The Tragedy Final curtain"Tragedy"
朝の冷たく鋭い空気を肺いっぱいに吸い込んで、吐き出した息は真っ白に曇って、まだ薄暗い早朝の町並みにとけてゆく。
時刻は六時半である。別にそんなに早く起きなくても良いのに目が覚めてしまった。さくらさんと井上はまだ眠っている。二度寝をしようと思ったが思いの外すっきり目覚めてしまったがためにそれも叶わず、二人を起こさないようにそろりそろりと寝室を抜け出して、用を足し、それから朝の空気が吸いたくてベランダにやってきたのだ。
今日はすこぶる体調が良い。昨日の事が嘘の様だ。こういう日は朝から色々と家事がはかどるのであるが、生憎ここは自宅ではない。家主の許可なく好き勝手には出来ない。
よし。朝食を作ろう。そう思い立って室内に戻った。材料は昨日の買い出しの時に一緒に調達しておいた。台所へ向かう。冷蔵庫のチルドルームに塩サバが入っている。こいつが今朝のメインディッシュである。味噌汁は、お揚げさんと、大根と人参と玉葱。少し甘めに味付けしたほうれん草のお浸しにゴマを敢えて小鉢に盛る。豆腐も買ってあるが、あえて湯豆腐にするのもありだな。
そんなことを考えながら米をといで炊飯器にセットして、それから野菜を切って下拵えを進めていく。
野菜を煮ながら頃合いを見てグリルでサバを焼き始める。味噌を溶かしながらなんとなく面倒くささがわき上がってきたので豆腐はそのまま出すことにした。
味噌汁の鍋の火加減を調節していると扉が開く音が聞こえた。
「あれ。あったかい」とさくらさんの声がした。「エアコン消し忘れたのかしら」
俺はヒーターの設定を保温にしてキッチンから出た。
「おはようございます」
「あ、おはよう」とさくらさんは虚を突かれたような顔になって、「そっか。そういえば、泊まっていたのよね。うん」
「どうしたんですか?」
「いえ、寝ぼけているのよ。自分で言うのも変だけど」えへへと彼女は笑った。
「寝ぼけてますね」俺もくすくす笑った。
「良い匂い」と彼女は呟いた。「もしかして、朝ご飯を?」
「ええ、まあ」
「そんな」と彼女は何故か残念そうに額に手をあてた。
「まずかった、ですか?」
「いえ。いいのよ。ただ、その、私が作ってみたかったっていうか」
「すみません。一言断れば良かったですね」
「まあいいわ。昨日の今日だし」と彼女は手の絆創膏を見せながら笑った。「楽しみにしてる。顔、洗ってくるわね」
廊下にでるさくらさんを見送ってからキッチンに戻った。それにしても、流石天然パーマだけあって、とんでもない寝癖だったな。とか思っていると洗面所の方でぎゃーっという悲鳴が聞こえたような気がした。というか聞こえた。が、可哀想なので聞かなかったことにして調理を進めた。
サバも焼き終わってすべて盛りつけが完了した頃に井上が顔をだした。
「おはよう」と彼女は朝から仏頂面である。
「おう。おはよう」どことなく不機嫌そうな感じがしたので、俺は少し構えながら挨拶を返した。
「手伝えること、ある?」彼女は言った。
「ないな」俺は答えた。
「もっと早く起きれば良かった」がっくりと肩を落として彼女は言った。
「そうだ。さくらさんはどうしてる?」
「相川さんなら、涙目で頭抱えてた」
俺は苦笑した。
「私は、大丈夫?」と井上は自分の頭を手で触りながら、不安そうに俺を見た。
「見る限りでは、あ、でも右側ちょっと跳ねてるな」
「あ、ほんとだ」と寝癖を抑えながら彼女は言った。「直してくる」
「いってらっしゃい」俺は言った。
それからしばらくして二人揃って戻ってきた。テーブルに料理を運び終わった後だったのでちょうどいいタイミングだった。それから三人で朝食を食べた。
昨夜のことがあった割には、二人ともいつも通りに見えた。しかしよく見ていると井上がどこか恨めしげにさくらさんのことを見る瞬間がちらほらあったので、やっぱり何か蟠っているものはあるらしい。あるいは寝癖を直しに行った時になにかあったのか。気にはなったが、障らぬ神に祟りなしとも言う。見なかった事にして食事を続けた。
朝食の後もなんだかだらだらと休日のけだるさを満喫してしまって、気が付けば昼前になっていた。
