番外編 さくらと怜とお弁当と
でかい。そう思った。
何がでかいかというとお弁当だ。
中庭のベンチで、私と怜はいつもの様に二人でお弁当を食べていた。彼女の膝の上にあるお弁当箱は一般的なそれとは比べものにならないくらい大きい。その上三段くらいある。一段は丸々ご飯が詰まっていて、残りの二段にはそれぞれ茶色いおかずと野菜がぎっしり詰まっていた。
いま、彼女はご飯と唐揚げの合間の箸休めとばかりにキャベツをもりもり食べていた。
「大きいわよね。いつ見ても」
今更な指摘である。一年の頃から彼女のお弁当は見てきた。なんとなく触れない方がいいのではないか、と思ってしまった結果、三年の今日になるまで突っ込むことが出来なかった。
「なに? 嫌味?」と怜はなぜだか不機嫌そうに私を睨んだ。「でかいのぶら下げといて」
「そっちの話じゃないわよ」私は苦笑した。彼女は美人である。それも規格外の美しさだ。花も恥じらい花弁を散らし、月は叢雲に隠れてしまうほど、彼女は美しい。初めて話しかけられた時、同姓でありながらも、彼女の美貌に引き込まれて、恋に落ちたみたいに胸が高鳴ったことをいまでも覚えている。そんな彼女は、しかし胸が小さい。かといって別に残念なほど平坦という訳ではない。一般的なサイズよりはやや小さい、そう慎ましやかなのだ。彼女はそれを気にしていた。いつも一緒にいる私が人並み以上に大きいので、対抗意識を燃やしているのかもしれない。何より、彼が胸の大きい女性が好きだという事実が、よりいっそう彼女のコンプレックスを煽っているのかもしれない。
「じゃあなに? 背は確かに高い方だけど」
「そうじゃなくて。お弁当」
「いまさら?」彼女は呆れた顔で言った。「もしかしていまになって気づいた?」
「そんなわけないでしょ。あなたと初めて一緒にお昼を食べた時から気づいてたわよ」
一年生の頃。まだあまり彼女の本性を知らなかった頃の事だ。その当時はまだ、どちらかというと私は彼女に憧れていて、一緒にお昼が食べられるということに胸を躍らせていたのだ。うきうきしながら中庭に、その日の為にわざわざ作ったお弁当(といっても冷凍食品ばっかりだったけれど)を持って向かったのだ。そして待ちかまえていたのが特大のお弁当箱だった。いや、これは重箱だ。そしてぎっしりと圧縮されて詰め込まれたご飯を美味しそうにほおばる彼女を見て、なにかががらりと崩れる音が聞こえた。食べ終わった頃にはテーマパークの着ぐるみの中の人を見てしまったような気持ちになっていた。思えばその日を境に私の中の、三島怜という可憐な美少女の偶像が崩れ始めたのだ。そしてある日気がついたのだ。私の隣にいる、私の親友はすごい美人だけど、気の毒なレベルのオタクで、その上何事に対しても好き嫌いが激しい、生活力に乏しい残念な美人であると。
話をお弁当に戻そう。
「それ、いつも宗平君に作らせてるのかしら」
「む。ちょっと棘のある言い方ね」
そう言うつもりはなかったのだけれども、言われてみるとちょっと彼を気の毒に思っている部分はあったかもしれない。
「言っておくけどね、別に私は無理矢理作らせてる訳じゃないからね。私が美味しそうに食べる姿を見るのが好きだっていいながら、いっつもたくさん料理を作ってくれるの。で、これは昨日の夕飯の余り物が大半」
「家でもそんなに食べているのね」
「家だとこんなもんじゃないよ?」不敵な笑みを浮かべた彼女のほっぺたにはキャベツの切れ端が貼り付いていた。というかそんなドヤ顔で言うことではないだろ、と思いつつ口には出さずに私は自分のお昼ご飯を食べる。今日はコンビニで買ったカツサンドとパック入りのミルクティーだ。
