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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第四章
32/55

The Tragedy Act6 "call"


    


「三島は、まだ相川さんのことが好きなの?」

 さくらさんが出て行ってすぐに彼女がそう訊ねてきた。

 彼女のどこか冷たい目に見下ろされながら、俺は少し考えてから「まあ、一応」と曖昧な返事をした。

「あの人は多分、自分が一番可愛いタイプだよ」

「そうかな」

「だからお見舞いにも来なかった」そう言って井上は自嘲するように笑った。「判るの。私もどちらかと言えば、そういう人間だから」

「そんな風には見えないけどな」俺は言った。

「普段は隠してる。ううん。隠れてる。香奈の後ろに」

 彼女はこちらにやってきて、先ほどまでさくらさんが座っていた座布団の上に腰を下ろした。長い足を胸の前で抱え込み、膝頭に顎をちょこんと乗っけて、どこか遠くを見るような眼になって、それからぽつりと「ほんとは、昔から、香奈のことを下に見てた」と呟いた。

 出来ればあまり聞きたくない類の告白であったため、俺はどうにかこの場を凌ぐ方法を探したが、これと言って思い浮かばなかったのですぐにあきらめた。それに、彼女の深刻そうな横顔を見ていると、聞くだけ聞いてやろうという気になってきた。

「香奈って、昔は私よりも喋らなくて、全然笑わない静かな子だったの」

 俺が知る「かっちゃん」は元気いっぱいで、話題がなくても無理矢理話しかけてくる、人懐っこい人物だと記憶している。引っ越しに際して何かあったということか。それとも単に馴染めていなかっただけなのか。色々と聞きたいことはあったが、話の腰を折るのも悪い気がして黙っていた。

「同じマンションに住んでて、部屋が隣同士で、親の勤め先も一緒で。なんだか色んな縁があって、私は香奈と出会って、一緒に行動するようになった」彼女は顔を俯けた。その視線の先にあるのはきれいに爪を切りそろえた足である。つま先を曲げてのばして、それから彼女は「私がなんとかしなきゃって思った」と続けた。「あの頃の香奈はお日様の影のなかに消え入りそうだったから。だから私がちゃんと見ていて、引っ張ってあげなきゃって。勝手にお姉さんみたいな気分になってた。あの頃香奈は、私のことをどう思っていたのかな」

 俺の脳裏には夏井が不満げに漏らした言葉がフラッシュバックしていた。「何様のつもりだ」彼女は確かにそう言った。

「気が付いたら、彼女はよく笑う、明るくて、可愛い女の子になっていた。当然、クラスの、ううん、学校で一番の人気者になった。最初は私が手を引いてあげていたのに、いつの間にか香奈が前に居て、私は香奈の影みたいになっていた。人付き合いは得意じゃないし、おしゃべりが好きな訳でもない。だからこれでいいと思った。でも、いつ頃からか、胸の中にもやもやした物が蟠り始めた。でも、私は、香奈が笑ってる姿が好きだったから。それをずっと抑えてた。私が我慢していれば、香奈は幸せなんだってそう言い聞かせて」そこで井上はまた自嘲するように笑った。「でも本当は、そうやって香奈になにか『してあげる』ことで溜飲を下げようとしていたのかもしれない」

 きっと夏井はそのことに気が付いている。そして彼女はそれを利用していた。手がかりになるのはあの短い会話だけだが、しかしそんな予感がしていた。

「本当は一度、全部台無しにしようとしたことがあるの。覚えてる? 一年生の時にみんなで行った、七夕のお祭り。あのとき、香奈が私に言ったの。三島のことを好きになったんじゃないかって。私は正直に答えようとも思ったけど、でも香奈の為に、自分の気持ちに嘘を吐いた」

 それこそまさに、夏井が井上の気持ちを利用した行為にほかならない。多分夏井は、井上が嘘を吐くことを想定して、訊ねたのだ。邪魔をさせない為に。嘘でも一度口に出して言葉にしてしまえば、それは枷のように気持ちを戒める。ある種の呪詛だ。

