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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第五章
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Heading for spring interlude 『Advance to the fall』

 



 度し難いのは自覚していた。この先に実りがないことも理解している。それでも理性と感情は上手く折り合いをつけてくれない。12月のあの病室で、突然失恋したあの日から私の心は不安定なまま、時に理性が勝ち、時に感情に押し切られて、だんだん正しい居場所が分からなくなりつつあった。いまだってそうだ。こんなことして何になるんだ。もしかしたら彼に嫌われてしまうかもしれないのに。そう思いながらも何故か私の心はうきうきと弾んでいて、まるでこの体を何者かに乗っ取られているかのような感覚にすら襲われていた。けど、何をどうしたって自分は自分でしかなくて、つまりどんなことになっても彼を手に入れたいと考えているこの自我こそが、愚かしくも愛おしい自分そのものなのだ。

 諦めても諦めても、そのたびに新たな欲望が萌芽して、けれど花が咲いて実る前に萎れて枯れる。それでもまた芽吹く。だから私の心には春と冬しかない。春のような暖かさを胸に秘めながら、心のどこかで破滅の冬を懼れて、不安な気持ちをいつもの無表情の下に隠して、私は彼の後ろについて行く。あまり馴染みのない町並みが不安を増幅させる。自分から望んで彼に案内させているというのに、馬鹿げた話だ。

 ひや、と何か冷たい物がうなじに触れた気がした。驚いて身を竦めた直後、今度はハンドルを握る手の甲に水滴が落ちてきた。

 雨粒だ。

 そう思った瞬間、いっきに雨が降ってきた。




 途中にお地蔵様を祀ったお堂があったのでそこで雨宿りをすることになった。

 なかは結構広々としていて4人掛けくらいの大きさの長椅子が二つ、左右の壁際にそれぞれ設置されていた。

「しばらく止みそうにないな」

 三島がスマホを見ながら困った表情を浮かべていた。私は彼の後ろに回り込んで手元を覗き込んだ。スマホの画面を見ようと思ったら前髪が垂れてきて視界をちょっとだけ塞いだ。ちょっと髪が伸びてきたかな、と思っていると前髪の先から雫が落ちて、それが彼の手に落ちた。

「……ごめん」

「気にするなよ。それよりも、ずぶ濡れなのをどうにかしないと。風邪引くぞ」

 私に向かって彼はそう言った。

 その口ぶりは、どうも自分の現状を理解していない感じがしたので私はちょっとだけ不機嫌な風を装いながら「三島もずぶ濡れ」と言った。

 彼はばつが悪そうに「それもそうか」と笑って、それからぶるっと震えた。

「でもほら、女の子は体を冷やしちゃ駄目とか言うだろ」

「年寄り臭いよ」

 まあでも私のことを心配してくれていることに悪い気はしない。彼にとってはただの友人でしかない私も、いまこの瞬間だけは少しだけ特別なのだから。なんて甘ったるいことを考えていると濡れた体が冷えてきて私もぶるぶるっと震える。寒い。

「濡れた服を着たままだと体温が奪われるっていうよな」

 難しそうな顔で彼が腕組みをした。

「流石にここでは脱げない」

 胸元を隠す仕草を見せつけながら私はそう言って、彼の様子を窺う。

「判ってるよ」

 お堂の壁はそんなに高くない。屋根との間に大きな隙間があるし、そもそも入口側には壁なんてものがないので脱いだら丸見えだ。一応目の前の道路には車の往来があるのだ。もし脱いだりなんかしたらただの変態だ。

 しかしそれはそれとして、せっかく揺さぶりを掛けようと思ったのに、彼は私の仕草にさして揺れることもなく思索を巡らせていた。なんだか気にくわないので私は羽織っていたコートを脱いだ。水を吸って重たくなっていたコートを自転車の籠に放り込んで、彼の方に向き直った。今日は元々色々考えていたので、買った後に自分でも背伸びしすぎたとちょっと後悔した勝負下着を着けていた。ブラウスの下にインナーを着込んでいるとはいえ、多少は効くのではないかと思ったけど、彼は見向きもしない。

