普段は火の気があるものに積極的に近づかない程度で、人が見れば「ああ煙が苦手なんだな」とか「火が苦手なんだな」と好き嫌い、得手不得手の問題で納得してしまえる程度で収まっている。

 彼女が落ち着くまで、俺は隣に寄り添っていた。風邪を移してしまったらどうしよう、という懸念はあったが、それよりもいまは彼女を正気に戻す方が優先事項だ。なにより怯える彼女を見ていたくない。だから何度も大丈夫と囁きながら頭を撫でたり背中を撫でたりして最終的にぎゅっと抱きしめた。

 しばらくすると震えは止まって、泣きじゃくる声だけが、入り込んだ外気ですっかり冷えたキッチンにこだました。彼女が軽く肩を押したので、俺は抱きしめていた腕をほどいて体を離した。

「ごめんなさい」と怜は言った。その目はしっかりと俺の姿を捉えていた。

「いいよ」俺は言った。

「私、ダメだな」

「朝飯食べた?」

 彼女は首を横に振った。

「食べようか。とりあえず。何かあるはずだから」

 冷蔵庫を開けてすぐに食べられそうな物を探す。とりあえずプレーンヨーグルトがあったのでそれを取り出した。それからふと思いだして奥を探るとみかんの缶詰が出てきた。とりあえず俺の朝食はこれで確保出来た。怜はトースターでチーズを乗せたパンを焼いてる。まあタイマーをセットすればいいだけだから失敗はないだろう。

「あ、これ」と流しを見た怜が悲しげに呟いた。「食べる前に洗っておくね」

 別にいい、と言おうとしたが、急に泣き出して、そのまま金属タワシを握って焦げた鍋を擦りだした。鍋が傷つくからやめてくれ、と止めようと思ったが、その背中の哀愁に言葉がでなくて、しばらく思うようにさせてやろうと思った。元々使い古して傷んできていた鍋だったし、まあいいか。

 とりあえず朝食だ。

 底の深い器にヨーグルトをスプーンで掬って移して、そこに缶詰のみかんをぱらぱらと放り込む。そしてそれをゆっくり食べた。熱っぽい体によく冷えたみかんの甘酸っぱい味わいが染みてくる。ついでに酸味が喉にしみた。

 俺が朝食を食べている間、怜は相変わらず泣きべそをかいていた。泣きながら鍋を洗っている。

「怜」と呼びかけた。彼女の背中が怯えるようにびくっと震えた。そして「なに?」とこの世の終わりみたいな顔で振り返った。

「ちょっと落ち着こうか」俺は彼女に笑いかけた。

「でも、そうちゃん熱が」

「いいから。深呼吸」

 彼女は何か言いたげに口をもごもごさせたが、結局言った通り深呼吸をしてくれた。何度か繰り返した後、俺は隣の椅子を引いて、彼女に隣に来るよう促した。彼女は濡れた手をタオルで拭ってからこちらにやってきた。

「心配してくれてるのはよく判ってる」隣に座った彼女に、俺は出来るだけ優しい声で言った。「けど、出来ないことは無理してしなくてもいい。気持ちだけで十分」

「役立たずだから何もするなってこと?」

 どうもネガティブなスイッチが全開になっているらしい。「そうじゃない」と言って彼女の頭に手をおいた。でも本当はそう言うことだったりするのだが、流石にそれは口にしない。代わりに俺は優しく諭す。「怜には出来ることをして欲しいんだ。

「たとえば?」

「そこの戸棚から、風邪薬取ってきてくれる?」

「うん」頷いて彼女は立ち上がる。戸棚の前まで歩いていって、それから絶望した顔でこちらを見た。

「右側の奥」俺は言った。「そこにあったはず」

 果たして言った通りのところに風邪薬はあった。風邪薬の瓶を持って戻ってきた怜は「やっぱりダメだ。私」と落ち込んだままだった。

 錠剤を三錠手のひらの上に出して、それを口に放り込み、水で流し込んだ。ほう、と息をつく。

「とりあえず怜も朝ご飯食べなよ。もうとっくの昔に焼けてるから」焼けているどころか余熱で水分が飛んでカッチカチになっているであろう頃合いである。

「食欲ない」

 これは重傷だな。なんだかもう自分の風邪がどうでもよくなってきた。でもたぶん落ち着いた頃にまた症状を自覚してしんどくなってくるのだ。だからいまのうちに手を打たなければならない。

