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深さと重さと  作者: 遠野義陰
第四章
28/55

番外編 Summer Short Stories

掌編のような何かを三編詰め込みました。時系列等はバラバラです。

続き物の合間で恐縮ですが箸休めにどうぞ。



 『夏風邪と花火』



 彼方の空に大輪の花が咲いた。ああ綺麗な花火だなあ、と思っていると遅れて音が響いて来て、その重厚さにちょっとだけびっくりした。

 ベランダから見る花火は、毎年見ているすぐ真下の橋の上からと違って、迫力はないけれど、その全体をちゃんと見ることは出来て、これはこれでなかなかおもしろいし、音が遅れて来るのも、理科の授業で習った、光と音の早さの違いというのを実感できて楽しい。

 ねえ、怜。

 振り返ってそう声をかけようとして、ぐっと飲み込んだ。

 本当は、二人でお祭りに出かける予定だったのだ。今日は怜の両親も、俺の両親も留守にしていて、二人だけの留守番で、本当は家にいなくちゃ駄目なんだけど、でもこっそり二人でお祭りに行こうと、そう計画していたのだ。

 けれど、今日になって突然、怜が熱を出した。

 ただの夏風邪らしいけど、前に一度風邪をこじらせて大変なことになったので、家でじっとしているようにときつく怜のお母さんに言いつけられて、俺は看病を任されてしまったのだ。

 ベッドの上で怜は、ごほごほとせき込んだり、寝苦しそうに寝返りを打ったり、とても辛そうで、もし代わってやれるなら、と何度も思った。

 俺はベッドのそばに行って怜の手を握った。いつもはちょっとひんやりしている彼女の手が、今日は俺の手よりも熱い。

 もぞもぞと布団の中で身じろぎしてから、怜はうっすらと目を開けた。「あれ、寝てた?」枯れた声で彼女は言った。

「そのまま寝てろよ。ひどくなったら大変なんだからな」

「ねえ、何の音?」

「花火」

 俺がそう答えると、彼女は申し訳なさそうに目を伏せて「そっか」と呟いた。その寂しげな表情に思わず胸が苦しくなるような気持ちがして、「ココからでも見えるし」と苦し紛れのフォローをした。本心から言えば、大好きな彼女と一緒に、それもお互いの親に内緒でお祭りに出かけるという一大イベントが潰れてしまったのは残念だし、ガッカリだ。でも、それよりも怜のことが心配だし、だからそんなこと言っていられない。

 でも怜には何故だかこっちの気持ちが判るらしく。「ごめんね」と今にも泣き出しそうな声で、彼女は謝った。

「別に怜は悪くないよ。悪いのは風邪の菌だし」

「そうちゃんは優しいね」

「優しくないし」俺は照れ隠しにそう言って、顔を背けた。

「ね、ちょっと、手伝って、くれる?」

 怜が体をのそのそと起こし始めた。俺はあわてて、背中に手を添えてそれを助けてやった。

「あはは、ふらふらする」そう言って彼女は笑った。「そうちゃん。私、花火が見たい」

「寝てなくて平気か?」

「こんなに、どんどん、ばんばん、音がしてるんだもん。眠れないよ」

 まあそれもそうか。と思って俺は彼女に肩を貸してやって、ベランダまで移動した。

「ちょっと蒸し暑いね」怜はそう言って苦笑を浮かべた。「けど、乾燥してないから喉には優しい、かな?」

「喉痛いなら無理に喋らなくていいぞ」俺は言った。

「そうちゃんと一緒だと、つい、おしゃべりしたくなっちゃうんだもん」

「なんだよそれ」

「なんでしょう」

 悪戯っぽく彼女は微笑んで、ぎゅっと後ろから抱きついて来た。彼女の方が背が高いので、すっぽりとその腕の中に収まってしまった。

「あ、そうちゃん。赤くなってる。なんでかなー?」

「暑いからだよ」

 最近ちょっと、彼女の胸の辺りの感触が柔らかくなってきたとか、良いにおいがするようになってきたとか、そういう理由があったりするのだけれど、そんなことバカ正直に言える訳もないので俺はそうやって意地を張る。

「そっかぁ」楽しそうに彼女は言って、さらにぎゅっと抱きしめてくる。

 彼女はたぶん判っているのだ。俺がどうしてこういう反応をしてしまうのかを。

 遊ばれていることには少々腹が立つけれど、状況としては悪くないので黙って怜の感触とか匂いを楽しみつつ花火を見る。

「遠いね」

「でも全部見えるぞ」

「そうだね。近いと、迫力があって綺麗だけど、ずっと上向いてなきゃ駄目だし、それに全体像を把握するのにちょっとだけ時間がかかっちゃうもんね」

「まあ、あれなんだろう、って指さしながらわいわいするのも楽しいけどなあ」

「うん。けど、こうやって、開いた花火の、全体を具に観察するのも悪くないね」そう言ってから、急に彼女がそわそわし出した。

 俺は最初、トイレにでも行きたいのだろうか、と思ったけど、すぐに違うことに気が付いた。首を後ろにひねるようにして、彼女の様子を確認すると、ちらちらと部屋の中に視線を送っていたのだ。