「密着して体を温め合うと良いって、何かで見たことがある」

 私は彼にそう提案した。ただの下心でしかない。けど彼だって健全な男子だ。自分がそれなりに魅力的な体をしていることは自覚している。正確にはもう随分昔に自覚させられていたのだけど、彼に振り向いて貰う為のアピールを開始するまでは、それを認めたくない気持ちの方が大きくて、だからきっと、私は香奈を裏切ろうとしてもあまり大胆に出来なかったのだろうと思う。小学生のころ、周囲より少しばかり早く発達を始めた胸も、肉付きが良くなったお尻や脚も、私は嫌いだった。その気持ちを引きずったまま最近まで過ごしていたけど、彼の前でだとそう言う気持ちはなくなる。彼といると私はいつもよりも自分を好きになれる。

 けど私が好きな私を、彼はあまり見てくれない。

「それ漫画だろ」

 彼は呆れ顔で私を見た。

「なんだっけか。最近のであったよな。あの、ちょっとエロい奴。……ん?」

 不意に彼は何かに気付いたように口元に手を当てて、それからしばらく考え込んだ。

 急に私を蚊帳の外に追いやるその行動に、今度は本当にむっとして、「三島?」と語気を強めて訊ねた。彼の目に私がどう映ったのだろうか。私は人より愛想も愛嬌もないし、目鼻立ちがしっかりしているせいで妙な迫力があるらしい。だから多分結構怒っている風に見えたかもしれない。彼は少しだけ驚いた顔をして「なんでもないよ」と笑った。

「井上ってああ言うの読むんだな」

「別に」私は目をそらした。「いつもあれが載ってる雑誌買ってるから。ついでに読んでるだけ」

 嘘だった。本当はそれが目当てだった。男の子向けのちょっとエッチな描写のあるラブコメなんだけど、妙に女心が判っているというか、私のような拗らせた人間の気持ちを代弁している部分が結構あって、作者の名前は男性っぽいけど本当は女性なんじゃないか、と思えるような描写がよくあるので毎月楽しみに読んでいた(それに主人公がなんだか三島っぽいのも大きなポイントだった)。尤も、それが一番好きというだけで、他にも同じような系統のラブコメは好きだったし描写が過激な少女漫画やレディコミもよく読んでいる。だから時々、正統派の少女漫画や有名な少年漫画が好きな香奈と漫画の話をすると途中から噛み合わなくなるのだ。

「意外だなあ。井上ってあんまりそう言うの読むイメージないのに」

 彼が心底意外そうに言うので私は「違うから」ととっさに否定する。否定してから、むっつりってつまりこういうことだな、と自己嫌悪する。

「俺も最近ちょっとそっち系のに手を出しててさ」

 突然彼がそんなことを言い出したので私は「え」と目を丸くして素っ頓狂な声を出してしまった。

「いやさ。怜がどうもそっち系の描いてるらしいんだよな」

「うん。描いてそう」

 言われた瞬間に私は納得していた。明らかにある部分では私と同類っぽい人なのでそこに違和感はなかった。

「まあ結局タイトルまではきけなかったんだけど」

「そうなんだ」

「恥ずかしいから言いたくないって言うんだよなあ。別に俺はどんなの描いててもバカにしたりしないのに」

 それは多分自分の恋人をモデルにした主人公を動かして、自分をモデルにしたヒロインに恋をさせているからではないだろうか。私の頭の中で、私の一番のお気に入りの漫画の登場人物の幾人かが実際に知っている人間に変換されていくなんとも言えないむず痒い作業が行われていた。そしてそれが見事にはまったので私は苦笑するしかなかった。