「あとで病院に行きたいんだけど」

「救急車」

「それは大げさすぎる」

「じゃあ、タクシー呼ぶ」そう言って怜は袖の中からスマホを取り出してすぐに電話を掛けた。「いつものところだからすぐ来ると思う」通話を終えた彼女はそう言った。

「そういやさ。怜って結構タクシー使ってるけど、料金って安くはないよな」

「……お金は一応、稼いでるから」

 まあそれは知っている。怜はプロの漫画家だし、それに漫画以外にも絵の仕事を貰っているらしく、すでに我が家の稼ぎ頭として毎月それなりの額を家計に入れてくれている。彼女の飽くなき食欲を満たす予算もそこからでているのだ。

「けど、さくらの方が稼いでるよ」としょんぼりした様子で彼女は言う。「格は向こうの方が上だもん。駆け出しの漫画家と、既にベストセラー何冊も出してて、テレビにも出てる売れっ子作家とじゃ、雲泥の差」

 相変わらずネガティブなスイッチが入りっぱなしだ。こうなると中途半端なフォローは逆効果になりかねないので話を合わせることにした。

「こないだはネットで生配信の企画に出てたよな」

「売れっ子作家だし、文芸アイドルとかよく判らないこと言われてるし。すっかり遠くに行っちゃった感じがして、怖いよ。私。さくらしかいないのに」

 ぽんぽんと怜の頭を撫でる。

「雪ちゃんは雪ちゃんで、レイヤーとして結構有名だし、時々雑誌の取材受けてるらしいし。みんなキラキラしてて、日陰にいる自分が時々惨めに思えてくる」

 怜も十分キラキラ輝いていると思う。容姿だって、誰よりも綺麗だ。でもたぶん彼女が言うキラキラとはそういうことではないのだ。そして多分、さくらさんに訊けば怜こそキラキラしていると答えるだろろうし、奈雪姉さんならきっと、この二人と比較されるなんて恐れ多いと答えるだろう。つまりはそう言うものなのだ。

「でも、漫画好きなんでしょ」

「うん」

 もし仮に、彼女が音楽の道を選んでいたら、誰よりもキラキラした世界を生きたのではなかろうか。ふとそんなことを考えてしまう。可能性はあっただろう。過去に何度か、その道では有名な演奏家からレッスンの誘いを受けたことがあったのだ。けれど彼女は音大を目指すためのレッスンよりも学校の部活動を選んだ。そして音楽の道を選ばず、漫画家としての道を歩み始めた。全部彼女が自分で選んだことだ。けどどこかで、もう一つの可能性とかそういう栓のないことを考えて後悔している部分もあったりするのだろう。

「いつか気持ちの整理がついたら、漫画読ませてよ」

「うん」彼女は頷いた。「でもいつになるか判らないよ」

「いつまでだって待つよ。ずっと一緒なんだし」






 タクシーに乗って一番近くにある総合病院へと向かった。普段行っている内科は今日は臨時休業だったらしく、いま近所で開いているのは総合病院くらいしかなかったのだ。

 熱が三十八度を越えていたこともあってスムーズに中に入ることは出来なかった。裏口みたいなところに案内されてそこから入った。感染症対策故致し方なし。それにふつうに待つよりも早く診察を受けられているような気もするので、そう考えるとちょっと得した気分になる。

 インフルエンザの検査を受けたが結果は陰性だった。つまりはただの風邪を少しばかり拗らせかけているという状況らしい。点滴を受けて、それから代金を支払い、処方箋の案内を貰って病院を出た。そしてすぐそばに隣接している薬局へ向かった。