「そろそろ帰る?」と井上が言った。
「そうだな」と俺は答えた。
さくらさんは何か言いたそうに俺を見て、それからため息を吐いた。「もっと居て」とでも言おうとしたのだろうか。未練がましい視線を感じる。
荷物らしい荷物もないので帰り支度はすぐに出来た。
廊下を抜けて玄関で靴を履き、それから振り返る。さくらさんは土間には降りず、廊下の端で、壁に凭れる様にして立っていた。てっきり駅まで見送りに来ると思っていたので俺は思わずそのことを口にしそうになって飲み込んだ。これは彼女なりのけじめなのだろう。それ無碍には出来ない。
「お世話になりました」俺は言った。
それを聞いてさくらさんがぷっと吹き出した。
「なんだかどこかに旅立つみたいね」笑いながらさくらさんは言った。
「まあ、気持ちとしては、遠からずですね」俺は苦笑した。本当は、じっと見つめてくる彼女の目の奥に見えた寂しさに当てられて緊張していただけなのだが、そうやって誤魔化した。
「明日受験だから」と井上が言った。「判る」うんうんと頷く。
「そういえばそうだったわね」とさくらさんは言った。「あなたたちなら大丈夫よ」
頑張ってね、という彼女の笑顔に送り出されて、俺たちは彼女の住むマンションを後にした。
「昼メシどうする?」
地下鉄から乗り換える駅に到着したところで俺は井上に訊ねた。
さくらさんの住むマンションを出たのが昼前だったので、ちょうど良い時間になっていた。別にいまから電車に乗っても良いのだが、しかしそれだと時間が中途半端になる。朝しっかり食べたので昼を抜くならそれでもいいのだが。
井上の方を見ると、彼女の目はこちらを見ていなかった。彼女の視線の先には中華料理屋があった。正確に言うなら台湾料理を標榜している。量が多くて、制限時間以内に特盛り餃子とチャーハンを完食すれば金一封が贈られる気前の良い店だ。
「あそこで食うか?」
井上は無言で頷いた。結構腹が減っているらしい。
昼時とあって店内は混んでいたが、なんとかテーブル席に座ることが出来た。
案内してくれた店員が俺の方を見て一瞬ぎょっとした顔をしたが、隣に居る少女を見てほっとした顔で厨房の中に引っ込んだ。以前怜と一緒に来た際に、店主渾身の(恐らく完食させる気のない)特盛りセットを怜がペロリと平らげてしまったという事件があった。事件である。それにムキになった店主が怜を煽ったのだ。次は絶対食えないようなのを用意してやると。客に対してその態度はどうなのだろうと思ったが、怜は気にしないどころか、むしろ大歓迎と言った様子だった。味が好みだったらしい。それから一ヶ月後、再び怜と一緒に来店すると大食いチャレンジはできませんとひきつった顔で断られたのだ。どうも聞くところによると学校帰りにわざわざ電車に乗ってここまでやってきて、店主の繰り出す特盛りメニューを悉く平らげていたらしい。
「ねえ三島。これ、」と井上がテーブルに開いて置いたメニューの冊子を指した。大食いチャレンジの文字が踊っていた。
「やめとけ」俺は言った。怜のせいでレベルがインフレして、そのまま固定されているのだ。怜に写真を見せてもらったが、冗談みたいに盛り上がったチャーハンと枕みたいな餃子が一緒に写っていて意味が分からなかった。常人が食える物ではない。
「私、結構食べるよ?」
「やめとけ」俺はもう一度言った。井上は思いの外血の気が多い。それ故にこういうのに挑みたくなるのはよく判る。しかし、流石に失敗したら六千円払えという文言を見ると止めるしかない。喧嘩に巻き込んでくれたとはいえ、友人である。強欲な店主にカモにされそうになっている所を見過ごすことは出来ない。
井上は不服そうだったが、「じゃあこれ」とチャーハン定食を指した。前菜のスープと、チャーハンと餃子と唐揚げとサラダという構成の無難なメニューである。まあ量は多少多いが。
店員を呼んで、チャーハン定食を二人前注文した。
対面に座った井上は相変わらず表情に乏しいがどこか楽しげに見える。その様子を観察しながら、そういえばこれもデートだな、と今更ながらに思い至った。俺にそういうつもりはないけれど、少なくとも向こうはそう思っているらしい。