 自分がひっそり誰に見せる訳でもなく書いている、妄想上の彼との甘い日々を綴った恋愛小説を、彼に見られたとしよう。末代までの恥だ。むしろ自分を末代にして、知っている者がいなくなった後でひっそりと死んで、遺骨はどこか遠くの山奥に粉々に砕いて散布して自然に雲隠れしてもなお死にたくなるくらいの恥ずかしさである。

「で、三島、どうする?」私は訊ねた。

「それこそ脱がないと意味がない奴だろ」

 彼がそう言うので私はさらにもう一押し頑張ってみることにした。

「三島は、見たいの?」

 胸の下で両腕を組んで、少しだけ持ち上げるようにしてみた。これはこれで死ぬほど恥ずかしい。ここまでやって何も反応がなかったら私はもう駄目だと思う。ブラウスだって多少は濡れて透けているのだ。そのお陰でインナーのキャミ越しでもそれなりに見えているのだ。口で主張できない分、体で頑張っているのだ。

「何言ってんだよ」と彼は言うと彼は学ランを脱いで私の肩にかけた。「もうちょっと自分を大切にしろ。バカ」

「三島」少なからずショックを受けた私は泣きそうになるのを堪えながら「私って、魅力ないの?」と訊ねていた。

 これで頷かれたら今度こそ立ち直れない。

「目に毒だから隠したんだよ」

 呆れたように彼は言った。その言い方がいつもよりぶっきらぼうで、つまり照れ隠しの意味合いを含んでいたので私は溜飲が下がる思いで「へぇ」とあえて冷たい視線をお返しした。

「夏井もそうだけどさ。そう言うのはあんまり良くないと思う」

「どうして?」

「はしたないだろ」

「誰彼にしてる訳じゃない。三島が特別だから、そうするの。香奈だってそれは一緒」

 私は香奈のことを悪く言われたような気がしてちょっと暑くなっていた。

「香奈だって昔はもっと慎ましやかだったけど、三島が鈍すぎて、だからあんな風になった。だから、三島も悪い」

 彼は気まずそうに目をそらした。彼にも思う所はあるのだろう。

「まあ、何かと理由をつけてぐずぐずしていた香奈が悪いのも間違いないけど」

 好きな気持ちは結局好きと言わないと伝わらないのだ。香奈が大好きな少女漫画でも、恋愛物のドラマでも、気持ちをちゃんと伝えられない負けヒロインがよく泣いてたはず。香奈はバカだ。大馬鹿だ。そして私もバカだ。友達のために気持ちを押し殺して、なんて馬鹿な負けヒロインの行動そのものだ。素直になった時には遅すぎるなんてのも、まさに、バカの極みだ。実はその後押ししている友人の方に、なんて都合の良い展開は私にとってはおとぎ話だったのだ。

「三島は、香奈のことどう思ってる?」

「女友達」

 そう答える彼の目にいくらかの迷いの色が混じったのを私は見逃さなかった。喧嘩になってすぐの頃に香奈が言っていたのだ。三島は自分にも多少気があると。私は何を馬鹿なことを、と思っていたけれど、あながちはったりという訳でもないらしい。気にくわないので私は躓いた振りをして彼の足を踏んでやった。彼は、しかしお人好しだから、私を抱き留めながら「大丈夫か?」なんて訊ねてくる。

「このまま暖めてくれたら」私は言った。

「二人とも風邪引くだけだぞ」

「一緒に風邪引いたら、何人かは邪推してくれるかも」

 お互いに三島と付き合っているという情報を流し合ったお陰で、現在彼はうちの学校で二股を掛けている男という認識を持たれている。その相手が、マドンナ的存在とも言える香奈と、一応それなりに人気はあるらしい私なので、結構大変らしい。尤も、彼を見ているといつも一緒にいる栗原や武知国彦は彼の味方であるようなので、大変でもさほど苦労はしていないようだ。江島などからは自分に注がれる注目が減っている分感謝されているらしい。

