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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第四章
29/55

The Tragedy Act4 "snowbound"


                    ※※※


 もしかして、これは千載一遇の好機ではないだろうか。

 諦めかけていたところに降って湧いたような好機に、私は内心胸を躍らせながら、事の次第を見守っていた。

 明日まで電車が動く見込みはない。そうなればこの近辺のどこかで宿を取らなければならない。帰ることが出来ないのだから仕方がない。中学生だけ、ということもあるのだろう。先ほどから宿泊先を探すために手当たり次第に電話を掛けている三島の表情は暗い。

「どう?」と私は訊ねた。

 彼は首を横に振って「全然」と答えた。「中学生云々の前に、部屋がそもそも空いてない。なんか明日ここらで色々イベントがあるらしくて、そのせいでどこも一杯みたい」

 このままどうなってしまうのだろう。

 壁際のベンチに座り、駅の構内を流れていく人混みを眺めていた。何もしないのはなんだか申し訳ない感じもするが、ここは彼に任せておこう。彼ならきっと悪い判断はしないはずだから。

 いつだって、私の胸の中には彼に対する信頼があった。それもすべて、彼が私に、バスケという生きる道標を見つけてくれたことがきっかけだ。彼のお陰でいまの私はここにいる。だから、私は彼の判断を疑ったりはしない。

 ため息をついて、彼が私の隣に腰を下ろした。

「最悪漫画喫茶かどっかで一晩明かす」彼はそう呟いて、前屈みの体勢で両膝にヒジをついて、顔を両手に埋めた。

「大丈夫かな」私は言った。

「判らん」

 今夜彼と二人で居られる。

 胸がどくんと高鳴った。

 きっと彼は間違いを起こしたりなんかしない。そう、彼からは絶対に何もしてこないはず。

 だからこそ、こちらから仕掛けるのだ。

 彼には申し訳ないけれど、私は、彼が思っているほど聞き分けの良い人間ではない。

「三島。体調は?」

「ああ。まあ、それなり」

 映画館を出た時よりかはいくらか顔色は良くなっているし、喋る声にも元気は戻ってきている。それでも本調子にはほど遠いのは間違いない。

 私は彼の膝に手を伸ばした。しかし指先が触れる前に、慌てて引き戻して、その手を胸の前でぎゅっと握った。

 弱っているところにつけ込もう、という姑息な考えがあることは否定しない。体調もそうだけれど、精神面でも弱っている部分がある。私と香奈の間に板挟みになっているだけではない。きっと彼は恋人といまあまり上手く行ってないのだろう。だからこそ、私の誘いに乗ってきたのだ。

 やっぱり、いまがチャンスだ。

 そう思い直して、再び手を伸ばし始めたところで、彼の携帯が着信音を鳴らした。

「怜からだ」彼はそう言って画面をタップした。

 私は伸ばしかけた手を結局また元の位置に戻して、天を仰いだ。

 焦る必要はないのだ。今夜一杯、時間はある。

 香奈は、キスをしたと言っていた。

 彼からするはずはないので、きっと香奈の方から強引に迫ったのだ。

 私も、したい。

 電話に向かって話す彼の唇。

 どんな感触なんだろう。

 自分の唇を指で触ってみる。

 もし、二人きりの空間でそんなことをしてしまったら、私は理性を保てる自信がない。

 心臓の鼓動が大きくなって、耳の内側から拍動がどんどん膨らんでくる。どうしよう。きっといま、私の顔は真っ赤だ。

 よく香奈に言われた。私はむっつりだと。一度もその言い分に賛成したことはないけれど、内心では自分でもそうだと思う。普段から、彼のことを考えて、妄想してきた。彼のにおいを思い出しながら。

 もしそれが現実になったら、なんて考えたら頭がどうにかなってしまいそうだ。

「井上?」

 急に声を掛けられて、私は思わずぎょっと目を見張ってしまった。

「どうかした?」彼が少し困惑したような表情を浮かべた。

「ううん。ちょっと、ぼーっとしてて」状況を考えればそれほど間違った言い訳ではない。「なにかあった?」

「宿が決まった」そう言って彼はやれやれ、という風にため息を吐いた。

「どこ?」

「知り合いの部屋に泊めてもらえることになった」

「知り合い?」

「まあ、知り合いだ。多分、井上も知ってる人」

 彼の言葉に、私は首を傾げた。そんな人、いたっけ?

 正直なところ、香奈に遠慮していたこともあって、プライベートではあまり彼との付き合いはなかったし、だから共通の知り合いと言えるような人も、学校でいつも一緒に居る面々以外にはいないはず。

「どんな人?」

「そうだなあ。まあ良い人だよ」

「男の人?」

「いや」と彼が一瞬目をそらした。

「へえ」

 彼の答えを聞いて、すぐに胸の中でハリセンボンみたいにトゲトゲした気持ちが膨らんできた。彼の頼みで部屋を貸してくれる女の人。一体どんな女なんだろう。それに私が知っている人、となると、余計に気になる。ノーマークだった知り合いが居ると言うことだし。

 件の人物はいまこちらに向かっているということらしく、私たちはそのままベンチに座って、その人物の到着を待った。

 彼の横顔が、心なしかウキウキしている様に見えるのが、気にくわなかった。私が隣にいるのに、他の女性のことを考えている。今日くらいは、私を特別な存在として見てくれてもいいと思うのに。

 自分の焼き餅がお門違いなのは重々承知しているつもりだけれど、抑えきれないものは仕方がない。

 私は彼の手の甲をぎゅっとつねった。

「いてて。なにすんだよ」と彼は言った。

「まだ、デート中」私は言った。

「俺、なんかしたか?」

「知らない」

 彼を困らせてやろうと思った。人の心をかき乱すくせに、自分はいつもどこか違う場所で澄ましている。いつだってそうだ。私ばかりドキドキさせられて、彼は違うところを見て澄ましている。勘違いさせるようなことをして、後始末を何もしない。おかげで、私はもう、三島のことしかみれない女の子になってしまった。

