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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第五章
36/55

Heading for spring Ⅰ『冬の光』


 寒空の下で時間を確認し、それから周囲を見回した。日が昇る前ということもあって寒いし真っ暗だ。しかしこんな早朝でもすでに活動を始めている人々は居るもので、ここに来るまでの間に、犬の散歩や、ウォーキングをしている老人とすれ違ったり追い越したりしてきた。休日のこんな時間、普段はまだ寝ているので正直眠い。あくびをかみ殺しながらベンチに腰掛けた。

 昨日になってから急に、せっかくだから待ち合わせ場所を決めて、別々に家を出てそこで落ち合おう、などと柄になく面倒な提案を怜がしてきたのだ。そして俺は面倒ではあるがおもしろそうだ、と思ってそれに賛同したのだ。当然のことながら、同じ屋根の下に住んでいるのでデートをするとなると、玄関を出るときからいつも一緒だった。こうして待ち合わせをすることなんて滅多にないことだったので、新鮮で、正直わくわくしている。

 待ち合わせ場所は駅前のベンチだった。結局今日になるまで目的地は決まらなかったが、とりあえず始発に乗って遠出をするという方針だけは固めてあった。終着駅は果たしてどこになるのやら。気分屋な怜に合わせるつもりなので、不安と期待が胸の中で、シーソーみたいに浮かんだり消えたりしている。

 怜がやってきたのは予定の時刻を二〇分ほど過ぎた後だった。予想が少し外れたが許容範囲内である。

「おまたせ」と彼女は悪びれた風もなく言った。彼女としてはこれが定刻なのだ。一緒に家を出るときだってこれくらい待たされる。もしかしたら俺と彼女の間には幾らかの時差があるのかもしれない。

 俺は立ち上がった。

「行こうか」

「うん」

 二人手を繋いで駅の中に入る。

 券売機の前まで来たところでどうしようか迷った。なにせ行き先が決まっていないのだ。切符を買うにしてもどの区間までにするか決めようがない。

 迷っている俺を後目に彼女は券売機に紙幣をねじ込むと慣れた手つきで画面を操作して二人分の切符を購入した。出てきたうちの一枚をこちらに差し出して、彼女は「とりあえず乗ろうよ」と言った。

 俺はうなずいて切符を受け取った。

 改札を抜ける。

 出発を待つ電車に乗り込み、並んで座った。

電車の中は閑散としていたが、それでもこんな電車に始発から乗ろうという物好きは他にもいるようで、二、三乗客の姿が見えた。

 何かアナウンスが流れた。ぼーっとしていたのでちゃんと聞き取れなかったが、これから発車するとかそう言う当たり障りのないアナウンスだろう。いつの間にかドアが閉まっていた。モーターがうなる音が足下からゆったりと響いて来て、窓の外の風景が動き始める。電車が走り出した。どこへ向かうのだろう。怜を見ると、彼女は俺の肩に頭を乗せてとても幸せそうに眼をつむっていた。俺は彼女の髪を撫で、それから彼女の手に自分の手を重ねた。

 そのまま俺たちは、買った切符で行ける一番遠い駅で降りて、そこで新しく切符を買って別の路線に乗り換えた。

 乗り換えて二駅ほどすぎたところで左肩にのしかかる重みが増して、すやすやと寝息が聞こえてきた。幸せな表情のまま彼女は眠っていた。乗り換える前からうつらうつらとしていたが、ここまでが限界だったようだ。また夜遅くまで仕事をしていたのだろうか。俺は少し不安になった。幼少期と比べて丈夫になったとはいえ、やっぱり彼女はあんまり体は強くない。いまはまだ若いからいいけれど、一〇年、二〇年経った後にいまの無理が祟って酷いことにならないか、それがとても心配だった。

 とはいえ俺もやたらに早起きをしてしまったので眠かった。少しだけならいいだろう。そう思って目を瞑った。


 



