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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第四章
31/55

The Tragedy Act5 "talk"



 真新しくて広々としたキッチンは、それだけで気分がウキウキしてくる。片づけを手伝おうか、という二人の申し出を断って、俺は一人この空間を満喫していた。

 しかし、それにしても、一人暮らしの部屋の割に妙に食器が揃っている。もしかしたらこんな風に近しい誰かがやってくることを想定して揃えたのかもしれない。

 リビングの方ではさくらさんと井上が何かの話題で大いに盛り上がっていた。最初はどうなるかと思ったが、案外気が合うようで、食事中も二人で冗談を言い合ったりしていた。二人とも、普段とは違う表情をしていて、なんだかとても新鮮だった。敢えて言うなら、普段よりも二人はとても可愛らしく見えた。何が違うのだろうか、と食器についた泡を洗い流しながらぼんやり考える。

 自己評価の低い者同士が、真っ当に評価し合うことによって、本来の輝きを見せている、などと尤もらしいことを考えてみるが結局よく判らない。だが悪いことではないので深く考えて悩むこともないだろう。

 蛇口をひねって水を止め、タオルで手を拭いて、それから壁にもたれてほう、と息を吐いた。

 ここに来て多少マシにはなってきていたのだが、少し前からまた頭痛がぶり返してきていた。

 井上と話していて、何かを思い出しそうになったのだ。けれどすぐに頭が痛くなって、掴みかけたその何かは霧のように消えてしまった。それからずっと頭の片隅の何かを押さえつけるような頭痛が続いていた。

 リビングから話し声が聞こえてくる。その中に時々俺の名前が混じる。井上が、俺の知らない俺との出来事を語っているのだろうか。

 どうするべきなのだろう。彼女に記憶がないことを伝えるべきなのか。それとも、このままずっと話を合わせ続けるべきなのか。

 正直どちらを選んだところで、きっと俺たちの関係は何も変わらない。記憶があってもなくても、俺たちはただの友人同士なのだから。

 それにそもそもいまこの場所でその話題を出すべきではない。さくらさんが記憶喪失のことを知れば、きっと自分の責任だと、新たな重荷を背負い込みかねない。だからこのまま胸の奥に隠しておくべきなのだ。これは、誰も幸せになれない真実だ。

 ふと何か違和感を覚えてズボンのポケットに手を突っ込んだ。スマホに着信があったようで、マナーモードの振動が太股を揺らしていたのが原因だったらしい。画面を見る。公康から電話がかかってきていた。一度リビングの方を見やってから、電話にでた。