 せめてこの報われない初恋の、その代償の一部でも肩代わりさせてやりたい。だから明日別れるまでの間、徹底的に困らせてやる。そう心に誓った。

 でも彼は、すぐに仕方がない、という風にため息をついて、私の手を握った。

 こちらを見た彼の目が、これでいいか? と訊ねてきているように見えて、気に障った。けれどそれで満足してしまっている自分も居て、私は自分の安さに自己嫌悪しながらも、彼の手の温もりを感じて、それがもっと欲しくて強く握り返した。

 そうだ。彼が思いを馳せている女性が目の前に現れたら、彼に抱きついてやろう。そうすれば、流石に彼も慌てるに違いない。名案だ。

 澄ました横顔が、どんな風に変わるのか、想像するだけで胸が弾んでくる。

 そんなささやかな野望を果たす機会をいまかいまかと待ちわびながら、私は彼の手のひらから伝わってくる温度を感じていた。彼の手は、私よりも少しだけ暖かくて、私のそれよりも少しだけ小さい。決して彼の手が小さいという訳ではない。私の手が大きすぎるのだ。背も高くて手も大きくて、女の子らしくないところが多いのに、彼は私を綺麗と言ったり可愛いと言ったりする。しかも嘘やおべっかでもない。本当になんなんだろう。そんなこと言うくせに、勘違いさせるだけさせて、いつもこちらを見ていない。

 沸々と浮かんでくる怒りにも似た感情。それはやがて、ずっと気持ちを押し殺してきた自分自身にたいする憤りへと変化していった。

 いつ頃、彼に恋人が出来たのか。多分、あの事故の近辺だと思われる。根拠はない。女の勘だ。

 もし、もっと早く、煮え切らない香奈に見切りをつけて、さっさと裏切っていれば、あるいは私にもチャンスはあったかもしれない。

 いまでも思い出す。あの体育倉庫で過ごした時間を。あそこで告白していれば、いまの私たちの関係は大きく違っていたかもしれない。

 あの時彼は誰かに片思いをしていた。けれどそれを諦めている節もあった様に思う。だから、妥協で私を選んでくれた可能性はあっただろう。

 悔しさを飲み込むように唇を噛んだ。

 横目で彼の表情を伺った。

 先ほどから変わらず、彼は人混みの中に待ち人の姿を探しているようで、せわしなく視線が動いていた。まるで、ずっと待ちわびた恋人の姿を探している様に。

 やがて方々に散らばっていた視線が一点に定まったかと思うと、不意にその横顔が明るく、華やいだ。

 彼が浮かべた歓喜の表情に、私は泣きたくなるくらい胸が苦しくなって、思わずつないでいた手を離してしまった。それと同時に彼が立ち上がった。きっと手が離れてしまったことになんて気が付いていない。

 彼の目線の先には小柄な女性が立っていた。

 その姿を見て、一瞬、おや? と思った。

 顔は、よく判らない。なんだか似合っていない伊達メガネと口元を覆っているマスクのせいだ。けれど妙な既視感があった。

 服装は、オフタートルのニットのワンピースの上に丈の長いふわっとしたカーディガンを羽織っていて、くせっ毛な髪と相まってゆるふわな印象第一印象だった。ワンピースのすぐ下に見えるショートブーツも手に持った水玉模様のバッグも可愛らしくて私とはまったく別の人種の人間だと思った。

 彼女が、彼の婚約者なんだろうか。結局怖くて、私は誰が彼の婚約者なのか、いまのいままで訊いたことがなかった。

「久しぶりね」とその女の人は言った。見た目の割に声はちょっと低めだった。「宗平君。と、えっとそれから」と彼女はこちらを見て、「あなた、前に会ったこと、あるわね」と思案顔で首を傾げた。

 私はどう答えて良いものか迷ったあげく、慣れない愛想笑いを返した。きっと頬がひきつっていただろう。

「ああ。そう言えば夏井が言ってたっけか。会ったことあるって」何かを思い出した様に彼が言った。それから彼は周囲を見回して、誰もこちらに注目していないことを確認してから、少し声を潜めて、「彼女は、相川さくら、って言うんだ」

「えっ」と思わず声を出してしまった。そうだ。だから見覚えがあったんだ。

「さくらさん。彼女は俺の友達の、井上奈々子って言います」と彼が私の方を手で差して紹介してくれた。

「ああそう。奈々子ちゃん。夏に一度会った事があったわね。そうそう。思い出した」と相川さんは嬉しそうに言った。「まさかまた会うなんて。奇遇ね」

「いえ、その」

「まあ、色々訊きたいことあるんだけれども。とりあえず私の部屋でね」そう言って彼女は微笑んだ。でも、背筋が凍り付きそうなほど、その目には敵意が込められていた。

「もうこっちに部屋借りてるんですね」とそんな彼女のそぶりに気付いた様子もなく、彼がのんきな質問をした。

「ええ。実は、宗平君がうちに来てくれた時にはもう、入居済みだったの。ほら、私の部屋、殺風景だったでしょ?」そう言うと彼女はとても自然な動作で、私と彼の間に割って入ってきて、彼の腕に抱きついた。私は目の前で行われたその明かな敵対行動に、思わず面食らってしまった。

「あの。さくらさん?」

「だって、久しぶりなんだもの」

 困惑する彼をよそに、彼女は甘えた声でそう言った。

「いえ、その。井上も居るんですよ」

「いいじゃない。友達なんでしょ?」彼女はこちらを見た。「ねえ?」

 おまえは彼の特別ではない。ただの友達なのだ。相川さんの目はそう私に語りかけている様で、胸の苦しさで窒息してしまいそうだった。

「その。さくらさん。あんまりそう言うのは感心しないですよ」と彼が言った。

「ごめんなさい」としかし悪びれた様子もなく、「だって、久しぶりに会うのに、別の女の子が一緒に居たんだもの。妬いちゃうわよ」

 それから相川さんは、三島から離れて、「それじゃ、案内するからついてきて」と小首をかしげた。



 


