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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第四章
33/55

The Tragedy Act7 "Truth"




密かに葛藤していた。この戸を開ければそこは風呂場だ。体操服の件を知られていた。どこから漏れたかは判らないけど、彼は私の本性の一端を知っている。ならばもう、いっそ開き直ってしまおうか。

 しかし、それで完全に彼に嫌われてしまったら、私はきっと立ち直れない気がする。だけど、この戸板をはさんだ向こうには、彼が脱いだ服がある。私は妄想していた。それに顔を埋め、深く呼吸することを。鼻孔を抜け、鼻腔を満たし、脳に向かって駆け抜ける、彼の遺伝子の香り。きっとそれはすばらしいものに違いない。胸が高鳴る。抑えきれない情動が呼吸を荒くしている。

 取っ手に指が触れかけたところで、中から物音がした。扉が開く音。彼が浴室から脱衣所へ出てきたのだ。

 ごくりとツバをのむ。

 先ほどまでとは違うアイディアが浮かんでいた。

 忘れ物をしたという体で、彼が浴室を出たことに気づかなかった振りをして、脱衣所へ入ってしまおうか。彼はきっと全裸だ。

 名前で呼んでもらえたけれど、まだ、彼に求めた行為を諦めた訳ではない。

 けど、流石にそこまでやるのは限度を超えているんじゃないか。

 そうやって悩んでいると戸の向こうから彼の声が聞こえてきた。誰かと話している。

 まるでそこに誰かがいるかのような、親しげな話し声。彼が電話中なのだと理解するまでしばしの時間を要した。

 怜、と彼が呼んだのが聞こえた。

 その瞬間私の心は冷や水をぶっかけられたみたいに、すぅっと冷たくなって取っ手にかけたままの指先が震えだした。

 私の名前を呼んだときとは違う。こんなに優しい声じゃなかった。柔らかく包み込んでくれるような慈しみもなかった。

 そこでようやく私は思い至ったのだ。彼はあくまで私に合わせてくれているだけなのだということを。最初から理解していたつもりだったけど、でも心のどこかでずっと期待していたのだ。もしかしたら、と。

 深く息を吸って、ゆっくりと吐き出しながら取っ手から手を離した。

 和室に戻った私を見て、相川さんは驚いた様子で、「どうしたの?」と訊ねてきた。彼女の肩越し、窓に映った私は泣いていて、酷い顔をしていた。

「三島が、話して、て」うまく言葉にならないまま涙がぽろぽろこぼれて、私はその場にへたりこんだ。

「そっか」と彼女は察したように頷いて、私のそばにやってきて、優しく抱きしめてくれた。「酷い人でしょ。彼。気がありそうなそぶりを見せたりするけど、でも絶対に、怜から離れたりはしないの。期待させるだけ期待させて。まるで乾き飢えた旅人の前に現れる逃げ水のようにね」

 悪気がない分余計にたちが悪い。彼女はそう言って私の背中をぽんぽん叩いた。

 諦めと、けれど抑えきれない愛おしさが、彼女の言葉に込められていた。

「どうして、平気なんですか?」私は訊ねた。

「平気じゃないわよ」と相川さんは答えた。彼女は腕をほどき、「切ないし苦しいし憎い」

「憎い……?」

 私は顔を上げた。

 相川さんは眼を伏せ、右側の口角だけきゅっと上げて、まるで自らを嘲るように薄く唇を引き延ばして頷いた。

「ええ。自分勝手なのは百も承知だけれど。でも私は憎い。彼を奪った怜も、結局怜を選んだ彼も。でも、同じくらい好きなのよ。どうしようもないくらいね。だから苦しいわ。気が狂いそうなくらい切なさで胸が締め付けられて、涙が止まらないことだってある。そう言うとき、私はいつも小説を書くの。胸の中で死んでいく思いをそうやって弔うの」

「憎いのに、好き、なんですか?」

「憎しみと愛は表裏一体。よく言うでしょ? 私はね。あの二人が、殺してやりたいくらいに愛おしいの。大切な親友と、大切な人。そして絶対に許せない裏切り者達。あの二人を愛していいのも憎んでいいのも私だけ。私は、二人の裏切りを知った時、ショックで手首を切ったわ。二人を呪いながら。ありったけの呪詛と憎しみを込めながら、カミソリの刃で血管を切り裂いた。いまでもあのときの痛みを覚えているわ。心の痛みと同じだった。きっとあのとき流れた血は私の心から流れ出したものだったのね」