「ごめんなさい。嘘吐いた」と急に彼女は謝った。「本当は何度もある。三島と二人きりになった時に、何度か、告白しようと思ったことがあるの」

 公康が言うには以前の俺たちは、割と気が合う仲だったらしいが、なるほど、井上がそう思い悩む程度には仲が良かったらしい。

「けどあのとき、香奈に嘘を吐いた手前、自分から言うのが怖くて、三島が気づいてくれるのをずっと待ってた」

 全然気づいてくれなかったけど、と彼女は含みのある目で俺を見た。

「体育倉庫で二人きりになったときなんかは、結構勇気出してたんだよ」拗ねたように彼女は言う。「雷が怖くて、抱きついてたのも嘘じゃないけど」

 はは、と苦笑しつつ、そんなことがあったんだな、となんだか他人事のように考えていた。自分が知らない自分の話を聞くのは大変興味深いことだが、このまま思い出話に突入してしまうとどこかでボロがでる可能性がある。

「何がきっかけで抜け駆けしようと思ったんだ?」と俺は話の方向性を変えることにした。

「三島に怪我させたこと」彼女は答えた。「けどその前から抜け駆けは考えてた。限界だったんだと思う。その時はまだ、香奈がふられたこと知らなくて、手をこまねいたままだって思ってたから」

「あのとき持ってた紙袋」俺は言った。「やっぱりあれは俺に?」

 井上は頷いた。それから苦笑を浮かべて、「婚約者がいるって聞いて、あまりのショックに思わず捨てちゃったけど」

 もし、渡してたら、貰ってくれた?

 儚げに瞳を揺らし、彼女はそう言った。

 俺はしばらく黙っていた。

 突き返していた。とは言えなかった。多分受け取っていただろう。俺はそう言う人間だ。なんとなく判る。だから「ああ」と俺は頷いた。

 失敗した。と井上は俯いて、つま先を指でちょこんと摘んだ。「三島はそう言うの、よく考えずに受け取っちゃうタイプだったんだから渡しておけばよかった」

「人聞きの悪いことを言うな」

「でも、そうでしょ?」

 否定は出来ない。

「私はずっと見てた。香奈の影から。ずっと」昏い笑みをたたえて彼女は言う。太陽が沈んだ後の山の端から漏れる残光のような彼女の眼に、背筋に冷たい物が流れた。「さっきのことも」