 私たちは相川さんに案内されるまま、雪に埋もれそうになっている街を歩いた。思いの外距離があるように感じられたのは、雪のせいだけではない。目の前で妙に仲良く並んで歩く二人の姿をずっと見せつけられていたからだ。

 二人の関係は一体どう言ったものなのだろうか。

 互いに相手を思い合っているような表情を見せる反面、どこか余所余所しい雰囲気も漂っていて、なんだか判断に困る。けれど一つ確実にいえることは、いま現在私は蚊帳の外に追いやられてしまっているということだ。ちょっと前まで体調不良で辛そうにしていたのが嘘みたいに、彼の表情が明るいのが、とにかく気にくわない。胸の痛みも苦しさも、とっくに限界を越えてしまっていていますぐにでもどうにかなってしまいそうなほど、心臓の鼓動が頭の中ででたらめに鐘を衝くみたいに暴れ回っている。けれど相手はあの相川さくらだし、私はそこで躊躇してしまって、何も言えないまま黙って歩いていた。

 捨て犬が、親切にしてくれた通りすがりの誰かの後を追いかけるかの如く、とにかくみじめで人恋しかった。二人の間に割ってはいる勇気が欲しい。

 まごまごしている間に目的地に到着してしまった。

 見るからに家賃が高そうなおしゃれなマンション。

「さくらさん。またえらく高そうな物件じゃないですか」と彼が苦笑しながら言った。

「まあそれなりに」と事も無げに相川さんは答えた。「稼ぎはあるからね」

「流石ですね。なんだか住む世界が違う感じがする」と彼は言う。

「あら。怜もあれでかなり稼いでるわよ」

「らしいですね。うちで一番の稼ぎ頭だとかなんとか。まあ何描いてるのか教えてくれないんで全然実感ないですけど」

 相川さんが暗証番号を解除して、マンションのロビーに入った。エレベータに乗り込んで、どんどん上がっていく階数表示をぼんやりと眺めていた。

 一二階でエレベータを降りた。

 廊下はよく掃除されていて、ゴミ一つ落ちていない。まだ建てられてそれほど立っていないらしく、全体的に小綺麗だった。小学生の頃に住んでいた部屋はそれなりに良いところだったらしいけど、ここはそれよりもさらに家賃が高そうだ。そんなマンションの一人暮らしをするには少々広すぎる部屋が相川さんの家だった。

「リビング広いですね」と彼が感心しながら言った。「でも一人だと広すぎませんか?」

「あら? 心変わり?」と相川さんが首を傾げた。

「なに言ってんですか」と彼は苦笑する。

 どうやら何かしらの冗談が交わされていたらしい。相変わらず私は蚊帳の外だ。

「ま、広すぎるとは思うわ。でも誰にも邪魔されない空間ってのは悪くないわ。どんな場所だって、あの家と比べれば天国よ」

 何か飲み物用意するわね。そう言って相川さんはキッチンの方へ消えていった。私たちはリビングのソファに座って、彼女を待った。

「三島」と私は隣に座る彼に話しかけた。「どういう関係?」

「ああ。まあ、その、なんていうか、だな」と彼は歯切れの悪い応えをする。「色々あった仲、かな」

「なにそれ」そんな説明で納得すると思っているのだろうか。「ちゃんと話して。知りたい」

「元カノよ」とマグカップを載せたお盆を持って相川さんがやってきた。「彼と前に付き合ってたの。ね?」

「まあ、そういうこと」と彼は肩を竦めた。

「元カノ……」私はすぐにその事実を飲み込めずに一度反駁して、それから改めて、「付き合ってた時期があったって、こと?」と訊ねた。

「そうよ」と相川さんは向かい側のソファに腰を下ろして、「私が彼の初めてだったの」

 彼女の挑発するような物言いにむっとしたけど、それを堪えて「そうなんですね」となるべくいつも通りを意識しながら返した。

「さくらさん」と彼がため息を吐いて、「何張り合ってるんですか」

「宗平君。私は嫉妬深いの。知らなかった?」

「いえ、よく知ってます」

「つまりそう言うこと」

「そんなことよりですね」

「ちょっと。そんなことって、どういうことよ」

「いえ。お腹が空いてるんです。俺たち。もう良い時間ですし、夕飯どうします?」

「ごめんなさい。何も考えてないわ。だって、急に怜が電話してくるんだもの。宗平君が困ってるから泊めてやれないかって。それはもう嫌そうな声で。おかげで途中で奈雪に代わらなかったら危うくその場のノリで断るところだったわ」

「すみません。急なことなのに」

「いえ、いいのよ。迎える側がもてなすのが礼儀だもの」そう言って彼女は彼の方へほほえみかけた。「何か作るわ」

 へえ、相川さんって料理が出来るんだ。なんて暢気に考えながら様子を見ていると、三島が「出来るんですか?」と訝しげな表情で言った。

「ちょっと位は。あ、でも、そうね。いつかの約束、とっくに反故にしちゃってる部分はあるんだけど、でも、果たしてくれるっていうなら、大歓迎よ」

「約束?」私は彼の方を見た。

「ああ。前にさくらさんと約束したんだ。受験も何もかも終わって春になったら料理を教える。それまでは会わないって」

「ふーん」

 なんだか愛人との逢瀬の約束みたい。結局反故にしてそれより早く会ってしまっているあたり、余計にそれっぽい。

 私は訊いてちょっと後悔した。彼はそんなつもりないのだろうけれども、明らかにのろけている。顔がでれでれしすぎだ。

「まあ、乗りかかった船ですし。いいですよ。冷蔵庫見せてもらいますね」

 そう言って彼はキッチンへと向かう。

「あ」と何かを思い出した様に相川さんが声を上げた。「空っぽだわ」

 彼が足を止めて振り返る。「え?」

「まともな食材がないわね。よく考えると」

「あの、さくらさん?」

 彼の咎めるように目に、相川さんは、「いえ、その。しばらく家を空けてて、それで腐ったら嫌だから、日持ちするもの以外は処分しちゃったのよ。主に食べて」と言い訳をした。