迂闊だったか。ただの女友達とランチを一緒に食べる。ただそれだけのことだが、昨日の今日だ。いや、そもそもこうなった経緯を考えれば結局突き放しきれていないということになる。
ウキウキした様子でお絞りを畳んだり広げたりして持て余した気持ちを発散している井上の姿を見て、なんだか少し申し訳なくなった。
料理が運ばれてきた。伝票を置いて店員が去っていく。
「量多いね」井上が言った。
「そう言う店だからなあ」
量の割に安くて味もそこそこ。そういう店なのだ。
「大食いやらなくて正解だった」
「だろ?」
「けど、お姉さん、やったんだね」
はて、そのことは話していないのだが、と思っていると井上が壁の方を指さした。そこには歴代の達成者の写真が飾ってあり「殿堂入り」と書かれた張り紙とともに立派な額に入った写真が飾られていた。そこには腹一杯食えてご満悦の怜と、心を折られた店主が並んで写っていた。
「たぶん腹ん中にブラックホールでも飼ってるんだと思う」俺は苦笑しながら言った。
「そんな風に見えないけど」
「ほんと。食ったもんがどこに消えてるのか俺も気になるわ」
少なくとも胸に入ってないのは確かだし腹にもついていない。多少尻には回ってるっぽいけれど、あとは不明だ。
「三島。なんか顔、いやらしい」むすっとした顔で井上が言った。「お姉さんのこと考えてる」
「食おうか」俺は答えずにレンゲを持った。
ハラペコだったことが幸いして、それ以上井上はなにも言わず、黙って定食を食べ始めた。
よく食べるな、とその姿をみて感心してしまった。美味そうに、沢山食べる姿は嫌いではない。そう言えば昨日の夕食の時もポトフを二回ほどお代わりしていた。まあ運動部だし、普段から沢山食べているのだろう。
思わぬところで好感度が上がってしまった。だからと言って何かある訳でもないが。
昼食を終えた俺たちは寄り道せずに券売機のところへ行き、切符を買って改札を抜けた。
頃合い良く電車が滑り込んできたのでそれに乗った。
乗客はまばらで、いくらでも自由に席を選べるような状態だった。昨日は雪が酷かったとはいえ、果たしてこの路線で利益がでているのだろうかと心配になってくる。
適当なところに二人ならんで座った。昨日は密着していたが、今日は微妙な隙間がある。これが本来の距離感なのだ。若干の気まずさはあったものの、しっくり来る部分の方が大きかった。人が一人割り込むには狭く、恋仲というには遠すぎる。まさしく友人同士というべき隙間である。
電車が走り出した。会話はない。お互いを意識してのことではない。先ほど食べた定食で腹が膨れていたところに、電車特有の堆積していくような暖房の熱に包まれて、ものすごい睡魔におそわれていたのだ。すでに井上はこっくりこっくりと船を漕いでいる。一応降りる駅がこの路線の終点であるので、眠っても乗り過ごすことはない。腕を組んで目を閉じて、俯いた。
太股に何かが落ちてきた感覚がして、はっとして目を開けた。体が少し思い。首回りが堅くなっている。車内アナウンスが流れてきて数駅分眠っていたことを知った。隣を見ると井上の姿が見えない。はて、と思って下を見ると、ちょうど俺の太股の上に彼女が頭を乗っけて気持ちよさそうに眠っていた。目が覚めたのはこのせいか。とはいえ終点まではまだ遠い。起こすのも気の毒だし、見なかったことにして俺は再び目を閉じた。
太股の上で何かが動いた気がした。また眠っていたらしい。重い瞼を開こうとした瞬間だった。不意に顎に衝撃を感じて、上下の歯ががちりとぶつかって危うく舌を噛みかけた。
何が起こったのか。辺りを見る。井上が床の上にうずくまっていた。手で額の辺りを押さえている。斜向かいに座っていたお婆さんが驚いた顔でこちらを見ているのに気が付いて愛想笑いを返して置いた。
「大丈夫か?」顎をさすりながら俺は言った。
井上はぷるぷる震えながら首を縦とか横に振った。どっちなんだ。
何が起こったのか。まあ大方目が覚めた井上がびっくりして飛び起きて、その拍子に額と顎がぶつかったのだろう。しかし井上の方も痛かろうに。おでこにたんこぶが出来ていては事だ。
彼女のそばにしゃがみ込んで、顔をのぞき込んだ。
井上は目に涙を浮かべていた。痛かったから、という訳ではないだろう。目が合うと彼女は逃げるように視線を逸らした。