「絵を描くのは禁止な」俺は言った。

「ダメ?」

「描き始めたら夢中になるだろ? そしたら寝ないじゃんか」

「ちょっとだけ。ちょっとだけだから」

「怜のそのちょっとだけは、普通の人の一晩くらいだし」

「ケチ」

「後から描けばいいだろ。よくやってるじゃん」

「後から思い出して描くのもいいけど、やっぱりすぐ描きたいの。だって、そうしなきゃ。頭の中で見た風景がどんどん変わって行っちゃって。こんなに綺麗なのに勿体ないよ」

 熱っぽく語る彼女には申し訳ないが、「ダメな物はダメ」と語気を強めた。何故なら怜のお母さんから、絵を描いたり楽器を触らないように特に注意して見張っていて欲しいと頼まれていたからだ。怜のお母さんは怖いので、これは絶対に守らないといけない。うちのお母さんと仲が良いのもあって、たいていの場合、うちのお母さんはあっちの味方になるので尚更だ。叱ってくる相手が二人もいるなんてとんでもない話だ。

「そうちゃんがそこまで言うなら仕方ないか」

 残念そうに彼女は呟いた。

 それを聞いて俺はほっとしていた。風邪のおかげで弱っているからだろう。普段の彼女ならそこで意地になって、なんだったら癇癪を起こして大喧嘩になっていたところだ。

「たーまやー」枯れた声で彼女は叫んだ。

「かーぎやー」と俺は応戦する。

「へえ」と怜が関心したように「知ってるんだ」

「こないだテレビでやってた」

「そっか」えらいえらい、と良いながら俺の頭をぽんぽんと撫でた。

 子供扱いするなよ、大体自分もまだ子供じゃないか、とか思いつつ、口には出さない。怜だって別に悪気があってそうやっている訳ではないのだから。それにまあ、こう言うときくらいは、幼なじみのお姉さんらしいことをさせてやってもいいんじゃないか、とも思った。普段の彼女は頼りなくてとても年上のお姉さんだなんて思えない。でもこう言うときに、何ともいえない安心感みたいなのを覚えて、これが母性とかいう奴なんだろうか。判らないけれど、まあ嫌いではなかった。

「あっちに山があるでしょ」急に彼女はそう言って、東の方を指さした。「よく聞いてて。おもしろいよ」

 何のことだろう、と思っていると、花火が夜空に打ちあがって、ぱっと光の花が咲く。それにちょっと遅れて音が届いてくる。どーん、という音が、正面の花火のほうだけではなく、怜が指さした山のほうからも、少し遅れて響いて来ていた。

「あそこに跳ね返ってるの。どーん、どーんって連続で聞こえてきておもしろいでしょ」

「よく気づくな」

「えへへー」うれしそうに彼女は、「すごいでしょ」

「調子に乗るなっ」そう言って俺は彼女の手の甲を軽く抓った。

「痛っ」と彼女は言って、「悪い子にはお仕置きしなきゃだね」と言うが早いか、抱きしめる腕にぎゅぅっと力が込められた。が、彼女は非力である。正直ちょっと苦しい程度で、そんなに耐えられないような苦しさではない。

「どうだ」

 参っただろ、と言わんばかりに彼女は言う。

 俺は少し迷ってから「うわー、降参。ごめんなさい」と合わせてやることにした。普段ならまだまだ粘って、向こうが根負けするまで抵抗するのだが、流石に病人相手にそれは出来ない。

「私の方がお姉さんなんだからね」

「はいはい」

「そうちゃんは、私の弟みたいなものなんだから。だからそうちゃんは私の言うことを聞かなきゃだめなの」

「それで?」

「花火が終わったら、一緒に寝よ?」

「一緒もなにも。ベッドの横に布団敷いて寝るつもりだったけど?」

「そうじゃなくて。一緒のお布団で」

「まあ、いいけど。どうしたんだよ」

「ちょっと、怖い夢見てたから」

「怖い夢」

「もうどんなのか思い出せないんだけど。でもすっごく怖くて心細かったの。きっと、風邪のせいだと思う」

 立て続けに何発もの花火が打ちあがり、重なり合った爆発音が響いて、それが山や建物に反射して一気に周囲が騒がしくなった。遠く離れているのに、なんだか火薬のにおいが漂ってきている気がした。

 それからすぐに辺りは静かになって、見つめていた夜空の先にはぼんやりとした煙が残っているだけで、まるで夢から覚めたような心持ちで、しばらく呆けていたが、怜がけほけほと咳をしたのを聞いて、ふと我に返った。