 あなたはそんなことしちゃ駄目よ、と相川さんは優しい声で言った。

「この疵は二人を縛り付ける呪いになった。けれど、私もまた同じようにあの二人に縛り付けられてしまった」そう言って彼女は手首を撫でた。「この疵を見るたびに、憎しみと愛しさがこみ上げてくるのよ。人を呪わば穴二つ。言い得て妙ね」

 それから彼女は笑って言った。

「そうそう。あなたが言うとおり。私は自分が一番可愛いタイプの人間よ。だからこんな独りよがりをしてしまうのね。きっと」

 ふふふ、と可笑しそうに笑う彼女を見て、私はぞっとした。

 どうして、彼と二人きりのときに私が言ったことを知っているんだろう。

「あら。ごめんなさい。驚かせちゃったかしら」私の様子に気づいたのか、相川さんはけろっとした顔でそう言うと、敷かれた布団の影から何かを拾い上げた。「今度推理小説に挑戦してみようと思って。それでちょっと試してみたのよ」彼女の手には携帯電話が握られていた。折り畳み式のガラケーという奴だ。「場所が良かったのかしら。あなたたちの話し声がよく聞こえたわ。あなたが、宗平くんと無理矢理しようとしてたことも、ばっちりね」

 私は絶句していた。おそらく彼女はあのガラケーで自分のスマホに電話をかけて、そのまま通話中の状態でこの部屋にかくして、そしてスマホでずっと私たちの会話を聞いていたのだ。

「私のこれは、でも可愛いものだと思うわよ。自分で言うのもなんだけど」と相川さんは肩をすくめた。「怜なんて、彼にGPSの発信器と自分の髪の毛と爪を仕込んだお守りを渡して、常にどこにいるかモニタリングして、自分もそこにいる想像して楽しんでるんだから」

 そして彼女はにったりと笑った。

「あなたはどんなことをしているのかしら?」

「どういう意味ですか?」

「隠れて体操服の匂い嗅いじゃうような子が、まともな訳ないでしょ?」

「変な言いがかりはやめてください」私は言った。私だって同じ穴の狢のはずだ。私のスマホには、隠れて撮った彼の写真や動画がぎっしり詰まっているのだから。それなのに、同じだと認めたくなかった。

 彼女は笑い顔を崩さず、私の頬に手を伸ばした。

「目を見ればね、判るの。あなたは私と同じ」

 私はその手を払いのけた。「違います。私は、私は」

「そういえば、あなた体操服のことも否定してたわね」くすくすと相川さんは笑う。冷ややかな眼で私を見つめながら。「あなたは匂いフェチの変態で、彼のことが気になって、後を付けてしまうストーカーだって」

 彼女の言うことに間違いはない。私がやってきたことは、つまりそう言われても仕方のないことなのだ。

「どうして、知ってるんですか?」

「後を付けてるって話?」

「ええ」

「当てずっぽうよ」と悪びれもなく彼女は言った。「そうね。まあ理由を挙げるとするなら、彼を見るあなたの眼が普通じゃなかったから、っていう所かしらね。それにお風呂場の前まで行って、なにか企んでたみたいだし。だからカマをかけてみたんだけど、やっぱりそうだったのね」

 嬉しそうに相川さんは私の手を取った。そして彼女は私の目を見つめながら。その澄み切った眼の中に私を写しながら、「見せて?」と言った。

「何を、ですか?」

 眼をそらそうと思っても、そうは出来なかった。相川さんの眼には何か不思議な引力のような物があって、私はその瞳孔の奥に意識が引き込まれていくような錯覚に襲われていた。

「とぼけなくてもいいのよ?」優しい声で相川さんは言う。

 何のことを言っているのか、なんとなくは判っていた。だが、もはや欠片ほどしか残っていない私の中の良心が、理解することを拒んでいた。だからといって普段行っていることが赦される訳でもないのに。欺瞞だ。それはいつだって私のそばについて回っていた。出来るだけ、ふつうでありたい。出来れば良い子でありたい。そう見られたい。そんな虚栄心に端を発する愚かな欺瞞。彼には絶対に知られたくない私の薄汚れた本当の欲望を隠すためのヴェール。

 相川さんはまるでそれを剥がすかのように、その細くしなやかな指で私の頬を撫でた。

「写真、ですか?」私は言った。相川さんの指が触れたところがなんだか熱くなっているように感じる。その熱はだんだん広がっていって、私の頭は茹だったようになっていた。混乱なのだろうか。それとも興奮なのだろうか。彼女は間違いなく同志だ。それならば、わざわざ隠す必要もないのではないか。