「立てるか?」そう言って俺は手をさしのべた。
井上は顔を隠すように俯いたままその手を取った。
そして井上が立ち上がった時だった。
電車が大きく揺れた。
目の前の井上も大きく揺れた。折り悪く、足がもつれたらしい。
そう言えばこの辺りは急なカーブがあったな、などと思いつつこちらに倒れ込んでくる井上を抱き留めようとした。後ろは座席だし、このまま尻餅をついたところで怪我はすまい。肩を掴んで受け止めようと思っていた。だが、俺も体勢が崩れていた。彼女の体は俺の手をすり抜け、真っ正面からぶつかってきた。あ、と思った瞬間には、目の前に彼女の顔があり、唇がふれ、そしてがちんと歯と歯がぶつかり合った。
そして俺は彼女を抱きしめるような体勢で、シートにどすんと尻餅を着いた。
唇を腫らしながらとなりでぐすぐす泣いている井上を見ていると気の毒を通り越して罪悪感が沸き上がってくる。どちらが悪いという訳ではないのだ。運が悪かったのだ。まあお互い口の中を切っていなかったのは不幸中の幸いだろう。尤も、ファーストキスがさんざんな物になってしまった彼女にそんなことを言ったところで何の慰めにもなりはしないだろうが。だから黙って背中をさすってやった。
駅に着く頃には多少落ち着いた様で一応泣きやんでいた。しかしその表情は暗い。先ほどからずっと顔を伏したまま俺の上着の裾を掴んで離さない。
改札を抜けて駅前のバス停に向かう。
次のバスが来るまでそこそこ時間があった。
辺りを見回した。
路上はすっかり雪が溶けて、アスファルトも乾いているが、日陰や歩道の端にはまだまだ沢山雪が残っている。どうしようかと思っていると行きに寄った書店が目に入った。
あそこに入ろう。そう思って井上の方へ振り返った。彼女は俺が何か言う前に頷いた。とりあえず俺が行くところに着いていくということなのだろう。
書店に入っても井上は手を離さなかった。なんだかちょっと気まずい。
しばらくぶらぶらと本棚を見て回っていると一冊の文庫本が目に留まった。何年か前に流行った恋愛小説の文庫版だ。持っている本のはずだった。が、最近読み直そうとした時にどう言うわけか見あたらなかった。ちょうど良い。装丁も変わってるみたいだし、買い直そう。
「その本」と久しぶりに井上が言葉を発した。
「井上も読んだことあるの?」と俺は言った。
彼女は驚いた顔で「え?」と言った。裾を握っていた手が離れた。信じられない物を見るような目で俺を見ながら、一歩、二歩と後ずさった。
その様子を見て自分が何か大きな失敗をやらかしたことに気づかされた。
彼女の目に涙が浮かぶ。けれどそれがこぼれ落ちるよりも先にこちらに背を向け、走り出した。自動ドアに一回ぶつかって、それから店から出ていってしまった。呆然とした顔の店主がカウンターのところからこちらを見ていた。たぶん俺も同じ様な表情を浮かべていたと思う。
はっとして、慌てて店を出たが、井上の姿はどこにもなかった。追いかけようにもこれではどちらへ向かえばいいのか見当も付かない。
井上に携帯に電話を掛けてみたが出てくれなかった。
バス停にベンチに座って、ため息を吐いた。
何か地雷を踏んだのは間違いない。状況から考えてあの小説が原因だろう。もしかしたら、俺が井上にあの作品を薦めたことがあったのかもしれない。
迂闊だった。けれど、たぶんそのうち別の場面で似た様なことは起こっていただろう。
携帯に電話が掛かっていた。
画面を見ると夏井からだった。
「なにやったの!?」
いきなり怒声が響きわたった。
「井上、そこに居るのか?」
「居る。なんかすっごい泣いてるんだけど。どういうこと?」
「行き違いというか、配慮が及ばないところがあったというか」
「はっきり言え」どすの聞いた声だった。
しかしはっきり言うには事情がややこしすぎる。答えに窮して黙っていると電話の向こうで何やら話し合っている声が聞こえてきた。しかし何を話しているかまでは判らなかった。
「奈々子は宗平は悪くないって言ってるんだけど。なにがあった訳?」先ほどよりは多少落ち着いた声で夏井が言った。