「じゃあ戻ろうか」

「ん、そだね」

 怜に肩を貸してやってベッドのところまで行った。

 怜はもそもそと布団のなかに潜り込んだ。

 俺はなんの気なしにベッドの端に腰掛けて、先ほどまで居たベランダの方をぼんやりと眺めていた。

「寝ないの?」布団のなかから怜が言った。

「寝るけど」

「もしかして、照れてる?」

「ばっか。そんなんじゃないから」

 小学校に上がる前とかはよく二人で昼寝していたような記憶があるけれど、彼女が高学年になった辺りからそう言うのを避けていた。なんてことはない。日に日になんだか大人になっていく彼女のことを意識しすぎていたのだ。もちろんいまだって意識しているし、だからこそついさっき、簡単に「いいけど」なんて答えてしまった自分を殴ってやりたい気分だった。

 やっぱり断ろうか。でも怜が怖い夢を見たっていうのはたぶん嘘じゃないだろうし。彼女はやたらとお姉さん振るし年上だけど、でもすごく寂しがり屋だし。きっと断ったら悲しむんだろうなあ。

 悶々と考え事をしていると、ちょんちょん、と横っ腹をつつかれた。

 なんだよ、と振り返ろうとしたのと同時に「えい!」というかけ声が聞こえて、首が苦しくなってぐるんと視界が大きく揺れて気が付いたらベッドの上に仰向けに倒れていた。

 くすくすと笑う声が耳元で聞こえる。

「油断大敵」と怜が笑いながら言った。

 どうも状況から察するに、後ろから思いっきり服を引っ張られて仰向けに倒れ込んだらしい。

 俺はしばらく天井を見つめてから、「なにすんだよ」と呟いた。

「あー、ごめん。そうちゃん怒った?」申し訳なさそうに彼女は言った。「ほら、全然布団に入ってこなかったから、つい」

「別に怒ってないけどさ」俺は一度体を起こして、「おとなしくしてないと、酷くなるぞ」

 立ち上がった。

「あ、どこ、行くの?」不安げな声で彼女は言った。

「トイレ。寝る前だし、行っとかなきゃだろ?」

「そうだね」ほっと安心したように怜は微笑んだ。「隣、あけてるからね」

 

 台所で麦茶を飲んでほっと一息付いた。今年の夏はじめじめしては居るけれども、そんなに暑くない。夜になると六月の初め頃を思わせるような涼しげな風が吹き込んでくる。しばらく窓辺で涼んで頭を冷やした。なんてことはない。ただ寝るだけだ。

 戸締まりを確認して、それからトイレで用を足した。

 部屋に戻るとベッドの中から「おかえり」と眠たそうな声が聞こえてきた。

 俺は「ただいま」と答えてベッドに潜り込んだ。向き合ったまま寝るのは恥ずかしかったので、端の方で、怜に背を向けていた。

「そうちゃん」

「なに」

「やっぱり照れてる?」

「違うって言ってるだろ」

「そっか」

 背中を向けているから判らないけれど、たぶん怜は笑っていると思う。別に嫌な訳じゃないけれど、でもなんだかもやっとする。

「ね、そうちゃんってさ、好きな子とか、いるの?」

「はあ?」

 突拍子もない質問に、俺は思わず大声を出してしまった。

「あ、その反応、好きな子いるんだ」

「別に」

 ぶっきらぼうにそう答えて、俺は目を瞑った。

 もそもそと布団が動く音がして、怜に後ろから抱きすくめられた。

「そうちゃんって、かわいいね」

「うっさい。バカ」

「そうやって照れてるところがね、かわいい」

「早く寝ろ」

「うん。そうちゃんは私の抱き枕だからね」

「は? なんでだよ」

「私がそう決めたから。なに、嫌なの?」

「暑苦しい」

「私はちょうど良いから」

 俺はため息を付いた。こうなると、何を言っても無駄だ。

「ご自由に」俺は言った。

「物わかりのいい弟君で大変よろしい」うれしそうに怜は言った。「私はそうちゃんのお姉さんで。そうちゃんは私の弟君なんだから」

「はいはい」

「ちゃんと判ってる?」

「怜は年上の、幼なじみのお姉さんです」

「じゃあお姉ちゃんって呼んでみよっか」

「おやすみ」

「あ、ちょっと。なんで嫌がるのよ」

「だって怜は怜だろ」

「つまり?」

「風邪ひいてるんだからさっさと寝ろ。年上のクセして世話焼かせないでくれ」

「あ、その言い方ひっどーい」

「いいから寝ろって!」俺は思わず怒鳴ってしまった。「心配なんだよ。またこじらせたらって思ったら」

「うん。ごめんね」と怜はしおらしくなって、「そうちゃんの言うとおりにするね」

「まあ、その、きつく言い過ぎたかもだけど」

「ううん。そうちゃんが心配してくれてるのが凄く伝わって来て、嬉しい」

「判ってくれたんなら、いいんだけどさ」

 嬉しい、なんて言われて俺は少しばかり舞い上がってしまったというか、心臓が胸を突き破りそうなくらいに暴れ回っていて、顔から火が吹き出そうだった。きっと耳も真っ赤で、怜にばれてたと思う。