「じゃあ買ってこなくちゃダメですね」彼がため息を吐いた。

「でも、雪、すごいよ」私は言った。

「いや、大丈夫だろ」と彼は言った。「来る途中で、見たんだけど、すぐ近所にスーパーがあったし」

「よく見てるわね」感心したように相川さんは言った。

「クセですよ。なんかスーパーあったら見ちゃうんですよ。どっか出かけた時とかも、帰りに夕飯の材料をついでに買ったりとかしてるせいで」

「あなた本当に、主夫って感じね」

「まああながち間違ってはないですね」と彼は苦笑した。「そんなことより、行きましょう。あ、そうだ。井上、なんか食べたいものあるか?」

 彼は相川さんではなく、私にそう訊ねた。

「えっと」まさか私に訊いてくるなんて考えてもなかったので、すぐに応えられなかった。

「ねえ、どうして私じゃないのよ」不満げに相川さんが言った。

「いや、一応、今日は井上とのデートという体なので」彼はそう言って苦笑する。「ずっと調子悪くてそれらしいことも出来なかったし」

「怜から一通り事情は聞いたけど、そこまでする義理、あるの?」と相川さんは若干あきれている様だった。しかしすぐに諦めたようにため息を吐いて「まあ、それがあなただものね」となんだか判ったようなことを言った。「私が言うのもなんだけど、怜も苦労するわね」

「あの」と私は二人の会話に割り込む。

「お、決まったか?」

「何か、暖かいもの」蚊帳の外に居るのが我慢出来なくて声を掛けたけど、正直具体的に何が食べたいかという要望は何も考えていなかった。

「暖かいもの」と彼は私の曖昧なリクエストを受けて、しかし真剣に考え込み、「よし。じゃあポトフでも作るか。簡単だし。多めに仕込んでおけば、明日も食べられるし」

「あら、そこまで気を使ってもらわなくてもいいのよ?」と相川さんが言う。

「いえ。多少分量が増えても手間は大して変わりませんから」

「そう?」

「ええ。ああ、そうだ。ポトフだけだと寂しいですしあと何品か適当に作りますね」そう言って彼はこちらを見た。「井上。これでいい?」

「うん」私は大きくうなずいた。そう言えば、三島の手料理を食べるのは始めてだ。料理が上手だとは以前から聞いていたし、SNSによく料理の写真を投稿していて、どんなものか興味はあったのだ。

「じゃあ、買い出しに行きますか」彼は言った。



 数十メートル先の視界すら危ういほどのぼた雪が降り注ぐ中、私たちはスーパーへ向かって歩き出した。かさかさ、かさかさ、と傘に当たった雪が砕ける音を聞きながら、前を歩く二人の背中を眺めていた。ごく自然な流れで、三島と相川さんが相合い傘をすることになり、一人私は蚊帳の外。なんだかもう、いちいちそのことに腹を立てたり嫉妬したりするのも虚しくなってきた(だからといって気持ちを穏やかに出来るかというとそうでもない)。少なくとも彼がまだ相川さんに惚れていることは間違いなく、相川さんの方もそれが判っていて、一応、元カノであるという線引きを形式上はしているものの、端から見れば完全に相思相愛のカップルそのものだ。

 どうして二人は別れたのだろう。

 同じ傘の下で肩を寄せ合う二人を見ていると、そんな疑問を抱かずには居られなかった。

 スーパーはすぐそばだったけど、雪道を歩くのは骨が折れる。数十メートルほどの道のりだったはずのに、一キロくらい歩いたような気分だ。帰りもあの中を歩かなければならないと思うとげんなりする。冷えと負荷のせいか、膝がじくじくと痛む。三島は三島でどうやら腰が痛いらしい。心配かけまいとしているのか、それらしい素振りは見せていないが、右側の腰を庇うような歩き方になっている。常日頃彼のことを観察してきた経験上、こう言うときは間違いなく腰痛が悪化している。

 私は少し、意地汚くなろうと思った。

「三島、腰、大丈夫?」

 私が訊ねると、彼はきまりが悪そうに、「一応」と答えた。

「籠は私が持つ」

「おまえだって、膝痛いんじゃないのか?」

「え?」

 私は虚を突かれて思わず、自分の右膝の方を見てしまった。

「だいたい見てりゃ判るんだわ。膝が痛い奴がどういう歩き方をするのかって。公康の奴が一時期膝傷めてて、それでなんとなくね」

「お互い、お見通しな訳」私はふっと微笑んだ。

「二人とも、大変ね」と相川さんが言った。「私は、メンタル以外はいつも健康だから、なんていうか、なんでしょうね」

「こないだインフルエンザで倒れた人が健康?」と三島が笑う。

「それとこれとは別よ。少なくとも、そう言うのをのぞけば健康よ」相川さんは嘆息して、「それはそうと」と私の方を見た。「あなたは彼のこと、よく見てるのね」

「それなりに」と私は答えた。なんだか少し勝った気分だった。

 それから私たちは、必要な食材を選んで籠に放り込んで行った。品定めをする彼の目はとても真剣で、何が何でも美味い物を食わせてやろう、というような気概に満ちていた。彼の隣で、その横顔を見ていると、不思議と胸の中にわだかまっていた不満や嫉妬が和らいでいく。我ながら簡単に出来ているものだな、と内心苦笑しつつ彼についていく。ふと気になって相川さんの方へ振り返ると、彼女は少々つまらなそうな顔で、彼の方ばかりを見つめていた。早く暇をしている私に気が付いて欲しい、というメッセージを言葉にせず目で訴えかけている様だった。尤も、食材選びに夢中になっている彼はそんなことに気が付くはずもない。立場が逆転している。野菜売場の陳列棚の、端の鏡に映った私。その口元は弧を描いていた。

 彼が食材を選んで籠に放り込む度に、籠を持つ右手にずっしりと重みが加わっていく。それがなぜだか心地よかった。どう伝えればいいか、いまいち判らないけれど、彼の為に何か出来ているという、ささやかな充足感があった。とりあえず後で香奈に自慢してやろう。

