Heading for spring Ⅲ『slip of the tongue』
掲示された番号と手元の受験票を交互に見て、それからほっと息を吐いた。0から始まる三桁の番号。手元のそれと一致していることを確認してから振り返って公康の方を見た。
どうだ? と訊ねるまでもなく表情を見れば判った。公康の隣に居た加賀も安堵したように表情を和らげ、最近できたばかりの彼氏の学ランの袖を握っているので、こちらも言わずもがなである。
そういえば井上はどうだったのだろうか。ふと気になって、周囲を見回す。悲喜交々の雑踏のなかで、彼女はとても目立っていた。恐らくここに居る誰よりも背が高いからであろう。遠目に見てもどこにいるのか丸わかりだった。彼女は受けた学科が違っていたから、受験番号の掲示場所も別のところだった。
それなりに距離は離れているはずなのに、不思議と彼女と目があった。そして何か含みのある笑みを浮かべた。彼女との間には現在進行形で問題を抱えているのであるが、しかしいまは措いておく。面倒なことを忘れて、友の成功を祝福すべきだ。俺は彼女の笑みに、親指をぐっと立てて応えた。井上は一瞬、嬉しそうに華やいだ笑顔を浮かべたが、しかしすぐに元の何かを探るような笑みに戻った。
かくして高校受験は幕を閉じた。何人か、一緒に受けた連中で落ちた奴は居たが、身近な友人たちは皆合格しており、自分のことも当然ながら、また彼らと学友を続けられることに安堵した。
ポケットの中でスマホが震えた。俺は人混みを離れ、花壇の石垣に腰掛けた。一応人目があるのできょろきょろと周囲を伺ってからスマホを取り出した。SNSのアプリにメッセージが届いていた。開くと国彦からで、どうやらあいつも合格していたらしい。
「どうしたの?」と公康がやってきて隣に腰掛けた。
「国彦も受かってたってよ」
「そっか。良かった」
「バカだけどやるときはやるからな」
「あはは」と公康は笑う。「国彦とは離ればなれになるんだね」
「ああ」俺は頷く。「実を言うとちょっと寂しい」
「僕も」
「でもあれだ。どうせあいつ向こうで野球やるだろうし、そのうち練習試合とかで会うんじゃないか?」
「そうだね」と公康は複雑そうな表情を浮かべた。
その顔を見て俺はおや? と思って訊ねてみた。
「野球やらないのか?」
「ちょっと迷ってる」
公康は才能がある。現に江島と一緒に複数の名門校からオファーが来ていたのだ。しかし彼はそれを全部蹴って地元の北高を選んだのだ。
「そういう宗平はどうするのさ」彼は言った。
「そうだなあ」
実のところこれといって何も考えていなかった。腰も肩も、日常生活ではさほど困ることがないところまで回復したとはいえ、運動部で選手として活躍できる体ではない。中学の最後の一年をマネージャーとして過ごしたが、しかしそれも望んだ事ではない。性に合っていた部分は確かにあったが、しかしグラウンドへの渇望と、それができない現実の狭間で、時々空しさに押しつぶされそうになることもあった。だからきっと、俺はもう野球部には入らないと思う。
「まあなるようになるだろ」
「そうだねえ」
「ところでさ、おまえの彼女はどこに行ったんだ?」
「ああ、加賀さんなら、お母さんと一緒に居るよ」
ほら、と公康が顎をしゃくった方を見ると、クールそうな親子が抱き合って喜びを分かち合っていた。
「改めて見て思ったけどさ、あいつ母親似なんだな」
「そうみたいだね」
「そういやさ、付き合ってること、知ってるの?」
「さっきバレた」と公康はばつが悪そうな笑みを浮かべた。「すっごい値踏みするような目で見られたよ」
「それで気まずくて一人だけ別の場所で待ってたのか」
「そういうこと」公康は苦笑を浮かべた。
「やっぱ緊張するのか?」
「まあね。そっか。宗平はそもそもそういうのないもんね」
「ああ。いや、でも怜と付き合い始めてから最初の墓参りはめちゃくちゃ緊張したぞ」