 でももう彼女はからかったりしなかった。 

「おやすみ。そうちゃん」と優しげな声で囁いた。

「うん。おやすみ」俺も答えて、それから瞼を閉じた。



    了






   『ひるね』





 酷暑であった。猛暑なんてものではない。現在の気温は35.5℃であるらしかった。流石にここまでくると、冷房が苦手だのなんだのと、四の五の言っている場合ではない。こんな暑さを、扇風機だけで凌げる訳がない。生命の危機である。

 そんな訳で渋る怜を押さえつけながらエアコンのリモコンを手に取り、冷房のスイッチを押した。

 しばらくしないうちにリビングは冷えたが、怜は隅っこで、体育座りの格好で毛布を頭から被り、不機嫌そうにしていた。

「私が冷房苦手なの知ってるくせに」

 恨めしそうに彼女はそう言うが、

「流石に冷房ないと死ぬぞ」

 流石にここで退く訳には行かない。。

「いいもん。部屋で仕事してくるから」

「ちゃんとエアコンつけてな」

「やーだ。やー、やー」

「そんな子供みたいに駄々こねても駄目」

「だって手足が冷えるし。空気が乾燥してきて咳が出るし」

「重ね着するなりマスクするなんなりすればいいだろ」

「冷房つけてるのにそれってなんかおかしくない?」

「暖房つけてて暑くなったら上着脱いだりするだろ」

「それとこれとは」

「大体一緒だろ」

 ぐぬぬ、と怜は悔しそうに歯噛みする。

「裸。裸で居れば大丈夫じゃないかな?」

 とてつもない名案を思いついた、とでも言いたげな表情で、彼女はとてもバカなことを言った。

「もうすでに頭やられてるだろ」

 俺はため息を付いた。

 朝俺が日用品の買いだしやらに出かけて、昼頃に帰ってくるまでの間、ずっと冷房もつけずに締め切った自室に引きこもって、襦袢が透けるくらい汗だくになりながら原稿を進めていたのだ。すぐに部屋から引きずり出して水分補給をさせて、着替えさせた。

 けほ、けほ、と彼女は咳をした。そして、ほれみたことか、と詰るような視線を向けてくる。

「死ぬよりはマシ」俺は言った。「俺は怜のことが心配なんだよ。夢中になると自分の体調のことすら忘れるじゃん。だから放っておけないんだよ」

 彼女はほっぺたをぷくっと膨らませて顔を背けた。それから体育座りのまま足裏でパタパタと床を叩いて、「足が冷たい」と彼女は言った。「放っておけないんでしょ?」

 靴下かなにかもってこいということらしい。

「絶対エアコン切るなよ」

 そう言いおいてリビングを出た。

 靴下と冬用のモコモコのスリッパと、どてらを持って戻ってくると、彼女は窓際の日の当たるところで幸せそうに丸まっていた。さながら日向ぼっこに興じる猫である。

「持ってきたぞ」

 声をかけると彼女は、うつ伏せになってまっすぐ伸びて、それから足を交互にぱたぱたと曲げては伸ばし、「履かせて」と言った。

 まあそう来るだろうことは判っていたので、俺は二つ返事で頷いて、彼女に靴下を履かせてやった。

「ちょっとはマシになったか?」

 俺が言うと彼女はごろん、と仰向けになって、「ちょっと暑い。日差しは毒ね」と言った。

「じゃあ日の当たらないところに移動すればいいんじゃ?」

「それだと寒い」

「靴下履かせてあげたでしょ。なんだったらどてらもあるぞ」

「んー、それよりも」

 むくりと起きあがった彼女は、こちらに向き直り、迷いなく伸ばされた両手が俺の背中に回されて、ぎゅーっと抱きついて来た。彼女からは少し汗のにおいがした。そう言えば着替えただけでシャワーは浴びてなかったな。なんてことを漠然と考えながらしばらくなすがままになっていると、「やっぱりこれだね」と怜の甘えた声が耳朶を擽った。

「何が?」俺は訊いた。

「そうちゃんの体温が一番」

「そりゃどうも」こっちはいい加減暑くなってきたのだが、そう言われると離れるに離れられない。

「ねえそうちゃん」

「ん?」

「私の事、心配、なんだよね」

「そりゃあね」

「私が倒れたら、悲しい?」

「当たり前だろ。俺がもし倒れたらどうするよ」

「悲しい」この世の終わりのような声で彼女は、「想像しただけで、怖いよ」

「俺も一緒だ」

「そっか」

「うん」

「じゃあ、明日からエアコンつける」

「本当に?」

「だってそうちゃんに心配かけたくないもん。これでも私、年上のお姉さんなんだからね」

 時々出てくる彼女の口癖である。

 ただ、こうやって年上であることをアピールしたがるときほど、逆に甘えたがっているのだ。彼女は素直だが、ちょっとだけあべこべなところがある。

 彼女が大きな欠伸をした。

「寝るなら場所を変えた方がいんじゃないか」俺は言った。

「うん」と彼女はうなずいた。「そうする」よっぽど眠いらしい、まるで小さな子供の様に舌っ足らずな声だった。

 ひっつき虫をくっつけたまま隣の畳敷きの和室に移動してそこで横になった。戸は開けっ放しだったのでこちらの部屋もよく冷えていた。

 すぐに怜の寝息が聞こえてきた。規則正しくて穏やか。彼女の寝息を聞いていると不思議と心が安まる。

 すやすやと眠る彼女の髪を撫で、それからおでこにキスをしてから、俺も目を閉じた。

 そうして眠りに落ちるまで、彼女の寝息に耳を傾けていた。

 