「どうした?」と俺は開口一番訊ねた。

「ああ、うん。なんか大変らしいって聞いて」

「怜から?」

「うん。うちのお母さんの実家から大量にサツマイモが届いて、そのお裾分けに行ったら捕まって、それはもう愚痴られた」

「大変だったな」俺は苦笑した。

「奈雪さんとも久しぶりに会ったね」

「まだ居たんだ」

「なんか今日も泊まるって言ってたよ。にしても珍しいね」

「色々あるらしいからな」

「大変だねえ。本家って」

「女系で継いでいく家系でほんと良かったと思うよ」

「あはは。そっか。普通なら長男の息子なんだから、宗平がそのうち跡継ぎになる筈だもんね」

「その上うちはなぜだか三女が跡継ぎなんだけどな」

「花音ちゃんかあ。もう結構会ってないね。元気してる?」

「こないだ見舞いに来た時はちょうど入れ違いだったんだっけか。まあ相変わらずだったわ」

「喧嘩っ早いのも?」

「ああ」

「そっか」と公康が笑う。「それはそうと、いま相川さんの部屋なんでしょ?」

「井上と二人で世話になってる。びっくりするくらい広い部屋でキッチンも最新の奴でびっくりしたわ」

「へえ。でも相川さん一人暮らしなんでしょ?」

「ああ」

「寂しくないのかなあ」

「窮屈な実家から離れられて伸び伸びとはしてるみたいだけどな」

「ふうん。ところで、井上さんは、どう?」

「どう、って」

「デートしたんでしょ?」

「つっても映画見ただけだけどな」

「それだけ?」驚いた声で公康は言った。「ほんとに?」

「むしろそれ以外があっちゃダメだろ」

「まあそうだけどさ」公康は何か言いたげな様子だ。「その。間違ってたら謝るんだけどさ」

「なんだよ急に」

「宗平。もしかして、記憶に何か問題があるんじゃない?」

 我知らず瞠目して、一瞬呼吸を忘れてしまうほど、俺は動揺していた。何かいいわけをしてごまかさなければならないのに、言葉が出てこない。

「その様子だとやっぱりそうなんだね」公康は言った。「この前話してて妙だと思ったんだ。井上さんがバスケ始めた理由のこととか覚えてなくて」

「……おまえには隠し事出来ないな」

「遅かれ早かれバレると思うよ」

「やっぱりそうかな」

 話すべきなのだろうか。

「お医者さんには話したの?」

「いや、まだ。今度行ったときに相談しようと思ってた」

「そっか。もしよければ、何を思い出せないのか判ってる範囲でいいから、聞かせて欲しいんだけど」

「ああ。とりあえず、その、井上のことが全然思い出せないんだ」

「どういうこと?」

「井上がどういう奴かは判るんだよ。夏井の親友で俺たちともよく一緒に居たって言う知識はあるんだ。けど、あいつと何をしたのかっていう記憶が全然ない」

「じゃあバスケを始めるきっかけ以外のことも?」

「ああ。何一つ、思い出せない。いや、でも。さっき何か思い出しそうにはなったんだ。けど、急に頭が痛くなってきて」

「大丈夫?」

「さっきよりはマシ」

「良かった。まあでも、それでちょっと納得かな」

「なにがだよ」

「あの事故の後くらいから、妙に井上さんに対して素っ気なくなったなって思ってたんだ。宗平ってさ、相川さんとつきあい始めるちょっと前くらいまでは、井上さんとも気が合うっていうか、見ててそんな感じがしてたんだよね」

「全く覚えてない」

「みんな香奈ちゃんのことばっかり見てたせいでそう思ってた人は居なかったみたいだけど」

「本当に何も覚えてないんだ」俺は言った。「どうしたらいいんだろう」

「無理に思い出す必要はないかもしれない」公康は言った。「けど、井上さんと話す必要はあるかもね」

「なんて言えばいいんだよ」

「まっすぐ切り出すしかないんじゃないかな」

「……おまえってさ。結構大胆だよな」

「宗平は細かいこと気にするよね。意外と」

「うるせえ」

「まあでも。記憶に問題があるってことは、言えば多分理解はしてもらえると思うよ。ほら、意識が戻ってすぐの頃とか、ほとんど何も覚えてなかったでしょ?」

「待て。なんだそれ」

「ああ、そっか。そのときのこと、覚えてないんだ」

「何も覚えてなかった、って」

「うん。目が覚めて、そうだなあ、一週間くらいだったかな。宗平、お姉さんのこと以外何も覚えてなかったんだよ。強く頭を打った後に起こりがちなことだって、当時お医者さんは言ってたっけ。一週間ほどしてから、宗平の両親のことや僕のこと。それに香奈ちゃんたちのことも順番に思い出していったんだよ。それで良かったって、思ってたんだけど。井上さんのことだけ、すっぽりと抜け落ちたままだったんだね」

 公康の話を聞いて、なぜだか少し安心して居た。怜のことは覚えていた。そのことが判ったからだろう。それと同時に、いままで感じていた不安の原因の大半がそれであったことに気が付いて、井上に対してなんだか申し訳なくなってきた。

「お姉さんのことは覚えてたんだ、ってほっとしてるでしょ」

 そんな俺の心中を見抜いたように彼は言った。

「それは、まあ」俺は言いよどんだ。

「宗平らしいといえばらしいけどね」と彼は笑った。「まあいまは別に話さなくてもいいんじゃないかな。ほら、受験直前だし」

「混乱させるのはよくない、か」

「そういうこと。まあ宗平が酷く気に病んでるなら、話せって強く言おうと思ってたんだけど、知りたいことが知れてだいぶ楽になったみたいだし」

「まあ、楽になれた。感謝は、してる」

「どういたしまして」ふふふと彼は笑う。「それじゃあ切るね」

「おやすみ」

「うん。おやすみ」

 通話を終たスマホをポケットに戻した。それからふと、加賀との事を問いつめてやるのを忘れていたな、なんてことを考えていたら井上がこちらにやってきた。

 もしかしたら話を聞かれていたのだろうか。ごくりとつばを飲む。

「誰?」彼女は開口一番そう訊ねた。

 その答えを聞いて俺は幾らか安心して、「公康」と答えた。

「何の話?」

「世間話」

「何か隠してる」そう言って井上は俺の目をじっと見た。

 さて、どうやって逃げようか。ちら、と井上の脇からリビングの方を見るとさくらさんと眼が合った。助け船を期待して目礼すると、彼女は何を理解したのか判らないが、ぐっと拳を握って鼓舞するようなポーズを取った。俺はため息を吐いた。