 いつの間にか彼女の手にはスマホが握られていた。画面を操作して出てきた画像をこちらに見せつけてきた。

 写し出されていたのはさくらさんの胸に手をあてがう俺の姿だった。

「こういう画像ってマズイよね」井上は言った。

 急に雲行きが怪しくなってきた。

「自分はいいけど、相川さんが色々非難を浴びることになるのは耐えられない。三島はそう言う人」

「つまり、何が言いたいんだ?」

「私に逆らえない」

 恐ろしいことを恐ろしいほどの笑みを浮かべて彼女は言う。獲物を前にした蛇の如く目を光らせ、まとわりつくような視線を向けてくる。

「ずっと見てた。だから知ってる。三島のことはだいたい判る」

 四つん這いになり、ひた、ひた、と手をつき、膝をすべらせ、接近する。

 気が付くと彼女の顔がすぐそばにあった。

 シャンプーの香りが鼻孔をくすぐった。

 さくらさんと同じ香りだった。

 そりゃ風呂借りたんだしそうなるわな、と現実逃避のように考えながら、眼前に迫った井上の顔を見つめ返していた。

「何が望みだ?」俺は言った。

「私を、香奈に勝たせて」

「勝たせる?」

 井上の長い指が俺の太股に触れた。躊躇いがちにのばされたそれは、やがて大胆に、内ももを撫でるように動いた。

「顔、真っ赤だぞ」

 大胆なことを言って大胆な行動を取っているのだが、耳まで真っ赤だし、肩がぷるぷる震えている。

「判ってる」彼女は睨むように俺を見た。「初めてだから、緊張してるの」

「まてまて、何をしようとしてるんだ」

「判るよね?」とぼけるな、という顔で彼女は言った。「お姉さんとはよくしてるんでしょ?」

 知ってるよ。と井上は冷たい声で言った。

「キスマークみたいなのつけて学校来てることが、何度もあった。写真も、あるよ?」

「なんでそんなのあるんだよ」俺は言った。多分情けないくらい顔がひきつっていると思う。

「好きだから。ずっと三島のことを見ていたいから。それだけ」

「じゃあ体操服のにおいを嗅ぐのもそういうのか?」

 俺がそう言うと、井上は「え」と声を漏らし、それから切れ長の眼を細め、「誰から聞いたの?」と人でも殺しそうなほど殺気のこもった声で言った。

「そう言う噂を聞いただけ」

「うそ。そんな噂聞いたことない」

「お前が知らないだけだろ」

「こう見えて、私、情報通なの」と井上はどこか自慢げに言う。

「そう言えばおまえら二人で訳の分からん情報戦やってたな」俺はため息を吐いた。「以外と社交性あるんだな」

「そうでもない」と彼女はすぐに否定した。「みんなが勝手に私の事を怖がって、顔色うかがって、ご機嫌とりしようとしてくるから。気が付いたら取り巻きが増えてて、色々話してくれるようになった。だから私がどうこうした訳じゃない」

「それで校内のゴシップにも敏感ってことか?」

「うん」と彼女は頷く。「私の悪口言ってるの聞いたとか、頼んでもないのに話してくれる子もいてね。だからそう言う話があったら私の耳に入るはず。そうでなくてもみんな接し方が変わって違和感が出てくると思う。けど、それがなかった」

「しっかり利用してるんだな」

「ゴシップ聞くのは好きだから」そう言って井上は笑う。「けど、私からはほとんど喋らないよ。話が合わないから。本の話をしても、誰も判らないの。だから、面白かったけど、つまらなかった。三島とならそう言う話が出来るから。だから私は三島と二人になりたかった。三島が居ると必ず香奈が話しかけてたから、そんな機会、この一年ほとんどなかったけど」

「そうなんだ」と俺は気のない返事をした。

「そう」ずい、と彼女は顔を前につきだしてきた。一歩間違えたら唇が触れ合うような距離である。

「事故があってから三島は変わった」

 その言葉に心臓を掴まれたような心地になった。

 慌てて否定しそうになったが、何故か彼女が、俺の膝の上に崩れ落ちたおかげで出かけた言葉がのどの奥に引っ込んだ。ほっとしつつ、俺はじゃれる大型犬のように膝の上で仰向けになった彼女を見下ろした。「なにやってんだ」

「四つん這いは以外と疲れる」

「そう言うこと訊いたんじゃないんだけどな」

「やっぱり、お姉さんが恋人になったから?」

 どうやら先ほどの話を続ける気らしい。ボロを出さないようにしなければ、と短い息を吐いて気合いを入れつつ「そうかもな」と相づちを打つ。

「三島が落ち込んでるのは判ってたのに、私はなにも出来なかった」懺悔するように彼女は言った。「下手なことを言って嫌われたら、って思ったら何も言えなかった」

「そういやあのころ、夏井はどうしてたんだ?」

「なんで?」井上は冷たく言い放った。「香奈は関係無いでしょ?」

「気になっただけだよ」俺は言った。面倒くさくて泣きたくなる。

「香奈も似た様なもの」不機嫌そうにしながらも、彼女は答えてくれた。「けど私と違うのは、香奈はどうすれば三島が元気になるのか、良い案が思い浮かばないっていっつも頭を抱えてた。香奈の方が三島のことを思いやってたんだよ。あの頃は」