     了






   『邂逅』



 荒れていた呼吸がようやく落ち着いてきた。ベンチの背もたれに体を預けながら、雨のしぶきで煙る道路を眺めていた。

 突然の通り雨だった。遠雷がとどろいたかと思うとびゅうびゅう風が吹いてきて、大粒の雨がどっと降り出した。ついさっきまで晴れていたものだから、当然傘なんて持っておらず、慌てて近くにあったバス停の屋根の下に逃げ込んだのだ。

 度真っ白な光が閃いた。その瞬間、身がすくむような思いがして、続いて鳴り響いた雷鳴の鋭さに、悲鳴と一緒に心臓が口から飛び出そうになった。

 井上奈々子は雷が苦手だ。理由は判らない。幼少の頃からそうだったのだから、そういう星の元に生まれてしまったのだろうと最近では雷嫌いを克服するのを諦めつつある。

 それに悪いことばかりでもない。去年の夏に体育倉庫で雨宿りしたときには、それなりに得な体験をさせてもらえたのだから。いまでも鮮明に思い出すことが出来る。彼の体温も、服越しに感じた鼓動も、それになにより匂いがいまもずっと残っているような気がして、それを考えるだけで時々、気が狂いそうなほど、体が熱くなった。

 それでも彼は親友の思い人であり、決して好きな気持ちを表に出してはいけない人なのだ。

 それに、きっと自分には荷が勝ちすぎる。彼は、バスケという新たな道を指し示してくれた恩人であり、その恩義に報いながら恋人になるなんて、きっとプレッシャーで潰れてしまう。そんな予感がしていた。だから時々、妄想にふけって、それで一端発散させてお茶を濁す。それで十分なのだ。少なくとも、いまは。

 再び雷鳴が轟いてぎょっとしたのと同時に、小柄な人影が駆け込んできた。

 香奈と同じくらい小柄で、北高の制服を着ていなければ年上だとは想わなかっただろう。そう思って横目で姿を観察してみると、以外と胸が大きかったり、童顔の割に妙に顔立ちが色っぽかったりすることに気がついて、ついでにおや? と何か既視感を覚えて首を傾げた。

 はて、知り合いにこんな人が居ただろうか。バスケ部の先輩にこんな小さな人はいなかったはずだ。そして奈々子の交友関係の中で、北高関係の人物となると、バスケ部のOGだけなので、そうなると彼女は全くの、赤の他人ということになる。だがしかし、どこかで見たことがある気がする。

「あら、先客がいたのね」

 こちらの視線に気がついた彼女は、そう言って、なんだか少しぎこちない微笑を浮かべた。いや、微笑と言うよりは苦笑に見える。それくらいぎこちない笑みに、奈々子はちょっと親近感を覚えて、不思議と安堵した。

「すみません」奈々子は会釈をするように頭を下げた。

「いえ、いいのよ。慣れてるから」

 事も無げに彼女はそう言い、奈々子の隣に二人分ほどの距離を取って座った。

 何に慣れているのだろう、と疑問に思ったが訊ねたりはしなかった。

 お互いに一言も発しない沈黙が訪れた。そもそも初対面の他人同士なのだから、会話が発生しなくても、それは不思議ではない。だがしかし、先ほどから奈々子は隣に座った彼女が気になってしかたがなく、けれど声をかけようにもどうすればいいのか判らず、横目でちらちらと様子を伺っていた。そして向こうも、何か言いたげな様子でたまにこちらを見ては、すぐに視線を別の方向に泳がせたりと、落ち着きがない。二人とも妙にそわそわとしていて、とにかく気まずい。

 どうやら向こうも人見知りらしい。

 山嵐のジレンマとでも言うのだろうか。非常にまどろっこしい。早く雨がやめばいいのに。そう思いながら路面に目をやるが、いまだに飛沫で真っ白だし、屋根を打つ雨音も酷く五月蠅い。

 ピカ、と閃光が走った。奈々子はぎゅっと拳を握りしめて雷鳴に備えた。人目があるのだから、先ほどみたいに情けない悲鳴は上げられない。

 轟音とともに、空気がびりびりと振動する。のどの奥で悲鳴をかみ殺して、目を堅く詰むって、なんとか耐えた。

 ゆっくり深呼吸をしながら、隣を見た。

 頭を抱えて丸くなった女子高生がそこにいた。

「あの、」と奈々子は思わず声をかけていた。「雷、苦手なんですか?」

 彼女は恐る恐る顔を上げると「ええ、そうね」と何事もなかったかのように素っ気なくそう答えると、すっと立ち上がった。刹那、再び雷鳴が轟いた。「きゃあ」と悲鳴を上げて、両手で頭を押さえた。奈々子もびっくりして目を見開いて身を堅くした。

