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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第四章
30/55

番外編 初恋

気がついたら10万PV超えてました。

皆様ありがとうございます。

という訳で記念に短編書きました。

時系列的にはいまやってる話よりも後のお話になります。本編にはあんまり関係ない話です。

 草いきれを胸一杯に吸い込んで眼下に広がる景色を見渡した。

 深緑を称えた峰峰のその麓、猫の額ほどの平らな土地に家屋がぎゅっと押し込められていて、その中を横切るように川が流れ、彼方に折り重なる稜線へと消えていく。

 花音は、この高台にある神社の境内から見渡す風景を愛していた。愛すべき、箱庭じみた閉ざされた世界。田舎を田舎たらしめる隔絶した存在性を、しかし花音はさほど嫌っては居なかった。かつては、こんな田舎を飛び出して、いずれ都会で暮らすのだ、と意気込んでいたこともあったが、最近ではすっかり愛着の方が強くなっていて、いずれ神職の資格を取るために都会の大学を目指すことになる将来のことを考えると、果たして村の外でもちゃんとやっていけるのか不安になってくる。

 砂利の敷き詰められた境内を横切って、拝殿へ向かう。とんとん、と石の階を上って賽銭箱の隣に腰掛ける。真夏の平日の、田舎の神社に参拝客などそうそう訪れない。周囲の木々から降り注ぐ蝉時雨が辺りを埋め尽くしていた。大半がアブラゼミだ。けれど目立つのはミンミンゼミやツクツクボウシで、けたたましくクマゼミも鳴いている。耳を澄ませばヒグラシも鳴いている。裏の斜面はあまり日当たりがよくなく、昼間でもひんやりしているからだろう。

 退屈である。

 夏休みに入って奈雪が帰ってきてからは、彼女がいつも巫女装束に身を包み、社務所に詰めてもしかしたらくるかもしれない参拝客に備えたり、境内の掃除などをしていたのであるが、今日は彼女は外出していて、その代わりを花音が勤めていた。

 社務所には電気も水道も通っていて、エアコンもあるし小さな冷蔵庫や狭いながらも台所もあるので結構快適だ。おまけにご神木の木陰のなかにあるので一日中日が当たらない。冬は冗談みたいに寒いが、この季節は冷房なしでも十分過ごせるくらい快適だ。以前は、いつもここで奈雪が勉強をしたり趣味の裁縫に精を出したりしていて、花音はいつも横からそれを眺めていた。見ているだけで楽しいのか、と時々訊ねられるけれど、楽しいからそうしているのだ。大好きな人が何かに熱中している姿を見ているとこちらもなんだかわくわくしてくる。

 とはいえ今日は一人だ。最初は夏休みの宿題をやって、きりの良いところまで終わったので畳の上でごろごろしてのんびり過ごしていたのだが、だんだん暇を持て余すようになってきて、軒下に立てかけてあった竹箒をひっつかんで境内に躍り出たのである。そして、枯れ葉や枝を集め、砂利を均し、暇をつぶしていたのであるが、しかしとうとうやることがなくなった。仕方なく風景を眺めていたが、それにもとうとう飽きてしまった。奈雪が進学のために村を出てからは、ずっと一人でやってきたのに、すっかり昔の感覚に戻ってしまっている。

 社務所に戻って、中においてある奈雪が持ち込んだ小説か漫画でも読もうか。普段はそうしている。しかしすっかり気持ちが億劫になっているので体が動かない。

「いつもそうしてるけど、退屈じゃないですか」と狛犬に話しかけて見ても答えが返ってくる訳もなく、ため息をついて仰向けに寝転がった。意味もなく足を二度三度とばたつかせてからぐったりと大人しくなって、またため息を吐いた。

「暇です」

 いまは宗平がこちらに遊びに来ている。本当なら一緒に本家の方で過ごしていたはずなのだ。それなのに、奈雪が怜と一緒にどこかに出かけてしまったものだから、こうして退屈することになったのだ。