 買い物を終えて外に出てみたけれど、雪はまだまだ降っていた。うんざりするような雪道を歩いて、私たちは相川さんのマンションへと戻った。

「そんじゃ早速作るか」

 部屋に着くなり、彼はすぐに調理の準備を始めた。キッチンに、順序よく食材を並べて、調理器具を用意していく。

 何か手伝えないかと思っていたけれど、自分で料理をすることなんて滅多にない私は、ただそれを眺めていることしかできない。手際の良さに、入る隙がない。

 彼の隣に立つ相川さんは目を白黒させながら彼の説明を聞いている。

「向こうで待ってる」私は言った。

「おう」と彼は答えた。

 きびすを返して向かったのはリビングで、ソファに腰を下ろしてほう、と息を吐いた。

 何もしないのは気が引けるけれど、何も出来ないし、なによりあの二人がいちゃついているところを見たくなかった。だから逃げてきた。

 テレビは置いてあったけれど勝手に点けて見る気にもなれず、バッグの中から文庫本を取り出して漫然と文章を追いかけた。

 それから三〇分もしないうちに相川さんがやってきて向かいのソファに腰を下ろした。

「もう出来たんですか?」私は訊いた。

「まさか」と彼女は苦笑して、右手を私に向けて広げて見せた。「指、怪我しちゃってね」彼女の白くて綺麗な人差し指に絆創膏が巻き付けてあってガーゼに血の色が滲んでいた。「そしたら宗平君ったら、今日はもう全部やっておくから待ってろって。別にこれくらい大したことないのに」彼女は不満そうに人差し指の絆創膏をなでた。

「怪我。大丈夫ですか」何か言わなければならないような気がしたので、私は怪我のことについて訊ねてみた。

「ええ。ちょっとジンジンするけれど。でもこれくらい、平気なのに」

「心配なんですよ」私は言った。

「でも、過保護だわ。子供じゃないんだから。というか私の方が年上なのに」

「さすがに、包丁持つ方の手を怪我する人に任せられないって思ったんじゃないですか」

「あら、なんだかトゲがある言い方ね」

「仲間外れ」

「え?」

「ずっと二人だけの世界に浸ってて、私だけ蚊帳の外でしたから」

「……良い性格してるわね」

「どういたしまして」私は本を閉じて傍らに置いた。「私だって、彼のことが好きなんです」

「宗平君は、私たちのことなんて、ちゃんと見てないわよ」

「相川さんでも、ですか?」

「ええ。いつだって、彼の頭の中には怜が居て、常にそこを基準にして物を考えてる。私と付き合ってた頃も、きっとそうだったんでしょうね」

「怜? 彼の婚約者って、怜さんなんですか?」

「あれ? 知らなかったの?」

「婚約者がいるってことしか」

「その情報を知ってて、相手を知らないってのもおかしな話ね」と相川さんは笑った。

「おかしな話、と言われても」と私はまた妙な疎外感を覚える。香奈は知ってるんだろうか。いや、香奈はきっと知ってるはずだ。知っていて、黙っていたのだ。三島は婚約者のことは話してくれたけど、相手のことまでは話してくれなかった。

 なんだろう。すごくもやもやする。

「ねえ、奈々子ちゃん」と相川さんが私を見て言う。「それで、例のお友達とは、どうなったのかしら?」

「喧嘩中です」

「彼を巻き込んで?」

「ご存じなんですね」

「一応話だけは聞いてるから」そう言うのと同時に、彼女の口元に浮かんでいた笑みが消えた。「あまり感心はしないわね。喧嘩するなら二人だけでしたらどう? 確かに宗平君は関係あるけれど、でも巻き込む必要はないんじゃない?」

「どうしてそんなことを、言われなくちゃダメなんです?」

「そうね。私は彼の元カノで、そして彼の婚約者の親友だから、かしら」そう言って彼女は私をにらみつけた。「万が一。もしかしたら、なんて考えるだけ無駄よ。何があっても彼は最後には怜のところに帰って行くから」

「相川さんは、考えてないんですか? そう言うの」

「私は、どうやったってもう彼の一番にはなれないもの」

 彼女の言葉にははっきりとした諦観が混じっていた。その割には、三島が私と居たことに嫉妬したり、恋人のように振る舞ったりしていて、なんだか少しちぐはぐな気がする。

「私はね、二番目でもいいのよ」

 私が抱いた疑問に答えるかのように、彼女はそう嘯いた。

「例え二番目でも。彼の特別な誰かの一人であるなら、それで十分」

「本当にそう思ってます?」私は言った。まるで彼女が自分自身に言い聞かせているように見えたからだ。

「答えなきゃ、判らない?」そう言って相川さんは微笑を浮かべた。

「いいえ」私は答えた。「疲れませんか?」

「疲れる?」彼女は目を丸くしてそう繰り返した。それからくすくすと笑う。「そうね。疲れるわ。彼ってすごく無自覚だもの。一応線引きだけはきっちりしてるくせに、して欲しいことをしてくれて、まだ望みがあるかのように振る舞う。ひどい人よね」

「それはまあ、判ります」

 私の誘いを受けたのだってそうだ。香奈と私との間で板挟みになっている状況で、チケットを受け取るだなんて、勘違いしてくれと言っているようなものじゃないか。

「きっと、宗平君はみんなのことが好きなのよ」そう言って相川さんはソファに深くもたれて、足を組んだ。肘掛けに頬杖を付いて、「誰のことも傷つけたくない。そう思ってる節が、どこかにあるんじゃないかしら」

「優しい、ですから」

「そうね」と相川さんはため息を吐いた。「宗平君には一度言ったんだけどね。そう言う優しさはとても残酷だって」

「判ってる、とは思いますよ」私は言った。「今日だって、こんな天気じゃなかったら、映画を見てそれですぐに帰ってたでしょうし」

 映画の後のあの空気を思い出すと、ずきずきと胸の奥が痛くなる。あの時、間違いなく彼は意図的に私に対して冷たく接していた。悲しかったけれど、でもそれでいいのだと、私も諦めが付きかけていた。