「あ、あなたも?」と彼女は言った。

「はい」と奈々子は答えた。

「そう」彼女はそう言うと、ごほん、と咳払いをして、それからベンチに腰掛けた。先ほどと同じ二人分離れた位置だったが、遠慮がちに、そろりそろりと近づいて来て、最終的には肩と肩が触れ合いそうなほどになっていた。

「あなた、名前は?」

「井上といいます。井上奈々子」

「井上さん」と彼女はそう呟いてから、「良い名前ね」ととってつけたように言って微笑んで見せた。が、相変わらずそこはぎこちない。無理にそんな風な対応をしなくてもいいのに、と思ったが何となく気持ちが分かるだけに、奈々子はすっかり同情してしまって、居たたまれなくなって来た。

「あの、そちらは?」黙ったらまたあの沈黙がやってくることは確実なので、無理矢理にでも話題をつなげてやろうと、「雷嫌い同士ですし」とよくわからない口実で訊ねた。

「相川というの」彼女はそう答えた。「下の名前は、さくら」

 相川さくら。

 その名前を聞いた瞬間、奈々子ははっとして、鞄の中から一冊の本を取りだして、その表紙を眺め、そしてカバーの折り返しに印刷されていた作者近影を見るにつけ、「へあ」と変な声を漏らしてしまった。

「あら、あなた、私の本を読んでくれているのね」

「あ、あの。ご本人で?」

「そうよ」

 目をしばたたかせて、目の前の少女を見つめる。確かに、雑誌やネットの記事、それにテレビで見るその姿とぴったり一致している。いや、それどころか本物はそう言った媒体を通して見るよりもずっと可愛らしかった。特に背の低さなんてテレビや写真ではいまいち判らなかったが、いざ目の前にしてみると想像していたよりもずっと小さく感じられた。それに、顔の輪郭も小さいし手足の華奢さなんかもテレビでみるのと全然違う。おまけになんだかいい匂いがするし、声も綺麗だ。

 一方自分はどうだろうか。背は高いし、顔立ちは整っている方だが可愛らしいというよりは少しキツめでオトナっぽいといえば聞こえは良いが年にそぐわない程度に老け顔とも言える。手足の長さを羨ましがられることもあるが、その実こっかくはがっしりとしている方なのでモデルのような線の細さはない。それにバスケの練習で日頃声を張り上げていたせいで、いつの間にか少しハスキィな声になってしまっていた。総じて、まるで彼女の隣にいることが恥ずかしくなってしまうような体たらくであると、少なくとも奈々子は思ってしまっていた。

「いま気がついたけど、あなた背が高いのね」さくらが感心したように言った。「私の友達も結構背が高いんだけど、それ以上ね」

「それくらいしか、取り柄がありませんから」

「あ、ごめんなさい。もしかして、気にしていることだったかしら」おろおろしながら彼女は言った。

 おそらく彼女に悪気はないのだろうが、そう言う風に言われると嫌みのように聞こえてしまう。

「その、ごめんなさい。私、あんまり人付き合いとか上手くなくて」とさくらはしょんぼりと肩を落とした。

「大丈夫です」奈々子は言った。

 どうやら根は悪い人ではなさそうなのでそれほど気にしないでおこうと思った。

「私もあんまり、友達とか作るの上手くないですから」

 それに人と話すのも。と付け加えた。

「私もそうなのよ」とさくらは苦笑した。「なんだか似てるわね」

「いえ、そんな」と奈々子は慌てて否定しようとした。

「いいじゃない」さくらは優しくそう言って、「実を言うと、私も容姿にコンプレックスがあるのよ。あなたとは、多分方向性が違うとは思うのだけれど」

「そう、なんですか?」

「意外でしょ?」

「ええ。とても。だって、テレビとかに出られてるじゃないですか。だから、そう言うのに自信があるとばかり」

「いえ、自信はあるのよ」とさくらは言った。「ただ私の友達がね、とにかく美人なの。テレビに出るようになって、アイドルの子や女優さんなんかと出会う機会も出来たけど、でも未だにあの子より綺麗な人を見たことがないの」

 そう語る彼女の横顔は、何か得体の知れない羨望と嫉妬が渦巻きながらもどこか誇らしげに見えた。きっとその友達のことが大好きなのだろう。彼女にも、奈々子にとっての香奈のような親友が居るに違いない。そう思うと、なぜだかまた少し目の前の有名人であるはずの彼女が身近な存在に思えてくる。

「そんなに綺麗な人なんですか?」

 普段は寡黙なクセに、今日はいつもよりも饒舌だな、という自覚はあった。けれど、さくらと話していると落ち着くし、なにより彼女が話す内容にとても興味があった。好奇心が抑えきれなかった。

「ええ」そう言って彼女はバッグのなからスマホを取り出した。「この子なんだけどね」

 画面に映し出されていたのは、さくらと、彼女よりもずっと背の大きい着物姿の女性がどこかのビルの廊下らしき場所で仲良く体をくっつけてピースサインをしているほほえましい姿だった。