「ていうか私からしたら、よくそんな食事で夜まで持つな、って思うわよ」
「これ意外に高カロリーなのよ?」と私はミルクティーのパックを持ち上げながら言った。ストローで飲むと甘ったるい味が舌いっぱいに広がる。甘いけれど、冷たいせいでマイルドになったその甘さがクセになって一気に飲み干してしまいそうになる。危険な飲み物だ。
「腹持ちよくないでしょ」そう言って怜はキャベツを食べる。
「そっちは腹持ち良すぎるわよ。なによそのご飯と揚げ物と野菜は」
「揚げ物は大好きだし、ご飯はそのお供。お野菜は健康の為」
「それだけ糖質とカロリー摂取しておいて健康も何もないでしょ」
「でしょ?」
なぜか同意を求められてしまった。
「だからいっそ開き直って野菜の段をお肉の段にするか、もしくは麺類でってそうちゃんにお願いしたらすっごい怒られた」
「そうでしょうね」
彼の苦労が忍ばれる。
「そう言えばさくらっていっつもどこかで買って来たのを食べてるわよね」
「そりゃ、まあね」
うちはすっかり家族仲が冷え込んでいるというか、親子関係が崩壊してしまっているので、お弁当を作って、なんて言える訳もないし、言いたくもない。かといって自分で作れる訳でもないので、高校に入ってからはずっとコンビニや学食の購買等で買ったものを食べていた。まあ、しかし今にして思えば、小遣いだけは貰っていたし、双方に多少の情はまだあったのだから、頼めば作ってもらえたかもしれないし、作ってもらえればっきっと私はそれを食べていたのだろう。
怜の手が私の膝の上に添えられて、私ははっとして彼女を見た。
「ごめんなさい。嫌なこと訊いちゃったわね」
「いえ、いいの」と私は言った。怜は色々性格に難はあるけれど、本質的には善人というかお人好しなのだ。だからこうして慰めようとしてくれる。彼女がもっと悪い人間だった良かったのに、と時々思うことがある。そうすれば私は彼女に混じりっけのない憎しみを向けることが出来たはずだ。いまも胸の中には裏切られたことに対する憎しみと、親友としての親愛の情が同居している。嫌いになれたらいいのに、そう思えば思うほど、私は彼女のことが好きなのだと思い知らされる。特にこういう瞬間にはそれが身に染みて理解させられてしまう。
「あ、そうだ」と彼女は何か良いことを思いついたらしく明るい表情を私に向けて、「明日はお弁当、用意しなくていいからね」
「待って。一から説明して」
「そうちゃんに言ってみる」
「つまり?」
「明日はお揃いのお弁当を食べよう?」
「いや、嬉しいけど、お揃いっていうのはちょっと」私の胃袋は人並みか、なんだったらちょっと小さいくらいだ。
「そこは判ってるわよー」ぶーと膨れながら彼女は足をぱたぱたさせる。「さくらの分も、って言えば、そうちゃんはちゃんと調整してくれるわよ」
それもそうだ。
「けど、いいの?」
「平気平気。一人分作るのも二人分作るのも大して変わらないって普段から言ってるし」
本当に大丈夫なんだろうか、と心配にはなったけれど、彼の作ったお弁当が食べられるという誘惑に勝つことは出来なかった。
「じゃあお願いするわ」
「さくらって嫌いな食べ物ある?」
「好き嫌いは特にないし、アレルギーもないわよ」
「そっか。ならどんなお弁当がいいかリクエストはある?」
「あなたがそんな風に勝手に仕切っちゃって大丈夫なの?」
「大丈夫だって」
彼女はそう言って笑うけれど、私はなんだか嫌な予感がしていた。怜の我が儘が原因で喧嘩になることがよくあるからだ。怜の機嫌が悪い時や妙に気落ちしている時は大抵彼と喧嘩をしてい、愚痴を聞いてやるとどう考えても怜が悪い、としか言えないことばかりなのだ。不安だ。そう思いつつも私は彼が作ったお弁当に思いを馳せた。