 そしてそのまま終点まで乗り過ごした。

 別に行き先が決まっていた訳でもないので、乗り過ごしたというのも変かもしれない。とにかく良い区切りではあるので俺は彼女を起こした。

「あれ? おはよぅ」と舌っ足らずな口調で彼女は言って、きょろきょろと周りを見回した。

 まだ寝ぼけていて足下がおぼつかない彼女を支えてやりながら駅のホームに降り立った。

 潮の香りが鼻先を擽った。

 俺たちを運んできた電車が動き出す。

 その向こうに、快晴の陽光を浴びて煌めく海が見えた。冬の海は濃い青を湛え、白波は泡立ち、岸に打ち寄せる波音はどこか寒々しく、侘しい。

「あちゃーこんなところまで来ちゃったんだ」と怜が他人事のように言った。

「よく眠れた?」俺は訊いた。

「うん。やっぱりそうちゃんと一緒だとよく眠れるな。普段から一緒のベッドで寝ようよ」

「それはまだ駄目」俺は言った。「たぶんいろいろ我慢できない」

「私はいいんだけど」

「俺があんまり良くないんだよ。その、まだ責任とれるような立場でもないし」

「そんなの気にしなくてもいいのに」怜はくすくす笑った。「私が責任とれるのに」

「そういう問題じゃありません」そう言って俺は怜のおでこを軽く叩いた。

「あいたー」と彼女は大げさにおでこを手でおおった。



 駅舎を出てどこへ行くわけでもなく歩き始めた。

 駅前には寂れた商店街があって、いくつかの飲み屋や宿泊施設の看板が往時のにぎわいを忍ばせた。

「戦後すぐくらいまでは、この辺りも栄えてたんだって」と怜が言った。「何がメインだったかは忘れたけど、漁業が盛んで、凄い量の水揚げがあったってなんかで読んだことある。だけど、色々法整備が変わったりとかで徐々に衰退したとかなんとか」

「へえ」俺は改めて周囲を見回した。「なるほど」

「良く判ってないでしょ」怜が笑いながら言った。

「まあね」俺も笑った。「どこ行く?」

「うーんとね」と怜はスマホを操作しながら、「ここからしばらく歩いたところに道の駅があるみたい」

「道の駅」

「美味しい海鮮丼が食べられるってさ」

「もうメシ食うの? ていうか開いてるのか?」

「うん。結構早めの時間から食堂はやってるみたい。まあほら、ブランチだよ、ブランチ」

 なるほど、と思うがしっかりとブレックファストも食しておいて、果たしてブランチと呼べるのであろうか。ちなみに今朝は健康に気遣うとか言って山盛りのオートミールとサラダとウインナーを何本か食べていた。それでもう腹が減るとは異次元の燃費の悪さである。寝てただけなのに。

 そんなわけで俺たちは海沿いの道を歩いて道の駅を目指した。防波堤の向こうから波が砕ける音が響いて、陸側からは申し訳程度の集落の向こうに見える山からの吹き颪でびゅうびゅう言っている。