「まるでいまは自分の方が思いやりがあるとでも言いたげな感じだな」

 あえて棘のある言い方をしてみた。

 井上は眼を伏せて、「同じ所まで落ちてきただけ」と呟いた。「香奈も私みたいに自分勝手になっちゃった」

 そう言うと彼女はもぞもぞと寝返りを打って、こちらに背を向けてしまった。その横顔はどこか寂しげだ。

「変な事聞くようだけどさ」俺は言った。「なんで俺なんだ? 公康の方がイケメンだし気が利くし、それに背の高さとかもさ、ちょうどいいのに」

「いまの私があるのは三島のおかげだから。それに、栗原より三島の方が好みだから」

「……そうか」

 自分で訊いておいてちょっと恥ずかしくなってきた。

「なにより。三島のにおいが好き」

「つまり?」

「人間って、匂いで子孫を残すのに相性の良い遺伝子を持った相手を判別出来るんだって何かで聞いたことがあるの。だから、多分私にとっては、そういう意味でも三島は運命の人なんだろうって思って」

「だから体操服を?」

「その話はもう終わり」そう言ってほっぺたを膨らませる。態度からして否定するだけ無駄なほど語るに落ちているのだが、それでも認めるつもりはないらしい。

「三島の匂いに包まれながら眠るのがちょっとした夢だった。だから今晩は、よろしくお願いします」

「賭けてたってマジだったのか」

「マジ」

 冗談であって欲しいと期待していたのだが、現実はそう甘くないらしい。

「でも言い出したのは相川さんだから」

「乗ったんなら同罪だよ」

 やれやれとため息を吐いた。

 ひゃ、と井上が妙な悲鳴を上げた。

「急にどうした?」

「耳に、息が」と、耳を手で押さえながら彼女は言った。

「すまん」俺は謝った。

 会話が途切れる。

 気まずい沈黙の中を、壁掛け時計の秒針が、かちこちかちこちと不毛な時間の足音を刻んでいく。

「あの」と遠慮がちに井上は言った。「もう一回。できる?」

「何を?」と思わず聞き返してしまったが、彼女が何を要求したのか、それは判っていた。しんどいので理解したくなかっただけだ。

 井上は消え入りそうな声で、「息を、その、」と呟いた。

 やれやれ、ともう一度ため息を吐いた。

 ふあぁ、と今度はさっきよりも大げさに喘いだ。

 恍惚とした横顔を見ながら、今更ながらに俺は思った。こいつ、変態だ、と。そもそも体操服のにおいを嗅いだりしている時点で結構ヘヴィなにおいフェチなのだから本当に今更なのだが。

 もうこのまま耳を攻めていればどうにかなるんじゃないか、と思いつつ俺は周囲にぐるりと目を向ける。さくらさんが居ないかと、何気なく戸の方を確認したが隙間もなくぴったりと閉ざされているし、その向こうの人の気配も感じないのでまだ入浴中なのだろう。早く戻ってきてくれないだろうか。さくらさんが来れば、形はどうあれ収拾はつくはずだ。しかしまだそれに期待出来そうにない。となれば、なんとか井上に満足して貰うしかない。彼女の望みは結局のところ、俺にとっての何か特別な地位になりたい、ということなのだろう。それで夏井に差を付けて、彼女が屈するところを見てみたい。というところまで考えているのかどうかは判らないが、とにかく夏井に勝てればいいのだ。そうすればひとまずの所は収まる。横恋慕に対するなんやかんやはまた別の機会に対処すれば良い。

 そこでふと思い浮かんだアイディアを試してみることにした。

「奈々子」ぽつりと俺は呟いた。

 目の前を黒いモノが勢いよく通り過ぎた。

 鼻先をさらさらしたものが掠める。

 さっきまで膝の上にいたはずの井上が隣にいた。目を大きく見開いて、俺を見つめている。

 ああ、さっきの井上の頭か、なんてことを考えていると彼女に肩をがしっと掴まれて「なんて?」と必死の表情で迫られた。

「な、奈々子」

 やばい。地雷を踏んだのか? と一瞬不安になる。けれどすぐにそれが思い過ごしと知る。目の前で、井上がとろけた。いや、実際に人がとろけることなどないのだが、そう形容するほかなかった。強ばっていた表情がだらしなく弛緩して、そのままずるずると畳の上に崩れ落ちて、べたーっと横になった。