 いまごろ宗平は何をしているのだろうか。普段は厳しい祖母も、彼にだけはだだ甘なので、きっと迷惑がるのも無視して構いまくっているに違いない。

 耳朶を打つ蝉時雨に包まれながらゆっくりと瞼を閉じる。そのまま無心でいるとだんだん眠たくなってくる。どうせ誰も来ないのだし、このまま寝てしまっても問題はないだろう。なんて考えているうちにだんだん蝉時雨が遠ざかっていくような感覚に襲われて、花音は眠りに落ちていった。



 懐かしい夢を見た。

 まだ幼かった頃の夢だ。

 境内へ続く石段を登っていた。胸をときめかせながら、何かに急かされるように。ふと見上げた先に見えた後ろ姿に胸が高鳴った。

「お兄さま」

 大声でそう呼んだ。

 振り返った彼は困ったような笑みを浮かべていた。

「なに?」と彼は言った。

「待って!」

「待ってるよ」

「すぐに行きますから!」

 歳は一つしか違わないはずなのに、花音の体は小さくて、だから石段を登るのも一苦労だ。壁をよじ登るみたいな気持ちで彼のいるところを目指す。

 後少し、と言うところですっと目の前に手がさしのべられた。

「一緒に行こうか」

 その手を握るべきかどうか、花音は悩んだ。自分の力で登りたい。それは子供特有の、子供扱いされたくないという意地ではあったが、しかし彼の手の温もりを思うと、その手を取らないことも惜しいような気がした。

 散々悩んだ挙げ句、花音はその手を借りることにした。自分よりも大きな手。頼もしいお兄さまに手を引かれて石段を一つ一つ登っていく。さっきまで背中を追いかけていたのに、いまは隣に居る。それが少し嬉しくて、自然と笑顔を浮かべていた。

 そうして石段を登りきって、それから、どうしたのだろう。夢の景色が曖昧になる。水底から見上げた太陽のように朧気な覚醒が訪れる。

 あのとき、どうして私は神社を目指していたのでしょうか。

 そんな疑問を置き去りにして、夢は醒めた。



 最初に感じたのは違和感だった。賽銭箱の隣、つまり床の上に直に寝ころんでいたはずなのに、どういう訳か頭がそれなりに柔らかいものの上に乗っていて、首の角度もまるで枕に乗っているかのようだ。それに、どうしてか、鼻孔に届く匂いを嗅いでいるととても安心する。何の匂いだろう。奈雪に似ているようで、でも明らかに違う。そうだ、これは。

「お兄さま?」ぼんやりとした口調で、そう呟いた。なんとなくそんな気がして、無意識に言葉が口を衝いてでただけだったので、「おはよう」と返事が返ってきても、しばらく事態が飲み込めなかった。

 頭上に響いた「おはよう」という言葉の意味をじっくり考えて、それから眠い眼をぎょっ、とこじ開けてみると、こちらをのぞき込む宗平の顔が見えた。

 飛び起きて、転がるように石段を下りて、拝殿へと振り返った。

「な、ななな、ななんでそう兄さまが!?」

「いや、一人で暇してるんじゃないかと思って」彼は夢の中と同じ様な困った笑みを浮かべていた。「あとはまあ、婆さんから逃げてきた。怜も奈雪姉さんも居ないしさ。月子姉さんはあれだし」

「そ、それで、こちらへ来られたと」

「ま、そゆこと」そう言って彼は笑った。「そしたら花音が気持ちよさそうに寝てたからさ」

「し、しかしだからといって、どうして、ひ、膝枕なんて」

「いや、床に直に寝てたら頭とか痛いだろ?」

「まあそうですけど」

 彼のいつも通りの姿に、ようやく気持ちが落ち着いてくる。彼は鈍い男だ。こちらが異性として意識しているのを知ってか知らずか、不意にこういうことをしてくる。彼にしてみれば仲の良い従姉妹同士、しかも可愛い妹みたいな相手だからそうしているだけ、なのだろうけれども、こっちはそれでは済まないのだ。あるはずもない可能性が脳裏にちらついて、動揺してしまうのだ。