「寒い」恨みがましい声で怜は言った。「寒い」

「大事なことなんだな」

「何度でも言うよ」

「言ったところで変わんないぞ」俺は苦笑した。

「もっとくっついていい?」

「これ以上密着すると同化するんじゃないかなあ」

「もうそれでいいや」そう言って腕を組んだままぐいぐい体を押しつけてくる。この上なく歩きづらい。「体温を、体温を」

「運動して筋肉つければちょっとはマシになるって聞いたことあるな」

「無理」

「ちょっとは努力しろよ」

「あ、でも腹筋だけはある、あったよ」

「過去形かい」

「ていうかこないだ私のお腹つまみながら笑ってたのはどこのだれでしたっけ?」

「夏くらいまでは結構引き締まってたよな」彼女の恨みがましい視線をスルーして俺は言った。

「運動は嫌いだけど、楽器演奏するのは好きだから。だから一応腹筋とかは」

「お腹に貼るだけで電気信号で鍛えられるって奴使って?」

 以前彼女の部屋でそれらしきものを見かけたことがあったのでそう訊ねてみた。

 彼女は「知ってたんだ」と驚いた顔をした。

「いまは使ってないんだ」

「何もしなくてもいいんだけど、疲れるから嫌なの。全然楽器触ってる余裕もないし」

「そんなに仕事忙しいの?」

「う、うん。まあ」そう言って怜は気まずそうに目をそらした。「そう言う話はね。とりあえず、ご飯食べてからにしよ?」

 うん、と俺は頷いた。

 今回のデートの一番の目的はどこかで、そう言う話を包み隠さずすることなのだ。その方が彼女が話しやすいというのであれば、したいようにさせるのが一番であろう。

 道路を車が走り抜けていく。

「え? あれ、バスだ」

 二、三台ほど走り抜けたうちにおそらくこの辺りを走っている路線バスが含まれていた。

「待って。もしかして、あれさっきの駅から出てた奴?」と怜がおろおろしながら言った。

「バス停あったな」

「……なんで言わなかったの?」

「歩く雰囲気だったから」

「行き先は?」

「道の駅にも当然停留所はあるぞ」俺は言った。「確認したからな」

「えぇ」力なく、がっくりと肩を落とす。

 まあ、本当はどこからともなくやってきた喧しそうなおばちゃんの集団がバスを待っているのを見てスルーしたのだけれども。怜とは静かに、二人きりで居たかったのだ。

「ほら、立ち止まってたらいつまで経っても目的地までつかないぞ」

「あ、待って。やだ。おいてかないで。凍え死ぬ」

 どたどたと走って追いついてきた彼女は、俺の腕を取るなり「意地悪」と睨んできた。

「今知った?」俺は言った。

「再確認した」ぷくっとほっぺたを膨らませて彼女は言った。



 まだ開店して間もないこともあって難なくテーブル席につくことが出来た。カウンタに食券を渡しに行っていた怜が戻ってきて向かいの席に座った。

「楽しみだね」と声を弾ませて彼女は言った。

 つい先ほどまで寒いだの疲れただの言ってふてくされていたのが嘘のようだ。食券と引き替えた番号札をそわそわとした様子で見つめている。そして番号が呼ばれるなり、素早く立ち上がると。どたどた早歩きでカウンタの方へ向かう。

 お盆を持って戻ってきた彼女はもう待ちきれないとばかりに、やや乱暴にお盆をテーブルに置き、ちょっと水がこぼれたことなど気にもせず、お箸を手に取ると「いただきます」と言って食べ始めた。

 ぱっと見た感じでは、いくらやらうにやら、定番の具が乗っかっている。まあ普通の海鮮丼なのだろう。

 見とれてしまうくらい流麗な所作で、箸を操り、しかし目を疑うような早さで一杯平らげてしまった。

「どうだった?」俺は訊いた。

「美味しい」満足げに彼女は笑った。「そうちゃんは食べないの?」

「見てるだけでいいよ」

 怜につられて朝食をいつもより多めに食べてしまったので、まだそんなに腹は減っていないのだ。というか夜まで保つかもしれない。

 食堂を出て、何を買うわけでもなく道の駅の売店をぶらついてから外に出た。

「雪だ」と怜が空を見上げて、手を伸ばす。が、その瞬間突風が吹いて雪はその手をすり抜け顔にばちばちとぶつかっている。俺は屋根のあるところでその様子を見守りつつ、このあとどうしようか考えていた。

「うへぇ」体中雪まみれになった怜がやってきた。

「楽しそうでなにより」俺は言った。

「外歩くのはナシだね」雪を払いながら彼女は言う。「中、入ろっか」

「バスが来るのは一時間後だってさ」

「私たちのところよりも田舎だねぇ」

「本家の周辺よりマシだけどな」

「あそこと比べちゃ駄目だよ」

「そういやさ、結局先週奈雪姉さんは何しにうちに来てたのさ」

「それはね。えっと、もうすぐ」

「もうすぐ?」

「うん。まあとりあえず中に入りましょう。寒い」

「そうだな」

 即売所の隣に休憩スペースがあったので、とりあえずそこのベンチに腰掛けた。

「無計画すぎて何にも思い浮かばないね」彼女は体の後ろに手をついて足を伸ばして、のけぞるような体勢で背もたれに背中を乗っけて「どうしよう」

「子供みたいなことはやめなさい」俺は言った。「ブーツ脱いじゃ駄目かな。足むくんできたかも」

「お行儀が悪い」

「むぅ。そうちゃんなんかお母さんみたい」

「怜のお母さんだったらもっと怖いだろ」

「なら大丈夫だね」

 結局彼女はブーツを脱いで、ベンチの上に足をあげてふくらはぎや足を揉み始めた。まあ周囲にあんまり人はいないし、誰もこちらを見ていないようなので大丈夫だろう。とはいえ着物でそう言う体勢になると角度に寄ってはきわどい感じにならなくもないので、俺はそれとなく彼女の近くに寄って遮蔽物の役割を負ってみる。まあないよりはマシだろう。