緊張で手が震えて、霊園の入り口のそばにあるポンプで汲んだ水が、お墓につく頃には半分くらいに減っていたという、我ながら情けない話である。
「宗平の場合は婚約の報告だったしね」と公康は苦笑した。「もしお姉さんの両親が生きてたらどんな顔したのかな」
「怜の親父さんは、まあ、たのむぞ、みたいなことを言ってくれただろうけど、お母さんの方がなあ」
「怖い人だったもんね」
「ほんとにな。でも優しい人だったよ」
「そうだね」
俺も公康も、小さい頃はよく怜と一緒に叱られたけれど、叱りっぱなしではなく、ちゃんと反省すると必ずお菓子やジュースを出してくれた。そして、はしゃぐ俺たちの姿を少し離れたところからにこにこと見守ってくれていた、そんな在りし日の光景がふと脳裏に蘇った。
「しかし、なんで合格発表の場でこんな思い出話してるんだろうな」
「僕たちだからじゃない?」
「なるほど」
「よく判んないけど」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
「そう言えばお姉さんには報告したの?」
「まだ」俺は答えた。「直接結果を聞きたいから電話とか無粋なことはしてくれるなとさ」
「へえ、てっきりいの一番に報告しろって言うと思ったのに」
「まあ怜のことだから落ちてるとは考えてないんだろうな」
なんとなくそんな雰囲気が朝からしていたので、これでもし落ちていたら、とか考えて胃が痛くなりそうだったのだが、幸い胃の粘膜が根を上げるより先に合格を確認出来たのでなによりである。
「何話してるの?」
不意に声をかけられて、びくっとして振り向くと、井上が普段の鉄面皮でこちらを見下ろしていた。
「いつからそこに?」俺は訊いた。
「お墓参りで緊張したって辺りから」
中途半端なところからだな。とか思いつつも気づかなかったことは謝らなければならない。
「すまん。ちょっと話に夢中になっててさ」
「いい。おもしろい話聞けたから」そう言って彼女は公康とは反対側、つまり俺の隣に腰を下ろした。
「二人とも、合格おめでとう」
「こちらこそ。おめでとう、井上さん」と公康は無邪気な笑顔で言った。
「おめでとう」と俺もそれに続いた。「また一緒だな」
「学科は違うけど」と彼女は言った。「でも良かった。みんなとまた一緒で」
「まあまだ夏井がどうなるか判んないけどな」
「大丈夫だと思うけどなあ」と公康。「こないだ勉強見てあげたんだけど、別人みたいだったよ」
「もう教えるところないよな」
「うん。もうない」
三人とも顔を見合わせて、それから溜息を吐いた。最初からちゃんと勉強やってれば良かったのに、という溜息である。
「でも香奈ちゃん的には不安らしくて、恥を忍んでお姉さんに勉強見てもらおうかって、迷ってるみたいだったよ」
「逆に自信をへし折られそうだけどなあ」
そもそも善意で俺たちの勉強を見てくれる時ですら苛烈なのだ、それが敵意に置き換わるとしたら、余計に酷いことになるのは目に見えている。
「まあもしそうなったら釘は刺しておくよ」
怜は、あんまり性格は良くないけれど、でもお人好しなところもあるから。ちゃんと言っておけば大丈夫なはずだ。
「そろそろ帰るか」俺は言った。
みんな頷いて立ち上がった。
「僕は加賀さんのところに行ってくるよ。なんだか呼ばれてて」スマホを鞄の中にしまいながら彼は言った。
「さっそく親公認か?」
「あはは」
照れ笑いを隠すように公康は歩き出した。
その背中に向けて、「またな」と言うと、彼は振り返らずに手を挙げて応えた。
「私たちは、二人きり」隣に立った井上がどことなく嬉しそうな声でそう言った。
「相変わらずだな」
「私の気が済むまで付き合ってくれるんでしょ?」彼女は言った。「それに三島には、思い出してもらわないといけないから」
「思い出せるかな」