「まあそれに、懐かしかったっていうか」

「懐かしい?」

「覚えてないかな。小さい頃、今日みたいに膝枕してやったことあったろ?」

「ありましたっけ?」と首を傾げてから、ふと夢のことが脳裏を過ぎった。

「まだ小学校に上がる前くらいだったかなあ。何かの用事で俺がこっちに遊びに来てて、その時にさ、急に花音が神社に行きたいって言い出したんだよ」

「そうでしたっけ?」朧気だが、なんとなくそういうことがあったような気がしないでもない。

「じゃあ宗平着いていってあげなさい、って早希おばさんが言って、それで二人でそこの石段を登ってきて、それからアリジゴクの巣に蟻放り込んだり、掘り返したり、ハンミョウ追いかけてきゃっきゃ騒いだりしたんだよなあ、確か」

「ああ、そうだ。思い出しましたよ。ていうかハンミョウはともかくアリジゴクの件はなんというか」

「子供って無邪気で残酷だもんなあ」と彼は笑う。「まあ、それで遊び疲れたんだろうな。二人で賽銭箱の隣に並んで座って休んでたら、急に電池が切れたみたいに、こてん、って眠っちゃってさ」

「私がですか?」

「そう。花音が」彼は頷いた。「で、それから起きるまで膝枕をしてやって待ってたって言う、まあそれだけの話なんだけどな」

「ええ、ええ。思い出しましたよ」

 あの夢を見たのは偶然ではないのだろう。あのときと同じように膝枕をされていたからこそ、記憶の奥底から呼び起こされたに違いない。

 あの頃の自分は、彼の事をどう思っていたのだろう。早熟な子供であれば、あれくらいの年齢ですでに恋愛感情にも似た物を抱くこともあるのだけれども、残念なことにあまりそういう記憶は鮮明には残ってはいない。ただ、彼は大好きなお兄ちゃんで、すごく懐いていたことは確かだ。

「ていうかさ。そんなとこ突っ立ってないでこっちこいよ」と彼は右手で床をとんとんと軽く叩いて隣に来るよう促した。

 誰のせいでこんなところに突っ立って居るのか判っているのだろうか。なんて考えているとちょっとだけ意地悪がしたくなって、彼の隣ではなく賽銭箱を挟んだ向こう側に腰を下ろした。

「なんか機嫌悪くないか?」と彼が言った。

「不機嫌です」と花音は答えた。

「もしかして寝顔撮ったのバレてた?」

「はあ!? 何やってるんですか!」

 思わず立ち上がって、彼の方へ振り向いた。

 彼はくすくすと笑いながら「冗談だよ」と言った。

 その冗談に何の意味があるのか。花音は妙にがっかりしながらため息を吐いた。それからすとん、と腰を下ろして、がっかりしてしまったことを後悔した。怒れば良かったのに。そう思っても案外楽観的で単純に出来ている自分の頭はきっとそんな風には考えてくれないのだ。

「まあけど、可愛い寝顔だったぞ」彼が言った。きっとフォローのつもりなのだろう。よかれと思ってこういうことを言うからたちが悪いのだ。

「そう言うこと言うのは浮気ですよ」と花音は言った。素直に言葉を受け取って喜んではだめだ。そう自制するために、敢えて意地悪なことを言うのだ。

「はは」と彼は笑う。「確かに、怜が居るところじゃ言えないかもな」

「兄様」

「なんだ?」

「やっぱり隣、いいですか?」

「もちろん」

 賽銭箱の前を通って、彼の隣に移動する。そして彼の隣に座ろうとした花音は、呆然と目の前の空間を見下ろすこととなった。

 一体、どの程度の距離を保って、彼の隣に座ればいいのだろう。距離感が全く判らない。肩が触れ合うほどの近さは何か違うし、かといって遠いのは嫌だ。

 迷っていると、不意に彼に腕を掴まれて「さっさと座れ」と問答無用ですぐ隣に座らされた。ちょうど、何気なく体の横に置いた左手と、彼の右手が自然と触れ合うような絶妙な距離に収まっていた。