「話したくないなら、いい」と彼女は不満そうに言った。

「助かる」俺は言った。

「ちなみに」と彼女は少し首を傾けながら、「どういう話?」

「あまり良い話ではないかも」

「うん。なら、いまはいい」と彼女は言った。「受験のモチベーションに影響するかもしれないし」それから彼女は一度肩の力を抜くように、ゆっくりと息を吐いて、少し堅かった表情を和らげた。「お風呂の順番どうするかって、相川さんが」

「俺は最後でいいよ」

「いいの?」

「別に遠慮してる訳じゃないから」

「判った」

 井上がさくらさんの所へ戻っていく。

 二人でしばらく話し合っていたが、最終的にじゃんけんで井上が一番風呂を勝ち取った。俺は遠くからのその様子を眺めていた。二人の不慣れな感じがひしひしと伝わってくるはしゃぎっぷりに癒やされていたのだ。

「それじゃ、お先に」とわざわざこちらに一言断ってから、さくらさんに案内され、井上は風呂場へ向かった。

 誰も居なくなったリビングで、ソファに座ってぼーっとしているとさくらさんが戻ってきた。

「何か考え事?」

「そういや着替えどうするのかなあって」

「そんなこと心配してたの?」と彼女は可笑しそうに口元に手をやった。

「さくらさんのじゃサイズ合わないでしょ?」

「どう言う意味かしら?」

「二人並んでると親子みたいですよ」と俺は冗談めかして言った。

「じゃあ子供みたいな私が好きな、あなたはロリコンね」

「なかなか強烈なスマッシュ打ち返して来ましたね」

「テニスは得意よ?」

「さくらさん運動できますもんね」

「まあね。唯一、怜に勝ってる分野だもの」

「運動で怜に負けるような奴が居たら生き物として終わってるんじゃないですかね」

「……それはそうだけど」と彼女はおかしそうに目を細めて、「あなた酷いこと言ってるわよ」

「まあそれは置いといて」と俺は強引に話を元に戻す。「あの格好のまま寝るんですかね」

「それは心配ないわ。ちょっと小さいかもだけど、あの子でも着れそうなのは置いてあるから」

「そうなんですか?」

「ええ、まあ」と彼女はほんのりと顔を赤くして、「怜が急に泊まりに来ても大丈夫なように用意だけはしてたから」

「ああ、だから食器とかも一家族分くらい揃えてたんですね」俺は苦笑した。

「悪い?」と彼女は真っ赤な顔で俺を睨む。

「いえ」彼女の様子がおかしくて、思わずくすくす笑ってしまう。

「なによ。私だって、ちょっと舞い上がりすぎたかな、とは思ってるわよ」

「可愛いですね」

「ふぇ?」

「そうやってはしゃいでるところが」

「あ、あのね。宗平君。そう言う不意打ちは卑怯よ」赤面した顔を両手で覆いながら彼女は言った。

「さくらさんって怜のこと大好きですよね」

「べ、別にそこまで好きでもないわよ。ただ、恩があるって言うか。それに話も合うし。こんなひねくれた人間でも気を悪くせずに付き合ってくれるし。それだけよ」

「怜に対してはなんかツンデレっていうんですか? そんな感じですよね。まあ怜もさくらさんに対してはそんな感じですけど」

「ねえ、宗平君。その話はここまでにしない?」

「え?」

「恥ずかしくて心臓止まりそう」

「やっぱり可愛いですね」

「トドメ刺そうとしないで!」

 ソファの上でクッションを抱いてじたばたしている彼女が面白くてついからかいすぎてしまった。

「ところで、なんだけど」クッションの陰からこちらを見ながら彼女は、「電話の相手は、誰だったの?」

「公康ですよ。ってかさくらさんの見てたんですね」

「ええ。奈々子ちゃんと二人で誰と話してるんだろうって、賭け、じゃなくて予想してたの」

 不穏なワードが聞こえてきたけど拾うのが面倒だったので聞き流すことにした。

「で、どんな予想だったんです?」

「奈々子ちゃんは栗原君って言ってたの。私は怜かなあ、って思ったんだけど。彼女が正解だったようね」残念そうに彼女は肩を落とした。

「がっかりしすぎでしょう」

「だって、あなたと一緒に寝る権利をかけてたのよ?」

「あの、なんですかそれ」

 しまった、という顔をしてすぐに彼女はクッションを盾にして隠れてしまった。

「さくらさん?」

「布団が二組しかないのよ」クッション越しに彼女は言った。「宗平君は腰が悪いから、ちゃんと布団で寝て欲しくて。けど、そうなると一人はみ出るでしょ? だから」

「いや、俺ここで寝ますよ」

「駄目よ。前にもそれは駄目って言ったでしょう?」

「だったら私がここで寝るわ」

「いえ。家主を差し置いてそれはちょっと」

「ほら、あなたそう言うでしょ? 奈々子ちゃんが仮にソファで寝るとか言い出したら、それはそれでどこぞが悪いから云々って理由付けて自分が代わろうとするに決まってるし」