「ほら、夏井は名字で呼んでるからな」と俺は求められた訳でもないのに言い訳がましく説明する。

「うん」と気の抜けた声で井上は頷いた。「もう一度、いい?」

「奈々子」 

 もう一度呼ぶと、今度はうつ伏せになり、そのまま伏せて脱力した犬のように伸びた。

 なんとかなった。

 ほっと一息ついて安堵する、暇はなかった。

 勢いよく戸が開いて、「宗平くん!」とさくらさんが乗り込んできた。急いでやってきたらしく、髪は濡れてはいないがぼさぼさで、かわいらしいネコの肉球柄の黄色いパジャマはボタンを掛け違えていて、下着が微妙に覗いている。

「どうして名前で呼んでるのかしら」

 俺の肩を両手で掴みながら彼女は言った。

 まっすぐにのぞき込んでくるその眼には嫉妬の炎がめらめらと燃え上がっていた。

「あなた、私の事はさん付けで呼んでいるわよね? 名前だけで呼んでるのなんて、怜だけじゃなかったかしら」

「そう、ですね」あはは、と愛想笑い。ちら、と井上の方を見たが、相変わらずとろけたままだった。

「あの、これはつまり、名前で呼べと?」

「別に? そういうことではないけれど。ただ、あなたがそうしたいのなら、そうしてもいいわよ? ただ私は、あなたたちがあまりにも親しげだったから、釘を刺しにきただけよ。そう、私は怜の親友だし、あなたの未来の愛人なのだから」

 そうまくし立ててぷい、と目をそらしてしまう。こうもあからさまに拗ねてます、というポーズを見せられると、こちらはこちらで意地悪がしたくなる。

「そうですか。気をつけますね」

「え? え、ええ。そう。気をつけてもらえると、助かるわ」

 肩から手を離して、彼女は俺の目の前にぺたん、と座り込んだ。そして「判ればいいのよ、判れば」と独り言を言いいながら、ちらちらとこちらの様子を窺っている。

「さて、じゃあ俺もお風呂頂きますね」

「ねえ」とさくらさんは小声で言って、立ち上がろうとした俺のシャツの裾を握った。

「どうしました?」俺は膝立ちになってさくらさんの方を見た。彼女は顔を隠すように俯いていた。

「あなたって、本当に意地悪よね」顔を上げないまま彼女は言った。「判ってるくせに。どうして欲しいか」

「じゃあ、言ってみてくださいよ」

 恥ずかしがらずに。気持ち高圧的に、俺はそう付け加えた。溜まったストレスのはけ口にしているような感があって申し訳ないが、どうにも彼女に意地悪するのが止められなかった。

「呼んで」と蚊の鳴くような声で彼女は言った。

「よく聞こえないですよ」

「名前で、呼んでよ。私のことも」

 さくらさんはそう言うと顎を突き出すように俺を見上げた。その泣き顔を見て、少しばかりやりすぎたか、と自省しつつ、彼女の耳元に唇を近づけた。そして息を吹きかけるように囁いた。

「さくら」

 はあん、と喘いでくねくねと悶絶し、そしてとろけた。ぺたーっと畳の上に転がった彼女は幸せそうに頬を弛緩させながら「やっと名前だけで呼んでくれたわ」と嬉しそうに呟いていた。その奥では相変わらず井上がとろけている。このままここに居たら俺まで弛んでとろけそうだったので、「お風呂入ってきます」と言いおいてさっさと和室を後にした。