「ち、近すぎないですかね」と花音は緊張しながら言った。

「反抗期か?」

「違いますよ。その、ですね。近いです」

「そうか?」

「兄様は、女の子に対する態度をいろいろと改めるべきだと思うのです」

「女の子って、ああ、そうか」と彼は呟いた。

「まあ、その。そう言うことです」花音は俯いて答えた。「ご存じだったんですね」

 いつから気づいていた、とは訊かない。きっと自力で気づいた訳ではないはずだから。

「前に、月子姉さんから聞いてさ」

 思っていた通りの答えに、もはや落胆するのも虚しく、やれやれと苦笑を浮かべて、「余計なことを吹き込まれましたね」と冗談めかして言った。

「おかげでちょっと見る目が変わったよ」

「そうなんですか?」それがどういう意味なのか。身も蓋もなく訊ねたい衝動を抑えて、花音は小首を傾げる。

「まあな」と彼はドコか遠くを見ながら答える。

「浮気、しちゃいます?」

「何言ってんだよ」

「冗談です」

「だろうな」

「もし、本気だったらどうします?」

「どうもしないよ」

「例えば、私が強引に迫ったとしたら?」

「逃げる」

 彼は肩をすくめた。

 花音は笑っていいのか泣いていいのか判らずに、中途半端な苦笑を浮かべて「賢明です」と言った。

「それにしても判んないなあ」

「なにがですか?」

「一時期さ。俺のこと嫌ってただろ?」

「ああ、あれは」

 思春期の扉を叩いてそのドアノブに手をかけ始めた小学校高学年という多感な時期に、一時的ではあるが宗平に対して冷たい態度をとっていたことがあった。理由は言わずもがな、ただの照れ隠しである。自分の胸に芽吹いていた気持ちに改めて気が付き、それが持つ意味についてあまりにもナイーブになりすぎたせいだ。それにいつも奈雪と仲良くしている彼と、彼と仲良くしている奈雪の両方に焼き餅を焼いていたので、困らせて気を引きたかったという理由もあった。

 それらのことを考えながら、いまいちしっくりくる言葉が思い浮かばなかったので、「反抗期です」と花音は答えた。

「そっかあ。反抗期か」

「嫌いになったりした訳ではありませんでしたから」

 そこでふと、花音は考える。あの頃もっと素直なら、彼の気持ちがこちらに向けられることもあったのではないか、と。そうならなかったからこそ考えられる「もしも」の可能性であるが、冷静になってみればそんなことはない、と思えるのだが、どうしても、彼の隣にいるとそう言うことを考えてしまう。