夕方、帰宅した私は自室で受験対策の問題集を黙々と解いていた。両親は出かけていて家には私一人だけだった。正直あの人たちが居ない方が気が安らぐので有り難い。出来ることなら受験が終わるまでどこかへ出て行った切りになって欲しいものだ。
キリの良いところまで終わらせて、時計を見ると午後七時半だった。時間を意識した途端にお腹が減ってきた。
台所へ向かう。冷蔵庫には帰りにスーパーに寄って買って来たお総菜がある。それを電子レンジで温めている間に、炊飯器の炊き立てのご飯をかき混ぜて、それから食器を用意した。私が食べる物も、食器も、すべて自分で稼いだお金で用意したものだ。作家としてお金を稼ぐようになってから、私はもうあの人たちからお小遣いを貰うことはしなくなった。そして彼らも、私に対して色々文句を言うことが殆どなくなった。私とあの人たちが家族であるという接点は、もはや同じ屋根の下にいるという、ただそれだけになってしまった。受験が終わって、この家を出たら、きっと他人同士のまま、家族に戻ることは出来ないだろうと思う。いや、戻る戻れないというのがおかしな話だ。私とあの人たちの間にあった家族関係なんて、最初から滅茶苦茶だったのだから。
夕飯を食べ終えて、くちくなったお腹を、さてどうしてやろうかと思いながら気怠い時間を過ごしていた。うとうととし始めたころ、携帯電話の着信音が鳴り響いた。はっと目が覚めて、傍らにあったスマホを手に取り、息を飲んだ。ディスプレイには「そうへい君」と表示されていた。彼の方から電話をかけてくることなんて珍しい。だから私は動揺していた。混乱して、どうやれば電話に出ることが出来るのか思い出せなくて、絶望的な気持ちになりながら画面を見つめていた。
おろおろと画面に触れるかどうかというところで人差し指をさまよわせているうちに、どこかをタップしてしまったらしい。「もしもし?」と彼が呼びかける声が聞こえてきた。私は慌ててスマホを耳に当てて「こんばんは」と言った。
「ああよかった」と彼はほっとした様子で言った。「なかなか出ないから、なにかあったんじゃないかと思いましたよ」
「心配性ね」私は言った。「お風呂に入っていただけかもしれないでしょ?」
「まあそうなんですけど」彼はきまりが悪そうに言った。本当は動揺して固まってしまっていた、なんて恥ずかしくて絶対に言えないので、とりあえずお風呂に入っていた体で乗り切ろう。
「それで? 宗平君から電話してくるなんて、珍しいじゃない」
とはいえ用件に見当はついていたので、私は深呼吸をしながら彼の答えを待った。
「お弁当のことです」と彼は言った。「好みとか確認しておこうと思いまして」
「そんなに気を使わなくてもいいのに」と私は口では言うけれど、内心では嬉しくて嬉しくてたまらなかった。小さなことだけれど、私の事を気にかけてくれている。いまこの瞬間に限っては、彼の一番は怜ではなく私なのだ。窓に映った私の顔はだらしなくにやけていたけれど構うものか。幸せなのだから仕方ない。
うきうきしながら答えようとして、あれ? と思って出掛かった言葉を飲み込んだ。それから一呼吸置いて「怜はどうしたのかしら」
「実家に帰りました」
「喧嘩?」
「そう言うことです」
なるほど。一応好き嫌いについては彼女に話していたから変だと思ったのだ。大方怜の方が彼の逆鱗に触れるようなことを言ったのだろう。昼間の様子を思い出して私はそう勝手に決めつけた。