「ええ」と相川さんは嬉しそうに頷いた。「やっぱりあるのね」

 私はスマホを手に取り、ロックを解除して、画像の、アルバムを開いた。

「あら、すごい」と私の手元をのぞき込んだ彼女は感嘆の声を漏らした。「こんなにあるなんて。あなた筋金入りね。彼が見たらどう思うのかしら」

「見せませんよ」私は少しばかり睨むように眼を細めた。

「ごめんなさい。そうね。少し意地悪がすぎたわね」相川さんはそう言ってしょんぼり肩をすぼめた。

「いえ、いいですけど。別に」と私は気まずくなって顔を逸らす。「そういえば」話題を変えたくて私はとっさに、「三島、遅いですね」と呟いた。

「そうね」と相川さんが廊下の方を見て言った。「まあ彼のことだから、怜と話し込んでいるのか、あるいは、私たちに気を使って入ってこないだけなのか。まあそのどちらかでしょう」

 どちらにせよ、しばらくは大丈夫よ。と相川さんは微笑んだ。

 私はスマホを手に頷いた。



「どうしてそこまで彼に執着するのかしら」

 写真を見ていた相川さんが、不意にそんなことを呟いた。

「好きだからです」私は答える。

「それだけ?」相川さんはいまいち納得していない様子で、しばらくスマホを操作してから、「ありがと」とスマホを差し出した。私は、それを受け取って、画面に映し出されていた彼の姿をぼうっと見つめた。去年の春。三年になってすぐに、校門の前で、いつもの四人で撮った写真だった。

「彼が事故に遭ってからの写真しかないのよね」相川さんは言った。「それ以前のは?」

「いえ、三島のことを撮るようになったのは、三年になってからです」

「体操服のにおいを嗅いだのも?」

「は、いえ、違います。してません」

 相川さんはくすくす笑う。もうすっかり認めている様な物だけど、素直に認めるのが悔しかったので私はあくまで否定する。

「なにか心境の変化があったのかしら」

 私はもう一度画面を見て、短く息を吐いた。「なんとなく。みんなずっと一緒だと思ってました。事故が起こるまでは。あのとき、凄く怖かったんです。もし三島が目を覚まさなかったらって思ったら」

「だから彼の姿を残しておこうと思ったって訳?」

「多分」私は曖昧に頷いた。「それに、なんて言うか、事故の後からなんですけど。私に対する態度が変わったんです」

「そうなの?」

「ちょっと他人行儀になったというか。それまでは、時々本の貸し借りなんかもしてたんです。けど、あれからは一度も」

「へえ、結構仲良しだったのね」

「私は、そう思ってました」

 だから、知りたくなったんです。と私は付け加えた。

「三島の事をもっと知って、その原因を突き止めたかった」

「でも気がついたら手段が目的になっていた?」

「そうですね」私は苦笑した。「けど、怜さんが婚約者だって知って、少し判った気がします。昔から気になっていたことも」

 かつて彼が帯びていた憂いは、つまり家族となった義理の姉に対する複雑な恋慕が原因だったのだろう。だからあの日、彼は自分も同じだと答えたのだ。好きになってはいけない人が好きだと。

「私のことなんて、眼中に入らなくなったんですよ。きっと」

 悲恋に終わるはずだった想いが成就したからこそ、もう周囲のノイズに頓着しなくなったに違いない。私は所詮、彼にとってそんな程度の存在だったのだ。

「実はあの事故の直前に、一冊、文庫本を借りてたんです」

 それはいま、私のかばんの中にある。何度も彼に返そうと思った。けれど、以前よりも開いてしまった距離が、私を躊躇させた。そして彼もまるで忘れてしまったみたいに、そのことを訊ねなかった。だからいままでずっと返すことが出来なかった。

「おすすめだって言って貸してくれた本なんです」

 なにか良い恋愛小説はないか、と相談したのは、あの事故が起こる一週間ほど前のことだった。今思えばその頃にはすでに、相川さんと彼は付き合っていたのだろう。そんなこと、知る由もなかった私は、彼に借りたその本を抱いて、一人で浮かれていたものだ。すぐに読んで、それからまた読み返して。私は心を躍らせていた。どんな風に、彼に感想を伝えようか。或いは想いの欠片でも伝えてみようか、と煩悶したりもした。そう、あの一冊は、私と彼がそれなりに親しかったたった一つの証明なのだ。だから、素っ気なくなってしまった彼に返したくなかったのかも知れない。もしその証明を失ってしまったら、私たちはお互い、友達の友達でしかなくなってしまう。そんなのは嫌だ。