「ただ、後悔してます」

「後悔?」

「あの頃、ちゃんと素直になっていれば、もっと楽しく過ごせたはずですし」

 彼に対して冷たい態度をとって、そのたびに後悔して胸の痛みに苛まれて、時々涙を流すこともあった。不安定な心に翻弄されて大いに苦悩し、その数年を過ごすこととなった。

「嫌われたのかと思って結構ショックだったんだよなあ」

「うぅ。すみません」

 そう言って俯いた花音の頭を、宗平の、去年より少し大きくなった気がする手が撫でた。

「まあ過ぎたことだし気に病むな」

「兄様がそう言うのであれば」花音は溜息をついた。「ところで、さっき私が言ったこと、もう忘れてませんか?」

 彼は何のことだ? という顔で頭をぽんぽん撫でている。

「その手ですよ。だからなんでそうやって気安くスキンシップ取ってくるんですか」

「ああ、すまん」宗平は手を引っ込めた。「なんていうかさ。ヤタローがそばに居たら頭撫でたくなるだろ? そう言うあれだよ」

「私は犬ですか」

 ヤタローというのは本家で飼っている三頭のミニチュアダックスフントのうちの一頭の名前である。

「花音は犬っぽい」彼はそう言って一人で得心している。

「はあ?」と花音は彼の顔をのぞき込んだ。「なんで犬なんですか」

「猫っぽくはないだろ?」と彼は諭すように言う。

「いえ、猫っぽいですよ」なんとなく素直に頷くのも、受け流すのも気にくわなくて、そう反論する。

「猫は月子姉さんじゃね? ふらーっとどっか行って懐いてる相手にだけ自分の都合でべったりする辺り」

「うーん。まあそう言われると」

「花音は犬。特にあれだ。小型犬」

「じゃあ雪姉様は?」

「大型のネコ科の生き物」

「まあ結構肉食系ですけど」

 なかなか理想の相手に巡り会えないとはいえ、よくもあそこまで彼氏を作っては別れて、また作っては別れてと繰り返せる物だ。奈雪の事は尊敬しているが、その部分だけはどうしても理解出来なかった。

 宗平はそのことをどう思っているのだろう。

 ふとそんな考えが脳裏をよぎる。

 奈雪は宗平のことをとても可愛がっていた。将来は自分の婿にするなどと豪語して、逆光源氏計画とかなんとか恐ろしいことを言って宗平にちょっかいをかけまくっていた。それがいつ頃からかぱったりと止んで、代わりに男をとっかえひっかえするようになったのだ。思春期を迎えて心が移ろったのか、と思うとそうでもなく、相変わらず宗平にちょっかいをかけているし、どう見ても嫌いになったり興味を失ったりしている風ではない。怜との婚約によって、自分は彼を諦めたけれど、それよりずっと早くに奈雪は諦めていた。一体何があったのだろう。

 今この場で彼に尋ねれば、何か答えか、そこまでは望めなくとも、ヒントくらいは得られるはずだ。

 けれど、それを聞いてしまうのが何故だか恐ろしくて、彼との他愛のない会話に興じてその欲求を押し殺した。

 気がつくとヒグラシの声が大きくなっていて、涼やかな風が境内を吹き渡っていた。

 杏色の空を見上げ、「そろそろ帰るか」と彼が言った。

「はい」と花音は頷いた。

 二人きりの時間が終わってしまう。先に立ち上がった彼の、シャツの裾を掴みそうになった。伸ばしかけた指をぐっと握り、ほう、と息を吐いてから立ち上がった。

「兄様!」

 花音は大声で彼の背中に呼びかけた。

 彼は狛犬の辺りで立ち止まり、振り返った。

 次の言葉が続かない。まさか行かないでとも言える訳もなく。夕映えよりも赤くなった顔で口をぱくぱくさせてから、「幸せになってください!」と言った。

 彼は突然何を言い出すんだ、という顔でこちらを見ていた。

「怜さんは、大変な目にあった人です。だから、絶対に幸せにしてあげてください!」

 本当はそんなことを言いたい訳じゃないけれど、でもこれも本心の一部だ。

「言われなくてもそうするよ」と彼は微笑んだ。

「それから!」ぐっと拳を握る手に力を込めた。「私も幸せになります。兄様が、私の婿にならなかったことを後悔するくらい。綺麗になって幸せになってみせます」

「ああ、期待してる」と彼は言った。

 この先、どれだけ自分が女を磨いて、いい人に巡り会って、幸せな家庭を築いたとしても、彼がそれを妬むようなことはないだろうし、後悔なんて絶対しないだろう。

 そう思うと胸が痛い。けれど、この晴れ渡った夕映えの空のようにどこか清々しい気持ちにもなれた。

 ほう、と息を吐いてから境内に降りる。

 立ち止まったままの、彼の脇を抜け、少し歩いたところで振り返った。

「帰りましょうか」

 彼が頷いた。

 花音は彼を待たずに歩き出した。

 これでいいのだ。

 陰り始めた夕空を1羽の鳥が飛んでいく。その軌跡を目で追ってから、石段を一歩一歩降りていった。


             了

正月休み中に本編更新します。今月ちょっと間に合わなくて申し訳ないです

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