「好き嫌いはないわ」私は言った。「なんでも大丈夫よ」
「なんでも、ですか」と彼が電話の向こうで苦笑を浮かべたような気がした。そう言えば、こういう答えが、作る側にとっては一番困るんだっけ。
「えっと、じゃあ、お魚。そうね、塩サバを焼いたのが食べたいわね」私はとっさにそう付け加えた。
「塩サバですか。ちょっと待っててください」ごと、と電話をどこかにおいたような音がして、それからしばらく彼の気配が遠ざかる。足音が近づいて来て、がさがさ、と風を切るような音が聞こえてから、「ちょうど冷蔵庫にあったんで、大丈夫です」と彼が答えた。
「期待してるわよ」私は言った。別に塩サバが特別好きというわけではないけれど、言った後から急に楽しみになってきた。もしかしたらこれから私の好物は塩サバになるかもしれない。
「まかせといてください」彼は頼もしい声でそう言った。
翌日、いつもの様に中庭のベンチへ向かうと、すでに怜が座っていて、隣にお弁当箱を二つ、並べて置いていた。重箱みたいなのが怜のもので、普通のお弁当箱が私の分だろう。内心スキップでもしたいくらいにうきうきしているのを隠しつつ、私は彼女の前に立った。
怜は私を見上げると、愛想のない顔で「それ」とお弁当箱を指さし、それから自分の分を持ち上げて膝の上におろした。
見るからに機嫌が悪い。
私はお弁当箱を手に取り、彼女の隣に腰掛けた。
「聞いたわよ」私は言った。「宗平君と喧嘩したんですって?」
「別に。喧嘩じゃないし」むすっとふくれっ面になって怜は言った。「そうちゃんがケチなだけだし」
「あなた何言ったのよ」
じっとした眼で怜は私を見た。
「なんで私が悪いと思う訳?」
「いつも大体そうでしょう?」
「今回は違うかもしれないじゃない」
「で?」
「さくらのお弁当のこと話したら、急にそんなこと言われてもって渋い顔されたから、お弁当の一つや二つ変わらないでしょって言ったら、急に機嫌が悪くなって」
「ここまでは完全にあなたが悪いわね」
私がそう言うと怜は拗ねた顔で唇をつきだした。
「ていうかあなたが気分を害する要素が見あたらないんだけど」
「その後嫌味言われて、それでカチンと来たって言うか。事実でも言って良いことと悪いことがあると思うの」
「まあそこは、どうかしら」
彼が言った内容にもよるけれど、まあでも、大本の原因は怜にあるのは間違いなさそうだ。
「仲直りは?」拗ねたまんまの横顔に私は問いかける。
「そうちゃんが謝るまで許さないし」
「あなたねぇ」
「そんなことよりお弁当。話してばっかだと時間なくなるし」
私はため息をついた。「そうね」
あまり楽しい話ではなかったけれど、とりあえず気持ちを切り替えてお弁当箱を包んでいる風呂敷を解いた。淡い水色のプラスチックのお弁当箱とお箸入れと一緒にメモが一枚入っていた。
「そのまま返してください、か」私はそれを読み上げる。洗って返す必要はない、ということらしい。それを会う口実にしよう、という下心が胸のどこかにあったせいで、私はちょっとがっかりする。
「私が言ったの。そのままでもいいんじゃないの? って」
怜がしてやったりという風に、ふふん、と鼻を鳴らした。
そう言う風に挑発されるとちょっとむっとくる。
「じゃあ、そうね。彼にお礼がしたいから、今度どこかに誘おうかしら」
「妻のまえでよくも堂々と言えるわね。ていうか春まで会わない約束なんでしょ?」
「それはそれ」私は言った。「というかまだ結婚してないでしょ? ていうかできないでしょ」
「婚約してるし、ずっと一緒に住んでるんだから、もう実質そうちゃんは夫で、私はその妻。でしょ?」