 季節の割に薬局の窓口は混んでなかった。タイミングが良かったのだろう。すぐに手続きをすませて番号がかかれた紙を受け取り、待合スペースの長いすに腰掛けた。壁には液晶モニタが取り付けてあって、そこに番号が表示されれば処方箋の受け渡し用意が出来たということになる。

「よかったね。インフルエンザじゃなくて」ほっとした表情で怜は言った。

「本当にな」と俺は苦笑した。「そうなったらうちのことやる人間がいなくなるからなあ」

 母さんはしっかり家事が出来る人だが、忙しいのでアテには出来ない。怜は掃除以外ダメだし、父さんも家事をさせると却って面倒を増やすタイプなのでダメだ。

「あ、でも治るまでは大人しくしてなきゃダメだよ」

「けど、それだとうちの事が」

 数日とは言え、洗濯物がたまったり、食事がいい加減なものになったりするのはなんだか嫌だ。

「ふふん」と無い胸を反らして怜は自慢げに鼻を鳴らす。「すでに手は打ってるから大丈夫」

「奈雪姉さん?」

 俺が訊ねると、彼女は「およ?」とそらした胸を元に戻して首を傾げた。

「なんで判ったのよぉ」不満げに彼女は言う。

「いや、春からの部屋探しにこっちまで出てくるって聞いてたから」

「なんだ。知ってたのか」がっかりした風に肩を落とす。

「でも奈雪姉さんも頑固だよなあ。素直に婆さんが用意してくれた部屋に住めば良かったのに」

 祖母は奈雪姉さんら姉妹に対して結構厳しい。だがよく見ていると奈雪姉さんにはなんやかんや甘かったり過保護だったりするところがある。その経緯はともかく、奈雪姉さんが、猫可愛がりをしていた息子の血を引いた初孫だったからなのだろう。婆さんは少々値の張る物件に目をつけてどれか好きなのを選べ、と言ったらしい。

「雪ちゃん的には、あんまり本家の援助は受けたくない感じみたいだからねえ。自分の力で生きて行けるようになりたいっていう、そう言うの。だからまだ合格は決まってないけどさっさと部屋を決めてバイトも探したいってさ」

「けどいまの時期ってどうなんだ?」

「多少出遅れた感はあるけどまだまだ全然大丈夫だよ。多分」怜は頷く。「でね、最初は色々見て回る予定だったんだけど、それをさくらに相談したら、ルームシェアはどうだろう、って話になって。で、昨日さくらのところにお泊まりしたんだって」

「へえ。それはいいアイディアだ」

 奈雪姉さんが一緒ならさくらさんも寂しくはないだろう。

「さくらの住んでる部屋、すっごく大きいんでしょ?」

 俺は頷いた。「けど広すぎて寂しそうだった」

「でしょうね」と怜はため息を吐いた。呆れているようだった。「私はもうちょっと小さいところでもいいんじゃない? って言ったんだけどね。さくらったら、お金のことは問題ないって言って。でもそうじゃないでしょ、ってね。あの子すっごい寂しがり屋の癖して、あんまり自覚してないっていうか」

「それは怜も一緒じゃない?」

「私は寂しがり屋だもん」言って彼女は手を握ってきた。そして拗ねた口調で、「寂しいもん。さくらがこっちから居なくなって」

「はいはい」俺は肩をすくめた。「それを本人に言ってみたら?」

「ぜったい、嫌」そう言ってぷくっとほっぺたを膨らませる。「さくらにそんなこと言うくらいなら断食する」

「けどさくらさんの事、気になってたんだろ?」

「まあそれはその」と俯いてもじもじし始める。

 その様子を見て俺は率直に感想を言う。

「ツンデレ」

「違うし。ツンだけだから」

 そう彼女は訂正したが、見てて面白いくらいに焦った表情が言葉とは裏腹な感情を鮮明に写しだしていた。

 難儀な親友同士だよなあ、と思っていると掲示板に自分の番号が表示された。

 何か言いたげな怜を残して窓口へ向かった。


      2


 帰りにドラッグストアに立ち寄った。そこでゼリー飲料やら頭に貼る冷却シートやらを購入した。ついでに怜の昼食も確保した結果結構な荷物になってしまった。お総菜系の冷凍食品は結構重いのだ。