「思い出して。私だけ三島との思い出を抱えて、一人だけ切なくなるなんて嫌だから」
「いや、思い出したところでたぶん、変わらんぞ」
結局友人同士であったことに違いはないのだから。
「私の気持ちの問題」そう言って井上は俺の隣に並んだ。「途中まで一緒、だったよね」
俺は溜息を吐いた。
「なに?」不満そうに井上は言った。
「いや、事故の前もこういう風だったのかなって思ってさ」
「違うよ」と井上は首を横に振った。「あの頃こんな風にできてたら、きっと私は三島の彼女だった」
「自信満々だな」
「三島、背の高い女の人、好きでしょ?」
「まあ怜も女性としてはけっこうデカイ方だしな。けど小さい人も好きだぞ。さくらさんとかそうだしさ」
「節操なし」
「そっちから話を振っといてなんだその言い草は」
バカな事を話しながら俺たちは駐輪場の方へ向かった。
受験生用の駐輪スペースにはまだたくさん自転車が残っていて、4、5人ほどまばらな人影があった。みんなスマホを見ていたり、何か考えているのかぼーっと遠くの風景を見て時間を過ごしているようだった。落ちたのか、あるいは人を待っているのか。みんなお互いに無関心で、俺も井上もとくに彼らに意識を向けることはせずに、さっさと自転車を押して駐輪場を後にした。
校門を抜けると長い下り坂になる。
春からはここを登ったり降りたりする生活になるのだな、と思うとだらだらと長いだけで大した景観でもない普通の坂にも妙な感慨が生まれてくる。
坂を降りきって、それから一度振り返った。
頂上に見える校門。その向こうに校舎の側面が見えていた。校舎の正面は右手に回り込んだ方にあるのだ。そして前庭を挟んだ向こうにはグランドが広がっていて、正門はその端にある。校門から入ってずっと奥。校舎の向こう側には体育館がある。井上は何度かそこで試合をしたことがあるらしい。校舎は長方形の長細い形をしていて、それが二つ平行するように建っていて、二つの間を渡り廊下が繋いでいる。五階まであって、この辺りの建造物としてはかなり高い。それが坂の上にあるものだからやたらと目立つ。おかげでこの辺りの自治体のシンボル的な役割も持っているらしい。地方の割に偏差値はまともな部類で、進学の実績もまあまあいい方らしいので、文字通り地域の誇りなのだろう。
まあそんな気負ったことを考えながら通うつもりは毛頭ないが。
しかし井上はどうだろう。実質スポーツ推薦のような身分だし、何かしら思うところはあるかもしれない。
坂を降りて、交差点で信号待ちをして。それからまた自転車を押して歩く。井上が一行に自転車に跨がる気配がないので、乗るに乗れない。果たしてどこまで歩くつもりなのだろうか。寡黙な横顔を見やれども、どこか固いその奥にあるものの正体が読めない。
しばらく行くと線路沿いの遊歩道に出た。俺たちが生まれる前に廃線になった線路跡を整備して作られた物で、途中でとぎれたりしつつ、終点があった隣町まで続いている。これから、俺たちも途中まで通ることになる通学路だ。右手には線路、左手には小高い丘の斜面がせり出してきている。道の両脇にはなんだかよく判らない枝の長い低木が植えられている。そこを抜けると横断歩道があって、向こう側に渡ると一気に視界が開ける。なだらかな一本道が一キロほど続いて、その先には市街地があった。両側が低くなっていて、ちょうどいま歩いている高さと、両脇に立つ家の屋根の高さが同じくらいになっている。おかげで見晴らしが良く、雲一つない青空に向かって歩いているような清々しい気持ちになれる。
しかしそれはそれとしていつまで歩くのだろうか。いや、俺が自転車に乗ればいいのか? けど井上に何か考えがあってこうしてるなら、それはなんだか申し訳ない。
などと迷っていると井上がぴたりと立ち止まった。そしてこちらへ振り向いた。
「どうする?」