「どこか二人きりに慣れる場所ってないかなあ」足を揉みながら怜が言った。

「外に出ればいくらでもありそうだけど」

「うー。寒いのはやだ」

「少なくとも暖かい場所は無理じゃないかなあ」

「ほら、隠れ家的なお店とか」

「こんな田舎に?」

「田舎だからこそ、だよ」

「高望みはやめといたほうがいいぞ」

 隠れ家的なお店を探すよりも隠れ家みたいな納屋とか廃屋を探す方が簡単だと思う。むろんそんなところへ行くつもりなど毛頭ないが。

「んーじゃあもう、ここでいいや」そう言って怜は手提げ鞄をごそごそ探ってから、綺麗に包装された平たい箱を取り出した。

 俺はそれを見て一瞬、ほぼ無意識に顔をしかめてしまった。

「そのリアクションはどういう意味なのかなあ?」にこにこしながら凄んでくる。

「今日ってバレンタインだろ?」

「だよ?」

「正直怜から貰ったチョコで良い思い出がないというか」

「去年までの私とは違うのだよ」ほっほっほと笑って彼女は「なんたって雪ちゃん完全監修だもの」

「あ、それで」先週うちに来てたのか。そういえば怜が起きてこないと云々って言ってたもんな。

「そういうこと」と怜がウィンクをした。

 それなら安心だ。

 チョコを受け取ろうと手を伸ばす。もう少しで指が触れる、というところで怜が箱を引っ込めた。

「その前に確認だけど、ほかの子から貰ったりしてないよね?」

「大丈夫だよ」俺は言った。「昨日誰からも貰わなかったし」

「へえ、あの二人は?」

「それがなんもなかったんだよなあ」

 バレンタイン直前であり、直近で顔を合わす最後の機会でもある昨日なにもなかったのだ。いままでのことを考えたらなんだか不気味だ。けれど、先週の日曜日の一件から夏井も井上もあんまり話しかけてこなくなったし、あれで上手く愛想が尽きてくれたなら、それはそれで、ちょっと悲しいけど、ありがたいといえばありがたい。

 怜は俺の言葉の真贋をはかるかの様に俺の目をじっと見つめてから「よろしい」と言って引っ込めていたチョコの箱を改めて差し出した。

「ありがたく頂戴いたします」俺は頭を下げながらそれを受け取った。

「うむ。くるしゅうない」と怜が鷹揚に言う。「表を上げて、早速食するがよい」

「ははl」

「包装は丁寧に開けるのだぞ。……ねえ、これいつまでやるの?」

「今宵はここらでお開きと」

「まだお昼前だけどね」

 しょーもないやりとりをしながら包装を開けると、中から白い箱が現れた。ごく普通の市販の箱である。

 ごくり、とツバを飲んでその蓋に手をかけた。奈雪姉さんが監修したのであれば、味に問題はないはずだ。しかし万に一つということもあり得る。袋麺に卵を入れるくらいのことくらいしか出来ない怜が作ったのだ。どこかで変な手順が混ざってしまっていたとしてもおかしくはない。

「なんで固まってるのかな?」

 またさっきの笑顔で怜が威圧してくる。

「流石に怒るよ?」

 こう言うときはすでに怒っているものである。

 とにかく俺は意を決して蓋を取った。

 中には丁寧に切り分けられた四角いチョコレートが、一二個並んでいた。ココアパウダーが振りかけられていて、表面の感じからすると生チョコらしい。甘くもビターな香りが鼻腔を擽る。

 見た目はオーケーだ。

「蓋の裏に黒文字があるから、それで食べてね」

 蓋の裏を確認すると、言葉通り黒文字が張り付けられていた。テープを剥がし、黒文字を指で摘んで、もう一度ツバを飲んでから、チョコに差した。先端が、すっと柔らかく入っていく。刺さったチョコをもちあげて、まじまじと観察してから、口の中に放り込んだ。

 ココアパウダーは純度の高い物を使っているらしくとてもビターな味わいが口の中に広がる。そして口蓋に舌で押しつけるようにしてチョコをつぶすと、まろやかな甘味が広がり、そしてビターな後味が残った。