「そう言えば、相川さん。一つ、訊いても、いいですか?」

「ええ。答えられることなら」

 彼女が彼と付き合っていた、と聞いた時からどうしても気になっていたことがあった。

「三島が事故に遭った日。もしかして、相川さんと待ち合わせがあったんじゃないかって」

 私がそう言い終わる前から、彼女の顔は堅く強ばって、「そうね」と答えた声は無機質なほどに感情がなかった。

「私との約束がなければ、彼は事故になんて遭わなかったでしょうね」

「いえ、その」

「ええ、いいのよ。ただの自己嫌悪だから」彼女はそう言ってため息をついた。「彼は悪くないって言ってくれた。私も、悪いのは彼につっこんだ車だって判ってる。けど、どうしてもぬぐい去れないのよ。あの日、もし私と待ち合わせをしていなければ。或いは、別の、あの道を通らない場所を待ち合わせ場所にしていればって。きっと、一生抱き続けなきゃいけないんだわ。この後悔を」

 あの日どうして彼があそこで事故に遭ったのか。ずっと疑問に思っていた。それが解消されて、けれど気持ちがすっきりしたかというとそうでもなくて、その約束さえなければ、という気持ちが胸の中に蟠り始めて、そんな自分に自己嫌悪していた。事故に遭ったことに関しては、彼女を責めるのはお門違いだ。ましてや、私は第三者なのだから。

 そうだ。あと一つ、どうしても彼女にぶつけておかなければならない質問がある。

「どうして見舞いに来なかったんですか?」

 香奈に付きそう形で、かなりの頻度で彼の病室を訪れていた。きっと、怜さんや彼の家族を除けば私たちが一番、入院中の彼に会っていただろう。その間に幾人か、彼の見舞いに訪れた人たちと顔を合わせる機会もあった。けれど、恋人だったはずの相川さんとは一度も出会わなかった。それに入院中、彼はずっと寂しそうにしていた。あの当時は入院生活に不安を覚えているからなのだろう、と思っていたけれど、いまの話を聞いて、恐らく相川さんを待っていたに相違ないと確信した。だから私は敢えて訊ねるのだ。そうせずには居られない。私の中にある自分勝手な部分が、彼のために何かしてやりたいと叫んでいるから。私はその衝動を敢えて抑えない。

「逃げたのよ」彼女の答えはとても単純な物だった。「怖かったの。私との約束のせいで事故に遭った彼に会うのが。ただそれだけ」

 バカみたいでしょ、と彼女は言う。自嘲するような卑屈な笑みを浮かべて。

「悲劇のヒロインみたいになった自分に酔っていたのかもしれないわね。事故で恋人が死にかけて。そのことに責任を感じて塞ぎ込む。でもそんな私を根気よく諭してくれるはずの親友は、さっさと私に見切りをつけて彼を奪っていったわ。いえ、違うわ。私の代わりに彼を救ったのね」

 彼女の話を聞いて、私は思わず同情してしまっていた。くだらない答えが返ってきたら彼女に敵意をぶつけようと思っていた。罵る準備をしていた。そして彼女の口から告げられたのはくだらない答えだった。だというのに、私の胸にこみ上げてきたのは、しかたない、という感情だった。もし自分が同じ状況に置かれて、果たして理想としている行動を取れるだろうか。そう考えた時に、私は彼女を罵る為の足場を失ってしまった。たぶん、きっと私も逃げ出していただろうと思ったからだ。

「ね。奈々子ちゃん。私からも訊いて良い?」彼女はそう言って私の顔をのぞき込むように、少し前のめりになった。「宗平君の、どこが好きなの?」

 私はすぐに答えることが出来なかった。あまりにも話題の転換が急すぎたし、そもそも真っ当な流れで質問されたとしてもすぐに答えられるような質問ではなかったので、私は足下に視線を落としてもじもじしてから、「前に、話しましたよね」と過ぎ去った夏の日のことを思い出しながら答えた。実に良い逃げ道だと我ながら自画自賛したくなる。

「ええ。けど、それだけじゃないでしょ?」と彼女はまるでこちらのことを見透かしたように言う。「他にも色々あるんじゃないの? じゃないとここまで入れ込まないでしょ?」

 まるでそう決めつけるような言い方だった。

 私はぐうの音も出なかった。理由はもちろん、その決めつけが正しかったからに他ならない。

「宗平君は料理に夢中で、こっちのことなんて気にしてないから、話してご覧なさい」

「その前に、いいですか?」

「なに?」

「後で、相川さんからも、聞かせてもらいますよ」

 私なりの精一杯の反撃だったのだけれども、相川さんは何食わぬ顔で「ええ、もちろん」と答えてしまったので全くの不発に終わってしまった。

 観念してため息を付いて、それから、私はキッチンの方へ振り向いた。

 彼が、料理をしていた。キッチンカウンター越しに見えるその表情はとても生き生きとして、輝いていて、それだけで胸が苦しいほどに愛おしくなる。事故によって野球を奪われて、死んだように生きていた頃を知っているからこそ、彼のそんな表情を見ると安心するのと同時に、掛け替えのないものに思えてくるのだ。

 思わず彼に見とれてしまっていた。視線を相川さんの方へ戻すと、彼女はにやにやしながら私を見ていた。

「ときめいてたわね」と彼女は言った。

 私は少しためらってから「はい」とうなずいた。

「私は、ずっと、一歩引いたところから、三島を見てましたから。だから、こうして遠くから見てると、なんだかその、胸がきゅーっと苦しくなるんです」

「恋ね」

「知ってます」私は言った。「たぶん、本当は一目惚れだったんだと、思います」

「へえ? 私と一緒ね」と相川さんは言った。「厳密に言うと違うのかもしれないけれど。まあ、似た様なものよ」

「そうなんですか?」

「まあ、私の話は後から。いまはあなたの番よ?」

「え、ああ。はい」一度深呼吸をして、「思い出話の中の彼は一体どんな人なんだろう、ってずっと想像してたんです。それで、実物を見てみたら、想像よりもずっとすてきな人で。暗くて、なんの取り柄もなかった私にも優しくて。それに、一年の時、お祭りがあって。その時に、私の為に頑張って射的で景品を取ってくれたり、変な人たちにナンパされそうになったところを、助けてくれたり。その、なんていうか、好きになるなって言うのが、無理な話なんです。他にも沢山あるんです。雷が苦手な私を守ってくれたり。それから、それから」