「よく判ってますね」

「判ってるわよ。あなたのことだもの」

「だったらどうして?」

「強引に押し切ればどうにかなるから」自信満々にそう言い切って、盾にしていたクッションを膝の上に置いた。

「そう言うの駄目だって言ってくれたのはさくらさんですよね」

「今日は利用させて貰うわ。というかするはずだったのに。あの子に持って行かれたわ」

「いや、でも二人きりで同じ布団てヤバくないですか?」

「ええ、私もそう思う」

「えぇ……」

「だから同じ部屋に布団を並べて敷きましょう。そうすれば三人よ」

「俺からするとむしろ状況が悪くなってる気がするんですけど」

「気のせいよ。と言うわけで布団を敷いてくるわ」

「手伝います」

「別にいいわよ」

「いえ、なんていうか、そう言うの見てるだけだとなんか落ち着かないんです」

 さくらさんはやれやれという風にため息を吐いた。「判ったわ。それじゃお願い」

 リビングから廊下に出てすぐ右手にある引き戸を開けると、い草の香りがまだ新鮮な和室が広がっていた。

「一応ここが私の寝室」とさくらさんは言った。

「ベッドじゃないんですね」

「せっかく和室があるのだから、畳の上で寝たいと思って買わなかったのよ」

 押し入れから布団を出して、畳の上に降ろして、ほうと息を吐く。大した重さではないけれど、腰を伸ばしたり曲げたりする動作がどうにもしんどい。一度背伸びしてから布団を敷いた。

「辛そうね」とさくらさんが言った。「せっかく布団敷いたし、マッサージでもしてあげましょうか」

「いえ、」

「ああ、ごめんなさい。寒いわよね。エアコンつけるわ」

 さくらさんはこちらの話も聞かずに、慌ただしくちゃぶ台の上に置いてあったリモコンを手に取って無闇にボタンを押している。

「あの」

「ええ、ごめんなさい。それじゃあ、そこに横になってもらえるかしら?」

「大丈夫です」俺は言った。「テンション上がってるのは判るんですけど。とりあえず落ち着いてください」

 彼女は叱られた子犬みたいにしゅん、として「ごめんなさい」と言った。「はしゃぎすぎたわ」

「いえ、その。気持ちだけで十分ですから」

「あなたがそう言うのなら」そう言ってから彼女は、ばつが悪そうに「実はマッサージなんて出来ないし」と言って苦笑した。それから彼女は部屋の隅に積んであった座布団を持ってきて、「座りましょう」

 彼女の促されるまま座布団の上であぐらをかく。

 彼女はこちらにもたれかかるようにして、足を横に崩して座った。俺は注意しようと思ったが、なんだか億劫で彼女の重みを受け止めることにした。今日はそう言う気分なのだ。

「なんていうか。広いし色々充実してますよね。ここ」

「まあね」と彼女は照れたようにはにかんだ。「一人暮らしできるのが嬉しくてちょっとはしゃいじゃって。後から考えたらこんなに広い部屋じゃなくても良かったって思ったんだけれども。けどこうして誰かが来てくれると、良かったなあって思えるわね」

「寂しかったんですね」

「そう言うこと」彼女はそう言うと悪戯っぽく微笑んで、それから抱きついて来た。「ずっとこうしたいって思ってたの。宗平君に会いたくて会いたくて。毎晩あなたの夢を見たわ。けど目が覚めるとひとりぼっちで、いつもいつも辛かった。夢の中ではね。やっぱりあなたは主夫で、いつも私のそばに居てくれて。私はいつもあなたに甘えっぱなしで、小説を書くこと以外何もできない駄目人間になっていくの」

「まるで怜ですね」

「そうね」と彼女は笑った。「思えばずっと、私はあの子に憧れてた。真っ暗だった私の青春を照らしてくれた太陽だった。もちろんあなたもそうよ」

「太陽ですか」

「ええ。けれど私は、自分の背中にある翼が蝋でできている事に気が付かなかった。溶け落ちて、真っ逆様に落ちたとき、私は初めて自分の愚かさに気が付いた。それからずっと考えていたわ。どうするべきなのかって。あなたのことを忘れようと思ったこともあったし、怜と縁を切ろうと思ったりもした。けれど、私はそのどちらも出来なかった」そう言って彼女は上目遣いにこちらを見た。「ねえ、これ見て」とこちらに見せつける様に、右手首を顔の方に近づけてくる。「結構きれいに治っているけれど、でもほら、ここにちゃんとある。これが、私とあなたたちをつなぐ絆なのよ。ええ、きっとそう。これがある限り、私たちはずっと一緒。私はあなたたちの影。いつだって、そばに居る。ねえ、触って?」