「訊いてこようか?」不意に相川さんが言った。「彼に覚えてるかって」

「いえ、その」

「もし忘れられてたら、怖い?」

 私は頷いた。

「そう。まあいいわ」相川さんは立ち上がり、「彼の様子見てくる」

 


    ※※※


 雪の中で街は冬眠したように静まり帰っていた。ベランダの手すりに凭れながら吐き出した息は雪と同じくらい白い。風呂上がりの火照った体に今夜の冷気はとても心地よかった。静かなのもいい。駅からさほど離れていないのだから、きっと普段はもう少し雑音が聞こえて来るのかもしれないが、今夜に限っては、彼方のビル群のそのまた向こうの山に住む鹿の鳴き声すら聞こえてきそうなほど、何も音が聞こえない。耳が痛いほどの静寂とはまさにこのことであろう。雪は降り止んで、綿を裂いたような雲の切れ間から星空が覗いていた。今日は新月だったはずだ。だから星がとても綺麗だし、闇は深い。一人でぼんやりするにはうってつけの夜だ。

 今頃あの二人はどんなことを話しているのだろうか。なにやら楽しげな話し声が中から聞こえてきて、邪魔をするのも気まずい感じがしたし、一人になりたかったのもあって、いまここにいるのだ。

 それにしても本当に井上と一緒の布団で寝なければいけないのだろうか。別に彼女のことが嫌いという訳ではないし、もし俺に婚約者も恋人も居ない状態だったのなら、緊張しながら心を躍らせていたかもしれない。井上は美人だ。それは間違いない。

 正直いまは怜のことに集中したかったし、コレ以上井上と夏井の間のいざこざに巻き込まれるのも、それをややこしくしてしまうのも御免蒙りたいというのが本当の所であった。夏井に勝ちたいという井上の願望は、おそらく天井知らずだ。なんでも聞いてやっていると、彼女が夏井に対して優位に立てたと納得するまで、どんな要求でもしてくるに違いない。そうなるとたぶん、夏井も対抗しようとして泥沼はより深くなるだろう。

 なんとかあの二人だけで話をつけて、なんらかの形で決着してくれるのが一番なのだろうが。しかしどうすればいいのか。他人の喧嘩だが、俺が火種である以上、ヘタに動きすぎると取り返しのつかないことになる可能性もある。

 二人を納得させて、それでいて引き下がらせる方法。そんな魔法のような何かがあればいいのに。

 どうすりゃいいんだ、と俺は呟いて、大きなため息を吐いた。

「悩み事?」

 急に話しかけられて、びっくりして飛び上がりそうになった。振り返るとさくらさんが、窓枠に凭れるようにして立っていた。

「ええまあ」俺は頷いた。

「受験のこと、ではなさそうね」と彼女は苦笑した。「奈々子ちゃんのこと?」

「だいたいその辺りです」

「大変ね」彼女は俺の左側にやってきて、両腕で、俺の左腕を抱き込んだ。そして上目遣いになって、「モテる男は大変ね」と笑った。

「面倒な子ばっかりにモテるって、公康に言われたことがあります」

「その通りじゃない」さくらさんは抱きついたまま、ゆらゆらと体を揺らして、「怜も私も、奈々子ちゃんも。それからえっと、」

「夏井ですか?」

「そう。夏井ちゃんと、あとは、そうね。奈雪とか花音ちゃんもそうじゃない?」

「やっぱ俺のせいですよね」

「そうね」と相川さんは言った。「宗平くんは優しすぎるからね。本当に酷い人だわ」

「優しい、ですか」

「ええ。前にも言ったでしょ?」

「耳が痛いです」

「けど、私はそんなあなたが好きなのよ。判る? 求めると、ある程度の物は必ず返ってくるけれど、それで満たされる訳じゃない。その足りない部分をどうにかしようと思うほど、愛おしくなるのよ」彼女は抱きついていた腕をほどき、正面に回ると、俺の胸に顔を埋めるようにして、「中途半端に餌付けされたせいで、もうあなたなしでは生きられなくなるの」甘い声で彼女は呟く。「だから私はあなたが好きよ。いまここで、あなたの手を引いて、星空を見上げながら、落ちていきたいくらいに」