「そしていまは別居中」
「残念。もう戻ったわよー」そう言いながら彼女も風呂敷を解く。そして私のと同じように何かメモが入っていて、それを見て彼女は「あっ」と呟いた。のぞき込もうとすると彼女はメモを制服の胸ポケットに隠して、それから「えへへ」と嬉しそうな笑顔を浮かべた。私に見せたくないくらい大切なことが書いてあったということか。何れにせよ、今回の夫婦喧嘩はあっさりと終わってしまったらしい。
上機嫌になりながらお弁当箱の蓋を開ける彼女を横目に、私はいただきます、と手を合わせてから蓋を開けた。
真っ先に眼に飛び込んできたのは塩サバの焼き物である。皮にはほどよい焦げ目がついていて、真っ白な身との対比はそれだけで食欲をそそる。他には何があるのかと、視線を隣に移せば、折り目の付いたカップに入ったきんぴらゴボウがあった。その横のカップには鶏肉とごぼうと人参を煮たものが入っている。またごぼうだ。もしかしたら昨日の余り物なのかもしれない。などと考えていたら「それ、昨日の余りだから」と怜がわざわざ教えてくれた。そのごぼう料理の隣には昆布マメがあった。渋い。そして玉子焼き。いや、これは出汁巻き卵だろうか。表面が艶やかに輝いている。そばに添えてあるレタスやプチトマトとの色合いが鮮やかに、ややもすれば地味になりがちな料理ばかりのお弁当に華やかさを添えている。
ご飯の方に目を移せば、白米のど真ん中に梅干し、ではなくその身をほぐした梅肉がちょこんと乗っかっていて、ぱらぱらとしらす干しが振りかけられていた。
「見てるだけじゃお腹は膨れないんじゃないの?」と怜がアジフライを箸で摘まんだまま私に言う。
「あなたの方は相変わらず豪勢ね」
「昨日の余り物ばっかりなんだけどね」と彼女は言う。「ごぼうも、お魚も」
「やっぱり毎日そんなに食べてるのね。あなた」
まあね、と彼女は答えて、黙々と箸を進める。
私も彼女に倣って黙って食べ始めた。
まずはサバである。身をほぐして、それをまずは一口。ぎゅっと締まった身を噛めば、口の中に塩気と旨味が広がって、本能的に白米を口に運んでしまう。サバだけで食べるとちょっと強すぎるような気もする塩気も、白米が合わさればちょうど良くなる。かなり脂の乗ったサバなので、相応に脂のしつこさはあるが、しかし途中で梅肉を合わせたりすればさっぱりするし問題はない。いや、むしろこれが良い。身に梅肉を乗せてそれだけで食べても美味しい。
気づけばサバだけ先に食べ尽くしてしまった。計画も何もない食べ方だ。好物だけ先に食べてしまう子供みたいだな、と内心苦笑しつつ、きんぴらごぼうに箸をのばした。甘辛い味の中に、鷹の爪がぴりっと利いていて、これもまたご飯に合った。そして煮物に箸をつけて、やっぱりご飯を食べる。出汁巻き卵の塩気もまたご飯を誘う。もし私が宗平君と一緒に暮らしたら、間違いなく太る。絶対太る。プチトマトをかみ潰して広がった酸味に我に返ると、お弁当箱は綺麗さっぱり、空っぽになっていた。
怜もちょうど食べ終わったところらしい。食べる量もそうだけど、早さも尋常じゃない。その上食べ方が早さの割に綺麗なので傍目に見ていると、大食いにありがちな下品さが全くない。
「どうだった?」と自分が作った訳でもないのに怜が得意げにそう訊ねてくる。
「美味しかったわ」彼女に対してこう答えるのは少々しゃくに障ったけれど、これは宗平君に対する賛美である。「こんなに美味しいお弁当初めて食べたわ」
「テレビ局ででるロケ弁よりも?」