 替えの下着は夕飯の買い出しに行った時に一緒に買っておいたので問題はない。寝間着はないので、今着て居る服で寝ることになるが、まあ問題はないだろう。

 脱衣所に入ると華やかな香りが充満していた。さくらさんのシャンプーの香りだ。ふと洗濯かごの方を見ると、乱雑に服や下着が放り込まれていた。井上のゴテゴテしたそれではなかったのでさくらさんの物だろう。油断しきっているな。と俺は苦笑しつつ、かごの端に垂れ下がっていたブラをちゃんとかごのなかに入れ直して、それから服を脱いだ。下着だけ、新しい下着が入っていたナイロン袋に入れてしっかりと口をしばった。洗面台に下着と一緒に買っておいた歯磨きセットを置いて、浴室へ入る。

 とても広々としていた。以前入ったさくらさんの実家のものよりは流石に小さかったが、それでも二三人くらいなら一緒に入っても問題なさそうな広さだった。一人暮らしでは絶対に持て余す広さだ。部屋の広さ自体もそうだけど、俺なら絶対こんな空間に一人で居られない。そういえば、奈雪姉さんもさくらさんと同じ大学を受験したらしいし、受かっていたらそれとなくこの部屋に顔を出すように提案しよう。

 そんなことを考えながら頭を洗い、体を洗って、それから湯に浸かった。

 ようやく一人になれた。

 ほう、と吐き出した息には一日の疲れが詰まっているようだった。何度か深く息をして、それを追い出してやる。気持ちだけの話だが、それでもなんだか体が軽くなったような感じがしてくるから不思議だ。プラシーボとかいう奴だろうか。

 ぼけーっとしていると色んな事が泡のように脳裏に浮かんでは消えていく。止めどなく過ぎ去っていく思考の往来の中に、ふと何か目にとまる。その瞬間、ある問いが己の内に投げかけられた。

 お前は一体何者なのか。

 実の所、それはすでに何度も行った自問自答であった。

 いつ頃から繰り返しているのか。

 判然としないまま、答えもみつからないまま、ずっと繰り返している。

 それこそがここしばらくの懊悩の根元であった。

 何故そう問うのか。その理由だけは判っていた。

 つまるところ、コンプレックスがあるのだ。

 怜もさくらさんもスゴい。自分の才能を形にして、それで糧を得ている。井上だってバスケの才能を開花させて活躍している。

 俺に何がある。これまで生きてきて何を得た。何を勝ち取った。肩と腰に後遺症のある体。それだけか? 一部とはいえ記憶を失っている。目立った才能があった訳ではないが、それでもいままで生き甲斐の一つであった野球を失った。

 何を得た?

 怜を自分の物にした。けれど、さくらさんを傷つけ、別れたとも何とも言えない関係になった。中途半端に二人の関係を隠していたせいで、夏井との関係がこじれた。井上ともおかしな事になった。掛け替えのない物を得た変わりに、それまであった平穏が崩れた。