「それは、勘弁してもらいたいですね」俺は苦笑した。「怜のところに帰らないといけないですし」

「判ってるわよ」と拗ねた口調で彼女は言う。「あなたたちがしっかりしてないと、私は安心してお妾出来ないもの」

「またそういうこと言って」

「最近はかなり本気よ」

「だから洒落になりませんってば」

「で、怜とはどうなの?」彼女はくるりと体を回転させて、俺の隣に移動すると、ベランダの手すりに両手を着いて真っ暗な夜に向かって白い息を吐いた。

 俺は彼女の横顔を一度見やってから頭上を見上げた。八割くらいが屋根に覆われた申し訳程度の星空を見つめながら、「それなりです」と自分でもよく判らない答えを口にしていた。

「あなたの為に一つだけ言っておくわ」

「なんですか?」

「怜があなたに黙ってた理由」

「さくらさんは何か知ってるんですか?」

「ええ。けど言うのはヒントよ」

「十分です」

「あのね。すっごくくだらないわよ。あなたが深刻になっているのが馬鹿に思えてくるくらい」

「えっと、それはつまり?」

「怜は何にも考えてなさ過ぎるし、あなたは考えすぎってこと」そう言ってさくらさんはまたくるりと回って、手すりに背中を預けた。そして部屋の中を見て、一瞬、笑ったような気がした。

「ねえ。奈々子ちゃんから聞いたんだけど。昔はよく本の貸し借りしてたそうね」

 こちらを見ないまま彼女は言った。

 俺も彼女の方を見ないようにして、「ええ」と頷いた。無論、覚えてなどいないが。

「仲良かったのね」

「まあ」

「私と付き合ってた頃にもしてたそうね」

「友達との付き合いですから」

「怜と付き合い出してから素っ気なくなったって」

「井上がそんなことを?」

「名前では呼ばないのね」と彼女は相変わらず部屋の中に視線を漂わせながら言う。

「あれっきりです」

「私は?」

「さくらさんもです」

「それは、残念ね」拗ねた横顔で彼女は言った。「まあいいわ。それにしても驚いたわ」

「何にです?」

「怜と付き合ってても、周りの女の子と、良くも悪くも変わらず接してきたと思っていたから。そういうこともあるんだなって。もしかして、結構意識してた相手だったのかしら?」

 悪戯っぽい好奇心を目に浮かべて、彼女はこちらを見た。

 俺は答えに窮した。下手なことを言って記憶のことをさくらさんに知られてしまうことは避けたかった。どうするべきかと悩みながら、まごまごしていると「なるほど」とさくらさんは含みのある目で俺を見た。何かしら、都合良く解釈してくれたらしい。

「もし、私とあのとき出会っていなければ。もしかしたら奈々子ちゃんが、あなたの恋人だった可能性もあるのかしらね?」

「どうでしょう」俺は足元に目を落とした。「判らないですね。あの頃のことはもう」

「まあどうしたって最後は怜を選んでいたでしょうね」彼女は言った。「そろそろ中に戻りましょ。冷えてきたわ」



 和室に入った俺たちを待っていたのは、布団の上に転がる芋虫のような物体であった。

「グレゴール・ザムザ」俺は言った。

「あれ甲虫みたいなのだそうよ」

「え、そうなんですか?」

「人から聞いた話だから本当か知らないけど」

 へえ、と感心していると芋虫のような何かから井上の顔が出てきた。「おかえり」と彼女は言った。

「器用にセルフ簀巻きになってるな」俺は言った。何を思ってこんな状態になっているのか気になったが面倒くさかったので訊ねはしなかった。

「三島、顔色良くなった?」と井上は言った。

「晴れてきたからかな。もう平気だ」

「良かった。デート中はずっと辛そうだったから」そう言ってから井上は大きなあくびをする。

「まだ日付が変わる前だけど。どうする?」とさくらさん。

「寝ましょう。なんだか今日は疲れました」

「そうね。私も朝から取材とか色々あって、移動中も電話で打ち合わせとかしてたから、寝不足なのよね」

「で、布団の話なんですけど」

「ああそれ」とさくらさんは井上のそばまで言って、布団の端を掴んで、ぐい、と引っ張った。簀巻きが解かれて井上が畳の上に転がり出る。「私と奈々子ちゃんが一緒に寝るから。あなたはそっちで一人でどうぞ」

 井上はさくらさんに対して何か言いたげな表情を浮かべていたが、異論を唱えることはなく、「そういうことだから」

 俺からしてみればある意味願ったり叶ったりな展開だったので「判りました」と頷いた。

 各々布団に入って、電気が消される。

「おやすみなさい」とさくらさんが言った。それに続いて俺と井上も「おやすみなさい」と返した。

 こうして、長い一日が終わった。



  

今回でまとまらなかったので次でまとめます。

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