 思い出が沢山溢れてきて、それが上手く言葉にならなくて、もどかしい。二年生の時の野外活動でも、夏休みに香奈の吹奏楽部の友達に混じって野球部の人たちと一緒に海に行ったときも、他にも沢山、私が三島を好きになった思い出がある。

 相川さんがくすくすと笑う。「うらやましいわね。彼と同じ学校で、同級生だなんて」

「いえ、その。偶然です」

「それがうらやましいのよ」と相川さんはまた笑った。「ねえ、もしかして見た目も好みだったの?」と相川さんは言った。

 身も蓋もない質問に、私はまたしどろもどろになってもじもじしてから、「はい」と頷いた。「他にかっこいい子はいますけど、でも私にとっては、その、一番です」

「なるほど。見た目の善し悪しだけなら、彼のお友達の方が良いものね」

「ご存じなんですか?」

「ええ。まあほとんど会ったことはないけれど」

 栗原君、と言ったかしら? と彼女は首を傾げた。

「ええ」と私は答えた。

「彼じゃなくて、宗平君の方が良かったのね」

「なんていうか。栗原は、カテゴリが男子じゃないんです」

 私の答えに、相川さんはあはは、と笑った。

「怜も同じ様なこと言ってたわ。あの子は女友達に近いって」

 栗原は確かにイケメンだし背も高くて、女子に人気があった。おまけに野球も上手いとなれば騒がれないはずがない。けれど、私や香奈はどうしても彼をそう言う目で見ることが出来なかった。三島のことを諦めるために、彼のことを好きになってみよう、と思ったこともあったけれど、結局ダメだった。彼は普段、私たちと話すとき、なぜだか同じ目線になって、それでいてよく三島のことを話した。だから、何となく異性ではあるけれども、どちらかというと、誤解を招きそうな表現だけど、三島のことが好きな同志というような感じだったのである。

「それで。奈々子ちゃんは、いまの状況、どう収めようと思っているのかしら。まさか、彼頼みだなんて言わないでしょうね」

「それは」

「あんまりちゃんと考えてないのね」と相川さんは言った。まるで分かり切っているような口調だ。「それじゃ、質問を変えるわ。もし仮に、宗平君が、あなたの方が良いと言ったとして、あなたはどうするの?」

「それで私の勝ちだから、香奈に、三島のことを諦めてもらう。それから、」

 それから、私はどうしたいんだろう。

 そもそもの、喧嘩の発端は、香奈が三島を病院送りにしたことだったけれど、でも香奈が私に対して怒っているのは抜け駆けしようとしたことが理由な訳で。

 香奈は三島に謝ったらしいし、だったら悪いのは私だけなんじゃ? 

 いや、そんなことを今更考えたってどうしようもない。ここまで来たら、もう正当化して突き進むしかない。そして最後にけじめをつける。

「三島に謝る。巻き込んで、ごめんなさい、って」私はそう答えた。「それで私も諦める」

「絶対上手く行かないと思うわ」と相川さんは言った。「気持ちなんて、そう簡単に割り切って整理できる物じゃないから。だから、きっとあなたたちはいままで以上に、彼を巡って、意識し合うようになるでしょうね。それこそ、彼じゃない他の誰かと出会うまでは」

「相川さんも、そうなんですか?」

「私? そうね。きっと私もそうなんだと思うわ」そう言って彼女はどこか悲しみのこもった目でキッチンの方を見た。「一度は吹っ切れたと思ったのよ。けど、しばらくして彼とまた会って、それからずっと、離れられないでいる。今回もそう。距離を置こうと思っても、結局、会うと、会わなかった期間に膨らんでいた想いが抑えきれなくなる。だから時々、それが原因で怜と険悪になることもあるわ」

「相川さんは、どこで、三島と知り合ったんです? やっぱり。お姉さんから?」

「いえ」と彼女は首を横に振る。「怜は彼に会わせようとしなかったから」

「そうなんですか?」

「ええ。だって、怜が言うには、彼の女性の好み的には私が一番理想の相手だったから、絶対に会わせたくなかったらしいのよ」可笑しそうに彼女は笑う。「けど、偶然、彼と出会ったの。私ね、家族と色々とトラブルを抱えてて、それで家から逃げ出して、どうしようって一人で悶々としてたの。そんな時に彼が私の前に現れた。彼はね、私の話を聞いてくれたの。面倒くさがらずに、ちゃんと聞いて、私が欲しい答えをくれた。鳥かごの中から飛び立つ勇気を、力を、与えてくれた。彼のお陰でいまの私があると言っても過言ではないわね。そう言う意味では、私とあなたは似たもの同士なのかもしれないわね」