「説明しづらいことなんだ」俺は言った。「井上に、受験が終わったら話したいことがあるって、伝えて置いてくれないか。それと、ごめんって」
「自分で言え」冷たい声で夏井は言った。しかし井上が何か言ったらしい。「え?」と呟いた後、「いまは宗平と話したくないからだって。判った。伝えておく」
「すまん。助かる」
「けど、ほんとになにしたの? 奈々子がこんな風に泣いてるところなんて、私初めて見たよ」
それほど彼女を傷つけてしまったということなのだろう。こんなことなら隠さずに、正直に話しておくべきだった。
「私も聞かせてもらうから」夏井は言った。「くだらない理由だったらぶん殴るから覚悟してて」
一体どう説明しようか。バスに揺られている間ずっとそのことを考えていたが、結局いいアイディアは浮かばなかった。
バスを降りて、スマホを取り出した。SNSのアプリを開いて、「もうすぐ帰る」と怜にメッセージを送った。間髪入れずに既読になったのを見て、そこでようやく張りつめていたものが少し弛んだ。
帰路を辿る足が自然と速くなる。
逸る気持ちを抑えながら玄関を開けると、怜が待っていてくれた。
「おかえり、そうちゃん」と迎えてくれた彼女の胸に飛び込んだ。「およよ」と彼女は驚いた風に言って、それから俺の背中に手を回し優しく抱きしめてくれた。「どうしたの?」
俺は何もいえなかった。
記憶のことは、怜にも話さなければならないことだ。
けれど言葉はのどの奥に詰まって出てこなかった。
彼女の胸に顔を埋めながら、ぎゅっと唇を噛んだ。
「しょうがないなあ」困ったように彼女は言って、俺の頭を撫でた。彼女が一撫でするごとに、頭の中にとりついて蟠っていた不安は薄れていった。でも最後まで払拭される訳ではない。ある程度気持ちが落ち着くと、もうそれ以上の変化はなかった。ただそれでも、もう少しこのままで居たくて俺は怜から離れなかった。
「来週、どこ行く?」怜が言った。
「どこでもいいよ。怜となら」俺は答えた。
「私も。そうちゃんと一緒ならどこへだって行くよ」頭を撫でていた手が、後頭部を滑り、首筋に触れ、背骨に沿ってゆっくり下がって、背中の真ん中辺りで止まる。ぎゅっと強く抱きしめられる。
「寂しかった?」俺は言った。「昨日帰ってこなくて」
「うん」そう答えて彼女は、一度抱きしめていた腕を緩めると、体勢を変え、こちらの肩に顎を乗せるような格好で抱きついて来た。
「それに、すごく不安だった。あの背の高い子はともかく、さくらが一緒だったんだもん」
震える声の混じった吐息が首筋にこぼれる。そして彼女は首筋に唇をつけて、吸いついた。
「これでよし」
自分のつけたキスマークを確認した彼女は満足そうに呟いた。
「明日受験なんだけどなあ」俺は言った。
「学ラン着てたら判らないって」と言って彼女は今度は反対側から首筋に吸いついた。
「あの、もしかして、結構怒ってらっしゃいます?」
そう訊ねた瞬間、激痛が走った。甘噛みどころか普通に噛みやがった。さらに噛まれた場所を舐められている感触がする。舐めて、吸って、また舐めてとしばらく繰り返してから彼女は唇を離した。
「私が吸血鬼だったら、いまごろ眷属だよ?」にっこりと笑みながら恐ろしいことを言う。
「血が出るほど噛むなよ」
「そうちゃんが悪い。私がいるのに他の子と遊びに行っちゃうんだもん。事情があるのは判るけど、でもいやなものはいやなの」
「それはその、ごめん」
こればっかりは弁解の余地もないので素直に謝るしかない。
「ねえ、唇どうしたの?」
「ああ、ちょっとした事故があって」
「ヘタクソなキスだったのね」と嘲るように彼女は言った。誰に対する嘲りなのかは言うまでもない。「だからさくら以外の女の匂いがしたんだ」
「いや、キスというかだな」
俺はとりあえず電車の中で起きた出来事を彼女の説明した。
「でも唇が触れたんならキスだよね?」と彼女は意見を変えなかった。「どんなだった?」
気が付いたら背中に爪を立てられていた。ちょっと機嫌が悪くなってきている様だ。
「覚えてないよ。ただ、歯がぶつかってめっちゃ痛かった」
「ふーん」
「別に何もなかったからな?」
「さくらから聞いたんだけど。結構大胆なことやったんでしょ?」
「未遂で終わったからセーフだ」
「名前で呼んだとか」