「美味いじゃんか」俺は言った。「ほんとうに怜が作ったの?」

「だから言ったでしょ?」自慢げに彼女は胸を張る。「私だってやれば出来るんだよ」

「ちょっと見直した」

 あと奈雪姉さんって凄いんだな、と思ったがそれは口に出さないでいよう。

「あとねー。これ」と彼女は鞄のなかからもう一つラッピングされた同じ様な箱を取り出した。「雪ちゃんの分」

「おお。さんきゅ」

「私のを食べ終わってからにしてね。流石に雪ちゃんのと比べられちゃうと悲しいし」

「奈雪姉さん料理上手いもんなあ」

「そうだよね。私が二〇分くらいかかった作業をあっという間に終わらせちゃうんだもん。あれは別の生き物だよ」

「ちなみに何にそんな時間かかったんだ?」

「ほら、溶かしやすいようにチョコを刻むでしょ?」

「流石に時間かかりすぎだろ」

「だって、包丁って怖いんだもん。手、怪我したくないし」

「まあ商売道具だもんな」

「そう。だから慎重に慎重にやってたけど、途中何度かヤバかった」

「駄目じゃん。いや、怪我してないから一応オッケーか」

「そう。そんな苦労の結晶なんだから、ありがたく食べてね」

「急に押しつけがましくなったな」といいつつ俺はチョコをぱくぱく食べる。「美味いからいいけど」

「えへへ。なんだろ。自分が作った物を美味しいって言ってもらえると、幸せな感じがするんだね」

「そうだぞ。だから俺はいつも幸せだ」

「もう」と怜は赤くなる。

 俺も言ってからちょっと恥ずかしくなってきた。

 二人でまるで付き合い始めのカップルみたいにまごまごしているうちに時間が過ぎて、バスが到着する五分前になっていたので俺たちは建物から出てバス停へと向かった。ちなみにチョコはここで全部食べてしまうのももったいないので半分残しておいた。

 駅とは反対の方向からやってきたバスに乗客はほとんど居らず、その数少ない乗客も道の駅ですべて降りてしまったので俺たち二人で貸し切り状態になっていた。

 計らずと、二人きりになれる空間に巡り会うことが出来た。俺たちは後ろの方の席に並んで座った。

「雪、大丈夫かな」窓に額をくっつけて外を見ながら彼女は言った。

「すぐに止むんじゃないかな。大雪になるって予報を見た覚えはないし」

「でも、そうなったら、それで嬉しいかも」そう言って怜は微笑む。「二人きりでどこか空いている旅館に泊まったりして、まったりするの」

「なるほどなあ」

 それも確かに悪くない。

 思えば、まだ俺たちは二人でそういう旅行みたいなのに行ったことがなかった。まあ俺は中学生だし、怜は高校生な訳で、一般的なモラルというか常識に当てはめてみれば、この年頃の男女が大人の付き添いもなしに旅行するというのは大変逸脱した行為であろうから、まあ致し方ないとも言える。