 点滴のおかげでいくらか体調がマシになったのと、自宅までさほど距離がないこともあって、すでにタクシーは帰っている。

 それぞれ自分の荷物を持って歩いた。途中、買い物袋の重さに耐えかねた怜が自分の行動を悔いる愚痴をつぶやき始めたが無視した。相手をしたところで何の益もない。

 自宅に到着して玄関の鍵を開けようとしたが、鍵はすでに開いていた。

「雪ちゃん来てるみたい」うれしそうに怜が言った。

「鍵の場所言ってあったっけ?」

「うん。こないだ来た時にお母さんが教えてた」

 オリジナルの鍵は手元にあるが、合い鍵をいつも庭の植木鉢の下に隠してあった。

 玄関を開ける。ちょっと派手目なデザインの黒いブーツが丁寧にそろえて置いてあった。確かに奈雪姉さんの靴だ。この手の靴を履いているということは、今日服も派手なのを着ているのだろう。

 而して、リビングへ向かうと豪奢でひらひらした衣装に身を包んだ奈雪姉さんが窓際に置いたスツールに腰掛けて読書をしていた。

 こちらに気がつくと彼女は本を閉じ、にっこりとほほえんだ。

「ごきげんよう」

 鈴を転がすような可憐な声色であった。が、作りすぎて若干不自然な強ばりも感じられた。

「わー。綺麗」と怜が目をキラキラ輝かせる。「ね、しばらくそのまま動かないで居てくれる?」そう言うと怜は荷物をほっぽりだしてドタバタと二階に駆け上がり、スケッチブックとペンを持ってドタバタ戻ってきた。

「え、あの」と奈雪姉さんが困惑する。

 窓際に置いてあるスツールであるが、これは買ったはいいが、いまいち高さが合わずにしばらく座っているとお尻が痛くなるので誰も使っていなかった代物であり、奈雪姉さんにもやっぱりちょっと合ってないみたいで、お尻を気にする素振りをみせている。格好を付けるためにやったのが裏目に出たな、と思いながら俺は買って来た食材を持ってキッチンへ向かう。とりあえず怜の冷凍食品を冷凍庫に押し込んで、ゼリー飲料もいま飲む分以外は冷蔵庫に収納した。

 そしてリビングに戻ると、顔を真っ赤にしながらも奈雪姉さんはまだ頑張ってお尻の痛みに耐えていた。怜は一心不乱にペンを走らせている。こうなると意識は遙か異次元に飛んで行っているので声をかけても無駄だ。

 目で助けを求めてくる奈雪姉さんを無視してゼリー飲料を一気に飲み干した。それから処方された薬をぬるま湯で流し込む。

 ソファに座ってほっと一息ついていると、がたん、という音がして、振り向くと奈雪姉さんがフローリングに四つん這いになって肩で息をしていた。怜は気にすることなくペンを走らせている。すでに脳裏に焼き付いた光景を反復しながら描き出しているのだろう。

 奈雪姉さんが疲れた顔でこちらにやってきた。

「お疲れさま」俺は言って微笑みかけた。

「つかれたー」とソファの背もたれに体を預けてだらりと崩れ落ちる。「怜ちゃんって急にスイッチ入るんだね。うぅ、お尻が二つに割れそう」

「割れてるだろ」

「見てみる?」

「何馬鹿なこと言ってんだよ」

「冗談冗談」そう言ってから奈雪姉さんは居住まいを少し正して、「少し遅くなったけど。受験、合格おめでとう」

「うん。ありがとう」

 真っ正面から言われると少し気恥ずかしい。顔が熱い。きっと赤面してしまっているだろう。まあ熱があるせいで元々顔は赤いので大して変わってないのだろうけど。

「思ったより顔色も悪くなさそう」と安心したように奈雪姉さんは言った。「けど、今日は一日大人しくしててね」

「ごめん」

「いいのいいの。弟のピンチに頑張るのがお姉ちゃんだから」

「なら任せるよ。多少マシにはなったけど、まだしんどいし」そう言って俺はソファから立ち上がる。一瞬、立ちくらみがして気が遠くなった。「わっ」と奈雪姉さんが慌てて横から支えてくれた。