 しかしそれでも見た目よりマシというレベルらしく、彼は「マジでやめてくれ」とげんなりした顔で言った。

 私も正直馬鹿なことをしたな、とは思っているのだ。最初は軽い気持ちだった。そう言う噂が香奈の耳に届いたらどんな反応をするのかな、という極めて狭い世界しか見えていない悪戯心が元だったのだ。後から考えればそれがどんな結果になるか見えているのに。三島だって栗原や江島ほどではないによせ、それなりに人気はあるのだ。うちの女子カーストの頂点に君臨する香奈のお気に入りだということで誰も大っぴらしないだけで。後輩の子に仄めかすような話をした二日後にはもう、香奈と三島が付き合っているという噂が報復の如く流れていた。そして気が付けば二股をしていてこうなったという話にすり替わっていた。噂に尾ひれ背びれが付くというけれど、ここまで来たら最早足が生えて陸に上がって一人歩きをしている状態だ。先日は、三島と香奈が寝ているところに私が乗り込んでいって大乱闘になったという噂まで流れていたので思春期の飽くなき想像力と噂というのは恐ろしい。

 そんな状態であるから、もし二人一緒に風邪をひいたら間違いなく一夜をともにして風邪を引いたとか、外でヤッて風邪を引いたとかそう言う噂が立つに違いない。正直私としても、そういう噂のせいで男子から下世話な妄想をされるのは気持ちが悪いし、ここまでくると香奈に対する牽制にもならないので、冗談として口にしたものの余り歓迎できる状況ではない。

 風が吹いた。雨が屋根と壁の間から僅かに吹き込んでくる。私は彼に学ランの前をかき合わせた。

「冗談言ってる場合じゃないな」と彼が真面目な顔で言った。「待ってても埒があかないし。どうせもうずぶ濡れだ。いっそ雨の中突っ切るか」

 その意見には同意だった。でももう少しここで二人きりで居たい気持ちもあったから、私はすぐに返事をしなかった。学ランの襟のところから漂ってくる彼の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら私は考えていた。我が儘を言って彼を困らせたい。でもだからって体調を崩すのは嫌だ。

「体が冷え切るまえにシャワー浴びないとなあ」

 彼が何気なく呟いた言葉に私は目を見開いた。

「そうだね」

 私が同意を口にすると、彼は「井上が先でいいからな」と言った。

 よく考えればこれから向かうのは彼の家なのだから、何を躊躇することがあるのだろうか。私の希望的観測を言えば、シャワーを浴びると言うことはつまりいま着ている服は脱ぐということだ。まさか体が温まったあと、まだ乾かぬうちに同じ服を着ろなどという外道な事がある訳がないので、間違いなく間に合わせの着替えが用意される。我が儘はそこで言えばいいのだ。多分彼はお姉さんの物を用意しようとするだろうから、それは嫌だと突っぱねるのだ。そうすればきっと、彼が自分の着ていたものを貸してくれるはず。

 そうと決まれば長居は無用だ。

 私は彼から掛けて貰った学ランの上からコートを羽織り直した。

 本来は返すべきなのかもしれないけれど、襟元から匂い立つ誘惑に勝てなかったのだ。この匂いだけで体が熱くなって、風邪のウィルスに負ける気がしない。

「なあ、やっぱり体操服」

「違う」

 もう認めてしまっても良いような気はするけど、何故だかそこだけは譲れない一線として私の心に強固な境界を成していた。つまるところ私の根本的な所に直結している嗜好なので、彼の匂いが好き、という以上のことを赤裸々に語ってしまうということは、彼にすべてをさらけ出して身を委ねるのと同義なのだ。だからその一線は、身を捧げ、彼のすべてを奪うまでは、例えバレていても侵してはならないのだ。

 勢いに任せれば、この後それが訪れるかもしれない、などと淡い期待というか皮算用というか。そんなことを考えながら自転車に跨がった。


 続く

投稿予定の分を推敲してたら何故か増えてたので間に一つ挟みました

本来の分は月曜日辺りに更新します

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