「それは、まあ、その場を収めるためにというか」
「ふーん」
怜は値踏みするような目で俺を見て、それからまた首筋にかぶりついた。
「おいひい」かぶりついたまま彼女は言った。
「鉄分足りてないならサプリメント飲めよ」俺は言った。
彼女は首筋から唇を離すと、間髪入れず、血の混じった唾液がついたままの唇で、食らいつくような口づけをした。
背中に食い込んだ爪が痛い。噛みつかれた肩も痛い。けれど夢中になって求めてくる彼女を前にするとそれらはすべてがどうでも良くなった。彼女の華奢な体を折れそうなほど強く抱きしめ、舌を絡め、唾液を送り込む。彼女の鼻息に次第に苦しそうな喘ぎが混じり始めた。逃れるように一瞬顔が遠のき掛けたが、逃げられないように頭を押さえた。彼女の手から一瞬力が抜けた。唇を離すと、彼女はふらふらと、こちらの胸に寄りかかってきた。肩で息をする彼女の、その洗い吐息がしだいに笑い声に変わっていく。胸の奥がざわざわして、腕の中の彼女のすべてを壊したくなるような、そんな艶やかな笑声であった。
「そうちゃんのせいだからね」彼女は言った。「私、何かに目覚めちゃった」
ごくりと唾をのむ。
彼女の潤んだ瞳に魅入られていた。
ヴァンパイアはその目の魔性で誘惑するというが、いままさに、俺は彼女の虜になっていた。
真っ赤に火照った肌を求めて、着物の襟に手をかけた。
そのときだった。
背後で玄関の開く音がした。
「うわ」と驚く声が聞こえる。
振り返ると奈雪姉さんと母さんが、呆れ顔で立っていた。
「時間と場所をワキマエナヨー」抑揚のない声で奈雪姉さんが言った。
「あなたたちね」と母さんはため息をついて額に手を当てた。「ちなみに居間で宗孝さんが昼寝してるわよ」
冷や水をぶっかけられたような気持ちで怜を見ると、「えへ」と可愛らしく笑って、「だから言ったでしょ。なにかに目覚めたって」
いろいろ目覚めすぎだろ。
「これでこの子たち喧嘩中なんですって、奥さん」と奈雪姉さんが手をパタパタさせながら言う。
「まあ、信じられないわあ」と頬に手を当てながら母さんが応じる。「犬も食わないっていうけど、そもそも食うものがないじゃない」
「イヤだわあ」
「イヤだわあ」
「なんの寸劇だよ。ていうか奈雪姉さんまだ居たんだ」
「居ちゃ悪い?」
「奈雪ちゃんね。今日本当は早希のところの使用人に迎えに来てもらう予定だったんだけど」と母さん。
「雪が酷くて車出せないって言うからもう一泊することになりました。というわけでこれ」と奈雪姉さんは手に持っていた買い物袋をこちらに差し出した。「夕飯お願いね?」
「俺が作るの?」
「あ、私そうちゃんの晩ご飯食べたい」と怜が言った。
「いつも食ってるじゃん」俺は言った。
「いつも通りがいいの。だって昨日帰ってこなかったし」ぷくっとほっぺたを膨らませる。
「あらあら奥さん。焼き餅やいちゃってますわよ」
「あらやだ。うちの嫁ながら可愛らしくて嫌になるわね」
「あんたらまだやるのか」俺はため息を吐いた。それから買い物袋を受け取る。「判ったよ」
「お。さすがあ」と奈雪姉さんは嬉しそうに破顔した。「後から手伝うからね。お姉ちゃんと一緒にお料理しましょう」
「その言い方なんかヤダ」
本当は嫌ではないのだが、どうにも奈雪姉さんをお姉ちゃん、と認識するのがちょっと恥ずかし胃というか、照れるのだ。
「そういう訳だから、ヨメ!」
「はい、お母さま」
「夕飯までぐうたらするわよ」
「御意」
こいつらは放っておこう。
二人連れ立ってリビングの方へ消えていく。
まあ嫁姑の問題等々は起こりえないであろう関係なので、将来のことを思えばほほえましいというかあんというか。
「あ、そうだ」先ほど入ったばかりの扉を開けて、怜が戻ってきた。俺の前にとことこと歩いてきて、それから少し照れくさそうに、「さっき忘れてたから」とはにかむ。そして「お帰り」と彼女は言った。
俺はなんだかほっとして、気が付くと笑顔になっていた。「ただいま」と応えて彼女の額にキスをした。
ようやく日常に帰って来た。
そう思えた。
つづく
リアル多忙につきギリギリとなりました。今月二回更新するつもりだったのが結局こうなってしまって猛省です