「ありがと」俺は苦笑する。

「大丈夫? 一人で歩ける?」心配そうにこちらの顔をのぞき込みながら、彼女は言った。

「平気。さっきのはちょっと立ちくらみしただけだから」

 なるべく心配させたくなくて、笑顔を作ってそう答えたのだが、それが却って逆効果だったようで、奈雪姉さんは「本当に?」と表情を曇らせた。

 心配そうに見守る奈雪姉さんをリビングに残して、俺は自室に向かった。ベッドに潜り込んで、目を閉じた。薬が効いてきたのか、眠たい。すぐに意識はまどろみに包まれていった。



 なんだか安心出来るものに包まれている。漠然とそんな風に感じていた。覚醒と眠りの狭間で心地よくその何かに身を委ねていると、つまり天国とはこのようなものなのではないか、とまるで世の真理を見出したような気持ちになる。

 柔らかいモノの向こうから響く鼓動が鼓膜を揺らしていた。漂う香りは、母のそれとは違うのに、何故だか幼少の頃を思い起こさせる。

 うっすらと目を開ける。視界がぼやけていてよく見えないが、ベッドに誰かが居た。だんだん目の焦点が合ってくる。目の前には微妙にはだけた着物の胸元が見えていた。ブラがちょっとだけはみ出している。

 ああ、怜か。なんて思いながらその胸元に顔を埋めてまた目を閉じた。頭を撫でられる感触がした。どうやら彼女は起きているらしい。

「甘えんぼさんだね」と笑いながら彼女が言った。「好きなだけ甘えていいよ。私に出来ることなんて、これくらいしかないから」言って彼女は頭をなで続ける。その優しい指の感触が心を安らかにしてくれる。

「そうちゃんは、私の胸の音聴くの好きだよね。安心する?」

 俺は頷いた。

「そっか」と嬉しそうに彼女は言う。「私はね、こうしてそうちゃんが身を委ねてくれるとね、すごく嬉しいの。よく判らないけどなんだか嬉しいの」それから彼女は照れたように笑って、「大好き」

 俺はまた無言で頷いた。

 彼女の手が頭から離れた。そして首筋に触れた。昨日、井上にかまれたところだ。少しだけ、怜の鼓動が乱れた。

「酷いことされたんだね」悲しげに彼女は言う。

 俺は否定も肯定もしなかった。

 ぎゅっと頭を抱きしめられた。

 つむじのあたりに彼女の吐息を感じる。

「春になったらお花見に行きたいな。そうちゃんがお弁当を作って、それで二人で見に行くの」

 それはいい提案だと思った。いまはまだ寒いけれど、たった二ヶ月後にはもう、桜の季節になるのだ。その頃には俺は高校生で、怜は専業の漫画家で。すぐ目の前に迫っていることなのに、いまいち具体的に想像が出来ない。空想は、真っ白な光に包まれていて、思い描きたい像はその逆光に飲み込まれて黒い影となって佇んでいる。難しいことは考えない方がいいのかもしれない。だから今度は怜とお花見に行く空想を脳裏に描いた。それは不思議なほどすんなりと行った。

「でも、あれだね。まずは合格祝いをしなくちゃだね」くすくすと怜は笑っている。「だから、早く元気になってね」

 俺は返事をする代わりに彼女の胸に額をこすりつけた。

「なんだか猫みたいだね」と怜がくすぐったそうに笑った。それから彼女は大きなあくびをした。「なんだか私も眠たくなってきた。夕飯まで一緒にお昼寝しよっか」

 言うが早いかすぐに彼女は寝息を立て始めた。もしかしたらまた夜更かしをしていたのかも知れない。なんて考えているうちにまた微睡んできた。大きな揺り籠に抱かれているような心地で眠りについた。


 つづく



箸休め的な何か。日常回です

次回は来月の頭か、気が向いたら来週何か更新するかもです

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