 ごくりとツバを飲んだ。急に何かのスイッチが入ったのか、。いつぞやのカッターナイフを突きつけられた時と似たような目をしている。言うとおりにしないと何が起こるか判らない雰囲気だ。だから俺は彼女の右手首に刻まれた疵痕をそっと指でなぞった。彼女は恍惚の笑みを浮かべて、艶めいた吐息をこぼした。

「ねえ宗平君。いま私すごくどきどきしてるの。ほら」そう言って彼女は俺の手を取ると、その豊満な胸にぎゅっと押し当てた。柔らかな感触。その奥から伝わってくる弾けそうなほど激しい鼓動。「奈々子ちゃんがね、あなたのことをどれだけ好きなのかって色々話してくれたの。それを聞いていたら、なんだか我慢出来なくなっちゃった。あなたなんかよりも私の方が宗平君のことを好きなのにって。だからね、こうして見せつけてあげてるのよ。ねえ、見てるんでしょ?」

 俺は振り向いてぎょっとした。

 躊躇いがちに開かれた引き戸の隙間から井上がこちらを見ていたからだ。彼女の目は無機質なほどに冷たく俺たちを、否、さくらさんを見つめていた。やがて引き戸が全開になって、井上が畳の上に足を踏み入れた。

 それを待ち構えていたかのようにさくらさんは、「彼はね。私と怜のものなの。だからあなたたちには絶対に手は出させないわ」

 抜き身の刃を突きつけ合うような緊迫が、二人の間に張りつめていた。少し前まで和やかだったのは一体何だったのか。

「そんなこと誰が決めたんですか」

「いま私が決めたわ」

 さくらさんがそう答えると井上は眼光鋭くにらみ返した。

「自分勝手ですね」

「あなたたちこそ。自分たちの喧嘩に宗平君を巻き込んで困らせてるじゃない」

 俺をいま、その腕の中に物理的に確保しているからか、さくらさんの態度には余裕があった。

「それは……」

 井上は言葉を詰まらせて、ぎゅっと唇を噛んだ。

 俺は視線を右往左往させながらこの状況を脱する方法を模索していた。さながら電撃戦のごとく突然始まったので心の準備もなにもなかったので正直かなり混乱していた。

「と、とりあえず」俺は言った。「さくらさん。お風呂ですよ」

「一緒に入る?」甘えた声で彼女は言う。

「後で入ります」背筋を冷や汗が伝う。

「三島。ちょっと黙ってて」井上が苛立った様子で言った。

 はい、と答えて俺は口をつぐんだ。

 井上は大きなため息を吐いた。

 それが何かの合図だったかのように、張り詰めていた緊張が途切れた。

「一応しっかりと釘を刺しておきたかったのよ」と言い訳がましくさくらさんは言った。先ほどまでの尖った狂気は何処へやら。すっかりいつもの彼女に戻っていた。

 もう一度井上がため息を吐いた。威圧するようにさくらさんを睨んでいる。しかも無表情のままなので、正直すごく怖い。

 さくらさんは俺の服をぎゅっと掴んだ。

 井上の剣幕に圧されている様だった。

「さっき言ったこと。香奈にも伝えときますね」井上はそう言って表情を和らげた。

「ええ、お願い」とさくらさんはちょっと笑顔をひきつらせながら答えた。それから小声で「あの子怖いわね」と言った。

 あなたも大概ですよ、と言いそうになったのをぐっとこらえて、曖昧に微笑んで言葉を濁した。

「それじゃあお風呂頂こうかしら」

 抱きついていた腕を離して、彼女は立ち上がった。

「覗かないでね?」とこちらを見て彼女は言った。

「そういうのいいですから」俺は言った。

「つれないのね」

「知ってるでしょう?」

「そうね。知ってるわ。だから好きなのよ」

 そして彼女は、始末に負えないとばかりに肩を竦め、切なげな笑みを浮かべた。


              続く

明けましておめでとうございます

本年もよろしくお願い致します。

あ、今回は多分コメディ回です。二月はもしかしたら手直しの方に時間を割いて最新話の更新はないかもです。出来れば両方やりたいですけれども。

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