 奈々子はその女性を見て、おや? と思った。見覚えがあったからだ。

「綺麗でしょ。これで一般人? ああ、うん。一般人ね。一応」

 そう言って嬉しそうに笑うさくらを見ていると、話の腰を折るのも悪いような気がして、その友人について言及せず「そうですね」と同意して頷いた。

 何も話を合わせた訳ではない。

 女性にしては背が高く、しかしとても女性らしくそれでいて自信に満ちあふれていた三島怜に、奈々子も少し憧れていた部分があったからだ。宗平の姉だが、あまり会う機会はないし、直接話したこともそれほどないので正直細かい人となりは全く知らない。いや、知らないからこそ憧れているのだ。

 雷鳴が響いて、二人して悲鳴を上げて、それから顔を見合わせて笑った。

「そういえば、奈々子ちゃん、だったかしら。あなた、好きな人とかは居るの?」

 唐突な質問であったので、奈々子は言葉に詰まりやっと振り絞った声も「それは、その」と尻すぼみに小さくなって、最後はもごもごとした声とも息ともつかない何かになってしっまった。

「ごめんなさい。急にそんなこと聞いてしまって」さくらはまたしょんぼりとしてそう言った。「なんていうか、普通の女の子同士の会話ってこういうのじゃないのかと思って」

「いえ、その。私が、人見知りで、上手に話せないだけですから」

「そんなことないわよ。私よりもずっと立派よ」さくらはそう言って苦笑した。「さっきのは忘れて頂戴」

「います」と奈々子は言った。足下に目を落とした。落ち着きなく膝の上で動く自分の指が見えた。「好きな人、います」

「へえ、そうなんだ」さくらの声はとても優しい響きだった。「どんな人?」

「私に、光をくれた人です」宗平のことを想いながら、そう言葉にすると途端に顔が熱くなって、同時に思わず顔がゆがんでしまいそうなほど、切なくなった。「私、昔は、ただ背が高いだけの、根暗な女の子だったんです。けれど、彼が、私にバスケをやってみたらって勧めてくれて」

「へえ、バスケやってるのね。なるほど」とさくらは頷いた。「その口振りだと、あなた上手なのね」

「その、自分で言うのもおかしな話ですけれど、一応」奈々子はそう言って恥入った様に肩を小さくした。「けど、彼が、勧めてくれなかったら、きっと自分の才能にも気づかずに、何の取り柄もない根暗な、親友の引き立て役で中学生活を終えていたんです」

「恩人、なのね」そう呟いたさくらの横顔は、どこか昔を懐かしむような哀愁があった。過去に何かあったのだろうか。ふと奈々子はそんなことを思った。

「それが好きになったきっかけ?」

「いえ、その。変な話なんですけど」

 それから奈々子は、香奈のことを話し、それから彼女の思い出話の男の子に恋をした思い出を語った。

「なんだかロマンチックね」さくらは目をキラキラさせながら言った。しかしすぐに現実に引き戻されたように目を伏せ、「でも、それじゃあ、あなた、そのお友達と同じ人を好きになってしまったのね」

「その、好きなんですけど、でも、ずっと応援してた友達がいるから、だから、私は好きになっちゃ駄目、なんです」

「そうかしら」

「え?」

「あなた、その彼のことが好きなんでしょう?」

「でも、」

「苦しいわよ。辛いわよ。そこまで好きな人だもの、きっと、いつか耐えられなくなるわ」

 まるで彼女は我が事の様に、痛ましい声で、表情で、奈々子に訴えかけてきた。

「応援するって、約束したから」

 だからこの気持ちは隠さないと駄目なんです。奈々子はあふれ出しそうになる切なさを抑えるように唇を噛んだ。

「そんなの、向こうだって気づいてるわよ」

「言葉にしなければ、大丈夫です」

「そうね。けど、あなたは大丈夫じゃないでしょ?」

「お心遣い、感謝します。けれど、これは、もう決めたことですから」

 奈々子がそう言うと、さくらは一瞬、不意を突かれたように表情になって、その瞳からぽろりと滴がこぼれた。

「ごめんなさい」さくらは恥ずかしそうに目元を拭った。「あなたの話を聞いていたら、自分のことをちょっと思い出して、つい」

「いえ、あの、私も、少し泣いていいですか?」

「そんなの、断る事じゃないわよ」

 さくらのその言葉を聞き終わる前に、涙が頬を伝って膝の上で握りしめた拳の上に落ちた。

 雨はいっそう強くなる。まるで胸中を映し出したように。

 女子高生と女子中学生が、二人ならんでベンチに座って、嗚咽を殺しながら泣いている。きっと奇妙な光景に違いない。でも泣かずには居られなかったのだ。この場で泣くことに対する言い訳をどこかで考えている自分を、少しだけ嫌悪しながら、それでも奈々子は泣いた。充血して目がはれぼったくなってきたころに、ようやく涙は収まった。けれど、雨は止まない。そしてバスも来ない。尤も、来たところでこのバスは反対方向に行くバスなので、見送らなければならないのだが。