「あのさ」と急に改まった声で怜が言った。「せっかくだから、いま、話さない?」

 そこそこ歩いたがバスで移動するとなれば、駅まではすぐだろう。迷っている間にも時間はなくなっていく。だから俺は「うん」と頷いた。

「まず、そうちゃんがしている誤解をね、解こうと思って」

「誤解?」

 怜は頷いた。「私が漫画家になったことを、黙ってた理由なんだけど」

 俺は下唇を少し噛みながら、膝の上で握った右の拳に視線を落として、彼女の言葉を待った。

「そうちゃんが考えているような理由じゃないの。その、くだらない、って言ったら変だけど。でも、多分聞いたらそう感じると思う」

 そういえばさくらさんも似た様なことを言っていた。俺は顔を上げて、彼女の目を見た。視線をそらさずに見つめ返すその目には強い意志が宿っていた。

「言うよ」と彼女は一呼吸おいてから「恥ずかしかったの。描いてる作品を見られるのが」

「恥ずかしい?」

「その、なんていうか。私の願望とか欲望とかダダ漏れだし。身近な人をモデルにしちゃったキャラが幾らかいるから、多分読んだらすぐに誰が誰なのか判っちゃうし」

「でも、俺意外には話してたんだよな?」

「だから。特にそうちゃんには知られたくなかったの」

「……もしかして、すごく、なんていうか、」

「エッチなの描いてたりもします。でも、一応全年齢だよ」

 顔を赤くして目に涙を浮かべた彼女が嘘をついているようには見えない。

「俺はさ。てっきり、気を使って話さなかったんじゃないかと思ってさ。それが、すごくショックだったんだ」

「全然。むしろデビューが決まった直後にいの一番に報告に行きそうになって、そこで一瞬冷静にならなかったら全力で生き恥をさらすところだったんだから」

 でも、と彼女は静かに言った。

「もしかしたら、そうちゃんが言うとおりの理由もあったのかもしれない」

 俺はぐっと拳を握りしめた。

「それに、そうちゃんがそんなに傷ついてるって、あの日あの子に言われるまで、私全然考えてなかったんだ。自分のことしか考えてなかったんだと思う」

 自分勝手なのは俺も同じだ。想像通りの答えが出たら怖いから、だから俺は敢えてちゃんと向き合うことを避けてきたのだから。

 お互いに触れたくない腫れ物を共有しながら、一方でそこを中心に非常に埋め難い溝を作ろうとしていたのだ。

「バカだな。俺たち」

 沈痛な横顔のまま彼女は「そうだね」と無理矢理笑った。

「ずっと不安だったんだと思う。それこそ、つきあい始めてすぐの頃から。俺なんかじゃ怜には釣り合わないんじゃないかって。それが、今回の件で表に出てきたっていうか」

「うん」

「怜はたくさん凄い才能を持っていて、それに凄く美人だ。でも俺には何もない。わずかにあった物ですら失ってしまった。怖いんだ。時々、自分が何者であるか、判らなくなりそうになる。バカみたいに野球ばっかりやってた頃は、こんなこと考えたこともなかったのに」

「ねえそうちゃん。いまだから言うけどね。私が家出したときのこと、覚えてる?」

 怜の両手が俺の右手を包み込んだ。ひんやりとしていて冷たい。暑くなっていた頭が少し冷えていくようだ。

「私はね、あの日、死のうと思ってたんだ。もう生きていたくない。そうちゃんにも、お父さんやお母さんにも迷惑をかけたくない。私みたいな子が生きてちゃいけないんだって。引き取られた親戚の家で酷い目にあって、それが多分原因なんだと思う。気がついたらそんな風に考えるようになってた。やっとあの地獄から解放されたのに、心はからっぽのままで、それが辛くて辛くて。胸が痛くて張り裂けそうで、苦しかった。私の心はもう、あのとき、罅が入って徐々に壊れ始めていたんだと思う。けど、けどね。そうちゃんが私を見つけてくれた。私を家族だって言ってくれた。私はその言葉に救われたの。あの日握り返した、まだ小さかったそうちゃんの手が、壊れた私の心の欠片を拾い集めて、いまの形に作り上げた。だから、私はそうちゃんによって生かされていて、そうちゃんの為に生きてるんだ」 

 俺の手を握ったままこちらに寄りかかってくる。肩に感じる重さは体重だけじゃない。彼女の想いがすべて乗っかっていて、だから重たいなあと思うけど、それはお互い様なのだ。

「俺だって、怜が居てくれたから立ち直れたんだ。お互い様だよ」

 あのとき、俺の元に来てくれなかったさくらさんを恨む気持ちはない。だが、とてつもなく心細かった。このまま自分の中から魂だとか精神だとかそういうものが抜け出して抜け殻みたいになってしまうんじゃないかと怖かった。いや、もはや抜け殻同然だった。そんな俺に息吹を与えてくれたのが怜だった。後先なんて考えずに怜を求めたあの日、俺は俺として息を返したのだ。だからきっと、俺も怜によって生かされているのだと思う。

「お互い様」と怜は言った。「だからふさわしいとか、ふわさしくないとか、そういう話じゃないんだね。私たちは、二人で一つ。二人でやっと一人分なんだよ」

「比率は?」俺は言った。

「6:4?」と怜は首を傾げた。「そうちゃんの方がちょっと多いかな」

 そうかな? と俺は笑った。

「でもあれだな。結局、あの散歩に出掛けた満月の夜に、タヌキ寝入りなんかせずに真っ正面から話せば良かったんだよな」

「……うん? どういうこと?」

「ほら、あの晩俺の部屋に来ただろ?」

「行った。行ったけど、えっと、つまりあのとき起きてたの?」

「まあ、そういうことになるかな」

 怜は目をまん丸に見開いてから、大きなため息をついた。

「バカだね、私たち」

「大バカだ」

 互いに顔を見合わせて笑い合った。繋いだ手から感じる体温が心の中に染み込んで、恵みの雨が降るように乾いたところを潤していく。けど、それでも全部が潤される訳ではない。まだ俺たちの間には話すべきことはある。俺の記憶のこととか、怜が親戚に引き取られていた間の話とか。でもそれはいま話すべきことではないのだと思う。だから俺たちは満足できているのだ。いずれまた、それが原因で心が枯渇して干上がりそうになるかもしれない。そうなったらまた、今回と同じようなバカをやって、それからまた笑い合えばいい。雨期と乾期を繰り返しながら育まれ、俺たちは強く結ばれていく。なんとなくそんな予感がしていた。