「高級店のお弁当とかもあるけど、でもそういうのとは違うのよ。これは」風呂敷に包み直したお弁当箱を胸でぎゅっと抱きしめる。「身近な人に作って貰ったお弁当なんて、もう何年も食べていなかったから」誰が作った料理か、というのも大きな要素だと思う。だから宗平君が私の為に作ってくれたお弁当は美味しいのだ。
「まあ、そうちゃんの妻としては色々言いたいことはあるけれど。あなたの親友としては、あなたが喜んでくれて良かった、って思ってるわよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
二人でぺこりと頭を下げる。
「また頼めるかしら、なんて言ったらあなた、怒るわよね」
「うーん。どうしよっかなあ」
「悩んでるうちに卒業してしまうわね」
「その前に自由登校になったらこんな風にお昼食べる時間もなくなっちゃうね」
風が凪いで、冬にしては暖かい日差しが降り注いでいるからだろうか。急にしんみりとしてきた。私は受験の結果に関わらず地元を離れるし、彼女は残って専業の漫画家になる。彼女とこうして一緒に過ごせる時間はあとわずかしか残されていないのだ。
「ねえさくら。あなた暇な時はこっちに帰ってきて、顔みせなさいよ」
そう言った彼女は明後日の方向を向いていた。けれどどんな表情をしているのかは手に取るように判った。きっと、無理矢理作った仏頂面をしているに違いない。
「何母親みたいなこと言ってるのよ」私は冗談に対してそうするように笑い飛ばした。「それに、わざわざ私が行かなくても、あなたがうちに来ればいんじゃないの? 家に引きこもってばっかりだと不健康よ」
彼女はこちらを見ずに「そう」と言った。
「あなたに会えて良かったわ」私は言った。「あなたのお陰で私の高校生活は色を変えたわ」
「でも」と彼女は隠すつもりのない後ろめたさを滲ませて言った。
「許してないし多分一生許せない。でも、怜、あなたのことは好きよ、私」言ってしまってから後悔した。何を後悔しているのか自分でもよくわからないけれど、とにかく恥ずかしくなってきたのだ。「こんなこと言うのこれっきりだから、よく胸に刻んでおいて」
「ありがとう」怜はそう言って前を向いた。横顔に映る感情は何であろうか。消え入りそうな声は白く濁って真っ白な日差しに紛れて見えなくなる。ひんやりとした彼女の手が私の手の甲に触れる。「さくらだけよ。私が、人前で、私で居られる相手は」
「奈雪は?」
「雪ちゃんは家族だもの。だから特別なのはさくらだけ」怜はそう言って微笑んだ。胸をえぐられるような儚い笑顔のその美しさに、私は心が締め付けられるような切なさを覚えた。
一瞬訪れた静寂。
言葉もないまま私たちは見つめ合っていた。
予鈴が鳴る。
彼女の手が離れる。
名残惜しい。
そう思った。
「また変な噂が立つかもね」と彼女は悪戯っぽく笑った。
私は一瞬なんのことか判らずぽかん、としていたが、遠巻きにこちらを見るいくつかの視線に気づき、顔が熱くなった。
「いっそなってみる?」と怜が言った。
「宗平君がいるでしょ?」
「そうちゃんが浮気するなら私も浮気する」
「同じ相手で浮気するつもり?」
「いいわね。それ」と冗談めかして彼女は笑う。「私とそうちゃんで、あなたを愛でるの。おもしろそう」
「おもしろいってなによ」
あはは、と笑って彼女は逃げるようにベンチから立ち上がる。そしてこちらを見ていたギャラリーに手を振った。下級生の女の子たちがきゃーきゃー言いながら校舎の中へ駆けてゆく。
「相変わらずね」彼女の隣に立ち、私は言った。「北高のお姫様は」
「ほんと、誰が言い出したのかな」怜は苦笑を浮かべる。
「あなたの普段の態度が原因でしょ?」
「まあそう言うキャラを作ってるんだけどね」