 そうだ。

 怜だ。

 深みに沈んでいきそうになった意識が、不意に浮上を始めた。

 怜の声が聞きたい。

 ただそれだけ。胸の中を急に満たし始めた衝動を抑えることなど出来なかった。

 湯船から上がって、湯を落として。

 体を拭いて服を着て、簡単に風呂の掃除をすませた。

 一刻も早く彼女に電話をしたいのに、その思いとは裏腹に俺は歯磨きまで済ませてからようやくスマホを手に取った。

 胸を焦がしながらロックを解除して、そこでふと違和感に気が付く。

 まったく怜からの連絡がない。メールもメッセージも電話の着信も、一切ない。

 この状況で怜がまったく連絡を取ろうとしないなんてことがあるだろうか。

 嫌な予感がした。

 杞憂であって欲しいと思いながら俺は彼女の番号に電話をかけた。

 まるでこちらの焦燥を悟ったかの如く、怜はすぐに電話にでた。

「おはよー」と舌っ足らずな声が電話の向こうから聞こえてきて、俺はすぐに事態を悟り、安堵した。

「寝てたな」

「うん。おはよー。なんか外暗いんだけど。なんで? そんなに天気悪いの?」

「いま何時?」

「うーんと。10時?」

「22時だ」

「へ?」素っ頓狂な声がして、それから「ああー」と悲嘆するように呻いた。

「寝落ち?」俺は笑いながら言った。

「うん。うわ、なんか変な文字の羅列が。文字化けしたみたいになってる」

 どうやらPCの前で寝ていたらしい。

「風邪引いてないか?」

「うん。平気。そんな覚えはないんだけど、毛布被ってた。暖房もついてるし」

「奈雪姉さんじゃないかな」

「あ、そっかあ。雪ちゃん今日も泊まるんだっけ」

「本家の方とか絶対帰れないよな」普段は雪の降らないここらがこの有様なのだ。県の最北に近い、毎年どか雪の降る本家の或る田舎はもっと酷いことになっているだろう。

「うん。無理して帰ってくるなって、早希さんから連絡があったから」

 もう1メートル以上積もってて、まだまだ降ってるって言ってたよ。と怜は心なしか楽しげに声を弾ませた。向こうからしたらたまったもんじゃないかもしれないが、話だけとはいえ、普段そこまで積もらない地域に住んでいる人間からするとわくわくする話題なのだ。

 ともかく、奈雪姉さんが居るなら心配はない。

「なら安心だな」と俺は言った。

「なにが?」

「家事全般」

「む。私だって掃除くらいは出来るんだから」

「知ってるよ」

「ところで、どうかしたの?」とそこで彼女の声のトーンが柔らかくなった。

「声が聞きたくなっただけ」俺は答えた。

「そっかそっか」と怜は嬉しそうに笑う。「甘えんぼさんだね」

「誰がだよ」

「普段は生意気だけど、やっぱり年下だもんね」

「おい」

「照れなくてもいいのに」

 声を聞いているだけで、彼女の優しい微笑みが目に浮かぶ。恋しいとはつまるところこういうことを言うのだろう。

「あのね。そうちゃん。来週なんだけどね。二人でどこか出掛けない?」

「いいけど。どこにする?」

「決めてない。けど、そろそろお墓の掃除をする時期だなって思ってたから、お寺には行くつもり」

 そう言えばしばらく怜の両親の墓参りも行ってなかったな。

「それでね。その時に一度、ちゃんとお話がしたいなって思って。……駄目?」おずおずと彼女は訊ねる。

「駄目じゃないよ」と俺は言った。「俺も、怜とちゃんと話したいって思ってたから」

「そっか」ほっとため息を吐くように彼女は呟いた。と同時に電話越しでも判るくらいの大きさで彼女の腹の虫がないた。「安心したらお腹減ってきちゃった」と恥ずかしそうに彼女は言う。

「晩ご飯食べてないの?」

「えへへ。食べる前に寝ちゃってた」

「ちゃんと食えよ」

「うん。あ、そっちちゃんは?」

「俺が作った」

「さくらはなにしてたの?」と皮肉っぽく言った。

「最初は手伝って貰ってたんだけど、途中で指切っちゃってさ」

「それで台所から追い出した、と」

「人聞きの悪い言い方するなよ。さくらさんの指は商売道具なんだから、大事をとって貰っただけだ」

 俺の反論に、怜はくすくすと楽しげな笑い声をこぼす。

「ね。そっちは大丈夫?」

 何に対する大丈夫なのか、一瞬俺は判らなかった。だから「えっと?」と聞き返した。

「さくらや井上さんに、何かされてない?」

「ああ。まあ、今のところは」何もなかった訳でもないが、あまり心配させたくなかったのでそう答えて誤魔化した。

 怜はそれを信じたのか信じていないのか、何か考え込むような沈黙の後、「そう」とだけ言った。

「そうちゃん。私待ってるからね。ちゃんと帰って来てね」

「ああ。もちろん。わかってるよ」

「うん。じゃあ、おやすみなさい」

「おやすみ、怜」

「うん。そうちゃん。愛してる」

「俺も。愛してる」

 話題なんてなんでもいいからもっと怜と話していたかったが、あまり戻るのが遅くなるとそれはそれでさくらさんたちを心配させてしまう。後ろ髪を引かれる思いで通話を終えた。



 続く

次くらいで収拾つけます。

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