「相川さんって、結構、その、チョロいんですね」私は彼女の話を聞いて、思わずそんなことを口にしてしまった。

 彼女は一瞬目を丸くしてから、にっこりと微笑んだ。「あなたもでしょ?」

「そうですか?」私はきょとんとしながら答えた。

「ええ」そう言って彼女はからから笑う。「ああ、楽しい。あなたとはいいお友達になれそうだわ」

「え、友達、ですか?」

 思わぬ言葉が彼女の口から出てきたので、私は戸惑ってしまった。

「もしかして、嫌?」と相川さんは急に真顔になって、それから不安そうに目を伏せた。「その。ごめんなさい。調子に乗りすぎたわ。そうよね。私なんかと友達なんて」

「いえ、その。嬉しいです。ありがたいです。光栄です」

 話が変な方に転んでいきそうだったので、私は慌ててそうフォローした。

「いいのよ」と相川さんは泣きそうな声で言った。「怜ですら。私にとってはすぎた友達だもの。私みたいな人間には、本来友達なんて、」

「いえ。その。あこがれの相川さくらとお友達になれるのでしたら、私は、とても嬉しいです。嘘じゃありません」

「本当?」

「はい。むしろ私の方こそ。バスケしか取り柄のない、かわいげのない、背が高いだけの根暗な女ですし」

「そんなことないわよ。あなたは美人でスタイルが良くて、それに少なくとも私からすれば好きな性格をしてる」

「でも」

 と私が反論しかけたところで、ふと視界の端に人影を認めて、言葉を飲み込んだ。それから恐る恐るそちらへ振り向くと、あきれ顔の三島が立っていた。

「二人してなにやってんだか」彼はそう言ってため息を付いた。「自虐しすぎるのは良くないな」

「あら。宗平くんも、どちからといえばこちら側じゃないかしら?」相川さんが目をきらきらさせながら言った。

「それは否定しませんよ」と彼は肩をすくめた。「俺の周りには才能のある人しかいませんからね。怜にしたって、さくらさんにしたって」

 それに、と彼は一瞬こちらを見て、「みんなすごい人ばっかりですから」

「怜とはどうなの?」と相川さんは言った。「昨日すごく長い愚痴でタイムラインが埋め尽くされてたから、たぶん喧嘩したんだろうと思うのだけれど」

「ええ、まあ。相変わらずです」決まりが悪そうに彼は頭の後ろをかいた。「けど、ちゃんと喧嘩出来ただけ、たぶん前に進めたとは思います。前はお互いに腫れ物扱いしてた部分でしたし」

「そう。なら良かった」と相川さんはいたずらっぽく微笑む。「怜がしっかりしてくれていないと、私は安心して愛人出来ないもの」

「冗談に聞こえない冗談はやめてください」と彼はまたため息を吐いた。

 また二人だけで、私を蚊帳の外にしている。胸のハリセンボンが膨らんでいく。こんなのを繰り返されると正直我慢も出来なくなってくる。私は、どちらかと言えば穏やかな人間ではないのだ。

 などと思っていると彼がこちらを見て「井上」と私を呼ぶ。それだけで胸の中のはりせんぼんはしぼんでいく。なるほど。私もチョロいな。なんて思う。

「言うまいと思ってたけど、もう開き直るわ」

「なに?」

「そう言う服、結構似合うんだな」

「え、あ。なんで?」顔が暑い。不意打ちにもほどがある。というか、言うまいと思っていた、とはどういうことなのか。いやいや、つまりそれは私をその気にさせすぎない彼なりの心遣いだったのだろう。そう思うことにしよう。

「気が変わっただけだよ。相変わらず、自己評価が低いのは直ってないみたいだしさ」

「でも、私。香奈や、相川さんみたいに、可愛く、ない」

「そんな全体的に白とピンク色な感じのロリータファッション着こなしててよくいえるわね」と相川さんが言った。「それにあなた色白だし、目鼻立ちもはっきりしてて、ドールみたいで綺麗だし可愛いわよ」

「ですよね」と彼は言った。「奈雪姉さんと並んでても見劣りしないんじゃないかって思うんですけど」

「あー。確かに。そう言えばあの子、アニメとかのコスプレ以外にもこっち系のもやってたわね」

「むしろこっち系の方がメインですよ。普段着として結構着てるみたいだし」

「いいわよねえ。手足が長いと、こういうのもよく似合うから」

「いえ。さくらさんもスタイル良い方でしょ」

「そりゃあそうだけど。でも、奈々子ちゃんみたいな子と比べると、ちんちくりんよ」

 二人の視線が私の方に集まって来た。私は恥ずかしくて小さくなって俯いてしまう。頭から湯気がでそうなくらい顔が熱い。ちょっと目の前が滲んできた。

「えーっと。ちょっとやりすぎたかしら」と相川さんの戸惑う声が聞こえて来る。

「大丈夫でしょう? 前にもありましたし。前……?」

「どうしたの? 宗平君」

「いえ。なんでも」と彼の声はどこか堅い。それから小さく「気のせいかな」と呟いた。「それよりも。晩飯、出来たのでみんなで食べましょう」と彼は言った。

「あら」と嬉しそうに相川さんが立ち上がった。「それじゃあ、私が盛りつけるわ。それくらいならいいでしょ?」

「ええまあ」と彼は頷いた。「お願いします」

「任せてちょうだい」

 軽やかな足取りで相川さんがキッチンの方へ消えて行く。

「良かったな」彼が言った。

 私は何に対してそう言っているのか判らず首を傾げて彼を見た。

「新しい友達が出来て」

 彼のほほえみがとても柔らかくて、私はまた恥ずかしくなって俯いた。

「さくらさんはさ、ちょっと気むずかしいところがあったり、メンタルが不安定だったりするけど、良い人だから」

 そう語る彼の横顔に、「心配なの?」と私は訊ねた。

 彼は「うん」と頷いた。「まあ俺が何言ってんだって話だけどさ。あの人、本当はすごい人見知りなんだ。それなのに、井上とはすごく楽しそうに話してて。怜と居る時とも違う表情でさ。ああ、この人こんな顔もするんだって思って、まあその、なんだ。井上が相手だからそうなるんだろうな、って思うわけよ」

「三島も、相川さんも、私を買い被りすぎ」

「おまえは自分を低く見すぎだ」

「うん。それは否定しない」私は答えた。それから先ほどまで彼女が座っていた辺りに視線を漂わせながら、「私も、自分じゃないくらい、よく喋れた。香奈が相手でもあんなにしゃべらないかもしれない。だから、こんな私でも良ければ、って改めて言うつもり」

「なるべく早くしてやれよ。内心かなり不安だろうから」

「うん」私は頷いた。




            続く

お久しぶりです。今回はちょっと視点移動させてみました。そのうち群像劇スタイルで中編みたいなの書きたいですね。それではまた来月

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