そう言って怜は悪い顔で笑った。
放課後、怜のクラスをのぞくと教室の真ん中に人だかりが出来ていた。中心にいるのは彼女だ。昼間あんな話をしたせいだろうか。無性に彼女と一緒に帰りたくなってしまったのだ。けれどこうなると話しかけづらい。私は彼女の友人なのだし、堂々と話しかければいいのだけれど、そう言うときに周囲から向けられる刺々しい視線が嫌なのだ。思い出したくない記憶が脳裏に蘇ってくる。一度勇気を出してみて、結果酷い動悸に襲われて過呼吸になりかけたこともあるので、やっぱり無理だと思う。
私には怜しか友達はいないけれど、怜には私以外にも友人はいる。怜が本心ではどう思っているかは判らないけれど。まあ取り巻きもどう思っているかは不明だ。みんなキラキラしていて、スクールカーストの上位に陣取っている子たちばかりだ。カーストの最上位のさらにその上とも言うべきポジションにいる怜のそばに居ることが、彼女たちにとってのある種のステータスなのだ。だからこそ、元々最底辺にいた私がそこに入っていくと針のむしろになるのだ。
待っていようと思ったけれど、教室の前っていうのも露骨すぎて嫌なので下足場で靴をはきかえて、ピロティの辺りをうろうろしたり壁にもたれたり段差に腰掛けたりして怜を待った。
少し苛立っていた。変な話というか、理不尽というか。私はクラスの友人に囲まれた怜を見て焼き餅を焼いていた。これも以前からよくあることだ。宗平君のことにしてもそうだけれど、私は気に入った相手を独り占めしたくてたまらないらしい。その声も笑顔も視線も何もかも、出来れば自分だけの物であって欲しいと、無茶苦茶な願望がどこかにあるのだ。そして興味がない人間はどうでもいいと思っている。こんな極端な考えだから、友達が出来ないんだろうな、という自覚はある。変わらなければという思いもある。けど長年染み着いた生き方はなかなか変えられない。それでも、最近は仕事で付き合いのある人と出掛ける機会もあったりして、少しずつ、変わって行けているのかな、と思っていたり。いやそう願っている。
しばらくするとお姫様がお供を連れて下足場にやってきた。今日は諦めた方が良さそうだ。彼女たちが出てくる前に駐輪場へ向かい歩き出した。私は自転車通学で、彼女はバス。彼女が乗るバス停を過ぎてしまえばあとはもう、知ったことではない。
籠にバッグを放り込んで、ロックを解除する。自転車を押して駐輪場を出た。
校門を出たところで「待ちくたびれた」と横から恨みがましい声が聞こえて、立ち止まり、振り向くとそこに怜がいた。
一瞬嬉しくて満面の笑みを浮かべそうになったけれど、それを抑えて「こっちのセリフよ」と憎まれ口を返した。
「さくらっていっつもそうよね」不満そうに彼女は言った。
「話しかけ辛いのよ。あれだけ周りにいると」
「気にしなくていいのに」
「気になるのよ」察してくれ、と思いながら私は彼女を睨む。
怜は気まずそうに眼をそらした。「まあ、そうね」
「で、何を楽しそうに話してたの?」
「楽しい? まさか」と怜はうんざりした顔で、「春休みに卒業旅行に一緒に行かないかってすっごい誘われてたのよ。行くつもりはないから、って言ってもしつこくて」
卒業旅行か。考えたこともなかった。
「なら、私と行く?」
冗談で私はそう言った。
怜は私がそんなことを言うのがよっぽど意外だったのか、ぽかんと口を開けてなんだか良く判らない物を見るような眼で私を見ていた。
「さすがにその反応は酷くないかしら?」
「ああ。ごめんなさい。なんかほら、意外だったから。今日のさくらって柄にもないことばっかり言ってる気がする」