 バスを降りて電車に乗って、元来たルートを辿って、結局デート自体はなんともいえない迷走の末に幕を閉じた。せめて道の駅の直売所で売っていた一夜干しでも買えば良かったと少し後悔した。

 リビングで、残しておいたチョコを食べながらコーヒーを飲んでいると上の階からどたんばたんと騒々しい物音が響いて来た。帰って来てすぐに、何かひらめいたらしく怜は部屋に籠もって原稿をやっていた。暴れている様なので、どこかで上手く行かなくなったのだろう。ひとしきり暴れた後は何か甘い物を食べに降りてくるはずだ。

 二階の物音を聞きながらキッチンへ行ってココアを練る。結局彼女はどんなマンガを描いているのか具体的な所までは教えてくれなかった。恥ずかしがっていたのは本当みたいなので、いまは詳しく聞かないでおこう。親しい仲であっても秘密にしておきたいことの一つや二つはあるものだ。

 いまはとりあえず、これでいいのだ。

 階段を下りてくる足音を聞きながら、ホットミルクでココアを伸ばしていく。そして彼女がキッチンにやってくる。げっそりと疲れた顔をしていてる。そんな彼女に俺は笑ってココアを差し出した。

「おつかれさま」

「ありがと」

 マグカップを受け取って、ココアを啜り、それから彼女はほっと息をついた。

「幸せだなあ」彼女は言った。

「そう?」

「うん」

 頷いた彼女は晴れ晴れとした表情を浮かべていた。

「あとは、そうちゃんが合格してれば文句なしだね」

「考えないようにしてたのに」俺は溜息をついた。

「明日は気をつけてね? 気もそぞろだからって余所見しちゃ駄目だよ?」

「判ってる」

「お祝いの準備はしてるからね」

「そう言うこと言うのやめてくれ」俺は苦笑した。「プレッシャーがかかるだろ」

「でもなにもすることないよ?」

「出来ないから余計にたちが悪いんだよ」

 そんな話をしているとスマホに着信があった。

「電話だ」

 井上からだった。アプリでメッセージを送ってくるでもなく、わざわざ電話を掛けてくるとは。

 こちらの手元をのぞき込んだ怜が「出たら?」と拗ねた顔で言った。

 一瞬、いいの? と訊ねそうになったが、ここでそういうことを言うと逆に機嫌を損ねかねないので、黙って頷いた。画面をタップする。

「どうかしたか?」

「うん。明日、なんだけど、」

「ああ、合格発表」

「一人で行くの怖いから、一緒に、と思って。駄目?」

 耳をそばだててた怜が、ぐっと親指を立てた。いけ、ということらしい。

「いや、大丈夫だけど」

「そう、良かった」井上が安心した様に溜息をついた。電話越しなので、ボワボワッ、というノイズになった。「あ、ごめん」

「気にするな」俺は笑った。「緊張してるんだな」

「試合以上に緊張する」

「じゃあ待ち合わせ場所はどこにする?」

「そっちからだと学校の前、通るでしょ? だからそこで」

「そっちからだと一旦逆方向に行くことになるけど」

「平気」

「そっか。ならそういうことで」

「うん。それじゃ、その。明日はよろしく」

「ああ。よろしく」

 通話を終えたスマホをテーブルの上に置いて、それから怜を見た。

「どうしてだって顔してるね」

「いや、駄目って言いそうだったから」

「だって別に二人きりな訳じゃないし」

「まあそうだけど」

 井上に言うのを忘れてたが、もともと公康と一緒に行く予定だったのだ。

「あとであいつにも連絡しておかないと」

「あ、さっき私がしといたよ。オッケーだって」

「手際がよくて助かります」俺は苦笑した。

「あの子は危険な香りがすっごいするから。だから、ほんと気をつけてね。油断してるともっと面倒なことになるよ」

 これは女の勘だから、と念を押すように彼女は言った。


 

 

     続く

お久しぶりです。

とりあえずここからのエピソードをやりきったら一部完みたいな感じになります。多分

サブタイトルのサブタイトルは奥村愛子の楽曲から取りました。久しぶりの拝借。

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