「いつか耐えられなくなったら」さくらは言った。「我慢せずに友達と喧嘩をしちゃいなさい」

「相川さんは、あるんですか?」

「ある」彼女はきっぱり答えた。「見ようによっては、これから先もずっと喧嘩しっぱなしかもしれないわ」

 そう言って肩を竦めるさくら。

 奈々子は遠慮がちに、「さっき、自分のことって」と訊ねた。

「私は横から取られた方なんだけどね」と自嘲するように笑って、「でも、仕方がないわ。彼が一番辛い時に逃げ出してしまって、気がついたらあの子に盗られてた」

「親友、なんですよね」

「ええ、親友よ。相変わらず。あの子のことは憎いし許せないとも思ってる部分もある。でもね、あの子には幸せになって欲しいから」

「諦めたんですね」

「そうでもないわ」

「え?」

 さくらはほう、とため息をついて「諦めようと思ったわ。でも、私は相変わらず彼の事が好きで、愛している部分も確かにあって。だから、きっと耐えきれなくなるわね」

 時間の問題ね。とさくらは笑った。

「怖くないんですか?」奈々子は訊ねた。

「怖い?」

「もしかしたら、その友達と、その……」

「仲が拗れて元に戻らなくなるかも知れないってこと?」

 奈々子は頷いた。

「まあ私たちは、一度めちゃくちゃになった後だからね」さくらはそう言って夕立にけぶる中空に視線を漂わせた。「雨降って地固まるって訳ではないけれど。でも、もうその程度でどうにかなるほど柔じゃないっていうのかな」

「すごいですね」

「ううん。全然。こんなの悪い見本だから。絶対に真似しちゃ駄目よ。きっと、もっとスマートな解決法はあったはず。でも、私たちはお互いがお互いを常に欲していたから、それでなんとなくなんとかなっただけだったから」

 孤独だったのよ。私も彼女も。

 そう言って、憂いを帯びた睫を伏せた時、不意に周りが明るくなった。

 はっとして空を見上げると、鈍色だったはずの雲が白く輝き初めて、雨足は弱まっていた。

「そろそろやみそうね」さくらが言った。「相変わらず、ここのバスは全然来ないわね」

「そうですね」

「あなた、乗るつもりだった?」

「いえ。相川さんは?」

「私も」さくらは笑った。「だからバスが来たらどうしようってずっと考えてた。でも、ほら、時刻表見たらあと30分は大丈夫そうね」

「30分もかからないですね」奈々子は空を見上げていった。まだ雨は降っているが、雲の切れ間から青空が見える。

「虹、見えるかしら」

 小雨になったのを良いことに、さくらはバス停から出て、あたりをきょろきょろと見回した。

「ほら、あそこに」

 彼方を指しながら彼女はこちらを見た。

 奈々子は少し迷ってから、立ち上がり、彼女のそばに向かった。霧のような雨が肌を濡らしたが、不思議と不快ではなかった。蒸すような熱さもさほど気にならない。ただ、遙か遠くに臨むその虹の、色彩の鮮やかさに、心を奪われていた。

 赤と、黄色と、青。大ざっぱに見ればそれだけだが、目を凝らせばそれらの中間色が織りなすグラデーションが、まるで何か魔法のように輝いていた。

 だがそれも一時の夢。儚い光の魔術は、雨が止むのと同時に、まるで夢が覚めるように消え去った。

 じーじーとアブラゼミが鳴いている。クマゼミの忙しない鳴き声が近くの街路樹から降り注ぐ。

 夕立の次は蝉時雨か。そんなことを考えていると、「それじゃあ」とさくらが言った。

「あ、はい。あの、ありがとうございました」

「いいのよ。お互いに、いい暇つぶしになったことだし」

「その、頑張ってください」

「どれを、かな」と困ったように彼女は首を傾げた。

「恋も、それにお仕事も」

「ええ」と彼女は頷いた。「特に後者は、あなたをがっかりさせないように頑張るわ」

「期待、してます」

 彼女は微笑み、「じゃあ、また何か縁があったら」と言い、夏の日差しを受けてキラキラと輝く雨上がりの街に消えていった。

 その後ろ姿を見送ってから、奈々子も歩き出した。ふらふらと歩き出した足取りは、しかしどこへ向かうべきか戸惑っていた。

 果たして、自分は素直になるべきなのか。それとも、あくまで気持ちを押し殺して、香奈を応援し続けるべきなのか。

 その答えを出せるのは他ならぬ自分自身である。そのことは判っていた。そしてその答えが何かであるのかさえ、本当は知っていたのだ。だがそれから目を背けるように、どこかに落ちているかもしれない気休めの答えを求め、さまよった。



         了

書き溜めてた分を全部書き直してたら間に合わなくなったとかそういうあれもあったりしますが、夏頃に投稿しようと思っていてすっかり忘れていた掌編三編をぶん投げさせていただきました。

Tragedyの続きに関しては近日中に更新したいと思っています。もしかしたら11月は二回更新するかもです。そういうわけです。

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