「悪かったわね」
「ていうか機嫌悪い?」私の顔をのぞき込んでそう言った。
「別に」そっぽ向いてそう答える。
「さくらって、私が他の子と一緒に居ると拗ねるわよね」呆れた様に彼女は言った。
「拗ねてない」
「ほら、拗ねてる」彼女はくすくすと笑って、「そう言うところ、そうちゃんと似てるかも」
「……そうかしら」
「そうちゃんもね、あれで結構焼き餅焼きだからね。一緒にお出かけした時とかにね、同じ部活の男子とばったり出くわして、付き合い程度の世間話をちょっとしてるだけなのに、なんかすごい眼でこっち見ててね。で、焼き餅焼いてるの? って訊いたらさっきのさくらみたいなこと言うの。おかしいでしょ?」
うふふ、と楽しそうに話す彼女の顔は完全に惚気のそれであった。そして同時にこちらに対する優越感を隠そうともせずに曝け出している。
「そうね」と私はぶっきらぼうに答えて自転車を押したまま、校門前の坂道を下り始めた。
あ、待って、という声が聞こえたが無視する。
「もう。私の性格が悪いことなんて知ってるでしょ」追いついて隣に並んだ彼女は思いっきり開き直ってそんなことを言った。
ぎゅっとブレーキを握って足を止めた。
「あなたのことは好きって言ったけど、そういうところは嫌い」
「でもそれも含めて全部私だよ?」
「もうちょっと丸くなろうとしなさいよ」
「んー。無理」
「そんなにすぐ諦めないでよ」
「大体さくらこそ、もうちょっと社交的になるべきじゃない?」
「いいのよ。私は」
「同じこと言ってる」と怜は嬉しそうににやにやしている。
何が楽しいのやら。
「まあお互い様ということね」私は言った。
坂を下りきるとすぐにバス停がある。彼女はいつもここからバスに乗る。到着時間が近いこともあって、バス停の周りには北高の生徒があふれていて、そのなかに、先ほど怜の取り巻きになっていた女子のグループが居た。彼女たちはまず私を見て、何か言いたげな顔をしてから、怜に向かって笑顔で手を振った。隣では怜が余所行きの笑顔を作ってそれに答えている。きゅっと鳩尾の辺りが締め付けられるような感じがして、私は立ち止まった。
「一本遅らせれば良かった」ぽつりと怜が呟いた。冷え冷えとした低い声で、「ほんと鬱陶しい」
「行ってきたら?」私は言った。「付き合いは大事よ」
怜はため息を吐いた。そして「ごめん」と言って彼女らの方へと歩き出す。が、すぐに立ち止まり、こちらを振り返った。
「卒業旅行、楽しみにしてるから。あなたが誘ったんだから責任とって考えて来てよね」
怜の言葉が聞こえたのか、キラキラ女子のグループがぎょっとした顔をして私の方を見た。
ああ、わざとやったな、と私は苦笑を浮かべてから、「言ったからにはやるわよ」と大声で返した。
「うん。期待してる。人のお金で旅行して美味しいもの食べられるのって素敵なことよね」
「ちょっと、こう言うのって普通お金出し合うものでしょ?」
「だってさくらの方が稼いでるじゃない」そう言って怜は楽しそうに笑う。「まあ冗談なんだけどね」
そして彼女は呆然としているキラキラ女子たちの集団の元へ小走りで駆けていく。その背中の、揺れる髪を見送ってから、私はきびすを返して自転車に跨がった。
怜と二人、どこへ行こう。
空は晴れていて、日差しは傾き始めて尚、春を呼び寄せるが如く柔らかくて目映い。
青い空の向こうの、どこが良いだろう。
思いを巡らせながら漕ぐ自転車のペダルは、いつもよりも軽く感じられた。
了
急に思いついてしまった番外編でした。ほんわか日常系を目指しました。
本編はまた今月更新します。今月こそ