彼女はそう訊ねてきた。とても抽象的な質問だ。この後のことなのかそれとも自転車に乗るか否かのことなのか。まあこの際だから都合のいい方に解釈してしまおう。
「歩きっぱなしってのも疲れるしな」と俺は言って自転車に跨がった。
井上は何か言おうと口を開き掛けたが、反対はしなかった。
遊歩道を抜けると市街地に入る。そしてそのまま自転車をこぎ続ければ行きの待ち合わせ場所だったコンビニにたどり着く。俺たちはいったんそこで自転車を降りた。
「言い忘れてた忘れてたことがあるんだけどさ」俺は言った。「記憶のことは、出来れば黙っていて欲しいんだ」
「どうして?」井上は言った。
「怜にまだ話してないんだよ。心配かけたくないっていうかさ」
「……その口振りだと、お姉さんのことは全部覚えてるんだ」彼女のその声は、まるで氷のように冷たかった。「本当に、私だけなんだ」
「頼む。なんでも言うこと聞くから」
雲行きが怪しくなってきた予感がして、俺は少々焦っていた。
「なんでも?」
そう聞き返してきた彼女の目を見て、俺はすぐに軽率だったと後悔した。
不意に日が陰った。
少し前まで青空が広がっていたはずなのに、いつの間にか鈍色の雲が空を覆い始めていた。吹き抜ける風は冷たさを増している。
こちらをじっと見つめる彼女の眼光は獲物を追いつめた蛇のように鋭く、その視線はとぐろを巻く蛇体の如くからみついてくる。
「そう言えば、三島の家、行ったことないな。香奈はあるんでしょ?」
「まあ、一応」
「じゃあ決まり」
こちらの意志など関係無く彼女はそう言うとにっこりと微笑んだ。曇天を写したような瞳で笑っていた。
背筋を冷たい物が伝う。
こんな状態の井上と怜を引き合わせたら何かとんでもないことになりそうな予感がする。
なんとしても阻止する方法はないものか。だがうっかり弱みを握られてしまっている状況ではとれる手段などあってないようなものだ。何せ井上は本気だ。先日の、さくらさんでの部屋での一件で判った。恋と戦争にルールはないと誰かが言ったがまさにそれで、越えては行けない一線を任意に移動させられる状況に於いて、彼女は手段を選ばず事に及ぼうとするのだ。
対して怜は外敵を排除するためなら手段を選ばない。その上で相手を完膚なきまでに叩きのめす。それこそ自分の持つ影響力を駆使して、春から始まる井上の高校生活をどん底に突き落とすことも厭わないだろう。入れ替わりで卒業するとはいえ、ネコを被って蝶よ花よと愛でられ後輩からは慕われている彼女が、何らかの伝手を使って後輩にお願いすれば、きっとそれは実現してしまうだろう。
俺は時間稼ぎのつもりでスマホを取り出した。アプリの通知が何件か表示されていて、その中に怜からのメッセージが含まれていた。
急な用事が出来たから夜まで出かけます。
そう書かれていた。
いまは十五時過ぎだ。家に着く頃には十五時半くらいにはなっているだろう。夜までというのがどの程度の時間なのかは判らないが、十八時くらいがタイムリミットだろう。それまでに井上を帰してしまえばどうにでもなりそうだ。
「どうしたの?」と井上が首を傾げた。「もしかして、断るつもり?」
だったら話すよ? と言外に脅してくる。早速容赦のない奴だ。
「いや、ちょっと怜から連絡来てないかなって。あんまり返信までの時間が空くと機嫌悪くなるから」
あはは、と笑いながら俺はスマホを操作して怜に「了解」とメッセージを送る。既読スルーをやらかすと機嫌が悪くなるのは本当のことだ。
「面倒くさい性格」
ぼそっと井上が呟いた。
流石の怜も、おまえにだけは言われたくないだろ、と思ったが聞かなかったことにした。下手なことを言って機嫌を損ねて要求がエスカレートしたら大変だ。家に着くまではなるべく穏便に行きたい。
少なくともいまの井上は鼻歌を歌い出しそうなほど上機嫌だ。
「楽しみだな。三島の家」
触らぬ神に祟りなし。そう思いながら家路についた。
つづく
次回は10月6日頃に更新します。




